庁立小樽水産学校は、現在の北海道小樽水産高等学校の前身です。ホームページに、庁立小樽水産学校を含めた沿革が記載されてます。
http://www.otarusuisan.hokkaido-c.ed.jp/
これによると、まず明治38年(1905年) 4月に札幌に北海道庁立水産学校が創立されたようです。修業年限は4年です。明治40年(1907年)
1月16日に北海道庁立小樽水産学校が創立されました。同年 2月1日に、小樽の若竹町に校舎が落成されました。札幌の「北海道庁立水産学校」が改名されて移転されたと思われます。この年(明治40年:1907年)の秋に多喜二の一家は秋田から小樽に渡ってきました。その翌年(明治41年:1908年)春頃から、多喜二の一家は、すぐ近くの若竹町11番地に住む事になりました。昭和8年(1933年)の北海道庁立小樽水産学校
校友会誌 「若竹」 第20号<41>の巻末には、校友会の会員一覧が載っています(第25期生の途中から欠落)。これを見ると明治38年の札幌での入学者が第1期生と考えて良いようです。この校友会誌には「第25回卒業生」という写真が載っています。この中で学生服を着ているのは29人います。昭和8年の校友会誌に写真が載っている「第25回卒業生」とは、昭和4年(1929年)に入学した生徒(第25期生)でしょう。昭和4年の会員31名というのは、写真に写っているのが29名なので、卒業までに2名が脱落したとして、入学時の人数と考えられます。学年あたり
20〜30人位の規模の学校だったと思われます。
<会員一覧>
第 1期 (1905:明治38年): 21名 (北海道庁立水産学校として札幌だったらしい)
第 2期 (1906:明治39年): 29名 (北海道庁立水産学校として札幌だったらしい)
第 3期 (1907:明治40年): 26名 (ここから北海道庁立小樽水産学校)
第 4期 (1908:明治41年): 23名
第 5期 (1909:明治42年): 17名
第 6期 (1910:明治43年): 16名
第 7期 (1911:明治44年): 11名
第 8期 (1912:明治45年): 11名 (7月30日から 大正元年になった)
第 9期 (1913:大正02年): 09名
第10期 (1914:大正03年): 15名
第11期 (1915:大正04年): 16名 (この中に小林太郎の名がある)
第12期 (1916:大正05年): 11名
第13期 (1917:大正06年): 13名
第14期 (1918:大正07年): 22名
第15期 (1919:大正08年): 09名
第16期 (1920:大正09年): 21名
第17期 (1921:大正10年): 17名
第18期 (1922:大正11年): 16名
第19期 (1923:大正12年): 19名
第20期 (1924:大正13年): 15名 (この年から修業年限は5年となった)
第21期 (1925:大正14年): 13名
第22期 (1926:大正15年): 26名 (12月25日から 昭和元年)
第23期 (1927:昭和02年): 27名
第24期 (1928:昭和03年): 36名
第25期 (1929:昭和04年): 31名
この会員一覧を見ると明治42年頃から会員数が減少し、明治44年からは、さらに減少しています。庁立小樽水産学校では全校生徒が減少したため、大正4年頃に廃校問題になったことがありました。例えば、第1期(明治38年)から第4期(明治41年)までの4年間の入学者単純合計が99名なのに対し、第7期(明治44年)から第10期(大正3年)までの4年間の入学者単純合計は46名と半減しています。太郎は大正
4年(1915年)の入学です。太郎は大正2年(1913年)に小学校(6年間)を卒業しているはずですから、このままだと「2年の空白」の後で入学した事になります。明治40年(1907年)
