1822年(文政05年) 11月07日 |
多吉郎(太吉郎)誕生。新暦:1822/12/19
1895年(明治28年)01月16日没。 |
1826年(文政09年) 11月05日 |
多吉郎の後妻(斎藤ツネ)誕生。新暦:1826/12/03
1904年(明治37年)11月11日没。 |
1827年(文政10年) 11月25日 |
多吉郎の妻(田山ユキ)誕生。新暦:1828/01/11
1874年(明治07年)12月21日没。 |
1846年(弘化03年) 頃 |
この頃、小林多吉郎と田山ユキが結婚 |
1847年(弘化04年) 頃 |
多吉郎の長女(秋山妙喜大姉)誕生。新暦:1847/**/**
1865年(慶応01年)07月19日没。 |
1852年(嘉永05年) |
重右衛門堰の開削工事開始。 |
1853年(嘉永06年) |
この頃、多吉郎は駅逓を始めたらしい。 |
1852年(嘉永05年) 09月17日 |
多吉郎の2女(トモ)誕生。「トヨ」かもしれない。新暦:1852/10/29
没年不明。 |
1855年(安政02年) 03月03日 |
多吉郎の3女(イワ)誕生。新暦:1855/04/19
没年不明。 |
1859年(安政06年) 10月10日 |
多吉郎長男(敬吉)誕生。新暦:1859/11/04
昭和06年(1931年)06月20日没。 |
1863年(文久03年) 06月15日 |
慶義の妻(浅利リツ)誕生。新暦:1863/07/30
1944年(昭和19年)02月09日葬。 |
1865年(慶応01年) 07月19日 |
多吉郎の長女(慶義の姉:秋山妙喜大姉)が行年19歳で死亡。新暦:1865/09/08 |
1865年(慶応01年) 09月09日 |
多吉郎の2男(末松)誕生。新暦:1865/10/28
1924年(大正13年)08月02日没。 |
1872年(明治05年) |
初の戸籍(明治五年式戸籍:壬申戸籍) |
1872年(明治05年)12月02日 |
旧暦最後の日。新暦だと1872/12/31 に相当する。旧暦のままだと明治6年は「旧暦の閏年」にあたり、1年が13ヶ月あったはず。 |
1873年(明治06年) 01月01日 |
改暦のため、ここから新暦。この日は旧暦だと明治05年12月03日に相当する。 |
1873年(明治06年) 08月22日 |
末松の妻(木村セキ)誕生。1961年(昭和36年)05月10日没。 |
1874年(明治07年) 12月21日 |
ユキ(多吉郎の妻、慶義の実母)死亡。行年47歳。 |
1877年(明治10年) 05月08日 |
慶義が浅利リツと結婚。 |
1878年(明治11年) 03月05日 |
多吉郎(慶義の父)が斎藤ツネと再婚。<1>には1877年とあるが戸籍は1878年。 |
1880年(明治13年) 07月03日 |
慶義の長男(幸蔵)誕生。1928年(昭和03年)02月24日没。 |
1886年(明治19年) 11月15日 |
慶義が忠国社の土地(23,443坪)を400円で落札。 |
1886年(明治19年) 11月27日 |
内金40円を払った。この後トラブル発生。慶義は忠國社を提訴。 |
1886年(明治19年) 12月17日 |
末松(慶義の弟)が木村セキ(満13歳3ヶ月)と結婚。末松は満21才1ヶ月。 |
1887年(明治20年) 05月31日 |
慶義が秋田始審裁判所に起した訴訟にて敗訴が確定した。この頃までには「敬吉」から「慶義」と改名している。この後は仙台の控訴院に控訴、次いで東京の大審院に上告した。 |
1887年(明治20年) 08月06日 |
慶義の2男(俊二)誕生。1956年(昭和31年)01月25日没。 |
1887年(明治20年) 頃 |
この頃から慶義は仙台、次いで東京で生活したらしい。リツ、幸蔵、俊二と。 |
1889年(明治22年) 01月20日 |
鷹巣忠国社が倒産。 |
1890年(明治23年) 04月30日 |
セキが第1子(慈幻善孩兒)を死産。 セキ満16歳8ヶ月。この男子は戸籍に登録されていないが過去簿に書かれている。 |
1890年(明治23年) 10月25日 |
忠国社(本社)が倒産。 |
1890年(明治23年) 10月30日 |
教育勅語の発布。1948年(昭和23年)に廃止。 |
1893年(明治26年) |
慶義の大審院への上告は受理されなかったかもしれない。訴訟の継続を断念して慶義の一家は小樽へ移住(慶義34歳)。この間の費用は秋田の土地を売却して清算した。 |
1893年(明治26年) |
奥羽本線(青森-福島)の鉄道工事着工。 |
1894年(明治27年) 07月25日 |
日清戦争 |
1895年(明治28年) 01月16日 |
多吉郎(慶義と末松の父)が秋田で死亡。慶義が小林家の家督を継いだ。慶義を戸主とする戸籍(明治19年式)が編製された。小樽に住んでいたが、籍は秋田のまま。 |
