政府・教育基本法案の問題点
               俵 義文(子どもと教科書全国ネット21事務局長)
一、全体的な問題点
1.現行教育基本法を廃止して、まったく別の教育基本法をつくる、教育基本法廃滅(死刑)法案です。
2.憲法との関係を切断した教育基本法案であり、憲法に精神に反するものです。
3.人間(個人)のための教育から国家のための教育に、教育の自由・自主性を保障する法律から国家による教育統制を正当化する法律に、180度転換するものです。
4.公教育をはじめあらゆる教育について、国家が決めた道徳規範を最優先して達成させることを教育目標とする「国定道徳強制法」です。教育基本法が事実上戦前の「修身」と同じ役割を果たすことになり、99%の子どもは「ただ実直な精神」(三浦朱門)だけを養う教育をされ、国家に従順な人間に育てられます。
5.国家が目標を設定し、それに向かって競争させ、評価し、子どもを「勝ち組」「負け組」に振り分ける、格差是認の教育体制をつくりあげるものです。
6.国家と地方教育行政によって、計画・実施・評価が行なわれ、それに応じて財政配分が行なわれるようになります。これによって、国家・行政が教育、子どもや学校・教員を支配し、評価の低い学校にはお金が行かなくなり、リストラされることになります。
7.愛国心教育などが盛り込んだ教育基本法が成立すれば、それに基づいて、学校教育法、学習指導要領、検定基準が改定され、教科書はすべて「つくる会」教科書のような内容にされてしまいます。
8.政府案の教育基本法は子どもや学校、教員や保護者だけの問題でなく、さらに、教育だけでなく社会のあり方を根本的に変えてしまう、すべての人びとに関係する問題です。
9.教育基本法の全面「改悪」は、「お国のために命を投げ出してもかまわない」という「戦争をする国」の人材育成をめざすもので、憲法改悪と連動したものです。
10.なぜ今、教育基本法を全面「改正」しなければならないのか、という立法理由が何も示されていません。ホリエモンや耐震疑惑などを教育基本法のせいにするのは論外ですが、いま、教育に起こっている諸問題は教育基本法に原因があるわけではありません。教育基本法に反する行政をすすめてきた歴代の政府・文部・文科行政にこそ最大の原因があります。
11.与党検討会での議論は、配布された資料はもちろんメモも会議終了後にすべて回収し、委員でさえ検討内容を正確に把握していない、という徹底的な密室審議でした。与党の一部政治家による教育の「乗っ取り(教育ジャック)」だといえます。

二、条文ごとの問題点
前文
1.憲法と教育基本法の一体不離の関係を切断しています。憲法と教育基本法の一体性を明示した「われらは、さきに、日本国憲法を確定し」「この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである」を削除し、憲法が掲げた理想(主権在民、平和主義、基本的人権の尊重など)を実現する教育を否定しています。さらに、「真理と平和を希求する」を「真理と正義を希求し」に変更したのは、憲法9条(「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」)との結びつきを切断するものです。
2.国家が「個人の尊厳を重んじ」る教育を行なわなければならないという規定を、「個人の尊厳を重んじ」る「人間の育成」に変質させています。「個人の尊厳」を「公共の精神」などの徳目と同列化し、国家の規範から個人の規範=徳目に転換・変質させています。さらに、「公共の精神を尊び」というのは、「公益及び公の秩序に反しない」(自民党新憲法草案)に通じる、国家・国益優先の人間の育成をめざすものです。
3.「伝統を継承し」は、何が伝統かをあいまいにしたまま、国家主義的な伝統に導くものです。町村信孝元文科相(教育基本法特別委員会に自民党筆頭理事)は、この「伝統」には神道が含まれる、神道は世界のどの宗教よりも古いと主張しています。これは、戦時中の国家神道「皇紀2666年」の歴史ということで、「伝統」は天皇制を中心としたものということです。「目標」「五」の「伝統と文化を尊重」に連動しています。
4.「日本国憲法の精神にのっとり」の文言は残りましたが、前文・全条文のどこをみても憲法にのっとっていません。むしろ憲法違反のオンパレードです。「我が国の未来を切り拓(ひら)く教育」は、教育の目的を国家のためとする規定であり、子ども・市民の学習権を基礎として人間(個人)のための教育を規定している「日本国憲法の精神に則った」教育の否定です。新法案の「日本国憲法」は自民党が制定をめざす「新憲法」でも整合し、憲法改悪の先取りです。
5.「新しい日本の教育」の削除は、戦前の教育勅語体制からの根本的転換の意味を削除し、教育基本法が侵略戦争を反省した「教育宣言」としての歴史的意義を抹消するものです。
6.「その振興を図るため」という規定は、教育基本法の性格を理念法から行政施策法に変質させるものです。