3月21日の小学校令中改正では、尋常小学校(義務教育)は6年間に延長し、高等小学校は原則として2年間に固定したようです。別稿で示したごとく、太郎は尋常小学校(6年間)の卒業後に、高等小学校(2年間)に通ったものと思われます。
「小林多喜二伝(倉田稔)」<2>には多喜二が通った庁立小樽商業学校のことが書かれています。これによると、小学校6年間を終了すると受験資格は生じたのですが、これだけで入学試験に合格するのは難関だったようです。別稿で記したことですが、多喜二が入学した大正5年(1916年)の合格者100名の内訳は次の如くです。
(1) 尋常小学校 6 年のみ : 22名(多喜二が含まれる)
(2) 尋常小学校 6 年+高等小学校 1 年間 : 37 名
(3) 尋常小学校 6 年+高等小学校 2 年間 : 40 名
(4) 尋常小学校 6 年+高等小学校 3 年間 : 01 名
太郎が入学した庁立小樽水産学校も、入学者の内訳としては同じような傾向があったのではないでしょうか。 上記のうち「尋常小学校6年+高等小学校2年」というパターンだった可能性が高いと思います。太郎は大正4年(1915年)の入学でした。その年に、降って湧いたような廃校問題と、その結果に生じた「広き門」があったのではないかと思われます。慶義は、姪(チマ)や甥(多喜二)の進学にも経済支援をしている割には、自分の長男(幸蔵)や2男(俊二)は進学させていません。これも別稿で触れました。姪(チマ)が高等女学校に入学した頃(1913年:大正2年)には、新富町のパン工場が軌道に乗り経済的余裕が生まれていました。太郎(慶義の4男)は1901年(明治34年)生まれ。早生まれなのでチマとは小学校同学年です。太郎はチマの2年後(大正4年:1915年)に庁立小樽水産学校に入学し、卒業は大正8年(1919年)です。
庁立小樽水産学校の校長先生についても触れておきます。北海道小樽水産高等学校のホームページには、歴代校長の一覧があります。別稿(No.010)でも示しましたが、第3代目の校長は中尾節蔵氏で、任期は明治39年9月から明治42年10月でした。氏の前歴が庁立水産学校・教諭ですから、校長になる前から水産学校にいたと思われます。これは多喜二らが小樽に来てからの時期と重なります。多喜二の一家が世話になった校長先生とは中尾節蔵氏です。チマが記念写真の裏に書いたメモには、「日本のどこかで中尾さん兄弟も健在でいられる事でせふか」とあります。校長先生が貸してくれた子供用の着物ですから、同じ年齢位の子がいたことになります。チマさんが写真を見た時、亡くなった多喜二とツギを思い出し、着物を貸してくれた校長先生を思い出し、中尾校長の子供たちを思い出したのでしょう。
一方の庁立小樽商業学校は1913年(大正2年)に開校しました。予科2年と本科3年の5年制でした。多喜二は1916年(大正5年)の入学ですから、第4期生ということになります。前稿(No.026)で示した合格発表の他に、卒業時の新聞記事もあります。こちらの方は「多喜治」と誤植があります。どちらにも「石本武明」の名前があります。
多喜二は大正10年(1921年)4月に3年制の小樽高等商業学校に入学しました。17歳の時です。大正12年(1923)年の12月1日、3年生の時に20歳になりました。「小林多喜二伝(倉田稔)」<2>の中で、小樽商科大学庶務課の倉庫にあったという「大正十三年卒業生徒銓衡表教務部」が紹介されています。小樽商科大学の前身が小樽高等商業学校です。これは現在、小樽商科大学附属図書館の資料展示室に展示されています。私は展示されている現物を見たことがあります。大正13年(1924年)は3月に多喜二が小樽高等商業学校を卒業する年です。これを書いたのは多喜二自身でなくて面接教官だと思われます。ここから書き出します。赤字が印刷部分で黒字が手書き部分です。
族籍、氏名 |
平民 小林多喜二 |
年齢 |
明治三六年一二月一日 |
兵役関係 |
陸軍歩兵補充兵 |