1895年(明治28年) 11月15日 |
セキの長男(多喜郎)誕生。その名前は、1月に亡くなった祖父(多吉郎)に因んでいる(吉→喜)。1907年(明治40年)10月05日没。 |
1896年(明治29年) 04月21日 |
安倍弥吉校長が沢口小学校から川口小学校に転任。末松一家の家を借りる。 |
1898年(明治31年)頃 |
この頃、幸蔵(慶義の長男)が奉公に出た(最初は靴屋らしい)。 |
1898年(明治31年) |
米布併合(米国によるハワイ併合)。 日韓併合派 1910年。 |
1899年(明治32年) 02月12日 |
セキの長女(ヤヘ)が誕生。1899年(明治32年)03月27日没。 |
1899年(明治32年) 03月27日 |
セキの長女(ヤヘ)が死亡。0才1月。 |
1899年(明治32年) 07月22日 |
慶義の3男(吉郎)誕生。4日で死亡。0才。1899年(明治32年)07月26日没。 |
1900年(明治33年) |
北海道拓殖銀行の設立 |
1900年(明治33年) 12月21日 |
セキの2女(チマ)誕生。1975年(昭和50年)09月20日没。 |
1901年(明治34年) |
幸蔵(慶義の長男)はパン屋(石原)に奉公となったらしい。 |
1901年(明治34年) 02月05日 |
慶義の4男(太郎)誕生。1958年(昭和33年)08月07日没。 |
1901年(明治34年) 04月29日 |
後の昭和天皇(迪宮裕仁)が誕生。 |
1902年(明治35年) 01月23日 |
北八甲田連峰 雪中行軍遭難事故。 |
1902年(明治35年) 01月30日 |
日英同盟。失効:1923(大正12年)/08/17 |
1902年(明治35年) 春 |
稲穂町のパン屋を譲り受けた。慶義と幸蔵のパン屋の開始。 |
1902年(明治35年) 04月 |
セキの長男(多喜郎)が秋田の小学校に入学。 |
1903年(明治36年) 12月01日 |
セキの2男(多喜二)誕生。1933年(昭和08年)02月20日没。 |
1904年(明治37年) 02月 |
日露戦争の勃発→南樺太をロシアから割譲。 |
1904年(明治37年) 05月08日 |
小樽大火で稲穂町のパン屋が焼け出された。すぐにパン製造を潮見台町で再開。 |
1904年(明治37年) 秋頃 |
新富町(龍徳寺の向い)に新しいパン工場(小林三星堂)を作った。 |
1904年(明治37年) 11月11日 |
秋田に残してきた ツネ(多吉郎の後妻、慶義・末松の継母)が死亡。 |
1905年(明治38年) 04月25日 |
慶義の長女(ハル)誕生。1926年(大正15年)没。 |
1906年(明治39年) 03月03日 |
セキの3男(末治)誕生。佐藤藤右衛門に育てられた。没年不明。 |
1906年(明治39年) 03月 |
多喜郎は尋常小学校(4年制)を卒業したと思われる。この年、経済的理由で高等小学校に進学できなかったのではないか? |
1906年(明治39年) 12月12日 |
安倍弥吉校長が東京の病院で死亡。 |
1906年(明治39年) 12月15日 |
手塚英孝誕生。1981年(昭和56年)12月01日没。 |
1907年(明治40年) 01月04日 |
セキの3女(ツキ)誕生。1972年(昭和47年)11月15日没。 |
1907年(明治40年) 01月16日 |
庁立小樽水産学校の設立(4年制)。 |
1907年(明治40年) 04月 |
セキの2女(チマ)が小学校に入学(秋田)。 |
1907年(明治40年) 04月 |
慶義の4男(太郎)が小学校に入学(小樽)。 |
1907年(明治40年) 05月 |
進学のために多喜郎(多喜二の兄、慶義の甥)が小樽に渡った。高等小学校に入学したと思われる。この頃の新学期は5月だったらしい。 |
1907年(明治40年) 10月05日 |
多喜郎(多喜二の兄、慶義の甥)が小樽で死亡。11才10月。 |
1907年(明治40年) 秋(10〜11月頃)か? |
末松(慶義の弟)一家が小樽に移住。慶義宅に同居。これまでの説では12月末とある。チマは1年生の時に転校か? 多喜二は12月で4歳になった。 |
1908年(明治41年) 4〜5月頃か? |
多喜二の一家は若竹町11番地の家に引越。 |
1908年(明治41年) 05月09日 |
田口瀧子誕生。父:田口玉蔵、母:田口キクノ。 |
1908年(明治41年) 12月12日 |
安倍弥吉校長の下川沿村 村葬、頌徳碑の除幕。 |
1909年(明治42年) |
慶義が拠点を苫小牧にも広げる(慶義50歳)。太郎は3年生のとき苫小牧の小学校に転校か? |
1909年(明治42年) 12月12日 |
セキの4男(三吾)誕生。小樽の若竹町11番地で。2002年(平成14年)02月16日没。 |
1910年(明治43年) |
苫小牧に王子製紙工場が完成。 |
