知られざる小林多喜二の周辺

 
 030 ( 2020/02/22 : ver 01 、2020/02/24 : ver 02 )
太郎と北支事変



太郎は軍人でしたが常に戦地にいたわけではありません。日高拓殖鉄道株式会社や庁立苫小牧高等女学校に勤める在郷軍人でした。昭和11年(1936年)10月3日〜5日に昭和天皇の北海道行幸と陸軍特別大演習が行われました。この時は歩兵少尉でしたが、軍歴<46>には陸軍特別大演習に参加した記録がありません。北海道行幸の各種行事において、天皇陛下の元に在郷軍人が参集しました。「昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帖」<47>には帯広の在郷軍人の集合場面が収められています。写真はありませんが同様に太郎は札幌で参列したはずです。太郎の写真帖には「昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帖」<47>に掲載されている写真とは別角度から撮った写真がありました。10月3日の由仁での演習は雨模様で、野外統監部の陛下はマントを羽織っています。

「昭和十一年陸軍特別大演習並地方行幸記念写真帖」に収録の写真


太郎の写真帖にあった陸軍特別大演習の写真


太郎は昭和6年(1931年)の満州事変には召集されていないので、多喜二が生きている間は戦地に行っていません。陸軍特別大演習(昭和11年10月)の後、11月から庁立十勝農業学校に勤めました。翌年(昭和12年:1937年) 7月7日、廬溝橋事件をきっかけにして北支事変が勃発しました。盧溝橋事件は7月11日に現地の協定によって停戦が決まっていたはずなのですが、その後も25日に郎坊事件、26日に広安門事件があり、27日には参謀本部が平津地区掃討戦を発令しました。「北平」は「北京」の旧称です。従って平津地区とは「北京から天津まで」の鉄道沿線のことを意味します。日本が中国との戦いに突入していく過程については、林千勝氏の「近衛文麿 野望と挫折」<48>に書かれています。北支事変は発端として重要です。まず現地の支那駐屯軍が派遣されました。この平津攻略戦は7月28日に開始されました。すると翌日(29日)に通州事件がありました。この通州事件について書いておきます。当時、河北省には冀東(きとう)防共自治政府がありました。満州国の南端は、万里の長城で冀東防共自治政府と境界になっています。昭和8年(1933年)に塘沽(たんくう)停戦協定により満州事変が最終決着した後に作られた「満州と中華民国の緩衝地帯」です。九州と同じくらいの広さがあり、蒋介石の国民党政府から離脱して昭和10年(1935年)に創設された地方政権です。首班は殷汝耕(インジョコウ)という日本人妻を持つ親日派の中国人でした。通州は冀東防共自治政府の首都ともいえる本拠地であり、北京(北平)の約20km東に位置します。高い煉瓦塀で囲まれた城塞都市でした。農業は城外で行われました。この自治政府の人口は約700万人。通州には約400人の日本人が住んでいました。この邦人保護を目的として日本軍も駐留していましたが、保安隊は中国人がメインでした。7月29日、通州にいた日本軍の守備隊は、匪賊を追って通州から出払っていました。その時、通州に残っていた日本軍の守備隊は約100人です。この29日になって、示し合わせたように自治政府の中国人保安隊の約3000人が武装蜂起しました。日本軍守備隊100人は果敢に守りましたが多勢に無勢でした。そこに住んでいた日本人が残虐な方法で殺されました。約220人が犠牲になったと言います。通州には約400人の日本人が住んでいたと書きましたが、「通州の奇跡 凶弾の中を生き抜いた母と娘」<60>によると、この内の約半数は朝鮮半島出身者です。日韓併合により朝鮮半島は日本でしたから「朝鮮系日本人」です。「通州事件 目撃者の証言」<49>は通州事件の蛮行を目撃した日本人女性(佐々木テンさん)の証言記録です。テンさんは支那人の妻として通州に溶け込んでいたため、日本人を対象とした殲滅から逃れることができましたが、事件の一部始終を目撃しました。







