モルディブ関連HP:「Yuka's Home Page モルジブとダイビングが大好き」

深夜、ようやくモルディブ到着(モルディブはインドの南西約600kmの洋上に東西118Km、南北に754Kmに渡っておよそ1200の美しい島が広がっています)。通貨はモルディブ・ルフィア(Rf)Rf1=11.8円(2001年11月現在)

幸い日本人は同じ時間には少なかったので、パンジャービ姿の私を怪しむ人はいなかった。
マーレ空港からホテルがある南マレ環礁への移動はボートで15分。モルディブは小さな島の集まりで、1島1リゾート。私はここはこだわりたく、多少値が張ってもいいと思い(1泊1室39,000円。私にとっては高かった。じっくり探す時間がなかったので、日本の代理店を通して予約。)、「タージ・ラグーン」の水上コテージを予約していた。ボードから見る海水は、深夜にもかかわらず、青く透き通っているのが分かるほど鮮やかだった。到着した部屋は予想以上に広く、コテージも大きかったのできゃーきゃーはしゃぎ、深夜にもかかわらずコテージへ出て青く透き通る海を前にして大声で歌っていると、隣の部屋(二つずつ部屋がくっついている。)の白人から激しく壁を殴られ、無口になりそのままそれぞれベッドに沈んだ。

17日(月)のお会計
朝:空港前の露店でチャーイ 5Rs
昼:機内食(ノンベジ、もちろんカレー)UL、チェンナイーコロンボ
おやつ:空港のランチ(ビーフ)8ドル
夜:機内食(ノンベジ、もちろんカレー)UL、コロンボーマーレ

  

タージ・ラグーン・リゾート/Taj Lagoon Resort


 

第5日(モルディブ/maldives)

2000年1月18日(火)雨→晴

サイアク。朝から暴風雨。とことんアメオンナの私だった。部屋の窓に真横からたたきつける大きな音に脅えながらも、諦めず浮き輪をふくらまし続けていた。テーブルに盛られたフルーツに手をかけ、ベッドに横たわりモンキーバナナを食べて持て余す。ツアーで来る普通の日本人客とは違って、私たちのモルディブはたった二日間しかないのだ。しっかもここには高いお金をかけたのよ_。部屋からコテージ越しに荒れる海を恨めしく眺めて終わってしまうのか_。と諦めかけた昼、雨は止んだ。

浮き輪持参で大喜びで飛び出す。コテージの先はとにかく無限に海と空だけが広がっていて、それぞれの青がきれいな層を創っていて、現実の世界にいる気がしない。浮き輪をかぶってアヒルのような格好と化した私はコテージからのびるハシゴに足をかけたまま、しばらくそれを眺めたのだった。

我に返ってハシゴを降りる。10ドルで買ったシュノーケルはそれ以上の価値があった。(浮き輪をつけてるのにシュノーケルって。)サカナがいーっぱいいる_!と驚き、急いでハシゴを引き返して部屋のフルーツの、小さなリンゴを取ってきて、小さくくだいて海の中にやると、ものすごい勢いでサカナが集まる。バカ高い水中写るンです(部屋に置いてある。30ドルって書いてある。)もその価値はあった。

昼下がり、コテージ側と対岸の穏やかなプライベートビーチ。ここでは泳がず、しばらくは、真っ白い砂に同化した真っ白いカニとおっかけっこして遊んだりもしたが、チェアに横たわると心地良くてそのうち眠ってしまった。目覚めたのはサンセットが始まる頃。そうして陽が沈みきった時の空は見たことのないコバルトブルーで神秘的だった。

空が真っ暗になる頃まで、砂浜をしばらく散歩した。ボード乗り場への、水上コテージがのびたような道を歩いたとき、水着の上からかぶったTシャツにひっかけていたサングラスを、落とさないようにねと言ってもらっていたにもかかわらず、「わー透き通ってるー」としゃがんで下の海水を覗き込み、あっさりとサングラスを落とした。やっぱり私アホだった。

食事は、1島1リゾートなので選択の余地はなし。私が止まった「タージ・ラグーン」は3食とも普通のブッフェ(和洋中あり)だった。味は良し。レストランの客層(=リゾートの客層)は、日本人のトモダチ同士やカップルや家族が半分、フランスやドイツ辺りから来ているお金持ち風家族が半分、たまにインド人のお金持ち風マダムがいる、と言った感じだった。