1910年(明治43年) 04月 |
多喜二が潮見台小学校に入学。チマ・多喜二・ツキが写る記念写真はこの時のもの |
1910年(明治43年) 05月25日 |
大逆事件。幸徳秋水。 |
1910年(明治43年) 08月29日 |
日韓併合。米布併合は1898年(明治31年)。 |
1911年(明治44年) |
辛亥革命。 |
1911年(明治44年) |
警視庁に特別高等警察ができた。 |
1911年(明治44年) 02月03日 |
伊藤ふじ子誕生。1981年(昭和56年)04月26日没。 |
1912年(明治45年) 01月01日 |
中華民国臨時政府(南京)の成立。このとき北京にはまだ清朝があったが、愛新覚羅溥儀は02月12日に退位。 |
1912年(明治45年) |
慶義が俊二(慶義の2男)を苫小牧に呼び寄せ、駅前に小林三星堂を開店。 |
1912年(明治45年) 04月 |
(佐藤)末治は小学校に入学。 |
1912年(明治45年) 07月30日 |
大正01年07月30日になった。 |
1912年(大正01年) 12月30日 |
俊二(慶義の2男)に長男(正俊)が誕生。その後の正俊は昭和39年に「株式会社三星」として初代社長となった。 |
1913年(大正02年) 03月 |
セキの2女(チマ)が小学校を卒業(秋田)。 |
1913年(大正02年) 03月 |
太郎(慶義の4男)が小学校を卒業(苫小牧)。 |
1913年(大正02年) 04月01日 |
セキの5男(多志喜)誕生。0才4月。1913年(大正02年)08月15日没。 |
1913年(大正02年) 04月 |
チマ(多喜二の姉、慶義の姪)が庁立小樽高等女学校に入学。 |
1913年(大正02年) 08月15日 |
セキの5男(多志喜)死亡。 |
1913年(大正02年) 04月 |
太郎(慶義の4男)は苫小牧の高等小学校に進級したと思われる。 |
1914年(大正03年) 03月24日 |
多喜二の尋常小学校第4学年修了の修業証書がある。 |
1914年(大正03年) |
慶義とリツが伊勢神宮を参拝。 |
1914年(大正03年) 07月28日 |
第一次世界大戦が勃発。 |
1915年(大正04年) 03月 |
太郎(慶義の4男)が高等小学校を卒業。 |
1915年(大正04年) 04月 |
太郎(慶義の4男)が庁立小樽水産学校に入学。小樽の慶義宅より通学したと思われる。 |
1916年(大正05年) 03月 |
多喜二(慶義の甥)が潮見台小学校(6年間)を卒業。 |
1916年(大正05年) 04月 |
多喜二(慶義の甥)が庁立小樽商業学校に入学。5年制(予科2年、本科3年)。慶義宅での生活が始まる。 |
1916年(大正05年) 04月 |
セキの4男(三吾)が潮見台小学校に入学。 |
1916年(大正05年) 07月07日 |
セキの4女(幸:ユキ)誕生。若竹町11番地で生まれた(戸籍で確認)。
2009年(平成21年)没。 |
1916年(大正05年) 07月07日以降 |
末松・セキ一家は若竹町18番地に引越。 |
1917年(大正06年) |
ロシア革命→内戦。 |
1917年(大正06年) 03月 |
庁立小樽高等女学校は4年制だった。チマはこの年に卒業と思われる。 |
1918年(大正07年) 04月 |
多喜二は庁立小樽商業学校の本科に進級。 |
1918年(大正07年) |
庁立小樽商業学校3年生(本科1年制)の時に右下肢を骨折した。満14才。 |
1918年(大正07年) 08月11日 |
シベリア出兵 |
1919年(大正08年) 03月25日 |
慶義の4男(太郎)が庁立小樽水産学校を卒業。18才。その後も20才まで小樽にいたらしい。 |
1919年(大正08年) 11月01日 |
小羊画会(後に白洋画会)の洋画展覧会 |
1920年(大正09年) |
戦後恐慌 |
1920年(大正09年) 05月02日 |
日本初のメーデー |
1920年(大正09年) 09月下旬 |
慶義が多喜二の絵画をやめさせた。満16才(12月01日に17才になる)。
庁立小樽商業学校5年(本科3年)の時。 |
1921年(大正10年) 03月 |
多喜二(慶義の甥)が庁立小樽商業学校を卒業。 |
1921年(大正10年) 05月05日 |
多喜二(慶義の甥)が小樽高等商業学校(3年制)に入学。 |
1921年(大正10年) 06月11日 |
多喜二は6月11日から修学旅行。旭川→夕張→登別→室蘭。6月14日付の石本武明にあてたイラスト入りのはがきがある。「小林多喜二の手紙」<25>。 |
1921年(大正10年) 10月25日 |
皇太子(迪宮裕仁)が摂政になった。 |
1921年(大正10年) 11月 |
ワシントン軍縮会議 |
1921年(大正10年) 12月01日 |
太郎(慶義の4男)が旭川第七師団に入隊し旭川に行った。太郎は歩兵二等卒となった。この頃、多喜二は若竹町18番地の自宅に戻ったと思われる。 |