第一条(教育の目的)
1.「真理と正義を愛し」「個人の価値をたつとび」「民主的な」「自主的精神に充ちた」など重要な規定を削除したのは、教育の目的を国家が守るべき規範から個人がめざし、身につけなければならない規範に変質させるものです。
2.「必要な資質を備えた」というのは、国家にとって「必要な資質を備えた」人材育成教育ということです。しかも、その「必要な資質」の内容は、第2条の「教育の目標」で明示している国家が「必要とする資質」であり、それを国家が国民に要求できるということです。人間(個人)より国家を優先させ、教育は個人のためではなく国家のためと規定し、国家と個人の関係を180度転換させるものです。
3.第2条の「教育の目標」(国定の徳目)を達成することが政府案の「人格の完成」ということであり、個性の多様性の否定につながります。

第二条(教育の目標)
1.「教育の方針」を「教育の目標」に変更したのは、国家が教育内容と目標を決めて国民に達成を求めるもので、これによって、教育は「国民の権利」から「国家の権利」に変質させられます。
2.この「教育の目標」は、学校教育だけでなく、全ての教育の目標とされます(文科省もそのことを確認しています)。子ども、学校、教員だけでなく、国民全体がこの「教育の目標」の達成を義務づけられことになります。人格のあるべき姿を国家が規範として法制化し、個人をそれに従わせことになります。
3.「我が国と郷土を愛する」をはじめ「道徳心」「公共の精神」「伝統と文化の尊重」などの「態度を養う」「目標を達成」することを義務づけています。目標には評価がともないます。ここに列挙された多くの徳目の達成度が評価されます。心は目に見えないので、それが表に現れた態度を評価するということは、心の中にまで国家や教育行政が踏み込み、内心(精神)の自由を侵し、国家が望む「態度の養成」を強制できるということです。
4.主権者としての自主性・独立性にもとづく愛国心ではなく、歴史的(「伝統・文化」)によってつくられた「我が国」の愛国心です。愛国的態度の国定は、国内の全ての精神作用に影響し、規定することになる、「国民精神統一法」です。
5.目標の2〜5は、学習指導要領・道徳偏や『心のノート』と内容や並びが同じです。国家が特定の道徳観を押しつけるもので、国家(国定)道徳強制法です。国定の道徳が全ての教科の上位に位置づけられるのは、戦前の教育勅語体制における「修身」と同じ位置づけ・役割を果たすものです。
6.現行法第2条の「教育の目的」の「個人の価値をたつとび」を目標に移して「個人の価値を尊重して」としていますが、これは、国家が尊重しなければならない「個人の価値」を各個人が身につけて守るべき目標(規範)に180度転換するものです。
7.「国を愛する」が「教育の目標」になれば、教科書にも「愛国心教育」が盛り込まれることになります。これは、全教科書の「つくる会」教科書化です。学校・教員は「愛国心」の達成度を評価すよう求められ、「愛国心通知表」が正当化あれます。さらに、「日の丸・君が代」強制の根拠にもなります。
8.「国際社会の平和と発展に寄与する態度を養う」は、自民党新憲法草案の「国際社会の平和と安全」に対応し、自衛隊の海外派兵を支持し、参加する「態度の養成」ということです。例えば、「イラク戦争を問題にする授業」は、「教育目標」に反する教育として排除されます。
9.「あらゆる機会に、あらゆる場所において…」を削除し、第3条「生涯学習」に移しました。これは、国民が「あらゆる機会に、あらゆる場所において…」は許さないが、国家は「あらゆる機会に、あらゆる場所」で行なう、ということをいみします。第13条とも連動しています。
10.学校における自由な空間、教員と生徒との自由な関係、信頼関係による教育をすすめることを意味する「自他の敬愛と協力によつて」を削除しています。

