| 北神戸丹生山系 帝釈鉱山跡〜帝釈山〜丹生山〜シビレ山〜シブレ山 |
北神戸 (五万図=神戸)
T淡河城〜浦川渓谷〜丹生山(516m)〜帝釈山〜岩谷峠 2000年07月22日
U
衝原湖〜帝釈山〜丹生山(516m)〜シビレ山〜衝原城?〜シブレ山2002年11月10日
V衝原湖〜三津田城〜淡河城〜石峰寺城は山城レポートで 2003年06月29日
志染町三津田から・中央奥が呑吐ダム H15.6.29
関西百名山: 帝釈山 586m
近畿の山城:
淡河城 淡河城西付城 丹生山城
三津田城(満田城)衝原城(未訪?)
校歌の故郷の山
三木小学校 ♪丹生山の白い雲 美嚢の川の青い水・・♪
三木中学校 ♪丹生山の峰高く かがよう光を常の理想に・・♪
三木高等学校 ♪山遥かなる丹生に 春雪残る幾年を・・・・♪
三木北高等学校 ♪丹生の峰輝きて 若き生命の燃えゆる丘・・♪![]()
T 開発進む北神戸 わずかな自然を求め、城と谷と歴史の山を訪ねて H12. 07,22
428号線に入り無動寺を過ぎ下山口の岩谷峠を越え環境センタ先の駐車スペースに車を寄せて(6:30)車道(淡河スカイライン)をひたすら淡河本町に向かって降ります。左下方に深く切れ込んだ谷が、
これか
ら辿る浦川渓谷です。淡河本町のT字辻に光照寺があり車道を挟んだ向かいの古い石道標
(7:05)が丹生山への参道で西国巡礼道でもあります。丹生川沿い竹藪で覆われた断崖状台地の上が淡河城です。県道38号の交差点「淡河本町」のガソリンスタンドで左折三木方面へ進みます。
右手・本町バス停前には大きな老舗のxxx饅頭の看板が目立ちます。淡河バス停で左の民家の先大手橋を渡れば藪の奥に消える細道が大手道で、
藪の坂道を抜けると田園風景が広がります。奥の方の集落には2〜3軒の萱葺き屋根も見えます。
淡河城天守台跡に建つ城址碑 H20.02
左手の小公園が本丸跡・西に(西の丸)ある阿弥陀堂の白壁で囲われた一角は淡河氏歴代の墓所ですが
調査中のよう
でした。磨耗した石仏・宝篋印塔・五輪塔等々が中央に集められていました(7:20)。
本丸と墓所以外は全て田畑で集落に向かう車道が走っています。光照寺前の道標にへ戻り(7:30)丹生山への谷に向かいます。河川工事中の横を抜けると黒っぽい岩の小さな流れに出会います。
水量の少ない黒っぽい岩は滑りやすく要注意です。
竹慶寺跡境内にある淡河氏歴代の墓碑 H20.02![]()
平坦な流れに沿って辿ればすぐに堰提に突き当たりますが左端は岩場のようですが下部は水門の様です。水抜きの水門なら自然の岩に穴をうがかなくても・・と思うと不思議な造形に思います(7:50)。
右岸の細い踏み跡を上部に出て川筋に沿って貯水量の切れる谷に下りるまで暫く藪こぎです。無理に谷に沿わなくても左手の細い踏み跡を辿った方が正解だったかも分かりません・・両岸が迫り深い淵や大きな釜を待つ
不釣合いの小さな滝を越して行きますが、黒っぽい岩と谷中の暗さ淀みの淵とが相俟って秘境の趣が(陰気さが)漂ってきます。
両岸のへつりは手掛かりも多く岩も固くて快適です。2〜3の釜や淵を経て
2m程の岩場を抜けて谷が左へカーブする個所にこの谷最大の巴滝(2段6m)があり核心部でもあります(8:20)。ここも右岸を越すと左岸上部の岩場に木造りと石造りの祠が祀ってありバーコード付きの未だ新しい茄子が供えてありました。この静かな谷の先は砂防ダムを越したところで遡行を終了します。
ここも右岸を巻いて左岸からの丹生山参道道と合流します。国道428へ出る分岐?の広場は幕営適地です。「山あそ」さんからは後日"丹生山〜淡河に下るこのルートはMTBではちよっとは知られたコースとのこと。数m先に
「鷹尾鉱山跡・淡河町の自然と文化を守る会」の標識と露天掘りの古井戸跡のような坑口があります(8:55)。
帝釈山山頂
ここで参道道と分かれ右手の谷に沿って進みます。シビレ山へ向かうつもりなので巡視路と分かれ谷を詰め道が消えかかるころ、