1922年(大正11年) 01月末 |
田口瀧子が室蘭の銘酒屋に売られた。満13歳8ヶ月。 |
1922年(大正11年) 03月 |
三吾(多喜二の弟)は潮見台小学校を卒業。 |
1922年(大正11年) 04月 |
三吾(多喜二の弟)は花園町の石垣洋品店の奉公に出た。 |
1922年(大正11年) 04月01日 |
太郎は歩兵一等卒となった。 |
1922年(大正11年) 06月01日 |
太郎は歩兵上等兵となった。 |
1922年(大正11年) 07月 |
非合法の日本共産党(第1次)が結成された。1924年解散。 |
1922年(大正11年) 07月11日 |
皇太子(迪宮裕仁)が摂政宮として北海道行啓。小樽高等商業学校を訪れた。多喜二は沿道の旗振りに動員されたと思われる。 |
1922年(大正11年) 07月15日 |
皇太子(迪宮裕仁)が摂政宮として北海道行啓。太郎は旭川での閲兵式に参加した。摂政宮殿下の前を歩兵第28連隊として行進した。摂政宮と初年兵である太郎らは同世代。 |
1922年(大正11年) 08月 |
小樽市となった。 |
1922年(大正11年) 09月01日 |
太郎は歩兵伍長となった。 |
1922年(大正11年) 09月28日 |
セキの2女(チマ:多喜二の姉)が 佐藤藤吉と結婚。チマ21才9ヶ月。指輪事件。
多喜二はショパン。三浦環(たまき)の音楽会へ。<1><2><3>では7月17日とあるが戸籍では9月28日。 |
1922年(大正11年) 11月30日 |
太郎は歩兵軍曹となった。 |
1922年(大正11年) 12月17日 |
田口瀧子の実父(玉蔵)が鉄道自殺。母(キクノ)はまもなく若月金次郎と再婚。 |
1922年(大正11年) 12月30日 |
ソビエト社会主義共和国連邦の樹立。 |
1923年(大正12年) 04月01日 |
太郎は歩兵曹長となった。 |
1923年(大正12年) 04月頃 |
瀧子は小樽市入舟町の山木屋に転売された。満14歳11ヶ月。 |
1923年(大正12年) 08月17日 |
日英同盟の失効。 |
1923年(大正12年) 09月01日 |
関東大震災。 |
1923年(大正12年) 11月17日 |
多喜二は関東大震災義捐のフランス語劇「青い鳥」で羊役。伊藤整も出ている。 |
1923年(大正12年) 12月以降 |
20才になった多喜二は徴兵検査を受けた(陸軍歩兵補充兵)。 |
1923年(大正12年) 12月27日 |
虎の門事件(皇太子狙撃事件)。 |
1924年(大正13年) 01月21日 |
レーニンが死亡。スターリンが独裁権力を掌握。 |
1924年(大正13年) 03月 |
多喜二が小樽高等商業学校を卒業。 |
1924年(大正13年) 04月 |
多喜二が北海道拓殖銀行に就職。 |
1924年(大正13年) 08月02日 |
末松(多喜二の父、慶義の弟)が死亡(59才)。 |
1924年(大正13年) 08月以降? |
多喜二が給料で三吾にバイオリン。 |
1924年(大正13年) 10月頃 |
多喜二が 田口瀧子と知り合う。17才くらい。入船町の山木屋はそば屋と言われた小料理の酌婦。 |
1925年(大正14年) 03月始め? |
瀧子への手紙。闇があるから光がある。 |
1925年(大正14年) 03月 |
多喜二が東京商科大学(現;一橋大学)を受験して不合格。東京から「オチタアンシンスレ」の電報。 |
1925年(大正14年) 03月30日 |
慶義と多喜二の印鑑証明がある。 |
1925年(大正14年) 03月31日 |
太郎は歩兵少尉となった。 |
1925年(大正14年) 04月22日 |
治安維持法の公布(05月12日施行) ムチと・・・ |
1925年(大正14年) 05月05日 |
衆議院議員選挙法(普通選挙法)改正の公布 ・・・アメ |
1925年(大正14年) 09月 |
若竹町18番地の自宅に中二階を作った。多喜二が使った。後に瀧子の部屋。 |
1925年(大正14年) 10月15日 |
小樽高等商業学校で軍事教練反対闘争。 |
1925年(大正14年) 12月 |
多喜二が田口タキを身請けした。17才くらい。はじめは奥沢に住んだ。<12>には10月とある。250円:タキ、50円:多喜二、200円:嶋田正策より借金。このうち50円を返済したところで多喜二は他界。タキの身請け金(500円)は、多喜二が後に得た「不在地主」の原稿料に等しい。 |
1926年(大正15年) 4月下旬 |
田口タキが多喜二宅への同居を始める。<3>には1925年10月中旬とある。 |
1926年(大正15年) |
慶義の長女(ハル)が死亡。20才。 |
1926年(大正15年) 05月01日 |
北海道初のメーデー |
1926年(大正15年) 05月26日 |