第三条(生涯学習の理念
1.官許=国家がみとめる「生涯学習」概念の導入と定着をめざすものです。お金と暇のある人のための学習機会の保障にすぎません。第12条「社会教育」と関連しています。

第四条(教育の機会均等)
1.「能力に応ずる教育」を「能力に応じた教育」に変更したのは、「能力の発達の必要に応ずる教育」という理解・解釈を崩し、公教育の能力主義的・格差的再編をめざすものです。新自由主義の競争原理によって能力を固定化し、それに対応する教育機会の格差的振り分けをめざすものです。
2.現行法の「能力に応ずる教育」は「障害児・者」への公教育の保障を含んでいました。第2項の新設で現行法の「能力」の意味を変質させ、「健常者」と「障害者」を分断するものです。
3.「奨学の方法」を「奨学の措置」に変更したのは、国・地方公共団体の義務を狭くし、経済的地位による教育機会の格差是正に消極的な姿勢のあらわれです。
4.他の条項も同様ですが、子どもの権利条約が何も考慮されていません。同条約では、「差別の禁止」で、「皮膚の色」「政治的意見その他の意見」「心身障害」などが明記されています。

第五条(義務教育)
1.「9年の普通教育」を削除し、「別に法律で定めるところにより」と規定し、義務教育期間を弾力化したのは、エリート教育のための早期入学や飛び級、飛び入学をすすめ、逆に、不登校などの子どもを卒業させない、「問題のある子ども」の学校からの排除に道を開き、義務教育の格差的多様化を推進するものです。
2.普通教育の目的を限定し、個人の能力に目的を特化しています。
3.「自律的に生きる」ではなく「自立的に生きる」としたのは、医療保険や年金など国家に頼らず「自己責任」で生きる人間になれという規定です。
4.現行法の第1条の「国家及び社会の形成者」と同様の言葉が使われていますが、現行法の「平和的」を削除し、「平和的な」という位置づけのない「国家及び社会」という規定にしています。
5.「必要とされる基本的な資質」は、第1条の「必要な資質」に対応したものですが、この「必要な資質」の内容は第2条の「目標」を指します。国家が「必要とする資質」をもった国民の育成をめざすもので、「必要な資質」を養えない者は非国民として排除される危険性があります。
6.「義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため」「その実施に責任を負う」という規定は、「機会保障」と「水準確保」を理由に国家や地方教育行政が教育内容に介入することを正当化するものです。国・地方教育行政が水準を決めて、その達成が強制されることになります。

男女平等教育の削除。
男女平等教育は達成されているという根拠のない認識にもとづく削除です。男女共同参画社会やジェンダーフリーや性教育攻撃と通じるものだといえます。

第六条(学校教育)
1.第2条の「教育の目標」の達成を公教育に強制する内容です。子ども・国民の学習権を基礎とした国民の教育権を保障するものではなく、国家教育権に立って、国家の教育方針に国民を従わせるものです。
2.「必要な規律」「自ら進んで学習に取り組む意欲を高める」などの規定は、子どもに規律や意欲を強制し、「規律を乱す」ことを理由に「問題児」を排除する危険性をもっています。「規律」と「意欲」の規定は、教員の指導義務を媒介として、間接的に子どもに強制することになります。「日の丸・君が代」強制の正当化につながるものです。
3.「公共団体の外、法律…」を「公共団体及び法律…」に変更したのは、前者と後者を同列化するものです。新自由主義による学校教育への「私」の参入の推進をめざすものといえます。設置主体の自由化と設置条件、許可基準の厳格化を2項で定めています。
4.「体系的な教育が組織的に行われなければならない」は、教員の教育の自由よりも校長の統制強化、学校内部の管理統制体制の強化を正当化するものです。

