毛玉茶


 九月に入り、急に涼しくなった。雨後の湿りの残る夜を虫が奏でている。原稿を書いていると、障子がすすっ、と擦れる音がした。見ると、白い障子に何かが止まっている。蟋蟀だ。それもまだ羽の生えきっていない子どもの蟋蟀。捕まえようとすると、するりと逃げて、本棚の裏に入りこんでしまった。こんな子どもの蟋蟀が六階までひとりで上ってきたとは考えにくい。道草娘の鞄にでも潜んで闖入したか。野に帰してあげたいので本棚の裏から出てくるのを、紅茶を淹れて待ってみる。紅茶のおいしい季節になったなあ、と思う。清々しい空の季節に、澄んだ色の紅茶はよく似合う。紅茶で思い出すのは、塚本邦雄夫人、塚本慶子さんのこと。
 大阪でシンポジウムにパネラーとして参加したときに、塚本夫人が選ばれたという紅茶をお土産にいただいた。銀色の包みをほどくと、小さな茶色い粒がさらさらとこぼれた。この茶葉に熱い湯を注ぐと、たちまち高い香りがたち、その琥珀色のお茶を口に含むと、ほんのり苦く、じんわりと甘い。小さな毛玉のような茶葉なので、「毛玉茶」と名づけて家族で親しんだ。この紅茶はケニア産のもので、「毛玉」は、上質の新芽だけを集めた「ゴールデンチップス」と呼ばれるもの。夏にはそのこくのある風味を生かしアイスで、冬は沸かしたミルクに浸して、春秋はストレートで、と一年を通して楽しんだ。使いきってしまった後に同じものを所望したが、なかなか見つからなかった。
 ある朝、塚本夫人が亡くなったことを人づてに知った。一度だけ、遠くからやさしい笑顔を拝見したことがあるだけで、残念ながら言葉を交したことはなかったけれど、美しいお茶の時間を分け与えて下さったことに、今でも深く感謝している。
 
 秋は身の眞中(まなか)を水の奔りつつ弟切草(おとぎりさう)の黄のけふかぎり  塚本邦雄

 紅茶を飲み終えた。蟋蟀はまだひっそりと本棚の奥に隠れたままだ。

(初出:信濃毎日新聞2000年9月14日付朝刊)

illustration:kumiko kobayashi