多喜二が析々帳を書き始めた。1928年(昭和3年)1月1日に終了。 |
1926年(大正15年) 09月07日 |
蟹工船(博愛丸)の雑夫虐待事件の報道(函館日日新聞)。9月8日には小樽新聞。 |
1926年(大正15年) 11月11日 |
田口タキが、多喜二の家を出た。 |
1926年(大正15年) 11月18日 |
花園町の小野病院にいることが判明。現在の皆川病院(花園町)。 |
1926年(大正15年) 12月 |
第2次日本共産党の再建 |
1926年(大正15年) 12月25日 |
大正天皇崩御。昭和01年12月25日になった。昭和01年は7日間しかない。 |
1927年(昭和02年) 01月17日 |
太郎(慶義の4男)が高橋きぬ と結婚。 |
1927年(昭和02年) 03月03日 |
磯野小作争議 |
1927年(昭和02年) 03月06日 |
余市の実科女学校で文芸講演会「ノラとモダン・ガールに就いて」。1時間半。 |
1927年(昭和02年) 03月14日 |
昭和金融恐慌。 |
1927年(昭和02年) 04月22日 |
4月22日(金曜)から3週間のモラトリアム。銀行業務が再開した4月25日(月曜)には片面だけ印刷した急造の200円札を大量(500万枚以上)に発行して銀行の店頭に積み上げた。拓銀も4月22日(金曜)と4月23日(土曜)には休みとなった。 |
1927年(昭和02年) 05月13日 |
瀧子が山木屋の息子(若旦那)と body&heart の関係だったと知った。多喜二は問い詰めた。 |
1927年(昭和02年) 05月20日 |
芥川龍之介と里見淳が小樽に来た。 |
1927年(昭和02年) 05月28日 |
田口タキが失踪、黙って室蘭に行った。室蘭の若旦那を頼った。
この後、2人は1929年(昭和4年)05月14日まで会っていない。 |
1927年(昭和02年) 07月24日 |
芥川龍之介の自殺。 |
1928年(昭和03年) 01月01日 |
析々帳の終了。1926年(大正15年)5月26日から書いていた。 |
1928年(昭和03年) 01月19日 |
太郎(慶義の4男)に長男(太義)が誕生。 |
1928年(昭和03年) 02月13日 |
労働農民党の山本懸蔵の選挙応援で東倶知安に行く。 |
1928年(昭和03年) 02月20日 |
第1回普通選挙(第16回総選挙)。それまで納税額による制限選挙だったが、25歳以上の男子のみに選挙権が与えられた。この時の多喜二は 24歳2ヶ月であり、選挙権はなかった。立候補には巨額の保証金(供託金)が必要であり、例えば小樽で立候補した山本懸蔵は
2000円の資金集めに随分と苦労した。日本共産党は非合法。 |
1928年(昭和03年) 02月24日 |
幸蔵(慶義の長男)が死亡。47才7月。 |
1928年(昭和03年) 03月08日 |
この日付発行の慶義の戸籍謄本がある。発行人は下川沿村長小林誠喜(10代目小林重右衛門)。 |
1928年(昭和03年) 03月15日 |
三・一五事件。 |
1928年(昭和03年) 05月13日 |
10日間の休暇で東京へ。 |
1928年(昭和03年) 05月 |
次作(蟹工船)の取材のため函館へ(5月と6月)。 |
1928年(昭和03年) 05月26日 |
「一九二八年三月十五日」の起筆。 |
1928年(昭和03年) 06月29日 |
緊急勅令(勅令第129号)。治安維持法 中改正の件。最高刑が死刑。目的遂行罪の導入。 |
1928年(昭和03年) 07月 |
特別高等警察部の新設 |
1928年(昭和03年) 07月10日 |
末治(末松・セキの3男)の婿養子縁組婚姻。正式に佐藤家の戸籍に入った。 |
1928年(昭和03年) 08月17日 |
「一九二八年三月十五日」が完成。多喜二の文壇デビュー作。 |
1928年(昭和03年) 10月28日 |
多喜二が「蟹工船」を起筆。 |
1928年(昭和03年) 11月10日 |
昭和天皇即位の礼。 11/06 東京→京都。 |
1928年(昭和03年) 11月16日 |
太郎(多喜二の従兄)が昭和天皇即位大礼の地方賜饌式(室蘭)に参列した。 |
1929年(昭和04年) 03月30日 |
「蟹工船」が完成。 |
1929年(昭和04年) 04月16日 |
四・一六事件 |
1929年(昭和04年) 04月20日 |
若竹町の自宅が家宅捜査。多喜二が拘引されたが、その日のうちに釈放。これは直前の四・一六事件に続くもの。 |
1929年(昭和04年) 04月06日 |
セキの3女(ツキ)が 幸田佐一と結婚。 |
1929年(昭和04年) 05月14日 |
田口タキと久しぶりに再会。小樽に戻っていた。中央ホテルに勤務。彩子と名のっていた。 |
1929年(昭和04年) 07月06日 |
「不在地主」の起筆。 |
1929年(昭和04年) 08月27日 |
