知られざる小林多喜二の周辺

 
 017 ( 2019/03/07 : ver 01 、 2019/03/21 : ver 02 )
多喜二と豊多摩刑務所



この稿が参考にしたり引用するのは、ほとんどが「小林多喜二の手紙」<25>です。この本の編集と注釈および解説の荻野富士夫氏は、治安維持法の専門家ですから、それに関連する注釈は正確だと思います。多喜二は大正13年(1924年)に就職した北海道拓殖銀行を、昭和4年(1929年)11月16日に解雇されました。その翌年ニセコの昆布温泉に滞在し、2月末に「工場細胞」を完成させました。そして3月末(昭和5年)に活動の拠点を東京に移しました。5月16日から「戦旗」防衛三千円基金募金の講演会のために関西を回りました。5月23日に大阪島之内警察署に「共産党への資金援助を理由として治安維持法違反の容疑」で検挙されました。この時は不起訴となり16日間の勾留だけで6月7日に釈放となりました。多喜二は大阪の警察署での様子を「中ではひどい拷問をされた。竹刀で殴ぐられた。柔道でなげられた。髪の毛が何日もぬけた。何んとか科学的取調法を三十分もやらせられた。」と書いています。東京に戻ってからの6月24日に警視庁特別高等警察により再び検挙されました。8月21日までの約2ヶ月間は杉並署、巣鴨署、坂本署の留置場(いわゆるブタ箱)に入りました。当時、一ヶ所に留まるのは最大29日までだったそうです。だから留置場の「たらい廻し」なのです。この間、蟹工船に関して山田清三郎氏と共に7月19日に不敬罪・新聞紙法違反容疑で起訴されました。山田氏は蟹工船を掲載した「戦旗」の編集長かつ発行名義人です。この稿の最後に、この起訴状の内容を示します。多喜二は昭和5年(1930年) 8月21日に共産党への資金援助容疑の治安維持法違反(目的遂行罪)で追起訴されました。そして、その日に豊多摩刑務所の未決監(拘置所)に収容されました。

本来の豊多摩刑務所は、刑期が10年以下の初犯者を収容する刑務所でした。その頃、市ヶ谷刑務所で治安維持法違反の被告や受刑者が増えると、その一部を受け入れるようになったそうです。多喜二が在獄中の昭和5年(1930年)12月の在獄人員は「刑が確定した受刑者」が970名(このうち治安維持法関係者5名)、「まだ刑が確定してない刑事被告人」は168名で、多喜二はこちらに含まれます。戦前の刑事裁判では、本公判に付すかどうかを予審で審理しました。多喜二は被告人として豊多摩刑務所に勾留されながら、東京地方裁判所で予審を受けていたのです。豊多摩刑務所から時々自動車にのせられて東京地方裁判所に行って予審尋問を受けます。その道中は手錠をかけられます。当時、建設中の国会議事堂も見ているようです。まだ予審の段階ですから本裁判の前です。有罪が確定した受刑者(既決囚)ではないので「受刑者としての作業」はありません。独居房に収容されましたが、制限はあるものの読書が可能で手紙のやり取りもできました。ただし手紙は書信室で書く必要があったり、送信・受信には予審判事の検閲が必要であり、一度の手紙の送受信には各20日かかったそうです。封緘はがき3銭、通常のはがき1銭5厘。多喜二は沢山書ける封緘はがきを多用したようです。「小林多喜二の手紙」<25>には獄中から出した手紙が53通載せられています。受信した手紙は1週間だけ手元に置いておけたようです。その後は没収ですが、出獄時に返却されたかもしれません。