太郎は7月31日に召集を受け北支事変に従軍し、事変の発端となった廬溝橋を含め渤海湾の周辺地域を守りました。この北支事変は、その後の第二次上海事変(8月23日)から全面的な戦争になっていったため、9月2日の閣議決定により「支那事変」と呼ばれるようになりました。歩兵少尉だった太郎は永田部隊(永田貞雄隊長)の副官として赴任し、翌年、昭和13年(1938年)9月30日に歩兵中尉になりました。永田部隊の作戦は昭和14年(1939年)1月に終了となり部隊は解散しました。隊員らが帰還した後で作られた「思ひ出:支那事変記念写真帖」<50>という写真帖があります。この支那事変記念写真帖は苫小牧の実家にはありませんでしたが、太郎の部下だった方の御家族に見せてもらった事があり、その存在は知っていました。太郎は永田部隊の副官でしたから「実家に無いはずがない」のですが見つかりませんでした。従って何かの事情で誰かの手に渡ったとでも考えるしかありませんでした。現在、私の手元にあるものは北海道大学周辺の古書店で入手したものです。その写真帖の奥付を見て、実家に無かった理由が推測できました。写真帖は有志が作ったものであり非売品です。出来上がったのは昭和14年(1939年)10月です。太郎は永田部隊の作戦が1月に終了して解散となった後も、志願して大陸に残りました。太郎が帰国したのは、その数年後です。この写真帖が作られた時、太郎はまだ大陸にいて生死も分からない状況でした。そのことにより家族の所には届けられなかったものと考えられます。結局、数年後に帰国した太郎の手には渡らなかったのではないかと思われます。古書店で見つけた写真帖は、特別にガラス棚の中に展示されており、店の人に聞いたところ入荷したばかりだったそうです。ごく偶にしか行かない古書店でしたから、出逢うべくして出逢った様な気がしました。







太郎は10冊の写真帖を残しました。その中には約1600枚の写真があります。それまで各々の写真の前後関係がはっきりしなかったのですが、この支那事変記念写真帖によって次第に分かってきました。この写真帖と「太郎が残した10冊の写真帖」には共通の写真が沢山あります。何故そのような写真が残されているのかを考えてみます。太郎の父(慶義)は折々の節目に記念写真を撮っていました。その際、写真館に依頼して撮影したものは台紙に貼られています。苫小牧では和田写真館を利用することが多かったようです。その中の1枚の台紙には「y.WADA 苫小牧町大町 和田写真館」と印刷されています。一方、支那事変記念写真帖<50>の人名録の中に「勇払郡苫小牧町大町二十二 和田義貞」なる人物がいます。また、この写真帖の中には「記録班」という3人が写っています。その中のひとりは太郎と同世代であり、太郎の家族と一緒に写っている写真があります。おそらく苫小牧の和田写真館の主人(もしくはその弟)であり太郎の友人でしょう。太郎は小学校3年生頃に小樽から苫小牧の小学校に転校しています。その時の同級生だった可能性があります。太郎が学生時代からカメラを趣味としたことにも関係がありそうです。太郎の写真帖には昭和天皇北海道行幸の際の御召列車の内部を映したと思われる写真があります。このような写真を太郎が写せるはずがなく、和田義貞なる人物は従軍カメラマンだったと思われます。この人物が大陸で撮った写真は「支那事変記念写真帖」<50>を編集する際に利用され、これとは別に太郎の手にも渡ったのだと思われます。ちなみに、この写真帖の人名録の先頭に書かれているのは永田貞雄隊長です。太郎は部隊の副官として2番目に載っています。この人名録には全部で1,057名の名前があります。このうち、北海道・樺太出身者は1,043名です。大陸(天津)出身者は2名、本州出身者は12名です。永田隊長は東京出身であり、隊を束ねるために送り込まれた上官です。太郎は永田部隊の副官でしたから北海道・樺太出身者1,043名のトップだったということになります。また、人名録に「戦死」とあるのは27人、「病死」とあるのは1人です。永田部隊の97.4%が無事に帰還したことになります。