左の尾根に向かって短い藪漕ぎで尾根に出ます(9:25)。この短い尾根は谷を隔てた帝釈山〜丹生山〜の手前です。とりあえず送電線に沿って端の鉄塔の有るピークまで行ってみます。三木方面に雄岡山
・雌岡山の小さな岡が平地に突き出して見えます。少し戻ったところに谷筋への巡視路が谷に伸びています。谷に沿うように随分古い道が現れます。 古い石標が三叉路にあり不動滝と丹生山参道への分岐を示しています(10:05)。
先刻の短い尾根は展望良好のパノラマコースです。丹生山参詣道は「清浄水」の石碑とそれらしい窪地
・岩場の上部に不動尊が祠られています。この道もしばらくで右手より蝙蝠谷・シビレ山方面からの道と合流して「太陽と緑の道」として整備された見覚えのあるハイキングコースとなります。
(10:20)丹生神社まで気持ちの良い木陰と涼風の散策道が続きます。神社本殿の裏手から蝙蝠谷への踏み跡もありますが今回は帝釈山へ縦走です。
広芝池への下降尾根から帝釈山
![]()
丹生山(たんじょうざん 516m AM10:50)は平清盛が福原(神戸市にもかって福原に都がありました)に居た頃比叡山に倣って、
日吉山王権現を祀ったといわれ此処も坂本の名が有りますね。丹生山の丹(タン=に)はズバリ赤を意味し、神功皇后が朝鮮出兵の際、諸所の神を集め祀って戦勝祈願したとき、ある神から「六甲の北の山から丹(赤土
)を採って船、武器、衣服に塗って戦えば勝てる」という言葉に従ったことから「丹生山」と呼ぶようになったと言われ、丹生神社は明要寺を鎮護するために建立された神社で祭神・丹生都比売命を祀る全国丹生の地名ルーツといわれます。
少し引返せば帝釈山縦走路の案内標識にしたがって帝釈山頂の切り開き以外はずっと木陰の中にコースが続き帝釈山頂(586m 11:25)帝釈鉱山跡を経て坂本バス停への分岐(11:35)から国道の岩谷峠に辿り付きます(11:55)。
この暑い時期でなければ雉子ヶ墓山〜花折山や志久峠を尋ねたいところです。![]()
U戦国悲話と古代遺跡が眠る山々帝釈鉱山跡〜帝釈山〜丹生山〜三津田道〜衝原湖
H14.11.10
私には丹生山地より、いまだに帝釈山脈の呼称が馴染みですが、六甲山系の北西に500m前後の山々を連ねる丹生山地の最高峰・帝釈山から、須磨浦の源平合戦で源義経が鵯越の逆落し奇襲作戦をかけるため、 丹生山の峰を越えた義経道の伝承と日本最古の民家千年家が残る歴史の道と、
衝原湖を周回するサイクリングロードや鉱山跡もある明るく静かな山域です。衝原とは原野(箕谷付近・山田町原野)の突き当たりの意味もある、そんな衝原湖には呑吐ダムがあって"吐く程呑む"、"吐く程呑む
"には少ない保水量だか、静かに水を湛えています。
西神戸自動車道が跨ぐ衝原湖
このダム湖に対峙して北と西にはシブレ山、シビレ山の、これまた不思議な名前の山があって、吐くほど呑んだ後は仕事をする気もシブレ・シブル・・・そんな意味かも(^^;
雉子ヶ墓山〜花折山に続いて 縦走コースの帝釈山〜丹生山に此の二つの山も加えて歩きます。今回の周回コースの基地は箱木のサイクリングセンター(AM8:50)から、
こうもり岩を見てこうもり谷からシビレ山を目指したいところですが、こうもり谷は入山禁止とのことですので、85号線へ戻って"鴬橋"を渡って義経道 〜丹生山への林道に入ります。
分岐毎にチョークで書かれた登り下りの矢印は丹生山への義経道に続いています。当日のみのイベントなら紙かテープ標示にして終了後は片付けて欲しいところです。丹生から帝釈は往復するつもりでしたが、
歴史の道を敬遠し帝釈鉱山跡へのコースを採って帝釈山に向うことにしました。
未舗装の荒れた車道!!は稲荷社を祀る祠前まで続いていて、此処で谷筋と合流して山道になります。自然石の石段の先に鎮座する稲荷社の柱に帝釈鉱山の文字が(AM9:28)・・