昭和6年(1931年)の豊多摩刑務所


当時の豊多摩刑務所は大正12年(1923年)9月1日の関東大震災で被害を受け、修復工事中でした。豊多摩刑務所の鳥瞰写真に、便宜上A・B・C・D・E・Fの印を付けます。他の図面と照らし合わせると上が北です。多喜二の独房の窓からは、工事中の時計の塔(E)が見えたようです。獄中から齋藤次郎氏あての手紙(No.102)によると、「ぼく等の室の前に時計のある塔がある。それがだんだん出来上りつつある。石工のノミの音がきこえる」とあります。だとすると多喜二がいたのは十字型独房の東側(CかD)と思われます。南房と書いてありますから、Cの翼の2階、北東向きの部屋にいたものと思われます。仮に中心部から部屋番号が振られてるとすれば、多喜二の部屋(No.19らしい)は端の方です。ここなら時計の塔がよく見えたでしょう。屋外の運動場で運動する機会もありました。この運動場は3メートルほどのコンクリートの壁に囲まれた扇型をしていたようです。蔵原惟人氏によると、この空間が8個あったとのことです。自分の歩幅で測ったところ、周囲は約26メートル程度。この運動場は複数あったり、時期によっては場所が異なりますが、昭和6年(1931年)の写真ではAとBの間に、このような構造物(F)が見えます。多喜二による「独房」の初版にはイラストが添えられていました。このイラストのように、8個の空間の扇の要の部分に立つと、一人で全ての場所を見張ることが出来る構造です。

独居房は約5平方メートル、多喜二は「三畳に足りない」と表現しています。手の届かないような高さに小さな窓があります。東京だからかもしれませんが、火の気ひとつない部屋です。ただし、70銭でアンカを購入することが出来たようです。お金の差入も出来ました。朝7時の起床で夜7時の消灯。多喜二は毎朝6時半に起きて、真裸で冷水マサツをし、部屋を掃除し、塩のウガイをしました。多喜二の記載によると「気持ちの良い蒸気の風呂」に入り、顔も週に1度剃ってくれる。何かの記念の日には蓄音機も聴かせてくれます。また「ぼくは此処へ来てから、実に放屁をするようになった。」とあります。1時間に20〜30回くらいも屁をするのだそうです。医師に診てもらう事も出来ますが、医師によると麦飯の為の腸内発酵ではないかと言われたそうです。他稿(No.016)でも書いたように、疥癬症による激しい掻痒のことを含め、手紙には刑務所内で「つらい思い」をしていることは触れていません。その逆に、「快適である」とさえ読み取れます。親類の者を含め、外部の人間に心配をかけないためと思われますが、そこで弱音を吐くと、自らの運動を自己否定することにもなりかねません。荻野氏の解説<25>によると、「勾留に抗し、意気軒高の姿勢を貫くために、意識的にノンビリしたことや必要以上に、ふざけたこととか、冗談を書いていた」という可能性が高いようです。また自分が出した手紙が回覧・公表される事も意識していたようであり、「呑気にしている」という事が「最大の獄内闘争である」と認識していたという事です。弱音は吐けません。

多喜二は、独房暮らしは2年くらいあるだろうと覚悟していたようですが、思いのほか早く出獄しました。昭和6年(1931年)1月22日の夜9時半の保釈出獄です。この保釈出獄のためには、予審が終結することが必要です。この前後に本人および保証人から保釈請求書が提出されます。保証金を納入して出獄となるのですが、多喜二の保証金の金額は不明です。中野重治氏は、その少し前の1930年12月26日に保釈出獄していますが、この時の保証金は40円でした。予審終結決定書の内容は不明ながら、「本公判に付す」という内容だったことは間違いありません。多喜二は出獄後の手紙で「9月から「公判」が始まる」と書いています。シャバに出た多喜二は、もし何かの理由で再び検挙されると、この保釈は取り消しになります。保証金は没収され、再び刑務所の未決監(独房)に戻ることになります。そして、そこにいるまま本公判となり、有罪となり服役となったはずです。従って、再検挙されると作品を書く機会を失うことになります。そのため一般社会と縁を絶ち、地下生活に入ったと思われます。多喜二は本公判の判決が出る前の昭和8年(1933年)2月20日に他界しましたが、同じく不敬罪・新聞紙法違反で共同被告となった山田清三郎氏は昭和9年(1934年)11月に懲役8ヶ月の判決が出ました。多喜二には、もうひとつ治安維持法違反容疑もありましたから、これより長い実刑になっていたかもしれません。