余談。この辺の民衆が熱くなるのは「クリケット」らしく、ここのリゾートのTVも絶えずそれをやっていた。確かチェンナイの街なかでもクリケット中継に群がっていたし、スリランカでも新聞のトップはどれもクリケットだった。

 

18日(火)_19日(水)昼までのお会計
ホテルのレストランでブッフェ(宿泊料に込み)


 

第6日(モルディブ→コロンボ)

2000年1月19日(水)快晴with強風

飛行機:UL104 (マーレ2025-コロンボ2250) エアランカ航空

水平線から現れる朝陽を見たかった。海を眺めるのが大好きな私は、苦手な早起きも厭わず、コテージのチェアにひとり寝ころんで待つ。上を見上げると空が広がっていて、寝ぼけているためか海に浮かんでいるような錯覚を起こす。朝陽は期待に応えてくれて、自分が、マハーバリプラムで海に見入っていたサルの様だと思った。

昼間は強風、でも天気は良かったので、欧州のお金持ち風の人々に混じってぷか_と浮いた。

そうこうしているうちに夕方。まとめた荷物を横に、フロント外のビーチで、トロピカルドリンクを戴いた。陽が沈んでいく様子があまりにきれいで感動し、仕事の忙しい合間に代理店や大使館の冷たさに負けず苦労して準備した甲斐があった(インド_モルディブ往復の手配は相当大変です。客を客と思っていない、相当むかつく日本の代理店もありましたが、まあここには書かないことにします。)と思ったりし、感慨に浸ってしまった。そのトロピカルドリンクはそのせいか今まで飲んだドリンクの中で一番おいしく感じた。

帰り道のボートから周りを見渡してみると、ほんとに小さい島が、たくさんある。都市部といわれる島は、自分がいた島とは全然ちがって大きなビルも建っていた。

とにかく今まで来たなかで一番美しいところだったので、モルディブは絶対もう一度来たい。

で夜。コロンボ行の飛行機は、行きの時とは違って日本人が多かった。コロンボに着くと、私たち以外の日本人は全員、わずか30分後に出発してくれるJALの成田行きゲートへ流れた。違うゲートで手続きをしているせいで日本人達にまでじろじろ見られた私たちは、なんと翌日の午前まで飛べないので、逆に彼らを恨めしく眺めつつ、空港内の宿泊部屋を手配したのだった。

19日(水)のお会計
夜:機内食(ノンベジ、やっぱりカレー)UL、マーレーコロンボ

 


 

第7日(コロンボ→チェンナイ)

2000年1月20日(木)快晴

飛行機: UL121 (コロンボ0800-チェンナイ0900) エアランカ航空

離陸するまで機内に2時間閉じこめられ、遅れてチェンナイに到着したのが昼。この前とは違う通りへバスで行き、ランチはとあるA/CHALL。お薦めで出してくれたおいしいトライフルアイスは、カクテルフルーツと3種のアイス(バニラ、チョコ、バタースコッチ)、ドライフルーツのパフェ(35Rsぐらい)。そのお店の店員は、いっつんが留学生ということで、どこに住んでいるのかなどと興味を持ち、話が盛り上がっていた。

インド人はフレンドリーだそうで、知り合うとすぐに連絡先を交換するらしい。私も実際、シェラトンでサリーの着付けをしてくれた女性と連絡先を交換し、帰国後レターと写真を送りました。

今日こそはサリーの調達!!インド人に聞いていたお薦めへ。バスに揺られてたどり着いたそのお店、なんだか客層が違う。しかも「オールシルク」。今までこの旅で見たこともなかったエレベータまである。高級店だった。

わたしは赤を買うと決めていた。でも、白(アイボリー。)に鮮やかなピンクの入った布もすごく良くて、両方買ってしまった。

サリーの色には意味があって、赤は婚礼などを表す。実際一度「結婚しているのか」と聞かれた。

髪飾りもサリーに合わせて色が決まっているのか、赤のサリーを着る時にタンポポの髪飾り(それしかなかった)を着けていると、ホテルのお姉さまに「その色はちがうなのよー」と外され、ほんとは白なんだけど・・といいながら、部屋にあった赤いバラの一輪挿しを着けてくれた。こういうこと普通の人はやらないし、白の花飾り以上にかなりキュートだった。

しかし落とし穴が。「サリー」って、私がうっかり買ったのは、ほんとに一枚布を売ってるだけのヤツだった。裁断してブラウスを作る。知らなかった。慌てて裁縫屋を探した。サリーを着るチャンスは今日と明日だけ!この為に髪を伸ばしてきたのに!と、必死。

