追体験


 十一月に入ると、いよいよ冬が来るなあ、と思う。引き出しの中で静かに袖を重ねていたセーターを取りだし、着る。やがて体とセーターの間にほのぼのとあたたかい空間が生まれ、とても安心する。あたたかさをうれしいと思う気持ちが、冬を豊かにしてくれる。ワイルダーの『大きな森の小さな家』の中で「父さん」が暖炉の前で子供たちのためにヴァイオリンを弾いてくれる場面を思いだす。私はこの家族にひどく憧れたが、あの空間は開拓時代のアメリカだけが持ちえた、当事者にしか描きだせない時間である。後から生まれた者、別の場所に生まれた者が、体験できなかったことを一冊の本として手渡されることでありありと追体験することができるのは、本当にありがたい。誰でも自分という一人の人生を奏でることしかできないが、こうしていくつかの人生を追体験することはできる。追体験の喜びのために、読んだり、書いたりしているのかもしれない。
 先ごろ、岡井隆著『挫折と再生の季節』が出版された。これは「一歌人の回想(メモワール)」と題されたシリーズの『前衛歌人と呼ばれるまで』『前衛短歌運動の渦中で』に続く最終巻である。前衛短歌運動の旗手として活躍した岡井隆の意志と葛藤が、その怒濤の時代を背景に如実に描かれていて、とても読みごたえがある。特に、『挫折と再生の季節』は、何もかも捨てて女性と二人九州に向かった一九七〇年夏の回想から始まり、その劇的な生活の変化や気持ちが、実に率直に描かれている。情熱とロマンティシズムの間で揺れる意志。孤独に裏打ちされた甘く、やるせない感傷。その時代に真剣に苦悩した人だけが伝えることのできる空気が、数々の秀歌とともに深く味わえる。また、ただの回想にとどまることなく、常に現在のできごとや思いと交錯しながら語られてゆくため、一歌人の物語はとても立体的で、生々しい。

 さつきまであなたの座つてゐた椅子に馬具のかたちの夕陽(ゆふひ)差したり   岡井 隆

(初出:「信濃毎日新聞」2000年11月9日付朝刊)



illustration:kumiko kobayashi