以上は、ほとんど「小林多喜二の手紙」<25>を参考としたものです。ここには創作の余地はありません。多喜二は出所後に「独房」という小説を書きました。発表は昭和6年(1931年)6月9日です。この主人公は「田口」ですが、文頭には「これは田口の話である。別に小説と云うべきものでもない」ともある通り、ここに書かれている内容は、ほとんどが多喜二の手紙の内容と同じです。刑務所から出す手紙は検閲されていて、日の目を見なかったものもあるはずですし、多喜二が意図的に手紙として書かなかった内容もあるはずですから、この「独房」については、手紙に書かれていない内容であっても真実に近いと考えられます。この「独房」は「定本小林多喜二全集第六巻」<27>に載っています。独立した11編のエピソードからなっています。これの下書きであるノート稿は「小林多喜二の草稿ノート・直筆原稿DVD」<14>に掲載されています。これを見ると、2編のエピソードが削除されています。そのうちのひとつ、「おいらん船」の前半部分を書き出します。ノート稿には鉛筆での加筆校正も入ってあり、可能な限り再現します。「×」で示された伏字は、文脈からして明らかなものはカッコ書きします。何事も隠さない多喜二の姿勢が表れています。

「おいらん船」
差入になった「世界地理風俗大系」の南洋篇を一枚々々頁を嘗めながら写真を見て行くと、殆んど裸体の両の乳房の素晴しい体をした土人の女の写真が沢山出てゐた。乳首が上ワ向きにふッくらともり上がってゐる両の乳房、滑らかな腹と臍の窪み、逞しくも太い腰・・・・・・・・。ムンムンする處女の健康感! はからずも私は忘れてゐた欲情を激しく感じた。私は留置場にゐたときから、月に二度位×精(夢精)した。刑務所へ来てからも同じだった。月に二度位は生理上から云っても健康な事の證據なので、− 逆に、かへって私は、そのことから自分の健康がちっとも衰えてゐないことを知って、安心してゐた。私はかつて先輩から、未決が長くなると夢×(夢精)さへもしなくなるときいてゐた。なかにゐると月に何度か − 後で考へてみると、それが周期的らしかったが − 激しく欲情を感ずることがある。然し私はその度に我慢した。未決が長くなれば何より身体だ。自×(自慰) (「手×(手淫)」は消した跡あり)などをして無駄な浪費はしたくなかった。然しその次の日は、きまって頭がぼんやりした。こいつア、悪いや! 私は危くなったので「南洋篇」を見るのをやめた。



最終的に削除されたエピソードですが、これは「定本小林多喜二全集第六巻」<27>に解説として載せられています。多喜二による最終稿と考えて良いでしょう。

「おいらん船」
差入になった「世界地理風俗大系」の南洋篇を一枚一枚見て行くと、殆んど裸体の土人の女の写真が沢山出ている。チ首が上ワ向きにふッくらともり上がってゐる両の乳房、滑らかな腹と臍の窪み、逞しく太い腰、ムンムンする処女の健康感! はからずも私は忘れていた欲情を激しく感じた。私は留置場にいたときから、月に二度位×精した。刑務所へ来てからも同じだった。月に二度位は生理上から云っても健康な事の証拠なので、−逆に、私は、自分の健康がちっとも衰えていないことを知って、安心していた。未決が長くなると夢×さえもしなくなるときいていた。なかにいると、月に何度か激しく欲情を感ずることがある。然し私はその度にこらえてきた。何より体力なので、自×などをして無駄な浪費はしたくなかった。その代わり、次の日は、きまって頭がぼんやりした。危くなったので私は「南洋篇」を見るのをやめた。


大正4年(1915年)に竣工した建物が大正5年(1916年)より「豊多摩監獄」となりました。1921年には「豊多摩刑務所」と改称、昭和32年(1957年)には「中野刑務所」と改称されました。昭和58年(1983年)には閉鎖となり解体され、現在は平和の森公園となっています。豊多摩刑務所は、全体の定員は1280名ですが、440室の独居房がありました。十字型の建物が赤煉瓦とコンクリートでできた独居監のようです。中央からすべてを見渡すことができる方式であり、パノプティコン式(全展望監視システム)と言われます。最初の建物(豊多摩監獄)の設計図がネットにありました。「特別監平面図」とあります。これにより上が北方向と分かります。ひとつの翼について、中央の赤星印が階段だと仮定すると41部屋、2階建てなので82部屋、4翼として328部屋です。仮にその後の改修があったとして、中央の赤星印を部屋と考え、大きな部屋は2部屋分と考えると1翼が92部屋。4翼として368部屋という事になります。少なくても、このパノプティコン式の建物は、全て独居房と考えて良さそうです。この刑務所の昔の写真があります。外観写真によると、この赤星印は、1階では通り抜け通路かもしれません。