林道終点・稲荷社側の坑口![]()
藪の中に踏み跡があり古墳を思わせる坑口に続きます。人一人腰を屈めてヤット通れるほどの鉱道が
真っ直ぐ暗闇の世界に続いていきます。いくつもの枝道はありますが谷沿いに進んでいくと10分程で鉱山跡への分岐となり、正面奥に岩壁が見え水量は少ないが数段の高離のある滝が懸かっています。
其処まで行く手前に"進入禁止"マーク看板の立つ大きな鉱口があります。40m程戻れば元の分岐です。道なりに進み辺りが緩やかになってくると帝釈山から岩谷峠へ降る尾根 (AM10:00)に着きます。左へ採って帝釈山へ向った途端にロープ伝いの急斜・直登が待っています。展望の効かないルートですが、
樹間を抜けて飛び出した"賽の河原"のような雰囲気ですが、一気に南方に展望が拡がる明るい露岩や石が点在する広場には3基の石の祠が祀られた背後が帝釈山山頂(2等三角点 586m AM10:12)で、
丹生山明要寺の奥ノ院として梵天帝釈を祀ったことに由来する山名です。
帝釈鉱山跡
丹生山系随一の展望地で灘〜明石海峡へ東西に光る海の白さが眩く感じます。小広場を抜けて出発と同度に又展望皆無の雑木の中の登り降りが続き、シビレ山・不動滝コース
(AM10:35)への分岐点迄来ると丹生山は近く、最期の下りでは曲輪を思わせる!!幾くつもの平坦な段差を左右に見て「太陽と緑の道」道標に沿う広い山道に合流します。丹生山からはこの道をシブレ山へ向う三津田道を辿りますが、
此処からの緩やかな山道に沿って続く杉林の中に現れる平坦地が曲輪跡であることを確信します。この三津田道は、織田信長の毛利攻めと時を同じくして羽柴秀吉が、三木城の攻撃に、あの悲惨な兵糧攻め
「三木の干し殺し」に対して、丹生山にあった明要寺の僧侶達が三木城に呼応、厳重な警備陣をくぐり兵糧を運んだ道の一つがこの三津田道なので、防護施設は無くても一時保管倉庫の曲輪群が有っても当然で
すネ。義経道や3町石へ下る林道と合流し、井戸への道を右に取れば丹生神社の石の鳥居前に出る(AM10:40〜55)。
最高地点の神社は後にして左手の 石積の郭に行ってみます。郭の上には「明要寺跡・丹生城跡」石碑が建てられています。山上の寺にしては堅固な石垣が参道に沿って築かれています。
帝釈山山頂![]()
寺を城砦化したものか!!・此処が三の丸なら石鳥居のある二の丸を通って、丹生神社へ数段の曲輪跡に沿っての参道、
階段を登ります。最期の急な石段を登り切ると正面に拝殿を見て、左手端に数段の小さな石積みを残した一角があります。寺社の祠に檀にしては強固過ぎ!!、山頂周辺で唯一展望も望まれる所ですので櫓跡と思われます。
丹生山頂を後にして分岐へ戻り三津田道をシビレ山に向います。幾つかの淡河町へ降る枝道を分けて「シビレ山・こうもり谷」道標のある分岐を進みます(AM11:05)。途端にロープが続く直進の激登りですが 直ぐに低潅木の明るく緩やかな尾根道になると展望開け、露岩の点在する小広場「シビレ山古代祭祀跡」466m!!に着きます。
小さな鞍部を登り返して縦走路の一通過点のような展望も無い高みが本来のシビレ山名のかもしれませんが、立ち止まる程のポイントでもなく、先の古代祭祀跡をシビレ山としておいた方が雰囲気も有って良さそうです・・・(^^;
山か丘稜か? 衝原湖の先に雄岡山と雌岡山を望む
此処からは降る一方の道ですが結構急斜の続く所もあって、秀吉軍の厳しい目が有ったにしても、三木城への物資補給の為の道にしては厳しく、その苦役が偲ばれます。送電線の巡視路となり鉄塔付近へ出てくると
尾根からの見晴らしは良くなり、衝原湖の先・北西の平野には、わずか240m足らずですが周囲には山が無いので堂々と豊満な乳房をならべる雄岡山・雌岡山(どちらも播磨富士)が見えます。
丹生山の黒い頭がシビレ山に続く尾根の向こうで、何時までも見送ってくれています。下方には山とも丘とも形容し難い平坦な森が拡がっています。そんな杜へはガレた露岩帯から藪っぽく薄暗い道となり