永田貞雄隊長(左)と太郎


記録班:支那事変記念写真帖より


太郎夫婦と4人兄弟
私の父の上2人が和田兄弟と思われる


御召列車


御召列車の内部


大陸に渡る前、神社に出陣祈願している写真を示します。写真帖<50>の表紙裏の見開きに載っているものと同じ写真です。他の書籍と照らし合わせることにより、これは官幣大社札幌神社と判明しました。現在の北海道神宮です。札幌神社は、もともと開拓三神と言われる三柱の神を祭る神社です。三柱の神とは大国魂神(おおくにたまのかみ)、大那牟遅(おおなむちのかみ=大国主命)、少彦名神(すくなひこのかみ)です。北海道の開拓当時、樺太や千島に進出してきたロシア帝国に対する守りの意味がありました。明治3年(1870年)に創生川河畔に仮社殿が建てられ、明治4年(1871年)に現在の地(円山)に移転(遷宮)となりました。昭和39年(1964年)には明治天皇を増祀して「北海道神宮」と改名しました。この写真で一番前にいるのは永田貞雄隊長、その後ろで刀を抜いているのは太郎です。その次は札幌停車場(札幌駅)での集合写真と、釜山に向かう船上のものです。

札幌神社


札幌停車場(札幌駅)


広島から釜山へ


太郎は玉津(たまつ)丸で広島の宇品(うじな)港から出帆し釜山に上陸しました。日韓併合の後なので、ここは日本です。京城や平壌を通って満州へと国境を渡り中華民国に着きました。当時まだ中華人民共和国は存在しません。日本が戦ったのは中華民国の国民軍です。太郎が参戦したのは北支事変という宣戦布告のない紛争でした。その後、支那事変と呼ばれるようになりました。太郎の陸軍戦時名簿には大陸を離れるまでの経過が詳細に書かれており、太郎の足跡をたどることができます。

太郎の陸軍戦時名簿




太郎が参加した作戦には北鎮部隊と呼ばれる5つの部隊がありました。永田部隊、廣辻部隊、角部隊、堀越部隊、近藤部隊です。永田部隊、廣辻部隊、角部隊は次に示す図の鉄道路線およびその周囲を守りました。昭和12年9月17日と11月21日の北海タイムスの記事です。路線を守る部隊の他に、堀越部隊は各隊の後方任務や兵站任務、近藤部隊は天津で破壊された電信・電話線の復旧任務でした。太郎がいた永田部隊は9月14日から西武鉄道の「平津間」を守りました。北平(後の北京)と天津の間です。「旭川第七師団(示村貞夫)」<59>によると、それぞれの部隊の編成は次のごとくです。
第七師団後備歩兵第一大隊:部隊長 永田貞夫少尉(編成地:札幌)
第七師団後備歩兵第二大隊:部隊長 堀越圭介少佐(編成地:旭川)
第七師団後備歩兵第三大隊:部隊長 広辻金次郎少佐(編成地:旭川)
第七師団後備歩兵第四大隊:部隊長 角 完少佐(編成地:旭川)
兵站電信第九中隊:部隊長 近藤 恵中尉(編成地:旭川)

靖國神社遊就館図録<51>には、7月28日から平津攻略戦が、まず支那駐屯軍によって始められた事が書かれています。永田部隊の作戦は、この平津攻略戦を引き継ぐものです。「北平」は「北京」の旧称ですから「平津間」とは「北京から天津まで」のことです。廣辻部隊の応援もしていました。9月14日からは、角部隊が参加した津浦沿線作戦が始まっていました。天津から済南方面に南下する鉄道沿線です。永田部隊は平津攻略戦に次いで、この部隊に合流しました。永田隊の任務は昭和14年1月に終了したため、「支那事変記念写真帖」<50>に収録されているのはここまでです。大陸の地図に永田部隊が訪れた地を黄丸で示します。

