声の夢


 去る一一月一二日、所属している「かばん」という短歌誌が通巻二〇〇号となった記念に朗読会を開いた。昨年の春の、井の頭公園での「一五周年記念青空朗読コンサート」に続く二回目の朗読会だが、今回は演劇公演もできる西荻WENスタジオで落ち着いた雰囲気の中、じっくりと行われた。ゲストに歌人の奥村晃作氏や文芸評論家の高原英理氏を迎え、ピアノやバイオリンやギターを使った弾き語り、相聞歌を交互に読みあったり、手話を取り入れたりなど、さまざまな工夫のもと、一九名の朗読パフォーマンスが繰り広げられ、総勢一五〇名による、楽しく、そして熱い時間が過ぎていった。
 私も朗読に参加したのだが、今回は読み上げる予定の自作の短歌をすべて暗記し、「語り伝える」ことを旨とした。手ぶらで舞台に立った時は、スポットライトがまぶしくて観客の顔がよく見えず、不安になったが、自分の胸にうかんできた言葉をとにかくこころのままに声にして、たくさんの瞳が見開いているはずの闇に向けて、届けた。その時に読んだ「廃村を告げる活字に桃の皮ふれればにじみゆくばかり 来て」という歌について歌人の玲はる名さんから、

 「廃村」の歌の「来て」は呟きだったんだ、と思って、少しはっとしました。呟き声だと誰にも聞こえないかもしれないけれど、その「来て」は誰かに伝える一歩手前の(というか)心の叫び声なんだ、ということに気付いたりしました。

という感想をいただいたりして、聴いてくれた人が新しい何かを持ち帰ってくれたことが、とてもうれしかった。
 詩歌の朗読に関してはいろいろな意見が交されているが、伝えたいことがあって、伝えられる、そしてそれを受け取ることができる空間は、ほんとうにしあわせな空間だと思う。肉声でこころに言葉を届ける。しかし、声は消えてしまう。二度と同じ空間、時間は戻ってこない。朗読は、たまたまその場に居合わせた人々だけが共有しうる、一瞬の声の夢なのではないだろうか。

(初出:「信濃毎日新聞」2000年11月23日付朝刊)



illustration:kumiko kobayashi