豊多摩監獄の図面
豊多摩刑務所の写真とは少し異なる






三角の採光用の屋根が見えるので2階と思われる


時計の塔(中野刑務所の解体時の写真)



「独房」<27>が多喜二のことをそのまま書いているならば、これで分かる情報としては、別稿(No.016)に書いたヒゼンダニの他に次のようなことがあります。多喜二がいた独房は南房の階上で、No.19であること。多喜二の識別番号(共犯番号)としては、「セ」の63号であること。「セ」とは、治安維持法の共同被告に付けられた符号。刑務所の雑役係は赤い着物を着ていること。多喜二らは蒼い着物、帯、股引、褌をして藁草履を履き、編笠をかぶっていたこと。運動が1日1回20分、入浴は週に2回、理髪(剃髭のことらしい)は週に1回、診察が1日おき。独房での「世帯道具」として配布されるのは、箒、ハタキ、渋紙で作った塵取、痰壺、雑巾、蓋付きの茶碗2個、皿1枚、ワッパ1個、箸1膳、以上が入った食器箱。布巾1枚、土瓶、湯呑茶碗1個、黒い漆塗の便器、洗面器、清水桶、排水桶、柄杓1個、縁のない畳1枚、玩具のような足の低い蚊帳。番号の片(キレ)と針と糸。この番号が書かれた布は、自分で着物に縫い付けるようです。運動場や書信室には目を盗んで色々な落書が書いてあったようで、その中には「共」や「党」の漢字の一部とか、K・P(共産党の略字)などがあったそうです。

「小林多喜二」<1>には、多喜二と山田清三郎氏に対する7月19日付の東京区裁判所検事局の起訴状が書かれているので引用します。

第一 被告人清三郎は麹町区三番町二十八番地に事務所を設け戦旗社なる営業名義の下に出版業を営み且つ同社を発行所として自ら発行人兼編集人及印刷人と為りて新聞紙法による月刊雑誌「戦旗」を発行し来りたるものなる処
(一) 昭和四年五月一日付五月号同年六月一日付六月号の右「戦旗」紙上に小林多喜二著作に係る「蟹工船」と題しその内容中に、「浅川ったら蟹工の浅か、浅の蟹工かってな」 「××××(天皇陛下)は雲の上にいる。俺達にゃどうでもいいんだけど、浅ってなればどっこいそうは行かないからな」云々(同誌五月号百五十頁)
毎年の例で漁期が終わりそうになると蟹罐詰の「×(献)上品」を作ることになっていた。しかし、「乱暴にも」何時でも別に斎戒沐浴して作るわけでもなかった。その度に漁夫達は監督をひどいことをするものだと思って来た。− だが、今度は異ってしまっていた。「俺達の不当の×(血)と×(汗)を搾りあげて作るものだ。フンさぞうめえこったろ食ってしまってから腹痛でも起こさねえがいいさ」 皆んなそんな気持ちで作った。「石ころでも入れておけ−かまうもんか」 云々(六月号百五十六頁掲載)
と天皇に対しその尊厳を冒涜すべき辞句を連ねたる小説を掲載してユニオン社印刷所に於て雑誌各数千部を印刷せしめたる上夫々之を発行し依て天皇に対し不敬の行為を為し
(二) 右小説を単行本として出版せんことを計画し同年九月二十五日頃「蟹工船」と題し前記伏字の部分に該当文詞を充填したる内容の書籍約千五百部を前示印刷所に於て印刷の上前示事務所に於て発行し以て天皇に対し不敬の行為を為し
第二 被告人多喜二は所謂プロレタリア文学の著作に従事し居るものなる処昭和四年一月頃より三月頃迄の間北海道小樽市の自宅に於て前示の如く天皇の尊厳を冒涜すべき辞句ある小説「蟹工船」を執筆著作の上其の原稿を戦旗社宛て送付し前記の如く出版せしめ以て天皇に対し不敬の行為を為し且つ前示戦旗誌上の前示記事に署名したるものなり



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多喜二の誕生日
小林せき
多喜二の母
明治36年12月1日
多喜二の香典控
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