「太陽と緑・・」自然歩道は左手の衝原湖へと道を分けますが直進して(AM11:50)、小谷を越えて廃畑のような所を抜けると未舗装林道に出て広芝池(PM12:10)に着きます。
池から衝原湖への谷に落込む西側の山が気になってきます。此処に周辺の名所等地図入り案内板があり、千年家4km・衝原湖500m・満願寺へ1km程の地点です。山の向こうは山田川(衝原湖)です。
淡河川と山田川に挟まれた山としては、この山域と勝手に決めて登り口を捜して車道に出てきます。
近くに三津田城があることを知ったのですが場所等判らず、後日MLの城ファンの方から満願寺の近くと聞き、場違いの山を登ったことになりました。しかし此処にも堀切らしいものが有り、
箱木氏の衝原城かその周辺警護の砦の関連がありそうだと思っています。判然としないまま藪尾根を往復して呑吐ダムサイト(PM1:25)に降りてきます。
山田川(衝原湖
)を隔ててこうもり谷・こうもり岩![]()
西にNTT電波塔のシブレ山頂が見えますので帰路途中ですので簡易ルートの林道を辿って寄ってみます。
呑吐ダムから西神自動車道の下をくぐり抜けるとサイクリングロードの衝原湖大橋を渡って車道正面の「つくはら隧道」へ向います。
手前にNTTDoCoMoのシブレ無線中継所に向う専用林道のゲート(PM1:45)があり、こんな所にも途中ゴルフ場があって談笑も聞こえてきます。舗装と未舗装を繰り返しながらの管理道には距離表示のある杭があって
1800mの杭が管理道の崖の端にあって山道が奥に向っています。NTT電波塔の裏の高みが山頂になっていて、脇道は直ぐ先で水道施設のようなタンクが設置された所があり、何処へ通じるのか広い整備された道が下っています。
シブレ山
頂上へは踏み跡らしき通過出来そうな藪中を突いて
20m程のところにシブレ山 (3等三角点 348m PM2:12)三角点標があります。明るい小場ですが展望はあまり良く有りません。無線中継所横から高圧線の延びていく方向に良く踏まれた道が続いていますが、地蔵尊や湿地帯
(古代沼)を経て山田池に降り立つ道で、また何時か訪ねて見る後の楽しみにして、山道とは反対に藪を突いてNHK専用林道へ戻ります。『つくはら隧道』を抜け車道を歩きますが、初めてジックリと「こうもり岩」を眺められます。
滑落事故が多いからなのか、登山者のマナーの悪さからなのか!!現在こうもり谷はから入山禁止地域です。サイクルセンタ駐車場(PM2:40)に帰り着きます。![]()
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淡河城 淡河城西付城
丹生山城 三津田城(満田城)
淡河城(上山城)
xxx 丘(平山)城 神戸市北区淡河町淡河(本町上山)
淡河(オウゴ)城は下河原停留所 【淡河バス停となっているかも知れないが、そばに”道の駅”が出来たので便利良くなったので直接模擬櫓を目指すのが一般的かも】から浦川(丹生川)の大手橋をわ たり左手の 岸上台地(河成段丘
)比高約20mの突端に築かれた城で、淡河城址市民公園として整備?され最近は櫓が新設されたと聞いて再度訪ねてみました。上山台地一帯の東・北・西三方は川と垂直に近い切岸で囲まれた天然の要害を形成しています。
淡河城西から南側を廻る内掘と土橋
播磨と摂津を結ぶ国境に位置する要衝でもあります。
昭和51年の圃場整備で本丸跡を除き遺構が破壊されてしまいました。本丸の天守
台は稲荷神社の境内となり、此処に三木合戦の際
・淡河城攻めた有馬氏の末裔のあたる有馬頼寧氏の揮毫(昭和10年)になる「淡河城址」の石碑が建っており土塁・空掘が残ります。
淡河城西から南側を廻る内掘と土橋
![]()
此の顕彰碑の建立に当たっては淡河浩氏の名があり、住所は有馬氏が淡河城を攻めた軍功で此処に入り、