多喜二から日景國太郎への手紙。セキが秋田に行った時の礼状。末治に第1子が誕生か? そうだとすると、セキの初孫。 |
1929年(昭和04年) 09月29日 |
「不在地主」の完成。 |
1929年(昭和04年) 10月 |
世界恐慌の始まり。 |
1929年(昭和04年) 10月19日 |
「不在地主」が中央公論11月号に掲載。原稿用紙50枚分がカットされたもの。この50枚分は「戦旗」12月号に掲載された。原稿料は500円。 |
1929年(昭和04年) 11月16日 |
多喜二が北海道拓殖銀行を解雇される。 |
1929年(昭和04年) 12月18日 |
多喜二は「工場細胞」を起稿した。 |
1930年(昭和05年) 01月 |
金の解禁 |
1930年(昭和05年) 02月 |
多喜二は昆布温泉で「工場細胞」を仕上げた。 |
1930年(昭和05年) 02月 |
札幌の知人宅。 |
1930年(昭和05年) 03月末 |
多喜二が生活の拠点を東京に移した。中野区上町の斎藤次郎の下宿に住んだ。 |
1930年(昭和05年) 02月25日 |
田口瀧子に手紙。 |
1930年(昭和05年) 04月10日 |
田口瀧子も東京に出た(代々木整容学院)。上町で3週間ほど田口瀧子と住んだ。 |
1930年(昭和05年) 05月23日 |
大阪(島之内警察署)で検挙されたが、6月7日に釈放(16日間の拘留)。 |
1930年(昭和05年) 06月02日 |
末松の墓の完成。これに合わせて多喜二は小樽に戻っているようだ。 |
1930年(昭和05年) 06月24日 |
再検挙され、3ケ所の警察署(杉並署、巣鴨署、坂本署)の留置所をたらい回し。そのまま豊多摩刑務所へ。 |
1930年(昭和05年) 08月21日 |
多喜二が豊多摩刑務所に入った。未決監(拘置所)。多喜二は「セ-63号」。「セ」とは治安維持法の共同被告。 |
1930年(昭和05年) 09月17日 |
三吾が東京に出て多喜二に面会。分厚い布団の差し入れ。この頃の三吾は札幌の交響楽団員。 |
1930年(昭和05年) 09月末 |
瀧子が代々木整容学院を卒業。 |
1930年(昭和05年) 10月中旬 |
瀧子の初面会。 |
1930年(昭和05年) 12月27日 |
多喜二は予審尋問のため霞ヶ関にある東京地方裁判所に自動車で行く際、国会議事堂の建築工事を見ている。 |
1930年(昭和05年) 12月27日 |
田口瀧子の継父(若月金次郎)が死亡し、瀧子は小樽へ行った。 |
1931年(昭和06年) 01月22日 |
多喜二が豊多摩刑務所から保釈出獄(21:30)。予審が終了したから。その後に公判が始まる予定だった。保釈の条件として予審が終了する事と保証金が必要。多喜二の場合は金額が不明。中野重治の場合は40円だった。 |
1931年(昭和06年) 01月末〜02月 |
田口瀧子が東京に戻ってきた。 |
1931年(昭和06年) 01月末〜02月 |
多喜二が田口瀧子に結婚を申し込んだが断られた。 |
1931年(昭和06年) 02月中旬頃 |
後援会のビラ貼りに新宿方面へ行った。ひどく雪が降る日に伊藤ふじ子との出会い。 |
1931年(昭和06年) 03月 |
多喜二が田口瀧子との結婚を断念した。 |
1931年(昭和06年) 03月中旬〜4月 |
七沢温泉で湯治。 |
1931年(昭和06年) 04月6日 |
「オルグ」が完成。 |
1931年(昭和06年) 04月〜05月頃 |
多喜二は神奈川県の七沢温泉・福元館より伊藤ふじ子に手紙を送る。七沢の蟹より。 |
1931年(昭和06年) 05月中旬 |
蔵原惟人に会った。 |
1931年(昭和06年) 05月24日 |
作家同盟第3回大会に出席。 |
1931年(昭和06年) 05月下旬 |
多喜二は小樽と札幌へ。 |
1931年(昭和06年) 06月09日 |
「独房」が完成。この頃までには東京に戻っている。 |
1931年(昭和06年) 06月20日 |
慶義(多喜二の伯父)の葬儀。花や香典は多喜二の指示があったかもしれない。 |
1931年(昭和06年) 07月 |
田口瀧子の母(キクノ)が上京。瀧子は継父(若月金次郎)の子らと同居。 |
1931年(昭和06年) 07月下旬 |
多喜二は杉並区馬橋三丁目375番地(現在の阿佐ヶ谷)に一軒家を借り、三吾(弟)とセキ(母)の3人で暮らし始めた。8畳、6畳、3畳の家。 |
1931年(昭和06年) 09月18日 |
満州事変が勃発。 |
1931年(昭和06年) 10月 |
多喜二が非合法の日本共産党に入党。 |
1931年(昭和06年) 11月01日 |
多喜二が奈良の志賀直哉宅を訪問。 |
1932年(昭和07年) 03月01日 |
満州国の成立。 |
1932年(昭和07年) 03月24日 |
文化連盟への弾圧が始まった。 |
1932年(昭和07年) 04月04日 |
蔵原惟人の逮捕。 |
