食と墓


 にわかに暑くなった。ついつい冷たいものに手がのびてしまう。冷蔵庫から取りだした冷たい麦茶が、喉をさらさらと流れて胃にじわっと冷気が広がると、とてもほっとする。それにしてもわたしたちは、「口」という入り口から実に多様な食物を身体の中に取り入れる。冷たいものも、暖かいものも。草も、獣も、魚も、鳥も。

 われら火食(くわしよく)われら墓あり鳥獣はみな寒食(かんしよく)し墓もあらずも   高野公彦
 
 この歌の中に出てくる「火食」とは食べ物を焼いたり煮たりなどして、火を通してから食べること、「寒食」とはいっさい火を通さずに食べることを言う。食物はありのまま食べ、死ねば墓は持たない鳥や獣は、なんと潔くつつましいものだ、という感慨が伝わってくる。
 考えてみると食物を食べるというのは、別の命を自分の命の中に溶かし込むという、とても神秘的な行為だと思う。しかし人間は、命に「火」を介在させ、その神秘性を忘れてしまっているような気がする。「食」によって命と命を融合させると考えれば、墓はいらないのかもしれない。鳥獣を食べたわたしたちは、鳥獣の墓でもあるのだ。
 もちろん「鳥葬」など、墓をつくらぬ文化もある。昔は航海中に亡くなった船員の遺体は海に葬られたという。
 わたしは、「鳥獣の墓」の一つとして、願わくば、海に沈みたい。海のなかで静かに肉体の思い出を溶かしたい。肉体を魚が口にすれば、わたしの墓は魚である。ひょっとすると珊瑚のように海中から何らかの栄養を吸収して、脳だけがいつまでも生きてしまう、なんてことがあるかもしれない。そうすると、どうするだろう。脳は、海の底にふんわりと揺れて、さまざまなことを考えるだろう。考えても考えても考えることしかできなくて、考えるだろう。考えながら、ふいに、眠るだろう。

(初出:信濃毎日新聞2000年7月20日付朝刊)

illustration:kumiko kobayashi