周りを歩き回ってやっと見つけた、お裁縫やさんがあった。

2畳あるか分からないほどの僅かなスペースに、大人も子供もひしめき合っている。壁に並んで地べたに座り手縫いするおばさん、向かい側のミシンをこぐおにいさん。冷たいコンクリートの壁に手作りの装飾がされていたり、笑い話をしながら無邪気に仕事していたりする様子から、裕福ではないけど皆本当に幸せそうに生きていることがよく分かる。みんな笑顔を絶やさない。本当の幸せってこういうことだと感動した(画像左)。

このタミル・ナードゥ州は、「チャイルド・レイバー」がインドで最も多い。

確かにどのお店にも子供がいた。髪飾りを挿してくれた露店の女の子、テーブルから乱暴に米粒を落としていた食堂の男の子、嫌々品物を袋に入れるサリー屋の男の子。(私が会ったチャイルド・レイバーはほとんど男の子。)その中でも印象深かったのが、このお店で楽しそうにブラウスを縫製する、笑顔の絶えない子供だった。
インド人の親切さを最も強く感じたのもここだった。慌てて店を紹介してもらいたどり着いたのがここ。実際ブラウスは単独で売っていたりするのにもかかわらず、せっかくなので同じ布のものを着たいという単なるわがままを聞いてくれた親切さには、頭が上がりません。

初めは、2日かかると言われたが、事情を聞いてなんと3時間で作ってくれることになった。寸法を測ってくれて、トップのブラウスの形を選ばせてくれる。前と後ろの襟の形や、袖の長さ、絞り型など、それぞれ何十通りもあり、選ばせてくれる。サリーのおしゃれも楽しいものだと思った。

待っている間は街を歩き、アンクレットを買ったりした。アンクレットは日本に売られているようなものとは違って、いかにごつくて派手かを決め手に選ぶ気がする。私が選んだものは、シルバーで鈴がごてっと付いている、いかにもインド舞踊に出てきそうなもので、しかもネジで締めて抜けないようにする、本格的なものだった。喜んでつけたまま外へ出たのはいいが、1分もしないうちに耐えられなくなって道ばたで外してしまったというオチ。歩くたびに固いアンクレットが足首をこすってイタイイタイ。無理。

戻って完成を待つ間、店の少年が、隣の露店から皆のチャーイを買ってきた。夕方はチャーイを飲むのが、インド人の習慣らしい。

いよいよ赤と白のサリーが完成したとき、私は彼らに対し感謝の気持ちで一杯。強引な依頼だったのに、一生懸命仕上げてくれたことを感じ、インド人は優しいというのは本当だと知った。

そのお店があった場所は、ストリート・チルドレンもまた密集したところだった。
学生時代その日暮らしの旅で、サンディエゴからティファナに入った時に初めて目にしたストリート・チルドレン達には、楽器の演奏や、歌や踊りなど、芸があった。(コインを渡したくても、そうするときりがなく何人も群がってくるのであげられないということを言われ、たまらない気持ちになった記憶がある。)でもチェンナイの子供達は違う。ただただ粘る。5ルピー硬貨1枚手に出来るまで、何キロだって服をつかんで追いかけてくる。生きる為の力をむき出しにしている表情。で、手にした瞬間、礼も言わず帰っていく。(そういえばインド人にはお礼を言う習慣はない。人のものも自分のものらしい。)

今夜は白い方を着よう。シェラトンの正面からオートに乗り込む様は、カボチャの馬車に乗るシンデレラのよう(言い過ぎ)。つくづく私アホと思いつつも、このサリー、高価なだけあって、自称お姫様にさせてしまうのだ。そんな気分で埃まみれの風だろうが心地よく受けていた。街に降りても裾を持って歩いてしまう。ただ現像したフィルムを取りに行っただけなのに。

でもシルクなだけあって周りの人に比べると本当によそ行き姿だった。

インドはとにかく埃っぽいらしい。コンタクトで行動すると一日中泣いています。ちなみに路肩はぼろぼろに崩れ、本当にスーツケースを転がすのは無理なところでした。

そのままシェラトン内のチャイナに入った。ちゃんとお箸は出てきた。

 

20日(木)のお会計
朝:機内食(ノンベジ、どうしてもカレー)UL、コロンボーチェンナイ
昼:A/C HALL
夜:ホテルの中華料理


第8日(チェンナイ)