昭和12年9月17日の北海タイムス


北鎮部隊の配置


昭和12年11月21日の北海タイムス





盧溝橋:支那事変記念写真帖より


おそらく郎坊事件に関する碑




太郎は永田部隊の解散後も志願して大陸に残りました。おおむね永田部隊の活動地区に続くように渤海湾に沿って山東半島の先端(威海衛)まで守りました。太郎が永田部隊の後で訪れた地を青丸で示しました。太郎は昭和14年(1939年)2月11日に独立歩兵第三十大隊附となりました。林隊長が率いる大隊の支隊に配属されたようです。太郎の写真帖では「やまざきしたい」なる看板がある写真があります。太郎が配属された山崎支隊だと考えられます。この山崎支隊は「林隊という大隊」の下部組織でしょう。大隊長は林芳太郎、支隊長は山崎茂です。約1年半後の昭和15年(1940年)8月1日には独立歩兵第三十大隊の副官になり、9月15日には「陸軍中尉」になりました。「陸軍中尉」は、それまでの「陸軍歩兵中尉」とは異なるようです。太郎の写真帖では、誰が林隊長なのか山崎隊長なのか個別に断定できるメモ書きがありません。普通に考えると幹部集合写真の中央に写るのは隊長でしょう。太郎は次第に写真の中央近くに写るようになっています。このことから考えると、林隊長と山崎隊長は次の写真に写る人物だと思われます。

林隊長(左)と太郎


山崎隊長(左)と太郎


靖国神社遊就館図録< 51>より



太郎は昭和16年(1941年)に帰還人員引率官として日本に戻りました。2月5日に天津近くの溏沽(たんくう)から出航し、15日に宇品港(広島)に到着しました。一度札幌に行きましたが1週間後には大陸に戻りました。そして10月17日には再び帰還人員引率官として任務を果たし、自らも帰国となりました。大陸から帰ってくる直前に、林芳太郎隊長から次のような「賞詞」を受けています。



賞詞
山崎部隊副官
陸軍中尉 小林太郎
右者資性温良誠実真摯滅私奉公の至誠に燃へ
自ら長期服務を志願して従軍既に五ヶ年に及ふ
昭和十四年九月旅団より集成大隊の山東省廣饒進駐に方り
幹部人少四囲の情勢最も困難なりし時以来大隊副官として
常に誠実業務に服し大隊の鞏固なる団結の中核となり
大隊長の意を体して中庸の道を守り
内、内務軍紀事務の統制指導に方り外
日支軍官民の連絡接衝に臨み
常に善良なる環境を作為し大隊長をして
後顧の憂なく治安粛正建設の聖業に邁進せしむるを得しめたり
之れ畢竟副官の卓絶なる人格識見旺盛なる責任観念及
犠牲的精神に基く輔佐道の妙諦を発揮したるに依るものにして
他の範とするに足る
仍て茲に賞詞を与ふ (よってここに)
皇紀二千六百一年七月七日
林部隊長陸軍少将 林 芳太郎





帰国した太郎は苫小牧には戻らず旭川に行きました。旭川には陸軍第七師団司令部があります。その年(昭和16年:1941年)の12月1日に陸軍大尉となりました。任命したのは内閣総理大臣東條英機です。12月8日、対英国戦としてマレー上陸作戦、対米国戦として真珠湾作戦が開始されました。時間的にはマレー上陸作戦の方が先です。マレー半島は英国の植民地でした。この時から日本の戦いは、新たな局面に突入しました。12月12日の閣議で、それまでの支那事変(対蒋介石)と、新たに開始された対米英蘭戦を合わせて大東亜戦争と呼ぶことが決まりました。この名称には東アジア解放の意味が込められています。よく真珠湾攻撃だけが注目されますが、マレー上陸作戦の方が「大東亜戦争」の本来の目的を象徴しています。現在主流の呼び方である「太平洋戦争」は、まるで欧米列強による植民地からの東南アジア諸国開放を隠すかのようです。南方では破竹の勢いで勝ち進みました。12月25日に香港占領(英国植民地)、翌年(昭和17年:1942年)、1月3日にフィリピン・マニラ占領(米国植民地)、2月15日にシンガポール占領(英国植民地)、3月8日にビルマ・ラングーン占領(英国植民地)、3月9日にインドネシア・ジャワ占領(蘭国植民地)です。太郎は戦地に向かうことなく、この年の 7月16日に召集解除となって旭川から苫小牧に戻りました。苫小牧では王子製紙の七星寮や北光寮の舎監を担当しました。