1932年(昭和07年) 04月上旬 |
多喜二が地下生活に入った。この後に馬橋の自宅が特高の捜査を受けた。保釈中に検挙されると保釈は取消しとなり保証金が没収される。再び未決監に入れられ、そのまま公判で有罪となり服役となる。従って作家活動が出来なくなる。 |
1932年(昭和07年) 04月下旬 |
伊藤ふじ子(銀座図案社)との同居が始まった。麻布東町の称名寺の境内。麻布二の橋(バス停)の近く。 |
1932年(昭和07年) 05月15日 |
五・一五事件。 |
1932年(昭和07年) 06月 |
1932年テーゼには天皇制打倒とある。 |
1932年(昭和07年) 07月 |
新網町に引っ越し。麻布十番の近く。 |
1932年(昭和07年) 08月25日 |
「党生活者」を書き終えた。 |
1932年(昭和07年) 09月10日 |
麻布十番通りの山中屋で多喜二、セキ、チマ、和枝、三吾が会う。この頃と思われる写真あり。セキとチマは小樽に帰った。 |
1932年(昭和07年) 09月下旬 |
麻布桜田町に引っ越し。伊藤ふじ子の母(き志)が1階、多喜二とふじ子は2階に住んだ。 |
1932年(昭和07年) 10月06日 |
大森銀行ギャング事件。大森川崎第百銀行支店。 |
1932年(昭和07年) 10月30日 |
熱海事件。岩田義道死亡。 |
1932年(昭和07年) 12月09日 |
多喜二と三吾は日比谷公会堂にシゲティのコンサートに行った。近衛秀麿(近衛文麿の弟)の指揮。 |
1932年(昭和07年) 12月 |
セキは昌久(ツギの息子)を連れて東京に戻った。 |
1933年(昭和08年) 01月07日 |
「地区の人々」が完成。党生活者の後編。 |
1933年(昭和08年) 01月10日 |
伊藤ふじ子が多喜二とは別件で逮捕される。桜田町の隠れ家が家宅捜査を受けた。ふじ子の母(き志)は2階へ上げなかった。ふじ子は2週間後に釈放されるも多喜二との同居が終わり、銀座図案社を解雇された。多喜二は渋谷区羽沢町の下宿へ。山野次郎として。 |
1933年(昭和08年) 01月20日頃 |
多喜二は田口瀧子の家を訪れたが留守だった。葉書にメモを残した。 |
1933年(昭和08年) 01月30日 |
ドイツで アドルフ・ヒトラーが首相となる。 |
1933年(昭和08年) 02月20日 |
赤坂で捕まった多喜二が死亡。29才2月。戒名は物学荘巌信士。この日は志賀直哉の誕生日。 |
1933年(昭和08年) 02月21日 |
夕刊を見た河面の奥さんに多喜二の死を知らされた。 |
1933年(昭和08年) 02月24日 |
志賀直哉から手紙と香典。 |
1933年(昭和08年) 03月 |
セキと三吾は馬橋から品川に転居。 |
1933年(昭和08年) 03月04日 |
米国 フランクリン・デラノ・.ルーズベルトが大統領に就任〜1945/04/22 (4422日max) |
1933年(昭和08年) 03月15日 |
多喜二の労農葬(無宗教葬)。築地小劇場で。 |
1933年(昭和08年) 03月27日 |
日本が国際連盟を脱退。 |
1933年(昭和08年) 05月末 |
セキが多喜二の遺骨を持って小樽に帰った。多喜二の戒名:物学荘厳信士 |
1933年(昭和08年) 12月04日 |
慶義の戸籍が除籍簿に入った(戸籍の中に生存者がいなくなった)。 |
1934年(昭和09年) 03月18日 |
再び検挙されたふじ子が釈放された。帰るところがなくて森熊猛を頼った。 |
1934年(昭和09年) 10月12日 |
伊藤ふじ子が森熊猛と結婚。森熊ふじ子となった。 |
1935年(昭和10年) 01月13日 |
伊藤ふじ子が長男を生んだ。以前にふじ子は多喜二の子を身籠ったことがあるが始末したらしい<26>。 |
1936年(昭和11年) 02月26日 |
二・二六事件。 |
1936年(昭和11年) 10月03日〜 |
北海道で陸軍特別大演習並地方行幸。 |
1937年(昭和12年) 07月07日 |
蘆溝橋事件。支那事変の勃発。 |
1937年(昭和12年) 07月29日 |
通州事件。 |
1937年(昭和12年) 07月31日 |
太郎が召集された。 |
1937年(昭和12年) 08月24日 |
太郎は広島より出港。永田部隊の副官。渤海湾周辺を守った。 |
1938年(昭和13年) 09月30日 |
太郎は歩兵中尉となった。 |
1939年(昭和14年) 02月11日 |
永田部隊の作戦は終了した。太郎は志願して大陸に残り、林大隊、山崎支隊に配属となった。 |
1939年(昭和14年) 09月03日 |
英仏が独に宣戦布告し第二次世界大戦の開始。 |
1939年(昭和14年) 10月 |
「思ひ出:志那事変記念写真帖:永田部隊」の発行。 |
1940年(昭和15年) 頃 |
田口瀧子が33歳頃に結婚。横浜の貿易商と。小笠原瀧子となった?
