はじめまして
私は整形外科の開業医です。小さな診療所の中で看護師兼ボール運動の指導者である妻と二人で、じかに患者さん方に運動中心の保存的治療を行っております。
医師・看護師といったmedical stuffが、直接こうした運動療法に関わることはめずらしいことと思います。細分化の進んだ公的病院では、最初からcomedicalの専門スタッフが配置されているでしょうし、劣悪な労働環境の市中病院では、こうしたことをやろうとする気力も体力も残されてはいないはずだからです。
医療全般にわたって専門志向が増大している昨今、整形外科領域でも若手研修医の目標は、手術治療の習得が一番でしょうし、経験を積んだ後も診療スタイルは変わることなく続くのが一般的でしょうから、手術治療の対極にある保存療法は、整形外科全体の中ではかなり地味な存在のまま置かれることになります。
かく言う私も病院勤務医時代には、外科的発想を基礎として、手術志向の診療を中心に行ってきましたから、開業したとたん手術をしない治療スタイルに180度転換したからといって、頭の中から切り換えて全面的に保存療法に移行するという訳にはいきませんでした。開業までの準備期間も限られ、保存療法の知識も方法手段も乏しい状況下では、必然的に器械中心の物理療法に頼るしかありませんでした。
そうした状況で開業して最初の数年間が過ぎていきました。
整形外科の「生活習慣病」
保存療法の代表的疾患として、いわゆる「使い過ぎ症候群 overuse syndrome」があります。
例えばアスリートの関節障害や、職業人の腱鞘炎等々。状況は違っても、四肢の使い過ぎすなわち運動の量に原因であり、治療は安静を保つこと(すなわち運動の量を減らすこと)、そう患者さんには説明するのですが、これが正直言ってなかなか治らない。
使い過ぎが繰り返されるから、安静が保てないから治らない、という説明になるのですが、果たしてそうなのか。同じ作業をしていても症状の出る人と出ない人がいるし、使い過ぎていないはずの利き手ではない反対側に症状が出る場合もある。また仮に一旦治ったとしても同じことを繰り返してまた再発したとしたら・・少なくとも安静(運動の量を減らすこと)が根本的な解決策でないことだけは明らかです。
こうした患者さん方を観察していて、多くの人に共通することが2つあります。
第1に動作を行う際の基本姿勢がそもそも不良であるということ、第2に動作の仕方が非常に粗雑であるということ・・・不良姿勢と不良動作の2つです。
基本的な姿勢(脊椎)そのものが本来のポジションからずれているため、脊椎にくっついている手足(四肢)の振舞い方が、巧みな動作として行えなくなっているのです。当人は気づかないまま、痛みが必然的に出るように四肢を下手に操作している、という訳です。
もちろんこうした不具合はある日突然現れるものではなく、本人が1日の大半を過ごす家庭・学校・職場の中のごくありふれた日常生活動作の所々で生じた、澱のように微小でかつ瞬時に消え去る不具合の、積もり積もった結果であると考えられます。
そういう意味では、こうしたカラダの不具合をさしあたって「不良姿勢・不良動作症候群」あるいは「整形外科領域の生活習慣病」と呼んでもいいかもしれません。
現代人の大人から子どもまであらゆる年齢層に亘るカラダの不具合の総称です。実際、未来を担う子どもたちのカラダの状況は深刻です。大人たちがもはや良い手本を示すこともできないのですから、大人を模倣して成長する子どもたちのカラダにも、幼少期にすでに大人と同じ不良姿勢・不良動作が染みこんでしまっているのです。
精神の健全な発達にも少なからず影響を与えていることは想像に難くありません。
「使い過ぎ」という運動の量だけでなく運動の質も含めたトータルな運動の諸問題の解明が求められています。単なる使い過ぎあるいは不良生活習慣では済まされない、早期発見・早期治療が必要な重大な症候群と認識する必要があると考えます。
脊椎動物
私たちは人間ですが、人間である前に進化の系統樹では脊椎動物に属します。
脊椎動物であるという認識は、当たり前のことのようで実はわれわれのカラダを深く理解する上で大変重要なことです。
なぜなら生物を脊椎動物と無脊椎動物の二つに大別する分類学上の要請ばかりでなく、動物の運動の根幹に横たわる運動制御という運動学上の観点からも、極めて重要なポイントがそこにはあるからです。
それがベルンシュタインが発見した動物の運動の原理です。。整形外科医の端くれとして、多少なりともカラダと運動のことについて知っているつもりでいて、実はほとんど無知だったことを私に知らしめた、進化の時の流れの中で動物が獲得した運動の原理です。
では進化の時の中で動物たちは、どのようにしてこのようなカラダと運動、すなわち構造と機能を獲得してきたのでしょうか。
内骨格動物と外骨格動物