出身 |
庁立小樽商業学校 |
出生地 |
秋田県北秋田郡下川沿村 |
家庭 |
小樽市若竹町十八菓子商小林末松(父)方
両親アリ、兄弟五人、次男
但、長男死亡 |
学業成績 |
記載なし |
特技学科 |
第二外国語 フランス語 |
筆跡、文材 |
小説ヲ書ク |
短所 |
記載なし |
健康、運動 |
健康良、別ニ運動セズ |
動作、容姿、言語 |
言論的、小作り、前髪ヲ長クシ小説家ラシ |
性格 |
記載なし |
卒業後希望 |
(一)小樽内ノ中等教員 |
(二)小樽内ノ会社員(ヤムナクバ札幌) |
備考 |
酒煙草ヲ飲マズ 水彩画ヲ描ク 小説ヲカク |
ここには多喜二が陸軍歩兵補充兵だったことが書かれています。中津川俊六<40>によれば、多喜二は12〜13歳頃には海軍の青年士官に憧れていたとありますから、徴兵検査を受けるのは自然の流れでしょう。日本の懲役制度について補足します。同じく「小林多喜二伝」<2>の中からの抜粋です。明治6年(1873年)に徴兵令、明治22年(1889年)に徴兵令(改)、昭和2年(1927年)に兵役法が制定されました。明治22年(1889年)には国民皆兵の原則が成立して徴兵検査制度ができたようです。ただし徴兵の適応は地域により異なっており、北海道の場合は明治29年(1896年)からでした。半藤一利の「漱石先生ぞな、もし」<42>には明治6年(1873年)の徴兵令第3条についての引用があります。これによると明治22年(1889年)の改正(国民皆兵の原則)でも変更されず、「本令は北海道に於て函館江差福山を除くの外及び沖縄県並東京府下小笠原島には当分之を施行せず」とあります。少し脇道にそれますが、夏目金之助(漱石)は、帝国大学在学中(明治25年)に北海道(岩内)に送籍しました。形式上、他家の養子となったということです。これにより徴兵忌避となり日清戦争には徴兵されなかったそうです。これは自分の意思ではなくて、漱石の兄(直矩)が行ったようなのですが、このことで漱石は自責の念を感じることになったそうです。「漱石(そうせき)」という雅号は、この「送籍(そうせき)」という自虐的な意味が込められているのではないか?と半藤一利<42>は書いています。
満20歳になった日本人男子は出身地で徴兵検査を受けました。検査により、甲・乙・丙・丁・戊という等級が付けられました。乙種はさらに3つに分けられ第一種乙、第二種乙、第三種乙がありました。甲種と第一種乙が入隊可能で、第二種乙と第三種乙は予備役でした。甲種は身長155cm以上、視力0.6以上、胸囲が身長の半分という基準でした、ただしこれは昭和2年(1927年)には身長152cm以上、視力0.3以上と緩和されています。学生が徴兵検査を受ける場合、小樽高等商業学校では届出をすれば25歳まで免除されていたようです。多喜二は最終学年になった大正12年(1923年)の12月1日に満20歳になりました。卒業生徒銓衡表に陸軍歩兵補充兵と記載されているということは、徴兵検査は20歳で受けたのでしょう。多喜二は身長が154cmだったようです。父親の末松は兄(慶義)と似ていて長身でした。母親(セキ)からの遺伝と思われます。生徒銓衡表の中で「補充兵」とあるのは、甲種にも乙種にも該当しなかったのかもしれません。ただし現役免除の制度がありました(時期により基準が異なるようです)。疾病の場合は兵役にはつけないので「補充兵役」となりました。また「家事故障」の場合は「第二補充兵役」となる制度もありました。「家事故障」とは聞きなれない言葉ですが、「その人に依らなければ家族の生活ができなくなること」だそうです。通常は長男がそれに該当しました。多喜二は「2男」ですが、その頃は実質的に長男の立場ですから、そのための兵役免除なのかもしれません。実際の所、多喜二が兵役についたという記録はないようです。
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