ひとつの体


 オリンピックが終わり、気がつくと、秋の静けさの中にいた。小さい頃からひどい運動音痴で、いろいろと辛い思いをしたせいか、スポーツのできる人がとてもまぶしい。あの体の張りと艶。シドニーオリンピックの会期中、そのしなやかで強くて軽快な体を堪能していた。たったひとつの心に、たったひとつの体。かけがえのない一瞬を思うと、空気がしんとする。
 あれは何年前のことだったか、ある秋の日に神戸から姉が上京してきたので、当時まだ幼児だった子どもたちを連れて、近所の林へ散歩にでかけたことがあった。姉は昔からとても静かな人で、一時間でも二時間でも三時間でも、黙っている。いつもは騒がしくはしゃぎまわっている子どもたちも、姉から「黙」の気が伝わるのか、神妙に押し黙り、姉に従っていた。そのうちに姉が朽ちた枝や、枯葉を拾い始めたので、子どもたちも真似をして黙々と拾っている。何をしてるの、と尋ねると、姉は「釘、ある?」と訊いてきた。「これで動物を作ろうと思うの」。姉が帰ったあとには、朽木と枯葉と五寸釘からなる奇怪な動物オブジェが三体残された。子どもたちは、自分の作った「きりん」と「とら」を、うっとりと満足そうに眺めていた。

 声きよい君をとおしてわたくしはありとあらゆる動物の妻   大滝和子

 先月出版された歌集『人類のヴァイオリン』に収められている一首。大滝和子さんもとても静かな人だ。彼女の歌を読むと、信じきっている現実がふいに無効になり、広々とした別の空間が現れる。それは深い沈黙と孤独が生みだしたものだ。孤独は体の中にある。宇宙の一部のように。例えば小さな体で長い坂を黙々とのぼりつめてゆくマラソンランナーたち。「走る」とうことは、孤独な宇宙を運ぶことだとつくづく思う。そういえば、運動音痴ながらもマラソンだけは割合好きだった。自分の体に合わせて、自分の呼吸で進んでゆけば、必ずゴールが待っている。久しぶりに静かな秋をゆっくりと走ってみようかな。

(初出:信濃毎日新聞2000年10月12日付朝刊)

illustration:kumiko kobayashi