1942年頃とも1932年の数年後<1>ともある。 |
1940年(昭和15年) 04月29日 |
太郎は勲六等単光旭日章を受けた。 |
1940年(昭和15年) 08月01日 |
太郎は山崎部隊の副官になった。 |
1940年(昭和15年) 09月15日 |
太郎は陸軍中尉となった。 |
1940年(昭和15年) 11月10日 |
紀元二千六百年式典。 |
1940年(昭和15年) 12月12日 |
太郎は勲六等瑞宝章を受けた。 |
1941年(昭和16年) 02月11日 |
第一次帰還人員引率官として広島に到着。02月23日には再び大陸に出発した。 |
1941年(昭和16年) 07月07日 |
太郎が林部隊長陸軍少佐 林芳太郎から賞詞を受けた。 |
1941年(昭和16年) 08月01日 |
米国の対日全面禁輸措置。 |
1941年(昭和16年) 10月17日 |
太郎が大陸から帰国した。大阪に上陸。旭川に向かった。 |
1941年(昭和16年) 11月26日 |
日本海軍機動部隊第一航空艦隊空母6隻が単冠湾から出航 |
1941年(昭和16年) 12月01日 |
太郎は陸軍大尉となった。 |
1941年(昭和16年) 12月08日 |
日本と英米蘭との戦いが開始。マレー上陸作戦と真珠湾攻撃。 |
1941年(昭和16年) 12月12日 |
支那事変(対蒋介石)と英米蘭戦を合わせて大東亜戦争と呼ばれるようになった。 |
1942年(昭和17年) 07月16日 |
太郎は召集解除となり、旭川から苫小牧に戻った。 |
1944年(昭和19年) 02月09日 |
太郎の母(リツ;慶義の妻)の葬儀。 |
1944年(昭和19年) 05月17日 |
太郎が大東亜戦争に召集された。苫小牧の七星寮から出発。旭川に滞在。 |
1944年(昭和19年) 09月12日 |
太郎が勲五等瑞宝章を受けた。 |
1944年(昭和19年)頃 |
この頃に幸(ユキ)が結婚<12>。高木ユキとなった。 |
1945年(昭和20年)頃 |
この頃に三吾が結婚<12>。 |
1945年(昭和20年) 03月27日 |
第89師団司令部付。 |
1945年(昭和20年) 04月10日 |
太郎が択捉島の天寧に着任。単冠湾から上陸した。 |
1945年(昭和20年) 04月12日 |
米国 ルーズベルト大統領が急死。ハリー・S・トルーマン 副→大統領〜1953/01/20 |
1945年(昭和20年) 07月16日 |
史上初めての核実験がニューメキシコ州の砂漠で行われた。トリニティ実験。 |
1945年(昭和20年) 08月06日 |
広島にウラン型原子爆弾(通称:リトルボーイ)が投下された。広島には陸軍第5師団があった。 |
1945年(昭和20年) 08月09日 |
長崎にプルトニウム型原子爆弾(通称:ファットマン)が投下された。 |
1945年(昭和20年) 08月15日 |
玉音放送。 |
1945年(昭和20年) 09月02日 |
戦艦ミズーリでの調印式。 |
1945年(昭和20年) 09月23日 |
太郎が「ダモイ・トーキョ(東京に戻る)」と言われて乗った船が択捉島を出発、26日に ワニノ湾に到着。ここはソフガワニ(ソビエツカヤガバニ)の北にある港町。軍歴にはポートワニと書かれている。シベリア抑留の開始。 |
1948年(昭和23年) 01月19日 |
安部イマ死亡(秋田の安部校長夫人)。 |
1948年(昭和23年) 06月19日 |
太郎が ナホトカ港を出発、21日に舞鶴港に到着。復員。 |
1949年(昭和24年) |
中華人民共和国の樹立。 |
1950年(昭和25年) 06月25日 |
朝鮮戦争 |
1951年(昭和26年) 12月22日 |
この日付発行の慶義の除籍謄本がある。発行人は下川沿村長小林市司(13代目小林多治右衛門)。 |
1952年(昭和27年) 04月 |
サンフランシスコ講和条約。日本の独立。 |
1953年(昭和28年) |
映画「蟹工船」の封切 |
1953年(昭和28年) |
太郎はPTSDだったと思われるが、この頃から体調が思わしくなかった。 |
1956年(昭和31年) 01月25日 |
慶義の2男(俊二)死亡。68才5月。 |
1957年(昭和32年) 08月02日 |
多喜二の遺骨の一部が津軽セツ(寺田行雄の姉)により、大館市下川沿駅の前に建てられた小林多喜二生誕の地碑の周囲に散骨された。 |
1958年(昭和33年) 08月07日 |
慶義の4男(太郎)が死亡。57才6月。セキ(多喜二の母)は葬儀に参列した。 |
1960年(昭和35年) 10月 |
末松の妻(セキ)が共産党に入党。 |
1961年(昭和36年) 05月10日 |
末松の妻(セキ)が死亡。87才8月。 |
1972年(昭和47年) 11月15日 |
セキの3女(ツキ)が死亡。65才10月。 |
1973年(昭和48年) 04月17日 |
多喜二が小学校入学の記念写真の裏に、チマが回想のメモを書いた。 |
1975年(昭和50年) 09月20日 |
セキの2女(チマ)が死亡。74才08月。 |
1976年(昭和51年) 10月 |
セキの2女(チマ)の遺品の中から多喜二の香典控が見つかった。 |
1978年(昭和53年) 02月20日 |
末治は大館市内で健在。72歳。 |
1981年(昭和56年) 04月26日 |
伊藤(森熊)ふじ子死亡(脳出血)。70才2月。森熊ふじ子の句集(寒椿)の中の2句は有名。
アンダンテカンタービレ聞く多喜二忌
多喜二忌や麻布二の橋 三の橋
アンダンテ・カンタービレはチャイコフスキー弦楽四重奏第一番第二楽章。二の橋、三の橋は多喜二らが移り住んだ隠れ家近くのバス停か?
|
1981年(昭和56年) 12月01日 |
手塚英孝死亡。74才11月。この日は多喜二の誕生日にあたる。 |
1991年(平成03年) 02月14日 |
シベリア抑留の慰労の銀杯が太郎の遺族に送られてきた。 |
1991年(平成03年) 12月25日 |
ソビエト社会主義共和国連邦が崩壊した。 |
2002年(平成14年) 02月16日 |
セキの4男(三吾)が死亡。92才02月。 |
2004年(平成16年) 09月17日 |
森熊猛が死亡した。(生)1909年(明治42年)4月1日。 |
2009年(平成21年) |
セキの4女(幸:ユキ)が死亡。92才。 |
2009年(平成21年) 06月19日 |
田口(旧姓)瀧子が死亡。102才(読売新聞による)。 |