知られざる小林多喜二の周辺
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太郎は軍人でしたが常に戦地にいたわけではありません。日高拓殖鉄道株式会社や庁立苫小牧高等女学校に勤める在郷軍人でした。昭和11年(1936年)10月3日〜5日に昭和天皇の北海道行幸と陸軍特別大演習が行われました。この時は歩兵少尉でしたが、軍歴<46>には陸軍特別大演習に参加した記録がありません。北海道行幸の各種行事において、天皇陛下の元に在郷軍人が参集しました。「昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帖」<47>には帯広の在郷軍人の集合場面が収められています。写真はありませんが同様に太郎は札幌で参列したはずです。太郎の写真帖には「昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帖」<47>に掲載されている写真とは別角度から撮った写真がありました。10月3日の由仁での演習は雨模様で、野外統監部の陛下はマントを羽織っています。
太郎は玉津(たまつ)丸で広島の宇品(うじな)港から出帆し釜山に上陸しました。日韓併合の後なので、ここは日本です。京城や平壌を通って満州へと国境を渡り中華民国に着きました。当時まだ中華人民共和国は存在しません。日本が戦ったのは中華民国の国民軍です。太郎が参戦したのは北支事変という宣戦布告のない紛争でした。その後、支那事変と呼ばれるようになりました。太郎の陸軍戦時名簿には大陸を離れるまでの経過が詳細に書かれており、太郎の足跡をたどることができます。
太郎が参加した作戦には北鎮部隊と呼ばれる5つの部隊がありました。永田部隊、廣辻部隊、角部隊、堀越部隊、近藤部隊です。永田部隊、廣辻部隊、角部隊は次に示す図の鉄道路線およびその周囲を守りました。昭和12年9月17日と11月21日の北海タイムスの記事です。路線を守る部隊の他に、堀越部隊は各隊の後方任務や兵站任務、近藤部隊は天津で破壊された電信・電話線の復旧任務でした。太郎がいた永田部隊は9月14日から西武鉄道の「平津間」を守りました。北平(後の北京)と天津の間です。「旭川第七師団(示村貞夫)」<59>によると、それぞれの部隊の編成は次のごとくです。 第七師団後備歩兵第一大隊:部隊長 永田貞夫少尉(編成地:札幌) 第七師団後備歩兵第二大隊:部隊長 堀越圭介少佐(編成地:旭川) 第七師団後備歩兵第三大隊:部隊長 広辻金次郎少佐(編成地:旭川) 第七師団後備歩兵第四大隊:部隊長 角 完少佐(編成地:旭川) 兵站電信第九中隊:部隊長 近藤 恵中尉(編成地:旭川) 靖國神社遊就館図録<51>には、7月28日から平津攻略戦が、まず支那駐屯軍によって始められた事が書かれています。永田部隊の作戦は、この平津攻略戦を引き継ぐものです。「北平」は「北京」の旧称ですから「平津間」とは「北京から天津まで」のことです。廣辻部隊の応援もしていました。9月14日からは、角部隊が参加した津浦沿線作戦が始まっていました。天津から済南方面に南下する鉄道沿線です。永田部隊は平津攻略戦に次いで、この部隊に合流しました。永田隊の任務は昭和14年1月に終了したため、「支那事変記念写真帖」<50>に収録されているのはここまでです。大陸の地図に永田部隊が訪れた地を黄丸で示します。
太郎は永田部隊の解散後も志願して大陸に残りました。おおむね永田部隊の活動地区に続くように渤海湾に沿って山東半島の先端(威海衛)まで守りました。太郎が永田部隊の後で訪れた地を青丸で示しました。太郎は昭和14年(1939年)2月11日に独立歩兵第三十大隊附となりました。林隊長が率いる大隊の支隊に配属されたようです。太郎の写真帖では「やまざきしたい」なる看板がある写真があります。太郎が配属された山崎支隊だと考えられます。この山崎支隊は「林隊という大隊」の下部組織でしょう。大隊長は林芳太郎、支隊長は山崎茂です。約1年半後の昭和15年(1940年)8月1日には独立歩兵第三十大隊の副官になり、9月15日には「陸軍中尉」になりました。「陸軍中尉」は、それまでの「陸軍歩兵中尉」とは異なるようです。太郎の写真帖では、誰が林隊長なのか山崎隊長なのか個別に断定できるメモ書きがありません。普通に考えると幹部集合写真の中央に写るのは隊長でしょう。太郎は次第に写真の中央近くに写るようになっています。このことから考えると、林隊長と山崎隊長は次の写真に写る人物だと思われます。