そもそも脊椎動物のカラダは、水圧や重力といった外力によって身体がペシャンコになることを防ぐためのフレーム(骨格)をカラダの中心に配置しその周囲に運動のエンジン(筋肉)を張りつける、といった構造です。
別名内骨格動物とも呼ばれる由縁です。
この仕組みは脊椎動物に、柔軟に動ける可能性を与えました。
しかし柔軟だから即、進化の初めから運動能力が優っているというわけにはいきませんでした。
むしろ運動素材の柔軟さは、運動制御の困難さを意味します。自由に動ける部分があまりにも多すぎると、かえって運動のコントロールが難しいのです。
このような内骨格動物と対照的なのが外骨格動物です。節足動物のように、フレームをカラダの外表面に装着し運動のエンジンを身体内部に配置した一群の動物たちです。ロボットの動きを見て分かるように、部品が単純であればあるほど(硬ければ硬いほど)、運動制御もより容易なものになります。
それでは一体どうやって脊椎動物(内骨格動物)は、運動制御の困難さを解決したのでしょうか。それがベルンシュタインの自由度の問題、後にベルンシュタイン問題と呼ばれることになる動物の運動制御の根幹に関わる重要問題です。
現代人のカラダに起こっている現象
・・・ヒトの昆虫化現象
ベルンシュタインは半世紀前、彼の啓蒙書「デクステリティ巧みさとその発達」において、長きにわたる進化の時の中、ようやく踏破された最高位の運動レベルであるレベルDの巧みな動作(デクステリティ)の本質と、それを達成した唯一の動物である人間を、賞賛しました。
しかし現実はどうでしょう。
衣服の下にプロテクターでも付けているかのように、まるでカブトムシにでも退行したかのように、いかにも手足を動かすのが億劫そうな人々。あるいは骨盤を後傾させ、あたかも原人に逆戻りしてしまったかのように、のそのそと歩く人々。
21世紀のこの美しいはずの日本において目の当たりにするのは、地面ぺたんこ座りの新人類は言うに及ばず、デクステリティを獲得して運動動作の頂点に立った動物とは到底思えない、こうした現代人のあまり美しくない立ち居振る舞いです
進化あるいは退化という時計の針はもっとゆるやかに進むものと思われていたのに、この数百〜数十年という単位で、ドラスティックな変化が我々のカラダに起こっているのです。
長きにわたる進化の中でようやく獲得した人間のカラダという財産を、わずか数世代という一瞬の間に、化石燃料を消費するのと同じように散財しようとしているのです。
動物は急な変化には敏感ですが、忍び込むように極微な変化には鈍感です。
現状維持できずに退行現象に陥ってしまった動物たちに待ち受けている未来は、絶滅しかありません。事は緊急事態と言っていいと思います。火災報知器が鳴りっぱなしの差し迫った状況なのです。
どうしてこのような状況になってしまったのでしょうか。ベルンシュタインのレベルDはいったいどうなってしまったのでしょうか。
昆虫化の原因
一臨床医として、運動の生理ではなく運動の病理を取り扱う立場から、ベルンシュタインの理論を振り返ると、レベルDの動作が保障されるためには、端的に言って、2つの要件が欠かせません。
第1にカラダが基本的に柔軟であること、第2に常に感覚と運動を協調させて巧みな動作を行う必要があるということです。
どちらか一方が欠けてもだめです。
カラダが柔軟さを失い硬くなれば当然巧みな動作は難しくなるでしょうし、逆に稚拙な動作しかできなければ(あるいはしなければ)、カラダは柔軟である存在理由を失って、どんどん硬くなっていくでしょう。
ホモ・シーデンスの外と内の状況
もう少し具体的に昆虫化の原因を考えていくと、ホモ・シーデンスとも別称されるわれわれ現代人のライフスタイルに行き着きます。
道具とともにレベルDの頂点に到達したわれわれ現代人は、自ら発明した椅子あるいはデスク周りという狭い空間の中で、他の動物にとってはおよそ考えられない、不自然な姿勢動作を長時間強いられています。
座位におけるパソコン作業を例にとってみましょう。
坐骨とは名ばかりの小さな支持面しか持たない座面の上に脊椎の柱を打ち立てて、椅子に正しく座るためには、 頚椎から腰椎にいたる全脊柱のアライメントももちろん重要ですが、それ自体小さく揺らぎながら、内外の大小の揺らぎを巧く吸収することのできる、言ってみればバランスを巧みに取る綱渡り人と同じしなやかさが、脊柱そのものに必要です。
しかしながら長時間の座位作業の中で、脊柱のしなやかさは徐々に失われていきます。正しいアライメントに戻ろうとするバランスも失われていきます。自己回復能力を失ってしまえば、もはや傾き始めた塔を引き戻すことは不可能です。骨盤は直立状態を保てず、腰椎カーブも崩れていくこととなります。
視覚優位あるいは視覚過剰の環境も不利な要因です。モニター画面に向かって視覚すなわち頭部がどうしても引きずり込まれていくのです。頚椎カーブも崩れていくこととなります。