東軍として関ヶ原の合戦に参戦して後・三田城に移り淡河は城史を閉じます。淡河氏についての其の後は未調査ですが、有馬氏が三田〜福知山そして筑前・久留米藩主へと続くなか、秀吉方の有馬氏末裔・有馬頼寧氏と、
別所方として散った末裔にあたる方と思われる淡河氏が同じ久留米の地に在ることに奇遇を感じます。運命で敵対したが播磨赤松一族としての顕彰碑建立
(昭和49年(1974)淡河合戦395年を記念)となったものか!鎌倉時代・承久の乱(承久3年・1221 武家の鎌倉幕府と朝廷の公家が戦った
)で勝利した執権の北条氏が淡河荘を没収して翌・貞応元年(承久4年 1222)北条時房の所領となり、地頭職として補任された家臣北条(右近将監)成正が築城。
時房が伊勢の守護職を賜ったので、その子・掃部助時盛を淡河荘に伝え居城とした。
淡河城本丸の天守台
貞応3年(1224)執権北条義時の死亡で泰春・時房が鎌倉へ下向し、時盛も上洛して六波羅南方職に補せられ、淡河荘は時盛の子・越後守朝盛に与えられ淡河氏を名のったようです。
南北朝期・暦応2年 (1339)後醍醐天皇に付き赤松円心則村に敵対して落城するが、その後も淡河氏は淡河城に在職した。文明年間末期(1486年頃)には東播磨8郡の守護代として、その一門の三木城主・別所則治の配下になっていました。
天正6年(1578)2
月別所長治が三木城において信長に反抗して毛利方に付くと、
淡河城主:定範は東播磨の諸領主らと三木城主別所氏に同調します。天正7年(1579)5月羽柴秀吉は花隈城〜淡河城〜三木城へと運び込まれる毛利方の兵糧輸送経路を断つべく、まず丹生山城を奇襲し、
続いて弟小一郎秀長ら一千余騎に淡河城を攻めさせます。
二ノ丸:竹慶寺跡に建つ淡河家廟所![]()
城主淡河弾正忠定範【別所長治の義理の伯父】は此れをよく守りますが、続く浅野弾正少弼長政
【石田三成・前田玄以等と共に豊臣政権の五奉行の一人】・杉原(七郎左衛門)家次【秀吉の正室・寧々の叔父・山崎での合戦後に福知山城主となる】
等に、淡河城を囲まれ、有馬則頼が萩原城・天正寺城等を付城に参戦した「淡河合戦」では、淡河城内の兵が出撃し其の夜のうちに城を放棄し、城兵を率いて定範が三木城に合流した為、もぬけの空となった淡河城は落ちます。
三木城に籠城した定範は同年9月に三木城攻防戦の大村砦!合戦に出陣し、加佐八幡の森で一族郎党と共に戦死しています。羽柴秀吉に占領された淡河城は萩原城主有馬法印則頼に1万5千石の居城として与えられ、九州征伐・朝鮮征伐(文禄の役)に従軍し、関が原の合戦での功により慶長6年(1601)三田城へ(3万石で)栄転したおり廃城となり、元和元年
(1615)一国一城令が配布されて廃城となり元和3年(1617)に取り壊されました。
淡河城本丸跡から模擬櫓と天守台
城の遺構は現在、本丸と天守台・堀を残すだけとなっています。幅15m・深さ3〜5mの堀に囲まれ本丸の南に高さ3m程・東西50m・南北8〜16mの稲荷社境内となっているところに
天守台を配する構えが当時の面影を残しています。本丸南東の二ノ丸(田圃の奥)には江戸時代中期頃に廃寺となった城主の菩提寺・竹慶寺跡があり、其の境内跡には鎌倉時代以降・淡河氏代々の墓碑が白壁に護られる中に整然と並んでいます。
(現地城址案内板等を参照 I氏より淡河城顕彰の碑文写を頂き 修正再加筆)![]()
淡河城西付城(西の丸) xxx西山? 172m 神戸市北区淡河町淡河
吉川ICから三木市街
地や箕谷に向かってR428号を南下し、山陽自動車道の高架下を抜けると、県道38号線と合流する淡川本町交差点に出る。
側には「道の駅淡河」があり、ここから西南を望むと・帝釈山や丹生山から北に延び出した尾根が台地となって拡がっていますが、其の先端部は河川段丘の急崖となって浦川(丹生川)に落ち込む天然の要害を形成しています。
淡河城西付城は田圃の下の藪中に在った!!