第七条(大学)
1.「社会に提供」「社会の発展に寄与」は、産学協同の推進であり、企業活動に役立つ教育・研究をめざすものといえます。
2.「研究及び教育」ではなく「教育及び研究」と教育が先にあるのは、国立大学独立法人化の時と同じで、これまで教育面を軽視してきたという批判ではないかと危惧されています。

第八条(私立学校)
1.私学振興を規定していますが、現実には私学助成は減少しています。国・行政が私学をも統制する可能性をもつものです。
2.私立学校も第2条の「目標」の達成に拘束され、「建学の精神」よりも「教育の目標」が優先され、すべての私学で「日の丸・君が代」強制を実施せざるを得なくなります。

第九条(教員)
1.第6条の「学校教育」から「教員」を分けて別の条項にしたのは、学校と一体化である教員を学校から切り離し、市民的教育の担い手から国家的教育の担い手にするねらいです。
2.「全体の奉仕者」ではなく、「直接に国民に責任を負う」ものではない「崇高な使命」の内容は、国家や教育行政が定める使命であり、それに教員を従わせるということです。「全体の奉仕者」から切り離した「崇高な使命」は、第2条の目標(の達成)に直接拘束され、教員は目標達成機関に組み込まれます。
3.教員は「全体の奉仕者であつて」を削除しています。現行法の「全体の奉仕者」規定は、公務員の「全体の奉仕者」規定とは異なる、教育の公的性格から生まれるものであり、教育は国民全体に直接責任を負うものという規定の削除です。教員の教育の自由主体性を否定し、教員の教育の自由の法的根拠を削除したものです。
4.「絶えず研究と修養に励み」「養成と研修の充実」という規定は、「自ら研修に励む」ではありません。「官製研修」の受講義務や「資質向上義務」を課すものです。教員は、第16条、17条によって、設置された数値目標に対して到達度を評価されます。資質向上義務違反の教員は不適格教員制度で排除されることになります。

第十条(家庭教育)
1.家庭教育の項目の新設によって、国家が家庭の中にまで介入する根拠になります。
2.「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」という規定は、「父母その他の保護者」が「第一義的責任」ではなく、「第一義的権利」を有することを無視・否定するものです。
3.親の教育権は明記されていません。親・保護者の教育を「しつけ」だけに限定(?)し、親・保護者の教育参加を狭くとらえています。
4.「自立心を育成」で「自律心を育成」ではないことに留意する必要があります。ここでの生活的自立とは、国に頼らないで「自己責任」で生きる人間の育成をめざすものです。
5.国家・行政が家庭の責任を規定し、家庭教育のあり方に介入するものです。「問題児」を夜間は自宅に軟禁することを義務づけ、子どもが不登校になると親を処罰できる、というイギリス・サッチャー政権の教育改革を導入する意図がうかがえます。
6.家庭教育も第2条「教育の目標」に拘束され、第13条の枠に組み込まれます。

第十一条(幼児教育)
1.就学前教育の統制をめざすもので、第2条「教育の目標」が幼児教育にも適用されます。
2.第10条「家庭教育」と連動して、幼稚園などを通して行政が各家庭を掌握することにつながります。「しつけ」のできていない家庭、「教育力のない」家庭に対する非難が教育基本法を根拠に行なわれ、再び女性に家庭教育を押しつけることになりかねません
3.第5条義務教育年限の弾力化と連動して、早期教育やエリート教育を振興することになります。
4.子どもを育てる自由が狭められ、子育ての様々な考え方の否定されることになります。

第十二条(社会教育)
1.社会教育を「あらゆる機会に、あらゆる場所において」(現行法第1条「教育の方針」)ではなく「個人の要望や社会の要請」に限定しています。これは、社会教育の公的性格をなくし、「受益者負担」、社会教育の自由市場化をめざすものです。ユネスコの学習権宣言(学習権は生活権と同じ第1義的権利など)が何も考慮されていません。
2.「家庭教育及び勤労の場所」という規定を削除したのは、自主的・継続的・組織的教育活動の公的保障をあいまい化し、社会教育を「自己責任」にするものです。