2000年1月21日(金)快晴

今日は赤のサリー。(そういえば帰国後に写真を見てくれたトモダチがみんな、私のサリー姿があまりにハマっているとウケてくれて勝ち誇りました。)と世界一広い砂浜「マリーナ・ビーチ」へ。このビーチは夕方が綺麗で有名らしかったが、この日帰国につき、昼間に行った。砂浜にいるのに、はるか遠くにようやく海らしいものが見える程に、砂浜は広く、海岸まで続く道が長すぎる。両脇には露店が並んでいる。

この旅最初で最後にして変な人に声を掛けられた。フレンドリーなインド人の挨拶は普通”Where are you from”から始まるが、珍しくロン毛の、ブルーのシャツを着た彼、すぐに握手を求めてきた。バスじゃ男女が離れて座る程の国なのに?と違和感を覚えつつも手を差し出したが、やはり女の人には普通握手を求めないらしい。その後も歩く私たちの前をうろうろし、「なに。」って警戒したら、「や、別に!」と、去っていったそのインド人…。

直後に違う人に声を掛けられたが、ナーバスになっていた私たちは無視しようとした。でもその人は、あいつには近寄らない方がいい。って教えてくれたのだった。やっぱり基本は優しいインド人。後で見かけたらやっぱりロン毛は他の外国人に付きまとっていた。

優しかった人がもう一人いた。実はこの旅、現地の人に写真を撮ってもらえた写真はほとんどなかった。「ここ、押すだけだから。」って頼んでも、機械を怖がってしまう。カメラを知らないことにもショックを受けた私だった。諦めていた時、アイスクリームやさんがカートを引いてやってきて、撮ってあげるとのこと。しかも、アイスを買わせるわけでもなく、全くの親切心で。あたたかい。

街に戻る途中には、映画のポスターが貼られている。テレビ以上に、映画はインド人にとって重要な娯楽で、映画館にはいつでも信じられないほどの人数が群がっている。

大体同じ顔ぶれが主役らしい。北はヒンドゥー映画、南はタミル映画(ヒンドゥー語とタミル語の相互吹き替えで全国上映)。私は残念ながら観る時間がなかった。チェンナイはアメリカでいうハリウッドのようなものらしい。

CDショップはさすが、サントラだらけ。ちなみにCD屋というよりテープ屋、CDの普及率低し。中身が同じでもCDの方の値段は4_5倍。それでも私が買った洋楽CDは400Rs(約1000円)、日本より安い。テープの相場は100Rs。インド映画のテープも買った。75週連続上映(さすが映画大国、熱狂ぶりが違う。)の大ヒット映画「ムダルバン」。と、「NOW Indipop」ていうCDも買ってみた。映画音楽とは全く違う、インチキくさいポップ。そこがまたよし。いい買い物をした。

そして帰国。深夜、外の飛行場の明かりだけが射す空港内のレストランで夕食(バロータという、ナンより薄く粉っぽい、クレープみたいなものと、ミックスフライドライス、チキンヌードル、チキンビリヤニ、ラッシー、パイナップルジュース。)後、いっつんに御礼を言って別れ、また独りになり、再び現地人まみれになったが今度はすっかり慣れて平然と日記をつけていた私は、ゲートでいろんなことを考えた。この滞在中私はインド人から、ところどころで「必死で生きる」ことを教わっていたと思っていた。あの人達の目がぎらぎらしているのは、単なる人種の違いではなく、毎日が生きるために一生懸命だからだと思った。途上国ゆえに、いつどうなるか分からないような緊張感が備わっているのか。日本は何もかも充足していて、明日どうなるなんて考えないで、ただ何となく生きていくことができたり、楽しんでばかりいられるかも知れない。と、じじくさくもしみじみと考えていた。

自分の中にすっかりインドがしみこんでしまい、機内でもインド音楽の、絶え間なく甲高い歌声を聴かずにいられなかった。帰国後もインドを引きずり、埃の中にいたせいか、社会復帰後暫くの間、のど飴・のどスプレーを欠かせない喘息状態に冒された私だった。皆さん、検疫は忘れずに。

21日(金)のお会計
朝:ホテルのブッフェ(宿泊料に込み)
夜:Balota、Chicken Biriyani、Mixe Fried Rice、Rassi、Pineapple Juice、hicken Noodle 
※最後はゴチになったので、値段が分かりません。街のレストランより多少高めだと思います。
飛行機:MH181(チェンナイ0020-クアラルンプール0640), (クアラルンプール0845-成田1615) マレーシア航空


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