崖上に黒っぽい張りぼての様な
!!模擬櫓と淡河城跡の看板が見えています。先ほど荻原城(木津城)を訪ねてきたばかりなので、
史実や遺構の綿密な再現・復興なら歓迎ですが、天守台も無い筈の城跡に模擬の天守閣を建てる様な滑稽さを感じますが、・・・・低い段差
や堀・土塁で曲輪を区分した城の遺構を削平し、展望台を造り城跡公園として整備したとされるよりは遥かに救われます。城跡看板だけでもよいが
・以前から天守台に建つ稲荷社休憩所内に展示されている淡河城ミニ資料館の充実(淡河町の誇れる城の歴史資料・PR館)・遺構の現状保存に努めていただければと思うのですが、
城域には遺構が残る・・・(^^ゞ
淡河城西付城中程の空掘と土橋?の先に低土塁が延びる![]()
内堀で囲まれた本丸と淡河家歴代城主の廟所となっている 竹慶寺跡・二ノ丸付近までは、何度か過去にも歩いているのですが、兵庫県の埋蔵文化財行政地区にみる分布範囲は、
更に広くて南の浦川沿いに西側へと田園一帯や集落を取り込んだ、上山の台地の広範囲に拡がっています。天正7年(1579)三木合戦の際:羽柴秀吉軍は三木城周辺の支城や別所氏に従う東播磨諸々の領主の城を攻め落としていきますが、
智将:淡河弾正忠定範に対しては東付城(R428号沿い無動寺付近か? 有馬法印則範)・当概西付城(淡河城三ノ丸付近? 浅野弾正長政)・南付城(西付城の南東? 有馬則頼の長男:四郎次郎則氏
)・北付城の天正寺城(杉原七郎左衛門家次)を築いて淡河城を囲んでいます。
東付城や西付城が余りにも淡河城に近いうえ、
西付城と南付城は淡河城と同じ上山台地の段丘にあって、間を遮断する谷・川・崖も無いので、淡河定範の奇策や城から出撃して
きた城兵を率いて、そのまま夜間には三木城に向った作戦とは裏腹に、動向が監視出来る筈の位置に在った付城の性格・機能がよく分かりません・・・・? 先述の分布図には淡河城とのみ記されている
範囲内の段丘西端部に沿って集落内の道を南へ進みます。
淡河城西付城:北端曲輪の西側コーナー部の土塁![]()
最奥の民家から先・此処から段差のある田圃が並んでいますが、其の北末端からは藪尾根が北方に延び出しています。登ってきた農道の西下の谷筋に池を
見る。急斜面の藪尾根が見えています。 「ひょうごの城紀行」(神戸新聞総合出版センター)淡河城の項の文中には城砦が記されていないが、 城遺構の状況からは「西の丸」が其れに該当するところなのでしょうか?。
付城についても参考資料等情報が欲しいところです・・・・(^_-)-☆
淡河城西付城:北端曲輪の土塁
・虎口・堀切
多田暢久氏作図により「淡河西付城現状図」として挿入されていますので此れを城名としておきます。「・・・台地が西に突出して独立した郭を形成しており、
空掘りと土塁に囲まれていたようである。この北側から約1メートルの丸太を並べた櫓の遺構が見つかっている。 ここは重臣たちの館があったらしい。これらのすべては破壊されてない。」・・・・・と(^^ゞ
淡河城西付城へは農道脇の左手に「淡河簡易水道」施設があり、右手(西方)田圃に沿って奥に廃車らしいコンテナ車が置かれている空地 ?(側まで行って確認していない!!)に向かって進み藪中に下って
いく踏み跡を探してください。猛烈な藪も数mで抜けられ、藪の少ない緩やかな尾根上の台地に出ます。淡河城に寄ったのなら一帯が田園の中の二ノ丸から、