太郎は大東亜戦争が終盤にさしかかり、昭和19年(1944年)5月に再召集されました。5月17日に七星寮を出発し、しばらく旭川に滞在しました。翌年(昭和20年:1945年) 3月27日に第89師団司令部付となり、4月10日に択捉(えとろふ)島の天寧(てんねい)に着任しました。単冠(ひとかっぷ)湾からの上陸と思われます。この単冠湾からは、昭和16年(1941年)11月26日に日本海軍機動部隊第一航空艦隊の6隻の空母が真珠湾に向けて出港しています。太郎が大陸から戻り旭川に滞在していた時です。太郎はこの真珠湾攻撃には直接の関係がありませんが、支那事変発生の地(平津地区)に関わったことに続き、大東亜戦争の発生の地(択捉島)に関わったことになります。

別稿で触れますが、択捉島でソ連軍により武装解除された太郎はシベリアに連行されました。このシベリア抑留から解放されて昭和23年(1948年)6月21日に舞鶴に着いた太郎は、その10年後の昭和33年に他界しました。57歳でした。その葬儀には多喜二の母セキさんが参列しています。支那事変において上官だった隊長の山崎茂氏から丁寧な手紙が届きました。






謹啓
急電により盟友太郎様御逝去の報に接し
驚愕措く処を知りません
御病気だったでせうか それとも事故でせうか
泣いても泣いても足りません
戦時中生死を共にし常に限りない御支援をたまわりました
小林さんの御逝去は私にとりましても
とりかへしのつかぬ淋しさです
まして皆さまの御悲嘆は言葉につうせ難い事でありませう
深く深く御同情申しあげます
御生前 御たよりありますれば御見舞も出来ましたでせうか
それも叶わず悲しみに暮れます
せめて遥かに謹みて御冥福を祈ります
最后に
皆さま特に奥様
御悲嘆の余り御身体をそこなわぬよう御願申上げます
軽少ながら御くやみのしるしに御香料、同封しました
御霊前に御供へ下さいませ
八月七日
山崎茂
家族一同
小林太郎様
御遺族様



太郎は昭和12年(1937年)7月27日に北支事変に召集されました。それまでは庁立十勝農業学校で書記をしていました。書記とは事務長のようなものでしょう。時々ある勤務演習は受けていましたが突然の戦地派遣です。いくら東京から来たベテランの永田貞雄隊長が隊を束ねるといっても、北海道の兵が中心の1000人もの隊を指揮する副官の立場になったのですから、にわか作りの感は否めません。そもそも最初に太郎が参加した永田部隊は後備役の兵士で構成されており「在野の兵士」ばかりでした。それでも林芳太郎隊長からの賞詞や山崎茂隊長からの悔やみの手紙を見ると、立派に役目は果たしたようです。そして大東亜戦争の最後には択捉島を守り、戦後は「シベリア抑留」という過酷な体験までしました。

石原莞爾ら参謀本部の反対を押し切って蒋介石(国民党)との戦いに突入させた近衛文麿内閣ですが、偶然とは言え太郎の足跡に対応しています。第一次近衛内閣が昭和12年6月4日に成立し、その直後の7月7日に盧溝橋事件がありました。太郎は近衛内閣の決定に応じて7月31日に永田部隊の副官となり大陸に向かいました。第一次近衛内閣が総辞職したのは昭和14年1月5日です。永田部隊が任務を終えて解散したのは同年1月24日でした。その後、太郎は志願して大陸に残り山崎部隊に配属となりました。ここで副官になったのは昭和15年8月1日です。この直前、第二次近衛内閣は7月22日に成立していました。太郎の任務が終了して大陸を離れたのは昭和16年10月4日、旭川の第七師団歩兵第28連隊付に戻ったのは10月17日です。その翌日に第三次(7月18日〜)近衛内閣が総辞職しました。第三次近衛文麿内閣の次は東條英機内閣でした。太郎は12月1日に東条英機内閣総理大臣より陸軍大尉の任を受けました。この日は午前会議で対英米戦が決定された日であり、小林多喜二の誕生日でもあります。