太郎は昭和16年(1941年)に帰還人員引率官として日本に戻りました。2月5日に天津近くの溏沽(たんくう)から出航し、15日に宇品港(広島)に到着しました。一度札幌に行きましたが1週間後には大陸に戻りました。そして10月17日には再び帰還人員引率官として任務を果たし、自らも帰国となりました。大陸から帰ってくる直前に、林芳太郎隊長から次のような「賞詞」を受けています。 賞詞 山崎部隊副官 陸軍中尉 小林太郎 右者資性温良誠実真摯滅私奉公の至誠に燃へ 自ら長期服務を志願して従軍既に五ヶ年に及ふ 昭和十四年九月旅団より集成大隊の山東省廣饒進駐に方り 幹部人少四囲の情勢最も困難なりし時以来大隊副官として 常に誠実業務に服し大隊の鞏固なる団結の中核となり 大隊長の意を体して中庸の道を守り 内、内務軍紀事務の統制指導に方り外 日支軍官民の連絡接衝に臨み 常に善良なる環境を作為し大隊長をして 後顧の憂なく治安粛正建設の聖業に邁進せしむるを得しめたり 之れ畢竟副官の卓絶なる人格識見旺盛なる責任観念及 犠牲的精神に基く輔佐道の妙諦を発揮したるに依るものにして 他の範とするに足る 仍て茲に賞詞を与ふ (よってここに) 皇紀二千六百一年七月七日 林部隊長陸軍少将 林 芳太郎 帰国した太郎は苫小牧には戻らず旭川に行きました。旭川には陸軍第七師団司令部があります。その年(昭和16年:1941年)の12月1日に陸軍大尉となりました。任命したのは内閣総理大臣東條英機です。12月8日、対英国戦としてマレー上陸作戦、対米国戦として真珠湾作戦が開始されました。時間的にはマレー上陸作戦の方が先です。マレー半島は英国の植民地でした。この時から日本の戦いは、新たな局面に突入しました。12月12日の閣議で、それまでの支那事変(対蒋介石)と、新たに開始された対米英蘭戦を合わせて大東亜戦争と呼ぶことが決まりました。この名称には東アジア解放の意味が込められています。よく真珠湾攻撃だけが注目されますが、マレー上陸作戦の方が「大東亜戦争」の本来の目的を象徴しています。現在主流の呼び方である「太平洋戦争」は、まるで欧米列強による植民地からの東南アジア諸国開放を隠すかのようです。南方では破竹の勢いで勝ち進みました。12月25日に香港占領(英国植民地)、翌年(昭和17年:1942年)、1月3日にフィリピン・マニラ占領(米国植民地)、2月15日にシンガポール占領(英国植民地)、3月8日にビルマ・ラングーン占領(英国植民地)、3月9日にインドネシア・ジャワ占領(蘭国植民地)です。太郎は戦地に向かうことなく、この年の 7月16日に召集解除となって旭川から苫小牧に戻りました。苫小牧では王子製紙の七星寮や北光寮の舎監を担当しました。 太郎は大東亜戦争が終盤にさしかかり、昭和19年(1944年)5月に再召集されました。5月17日に七星寮を出発し、しばらく旭川に滞在しました。翌年(昭和20年:1945年) 3月27日に第89師団司令部付となり、4月10日に択捉(えとろふ)島の天寧(てんねい)に着任しました。単冠(ひとかっぷ)湾からの上陸と思われます。この単冠湾からは、昭和16年(1941年)11月26日に日本海軍機動部隊第一航空艦隊の6隻の空母が真珠湾に向けて出港しています。太郎が大陸から戻り旭川に滞在していた時です。太郎はこの真珠湾攻撃には直接の関係がありませんが、支那事変発生の地(平津地区)に関わったことに続き、大東亜戦争の発生の地(択捉島)に関わったことになります。 別稿で触れますが、択捉島でソ連軍により武装解除された太郎はシベリアに連行されました。このシベリア抑留から解放されて昭和23年(1948年)6月21日に舞鶴に着いた太郎は、その10年後の昭和33年に他界しました。57歳でした。その葬儀には多喜二の母セキさんが参列しています。支那事変において上官だった隊長の山崎茂氏から丁寧な手紙が届きました。 謹啓 急電により盟友太郎様御逝去の報に接し 驚愕措く処を知りません 御病気だったでせうか それとも事故でせうか 泣いても泣いても足りません 戦時中生死を共にし常に限りない御支援をたまわりました 小林さんの御逝去は私にとりましても とりかへしのつかぬ淋しさです まして皆さまの御悲嘆は言葉につうせ難い事でありませう 深く深く御同情申しあげます 御生前 御たよりありますれば御見舞も出来ましたでせうか それも叶わず悲しみに暮れます せめて遥かに謹みて御冥福を祈ります 最后に 皆さま特に奥様 御悲嘆の余り御身体をそこなわぬよう御願申上げます 軽少ながら御くやみのしるしに御香料、同封しました 御霊前に御供へ下さいませ 八月七日 山崎茂 家族一同 小林太郎様 御遺族様 太郎は昭和12年(1937年)7月27日に北支事変に召集されました。それまでは庁立十勝農業学校で書記をしていました。書記とは事務長のようなものでしょう。時々ある勤務演習は受けていましたが突然の戦地派遣です。いくら東京から来たベテランの永田貞雄隊長が隊を束ねるといっても、北海道の兵が中心の1000人もの隊を指揮する副官の立場になったのですから、にわか作りの感は否めません。そもそも最初に太郎が参加した永田部隊は後備役の兵士で構成されており「在野の兵士」ばかりでした。それでも林芳太郎隊長からの賞詞や山崎茂隊長からの悔やみの手紙を見ると、立派に役目は果たしたようです。