南ノ丸と三ノ丸の間を南西方へ約400m程、丘陵西端に向って農道を緩やかに登っていくと「淡河簡易水道」施設前に出るので、
淡河城西付城:北端曲輪虎口の土塁![]()
此方に方が分かりやすく・近くて・しかも楽かもネ・・(^^♪。 急斜面下には農道から見た池があり、尾根の西側も急な深い谷となって城域に入って直ぐの横掘りが谷まで伸びて落ちています。
西側の谷寄りの曲輪端に沿って50〜70cm程の低土塁が廻り、広い曲輪の中央部付近には埋もれ浅くなっているが長い横掘りが有り、堀沿いに低土塁が走る。
北方にも同様の土塁が主曲輪部分を区分している様です。外周の低土塁も北方では1mを越える程になり、曲輪を補強して外側からは2〜3m程の高さの切岸加工になっており、土塁の切れ目からは土橋付空堀を通る虎口となって
不整地の尾根筋を下ります。![]()
丹生山城(丹生寺城)
神戸市北区山田町坂本
丹生(にぶ)山(516m)の山頂に「史跡丹生山城 丹生山明要寺」の石碑があって、神功皇后の三韓征伐に由来する古話や、欽明天皇の三年(542)百済から渡来した太子童男行者が 明要寺を創建したと伝えられ、福原遷都時の平清盛が日吉山王権現を祀って月参りしたと伝えられ、
もとは南北朝時代に多くの僧兵を持つ明要寺の鎮守社となっていました。暦応元年(1338)以前に明要寺により城郭化されていき、南北朝期には僧兵をいて勢力を持っていて南朝方の拠点となって城将・吉川八郎兵衛尉経清等が護っていた。
丹生山城(明要寺跡)
そして戦国末期・毛利方についた別所氏を討つべく
秀吉軍の三木城攻めが始まって、別所氏に通じた荒木村重が花隈城より明要寺・丹生山経由で毛利氏から明石魚住へ送られた物資補給の中継所としていたようで、 此処を守備していたのは志方城の幕下で神木(こうぎ)砦
(加古川市平荘町)の城主・高橋平左衛門尉政純といわれます。天正7年(1579)2月これら連絡や兵糧等の搬送ルート確保の為、三木城主・別所長治が明要寺を城塞化したが淡河城との連絡をつけるに留まったようです。秀吉軍に攻められ戦火により
全山焼亡した事等の歴史についての説明がされています。丹生山城落城のさい、侍児・稚児達が北東尾根伝いに帝釈山を越えて逃れたが、東の山(稚児ヶ墓山)付近で秀吉方に見つかって切り殺された悲惨な話を伝える
「稚児ヶ墓山」と「花折山」については別項を参照ください。
丹生山城(明要寺跡から丹生神社側
・本郭)![]()
その後、秀吉の好意で復興した明要寺も明治初年に廃仏毀釈で廃寺となり明治2年山王社は丹生神社と改称され現在に至っています。
戦国史に例を見ない長期にわたる悲惨な飢餓作戦は「三木の干し殺し」と呼ばれるもので、この過酷な戦闘には脱退者が居なかったといわれます。しかもその頭・別所長治は25歳の青年武将でした。
食料が尽き餓え苦しむ悲惨な城内の領民や兵の命を救うため天正8年(1580)1月、城主長治は一族とともに自刃し開城しました。![]()
三津田城(勝尾山城・満田城・三田城) 152m 三木市志染町三津田字城ノ越
志染町三津田は明石や有馬〜姫路を結ぶ湯山街道の要衝に位置し摂津と播磨を結ぶ最短路で、観応の擾乱(観応2年(1351)の光明寺合戦)や 文明17年(1485)赤松政則が播磨に入り山名氏と戦った時も
、山田から志染の三津田〜光明寺(加東郡滝野)へ抜けています。淡河川と山田川(衝原湖がある)の合流地点でもあり、二つの川に挟まれ三津田と戸田の境に延びる、
満田城本丸側から突出た曲輪と堀切道