北支事変(支那事変)について一部は重複しますが補足します。以下は「日米戦争を策謀したのは誰だ!」<57>によります。昭和12年(1937年) 7月7日に廬溝橋事件が起きました。これは中国共産党の工作による発砲・衝突事件でした。現地では7月11日の協定によって停戦の方向性が決まっていました。しかしながら同じ日、近衛文麿首相が日曜日だったにも関わらず臨時閣議を開きました。近衛文麿は6月4日に45歳で総理大臣になったばかりです。この事案のことを早くも「北支事件」と呼称し、「支那に反省を促すために」ということで内地等から「北支派兵」の方針を決定しました。これは石原莞爾ら参謀本部の主張と正反対です。この「北支派兵」のことは翌日(12日:月曜日)の朝刊に大々的に報道されました。現地(大陸)では「事を荒立てないような動き」があったのにかかわらず日本の報道は正反対のことを煽り立てました。これに対して大陸で怒りが沸騰したのは当然かもしれません。その後、25日に郎坊事件、26日には広安門事件がありました。27日に参謀本部が平津地区掃討戦を発令し、28日には現地にいた支那駐屯軍により平津攻略戦が開始されました。すでに大陸に支那駐屯軍がいたのは「義和団事件」のためです。明治33年(1900年)に義和団が北京の公使館等を襲い、各国と清国が交戦しました。これが義和団事件です。この事件の後、清国と各国との間で結んだ協定により各国の軍隊は合法的に駐留していました。大陸に軍を駐留させていたのは日本だけではありません。この支那駐屯軍による平津攻略戦が開始された翌日、7月29日に通州事件がありました。この通州事件は、あまりにも残虐な事件でした。今度は日本側の怒りが沸騰するのは当然です。かくして「大きな力」に引き寄せられるように日本は戦争という泥沼に引きずり込まれてしまいました。この「大きな力」のことは「近衛文麿 野望と挫折」<48>の中で考察されています。盧溝橋事件から始まる事象を、太郎の陸軍戦時名簿(A)と支那事変記念写真帖(B)に照らし合わせて箇条書きします。支那事変記念写真帖が作られた時、支那事変はまだ終了していないので所々に伏字があります。

昭和12年(1937)年
07月07日 盧溝橋事件
07月11日 現地協定で和解の方向性となった
      近衛内閣の臨時閣議で北支派兵の方針が決定された
07月12日 月曜日の朝刊に北支派兵方針が大々的に報道された
07月25日 郎坊事件(B:五井部隊が支那軍と衝突)
07月26日 広安門事件
07月27日 参謀本部が平津地区(西武鉄道の北京-天津間)掃討作戦を発令
      太郎に第七師団後備歩兵第一大隊編成下令(A)
07月28日 平津攻略戦の開始(まずは支那駐屯軍による)
07月29日 通州事件
07月31日 太郎は充員召集に依り入隊(A)
      歩兵第二十五連隊に応召(A)
      後備歩兵第一大隊に編入(A)
      補後備歩兵第一大隊副官となる(A)
08月24日 宇品港(広島)出発(A)
08月26日 釜山港上陸(A)
09月07日 鮮満国境通過(A)
09月09日 満支国境通過(A)
09月11日 天津着(AB)
09月14日 郎坊着(A)
      西武鉄道(北京-天津間)の警備を〇〇隊と交代した(B)


7月11日(日曜日)の午後に総理官邸で発表されたのは「北支派兵声明」でした。これは内地等の三個師団を派兵するというものです。「内地等」の「等」には北海道が含まれます。北海道は「外地」でした。私の母など年配の北海道民は本州のことを「内地」と言ってました。太郎は、この突然の決定により中国大陸に送り込まれました。後に大東亜戦争と呼ばれることになる戦争の最初です。

昭和12年7月11日(日曜日)
日本不拡大方針(現地協定) <51>


昭和12年7月12日(月曜日)



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小林多喜二
多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
知られざる小林多喜二の周辺