そして大東亜戦争の最後には択捉島を守り、戦後は「シベリア抑留」という過酷な体験までしました。 石原莞爾ら参謀本部の反対を押し切って蒋介石(国民党)との戦いに突入させた近衛文麿内閣ですが、偶然とは言え太郎の足跡に対応しています。第一次近衛内閣が昭和12年6月4日に成立し、その直後の7月7日に盧溝橋事件がありました。太郎は近衛内閣の決定に応じて7月31日に永田部隊の副官となり大陸に向かいました。第一次近衛内閣が総辞職したのは昭和14年1月5日です。永田部隊が任務を終えて解散したのは同年1月24日でした。その後、太郎は志願して大陸に残り山崎部隊に配属となりました。ここで副官になったのは昭和15年8月1日です。この直前、第二次近衛内閣は7月22日に成立していました。太郎の任務が終了して大陸を離れたのは昭和16年10月4日、旭川の第七師団歩兵第28連隊付に戻ったのは10月17日です。その翌日に第三次(7月18日〜)近衛内閣が総辞職しました。第三次近衛文麿内閣の次は東條英機内閣でした。太郎は12月1日に東条英機内閣総理大臣より陸軍大尉の任を受けました。この日は午前会議で対英米戦が決定された日であり、小林多喜二の誕生日でもあります。 北支事変(支那事変)について一部は重複しますが補足します。以下は「日米戦争を策謀したのは誰だ!」<57>によります。昭和12年(1937年) 7月7日に廬溝橋事件が起きました。これは中国共産党の工作による発砲・衝突事件でした。現地では7月11日の協定によって停戦の方向性が決まっていました。しかしながら同じ日、近衛文麿首相が日曜日だったにも関わらず臨時閣議を開きました。近衛文麿は6月4日に45歳で総理大臣になったばかりです。この事案のことを早くも「北支事件」と呼称し、「支那に反省を促すために」ということで内地等から「北支派兵」の方針を決定しました。これは石原莞爾ら参謀本部の主張と正反対です。この「北支派兵」のことは翌日(12日:月曜日)の朝刊に大々的に報道されました。現地(大陸)では「事を荒立てないような動き」があったのにかかわらず日本の報道は正反対のことを煽り立てました。これに対して大陸で怒りが沸騰したのは当然かもしれません。その後、25日に郎坊事件、26日には広安門事件がありました。27日に参謀本部が平津地区掃討戦を発令し、28日には現地にいた支那駐屯軍により平津攻略戦が開始されました。すでに大陸に支那駐屯軍がいたのは「義和団事件」のためです。明治33年(1900年)に義和団が北京の公使館等を襲い、各国と清国が交戦しました。これが義和団事件です。この事件の後、清国と各国との間で結んだ協定により各国の軍隊は合法的に駐留していました。大陸に軍を駐留させていたのは日本だけではありません。この支那駐屯軍による平津攻略戦が開始された翌日、7月29日に通州事件がありました。この通州事件は、あまりにも残虐な事件でした。今度は日本側の怒りが沸騰するのは当然です。かくして「大きな力」に引き寄せられるように日本は戦争という泥沼に引きずり込まれてしまいました。この「大きな力」のことは「近衛文麿 野望と挫折」<48>の中で考察されています。盧溝橋事件から始まる事象を、太郎の陸軍戦時名簿(A)と支那事変記念写真帖(B)に照らし合わせて箇条書きします。支那事変記念写真帖が作られた時、支那事変はまだ終了していないので所々に伏字があります。 昭和12年(1937)年 07月07日 盧溝橋事件 07月11日 現地協定で和解の方向性となった 近衛内閣の臨時閣議で北支派兵の方針が決定された 07月12日 月曜日の朝刊に北支派兵方針が大々的に報道された 07月25日 郎坊事件(B:五井部隊が支那軍と衝突) 07月26日 広安門事件 07月27日 参謀本部が平津地区(西武鉄道の北京-天津間)掃討作戦を発令 太郎に第七師団後備歩兵第一大隊編成下令(A) 07月28日 平津攻略戦の開始(まずは支那駐屯軍による) 07月29日 通州事件 07月31日 太郎は充員召集に依り入隊(A) 歩兵第二十五連隊に応召(A) 後備歩兵第一大隊に編入(A) 補後備歩兵第一大隊副官となる(A) 08月24日 宇品港(広島)出発(A) 08月26日 釜山港上陸(A) 09月07日 鮮満国境通過(A) 09月09日 満支国境通過(A) 09月11日 天津着(AB) 09月14日 郎坊着(A) 西武鉄道(北京-天津間)の警備を〇〇隊と交代した(B) 7月11日(日曜日)の午後に総理官邸で発表されたのは「北支派兵声明」でした。これは内地等の三個師団を派兵するというものです。「内地等」の「等」には北海道が含まれます。北海道は「外地」でした。私の母など年配の北海道民は本州のことを「内地」と言ってました。太郎は、この突然の決定により中国大陸に送り込まれました。後に大東亜戦争と呼ばれることになる戦争の最初です。
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