低い山稜ですが山頂附近は岩山で絶壁に囲まれた狭い台地に三津田城があって満願寺の北東
(三津田下)に城跡へは約400mほどで峠越えの道があります。古い石仏・石碑が寄せられた登り口には、仏像を浮き彫りした石標
「左 三木・小野 右 有馬・三田」とあって此処が湯山街道であった事を示しています。車一台がどうにか越せそうな山道ですが、
満田城(土塁に沿って右回りに堀切道に)
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途中には池や広い削平地が何箇所かありますが、畑地や畑地跡でもなさそうですので、 一部では庭木等の植樹がされているのかも
・・・!!すぐ其処が城址ですので居住地域だったと思えますが土塁等、構居の遺構は無さそうです。峠が既に堀切状になっていて「満田城址はこの上
」の白い標柱が立っています。山頂部附近は岩と絶壁で天然の要害となっており、本丸・二の丸・三の丸等曲輪跡や堀切・土塁・居館跡の遺構が残されています。本郭部から西北と東南の二方向に分かれる尾根上にも削平地が残りますが、
篠藪が尾根と谷を埋め尽くし、薮蚊にも攻められて遺構の確認もジックリ観察出来ません。
満田城本丸側の堀切道
写真こそ撮れませんが残存する遺構の状態は良く判ります・・・(--; 東の明石出の道を隔てた高台には五輪塔が祀ってあるそうです。幡山・城の越の地名があり鎌倉時代から平氏9代、
淡河氏4代がこの要塞の地を出城としたと思われ、兵達は下三津田全域に住んでいたらしく遊女田・小巻の名も残っている。築城や城主についての記録が無いので別所氏配下のあった城と思われますが、有馬則景の子重則
の時、三田・車瀬から居城を播磨国三津田(満田)城に移しています。有馬則頼は天文2年(1533)此処・三津田城内で
有馬重則の次男として生まれています。途中経緯不明ですが淡河や三木城の出城として20数年勢威を振るったとされますが、天文23年(1554)有馬氏・三好氏が三木の別所氏を攻撃した際に落とされた城のひとつです。
満田城:西南(二の丸)から本丸虎口(右端へ廻り込んで抜ける)![]()
重則は永禄元年(1558年
)永久秀が大和で兵を挙げた時これと交戦して戦死。父の死後は姉婿の阿波の三好之虎の世話になっていたが、之虎が永禄3年(1560年)泉州久米田の戦いで陣没すると、則頼は剃髪して無清と改名し以後、有馬法印とも呼ばれます。
その後、再び三津田城に戻っており有馬重則、則頼の出城として20数年間勢威をふるった山城ではあります。東から西への尾根は枝尾根を分けて曲輪を連ねて東の主郭から北へ伸びる尾根には堀切跡等の遺構が比較的良く残されています。
(現地案内板・・ 等を参照)![]()
衝原城
xxxm 神戸市北区山田町衝原
日本最古の民家「箱木千年家」の背後の小高い丘の周辺を切岸や水堀が取り巻いている
!!! 城主は箱木氏と伝えられる?? ダム工事で移築される前なのか!!??場所も何もかも 未詳・・・・・です
衝原城 (呑吐ダム側の山)?? 土橋と2m程の堀切跡は幻だったか??
以前三津田城が判らず、呑吐ダムの北、三津田へ向う車道の東側の山に登ったが尾根伝いに広く平坦な箇所が多く、
途中には2箇所ばかりの堀切らしいものが有り、そのうち一つが土橋を伴う堀切??
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