第十三条(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)
1.全ての人々が国定の教育目標(第2条)体制の中で、「役割と責任を自覚」することが義務づけられます。国定の教育目標(その内容はほとんど国定の道徳)を指向することが義務づけられます。さらに、国定の教育目標と矛盾する教育が監視され、廃止や禁止されることになる危険性があります。
2.「その他の関係者」というのは法律になじまないあいまいな規定です。この関係者には、警察、マスメディア、市民組織などが含まれる可能性が強いです。そうなれば、警察が自由に教育に介入できるようになり、国定教育目標に反する報道は教育の妨害行為として教育行政の監視と指導を受けかねません。第12条とも連動し、市民運動に対する教育行政の統制と排除が行なわれる危険性があります。例えば、公共施設で行う学習会などの内容が教育目標にしばられ、反するものは排除され、会場使用が不可能になります。
3.第10条、11条と連動して、家庭教育・幼児教育・社会教育などすべての教育が国定教育目標に従属させられます。

第十四条(政治教育)
1.条文はほとんど変わっていませんが、「良識ある公民」の「政治的教養」の中身が、前文、第2条などによって、根本的に変えられています。政府案の「政治的教養」は、国を愛し、国家や社会の秩序を守り、公共の精神を尊重し、国家や社会への奉仕、国際社会への貢献などを培うということになります。国家に従順な国民を育成する政治教育ということになります。
2.現行法の「政治的教養」は、「民主的で文化的な国家の形成者」「真理と平和を希求する」主権者の育成のための教養です。これは、教育の自由と自立、教員の教育の自由が前提ですが、政府案にはその前提がありません。

第十五条(宗教教育)
1.「一般的な教養」を口実に伊勢神宮や靖国神社、護国神社参拝など国家神道を学校教育に導入する意図です。町村信孝元文科相は、生徒の伊勢神宮参拝の減少を問題にしています。

第十六条(教育行政)
1.「教育は、不当な支配に服することなく」は残したが、教育は「国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきもの」を削除しています。教育は、国家や地方教育行政に対してではなく、国民に対して直接責任を負うもの、という本質的な規定を削除することによって、教育の自由の保障、国家・行政の教育への介入の禁止を抹消し、国・行政が自由に教育に介入できるよう180度転換しています。文科省は、新たに入れた「法律の定めるところにより」は「国民」と同じ意味だと説明しています。法律は国会で制定するので、教育は、「国民全体に対し直接に責任を」負わなくてよい、国会に責任を負えばよい、ということになります。
2.「不当な支配」の意味を変質させています。「不当な支配」は教職員組合や一部「左翼」教員が行ってきたという認識です。文科省は、「一部の党派的勢力による不当な支配」と説明しています。事実上、与党協議会の04年6月の「中間報告」の「教育行政は、不当な支配に服することなく」と同じ意味になっています。
3.「この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべき」「教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない」という規定は、政府・行政権力が「法律に基づいてやっている」を根拠に、教育内容や教育方法に介入=「不当な支配」が容易になります。「日の丸・君が代」強制や「愛国心」教育の根拠にもなります。
4.教育内容に関する国家的目標・基準を設定する権限を政府・文科省が獲得するものです。この国家的目標・基準の達成をめぐる競争の組織化が推進されます。全国一斉学力テストによって、学校・子ども・教員を競争に駆り立てることになる、新自由主義の導入です。
5.「円滑かつ継続的に実施」は、「効率的」重点投資と投資効果の評価につながります。国家的目標・基準の達成度の低い学校のリストラによる「継続性」の確保をめざすものです。

第十七条(教育振興基本計画)
1.教育振興基本計画を盛り込むことによって、教育基本法は、準憲法的な理念法から、行政施策法にその性格が根本的に変質します。第2条、第10条と連動して、国家と国民の関係が180度転換されています。第2条の「目標」が第17条によって具体化されることになり、国家・地方行政による教育内容の統制が容易になります。
  (2006.5.22)