キーボードには手指が引きずり込まれていきます。手指に連結する肩甲帯も前方に偏位することになります。肩甲帯は本来上肢の運動の出発点となるべき所なので、この出発点の位置のずれは、上肢全体の運動に影響を及ぼすことになり、結果として肩甲帯から指先に至る全体にわたって、骨格と運動の両方におかしなねじれが生じることになります。
じっと息をひそめた浅い呼吸をしながらの単調で長時間の作業は、本来の呼吸も忘れてしまいがちです。本来の呼吸とはほとんどの人が忘れていますが、母なる大海原の揺らぎのように、ゆったりとやさしくて深くて静かでそして懐かしい揺らぎです。脊柱を頚椎から骨盤に至るまで波打たせ、さらには上肢・下肢の四肢末端にまで心地よい揺らぎを伝えていくものなのです。この本来の呼吸による揺らぎがなくなれば、カラダはますます硬くなっていくのは当然でしょう。そもそも不良な脊柱アライメントでは、揺らぐことなど最初から困難なことであり、またこうした説明も理解困難なことかもしれません。
現代人のストレス
じっとしていられない小学生、突然キレル中高校生、うつの社会人等々、彼らの精神的背景としてよく言われるのがストレスですが、果たしてそうなのでしょうか。複雑な人間関係の現代社会にあっては、確かに純粋にストレスがそうした原因になっている可能性もあるのかもしれませんが、原因ではなく結果あるいは随伴症状としてのストレスを見ている場合も相当多いように思います。誰でもカラダが固まりかけてきたら生理的にじっとなどしていられないでしょう。爆発寸前の内部エネルギーが高騰した状況であるなら、些細なことで突然沸騰することも当然起こりうるでしょう。そうしたにっちもさっちもいかない心理状況に際して、同じ心理的アプローチがどれだけ有効なものなのか、素朴な疑問も湧いてきます。
整形外科の専門性
整形外科は個別の運動器を取り扱う診療科です。
自動車に例えて言うなら、フレームのひびの修理やタイヤの交換、といったことが主な任務です。
長距離の悪路をどうしたら故障なく最後まで走れるかとか、アイスバーンをいかに巧みに走れるかといったことは、本来専門外のことのはずなのですが、私自身多少運動が得意だったこともあってか、いつの頃からか運動器ばかりでなく運動の専門家でもあるかのような錯覚に陥っていました。
しかし運動はその動物(クライアント)の全体に関わる問題です。そしてなによりその動物(クライアント)の主体に関わる問題です。セラピスト自身がその運動できることと、クライアントにその運動を伝えられることは全くの別問題です。
ベルンシュタインの言葉を借りれば、「運動の手本を人に見せることはできても、運動の秘訣を手本で教えることはできない。なぜなら運動の秘訣は、特殊な身体動作にあるのではなく、特殊な感覚と調整にあるからだ」、ということです。
専門志向に対する反省として、全体的・ホリスティックな医療への関心が最近高まりつつあります。
整形外科の出発点として記念碑的な象徴であり、学会のシンボルマークにも採用されているAndryの木は、単純に朴訥とした雰囲気があって、私自身医者に成りたての頃からのお気に入りでもあったのですが、表面的な印象とは裏腹に、その意味するところ・その目指すところは相当深くて容易なものではない、ということが最近少し分かってきたような気がします。
運動療法の可能性
いくつかの偶然と必然が絡み合って、私たちが運動療法そしてその先の運動に関わるようになって10年近く経過しました。
日常診療の実践の中で、仮説と検証を繰り返しながら、私たちの診療スタイルもある程度まとまってきました。
当初の五里霧中の状況から、薄ぼんやりと周りの状況が分かるようにもなってきました。気がついたら先人と同じカラダの見方だったり(たとえばアレクサンダー・テクニーク)、いくつかのそうした視点・手技の私たち独自の組み合わせ方だったりしたことが、今になって分かってきました。
いずれにしても現時点ではっきりと言える事は、運動療法の想像以上の有効性です。
もちろん運動療法と呼ぶからには、運動を医学的にかつ個々人に合わせたテーラーメードで処方する必要があります。ただ闇雲に運動すれば良いというものではありませんが、こうした条件が満たされれば、運動療法には思った以上の効果が期待できるはずです。
また運動療法は、いわば最終手段である手術治療と異なり、予防医学の側面も強く持っています。
自覚症状が全くない人であっても、安心できません。早晩カラダの不具合が発生する前段階か、あるいはもっと深刻な状態、今そこにある危機を危機と認識できない程にカラダの感覚が麻痺している一種の末期状態と考えた方が良いケースも少なからずあります。人によっては当の本人から、カラダはいたって健康よけいなお世話だ、と怒られそうですが。 |