透きとおる魚


 とあるテレビ番組で歌人の田村広志氏とアナウンサーの今泉清保氏と供に現代の「恋歌」についての鼎談をした。田村氏は、河野裕子がデビューした六〇〜七〇年代の歌に比べ、最近の恋の歌には必死の思いが感じられないと嘆いていた。私も、恋に付随する様々な社会的障壁が薄くなる中で恋歌は確かに変ってきていると思う。八〇年代には、俵万智をはじめとして、「自由な恋」へ踏み出した昂揚感をベースに詠まれた恋歌が多い。社会的には自由となっても、恋は人と人との間に生まれるものだから、一人の思い通りにはいかない。突き上げるような気持を吐露した河野の歌に比べ、迫力は欠くかもしれないが、俵らは、その微妙な心のずれの切なさを身近な素材から繊細に歌い、多くの共感を得てきた。恋の切実さは、背後の時代によって重心が大きく変化する。
 二〇〇〇年代に入り、九〇年代を再考してみると、また恋歌の質が変ってきているように思う。個としての存在の淡さや不安定さを投影した恋の歌が多くなった。溢れる情報に溺れかけているような、不安な「私」と不可解な「あなた」。

 十代にわかれたひとびと透きとおる魚のように重なり合えり   吉川宏志

 歌集『夜光(やこう)』から引いた。三〇歳になったばかりの作者の最新歌集だが、若くして父親になったことを軸とした生活の機微をしみじみと詠んだ歌が印象的だった。掲出歌は、ある日ふっと過去の恋に思いを寄せたものだろう。透き通る魚が重なりあう絵がくっきりと浮かぶ。──十代。十代ってなんだったのだろう。あいまいな幸福願望とあいまいな絶望感に、ずっとまとわれていたような気がする。好きな人は、一人いた。しかしそれはあまり現実的な恋ではなかった。浅はかで、ワカッテナイ十代の恋は、ひどく純粋だ。特別な意味を持たずに道を供に歩き、特別な理由なく音信不通になる。記憶の中でその人は、透き通ったまま成長を止めている。たしかに、魚のように。

(初出:信濃毎日新聞2000年9月28日付朝刊)

illustration:kumiko kobayashi