厨生物


 こどもの頃、福岡に住んでいた。自分が小さかったせいもあるかもしれないが、昆虫類が大きい、という印象が残っている。ごきぶり、蟻、蝉、みみず、蛾。みながっちりとして、独特の艶があった。
 あるとき、キッチンの流し台をのぞいていると、排水溝の金属の簀蓋が動いて、ざわざわと足の生えた、なにやら赤黒いものが出ててきた。わたしはそれが何なのか分からず、そういうものが出てくるものなのかもしれないと、しばらくじっと眺めてから、なんか出てきたよ、と母に告げに行った。母は縫い物の手を止めて、けげんそうに立ち上った。母の後からもう一度流しをのぞこうとすると、母はものすごい剣幕であっちに行ってなさい、と叫んで、姉に新聞紙を取ってくるように命じていた。見てはいけないものを見てしまったのか、と不安になった。後に、あれはムカデだったのだと、図鑑で知った。
 またある真昼。キッチン兼ダイニングで母の作る昼ご飯を待ちながら、ぼんやりと醤油さしを眺めていた。半透明な醤油差しの中で、黒い醤油の水面が盛り上がり、ふしぎな縞模様が見える。なんだろう、こうゆうものかもしれないけれど…。母になんか変だと告げると母は醤油さしを凝視して、あら、ほんと、へん、と流しに醤油を捨てに行った。ごきぶりよ、ごきぶりが死んでた、と母は言った。縞模様に見えたものは、浮いたごきぶりの腹だったのか。死骸は見せてもらえたなかったけれど。
 しばらくして母は、新しい醤油を湛えた醤油さしをしみじみ眺めながら持ってきて、こんな隙間から入ったのかしらね、とつぶやき、直ちゃんありがとう、よかったわ、食べる前で、と言った。褒められてうれしかったわたしは、今でも醤油さしをじっと見つめてしまう癖がある。

  夕映えのさしこむ厨ほたほたと母はトマトの汁をこぼしぬ

(初出:「未来」2000年11月号)



illustration:kumiko kobayashi