別府卓球物語.

川谷ユキ 柴田百門 河村義一 江藤博敏 河村建一 藤本賢治 佐藤利明 甲斐義和

第35回全国中学校卓球大会  男子団体決勝戦結果明豊 3−0 実践学園

2006.12.全日本卓球選手権ジュニアの部(高校2年生以下) 甲斐義和(明豊高)3位 江藤遼(明豊高)もベスト16

私とスポーツ」馬場隆司 県卓球連盟会長(歯科医)

1997年4月から1年に渡って地元紙に掲載され喝采を浴びた感動と涙、そしてユーモアと優しさに溢れた書。  ゼッケンNO. 0 (ゼロ) 大分県立図書館に貸し出し用の蔵書。


礒野博孝さん(別府市卓球連盟・副会長)のお宅を訪ね、、戦後の昭和20〜30年代の卓球資料を見せて頂きながらお話を伺った。礒野さんは第7回〜13回の国体へ出場された。以下は礒野さんのメッセージである。

英国のバーグマンとリーチ

別府で最初に世界卓球界のエースが登場したのは、英国のバーグマンとリーチでした。
昭和27年、北小学校(現別府トキハ)の講堂で開催されたエキビジションマッチに大観衆は酔いしれました。
当時、別府大分で体育館等はなく、蓮田小学校と北小学校の講堂が主な会場でした。

日本側代表として、藤井選手とカット打ちの名手林選手が帯同していました。全九州代表は地元鶴見丘OBの吉本正弘選手、熊本より西選手、長崎より日野選手らが出場して、大分県の卓球選手は世界の一流選手の試合を間近で見られ、別府の卓球熱もいっそう高まったのです。

藤井則和  s21 ミックスダブルス優勝、s21〜24全日本シングルス4連勝、s24男子ダブルス優勝、s26全日本シングルス優勝。
林 忠明  s23 全日本男子ダブルス優勝  s25 全日本シングルス優勝
藤井・林組 1952年 ボンベイ世界選手権で日本人初の優勝を成し遂げた。

バーグマン 1937 1939 1948 1950 世界卓球選手権4回の優勝  1939年はダブルスでも優勝
リーチ    1949 1951 世界卓球選手権優勝

吉本正弘  別府市役所勤務 強力なスマシュが持ち味。 相手コートで球が割れることたびたび。
西  選手  熊本鉄道管理局勤務 オールラウンドプレイヤーとして、全日本、全九州で活躍。  
日野 選手 昭和20年代ではめずらしいシェークハンド選手、長崎代表として活躍 


「週二回の練習。体力落ちて思うように動けませんが水曜と金曜の二時間を楽しみにしています 」礒野博孝 2007.2.1

  昭和26年当時の別府市卓球連盟の賞状
蓮田(はすだ)小学校の講堂
「別府の卓球を振り返る前に、日本に卓球が入ってきた歴史を振り返ってみたい。明治13年イギリスに生まれ一般に普及したのは明治30年頃、英国人ギップによってセルロイドボールが発案されてからである。当時英国に留学していた、坪井玄道氏が面白さにひかれて用具一式を日本に持ち帰り、この時期明治35年6月であったが、明治36年3月、12月に早くも第1回の大会が開かれた。明治39年には学生にも普及し慶応、早大、外大など卓球人口は増加の一途をたどった。

別府市卓球界の夜明けは蓮田(はすだ)小学校の講堂が原点である。鶴見丘の前身の別府中学の有志が浜脇でやっていたのを蓮田小に合流し、昭和25年大分県の大会で男女共に団体、個人に優勝して名実ともにその地位を不動のものとした。大分県の大会を不動のものとしたその後、全九州の大会をも二連覇を果たした。当時の二年生での連覇、翌年の三連覇は確実だった。ところが鶴見丘の校長(利田氏)が待ったをかけた。両方の出場は許さないどちらかを選べ。選手関係者は断腸の思いで全国大会へ、全九州の夢は県大会2位の鶴崎高へ。結果は共に悲しい結果でした。

県体の大分県の歴史をみても別府市が絶えず先行し、大分市が打倒別府で走った歴史です。其の中で大分市のその柴田百門氏が県の卓球界を今日にもたらしたものは大きい。今別府に鶴見丘に代わって新しい明豊の光がみえてきている。皆で応援したい。」  礒野博孝 2005.1.1

  レトロな表紙の昭和29年度全日本選手権冊子
 草創期   ピンポンから卓球へ (関東学生卓球連盟 創立50年記念誌による)


大正八年、東京日々新聞(現毎日新聞)が主催した東京連合大会が開かれたとき、三球クラブの千々和(宗大)が、ピンポンでは遊技的に聞こえるので何かよい名称はないものかと思案の末、野球、庭球にしても「球」という字を使っているのをみて、ピンポンも「卓」の上で行うので「卓球」がよかろうとみんなに相談したら、それは名案と大賛成。新聞社にも話したらピンポンなら四文字だが卓球なら二文字で済む、卓球大いに結構ということから玄関入り口の立て看板を「卓球」に書き換え、そのわきに小さくピンポンと仮名を振ったのがそもそも「卓球」の始まりだった。

ピンポンが日本へやってきたのは、明治35年(1902)今から101年前にさかのぼる。当時ロンドン留学中の下田次郎(東京女高師)、坪井玄道(東京高師)の両教授二人が帰朝土産にピンポンセットを持ち帰り、東京帝大横の美満津運動具店にコートを試作させて、同好の士に頒布したのがそもそものはじまりとなっている。ピンポンは東京の学生間に大いに流行った

 大分ではいつごろから流行るようになったのだろう。(大分県体育協会50年史によると)    


戦前、大正14年の東京で行った全国卓球人口調査によると、当時大分は卓球チーム数9、同好者300人、愛好者100人になっている。昭和2.3年頃大分市に卓球同好会が組織され、大分鉄道管理局、大分女子師範、富士紡、大分合同銀行、大分郵便局などの同好者が対抗試合をやっていたとある。昭和5年、県卓球連盟が正式に発足した。

大分県の名を全国にとどろかせたのは、昭和10年、第八回神宮大会に小幡アキ選手(四日市高女)が全日本ランク第4位に入ったのに続いて、翌11年の全日本選手権で、川谷ユキ選手(四日市高女)が優勝を遂げた。 同12年第6回全国学校対抗大会(東郷優勝旗争奪戦)に四日市高女が初優勝した。(渡辺、小幡、川谷、早田)、14,15年と連続優勝の偉業を達成した。(西原、大坪、上田、真辺、監督・菊池弘)全国大会で3回も全国優勝の記録を残した功績は県卓球史上に不滅の金字塔をたてた。

ちょうど別府市の河村義一が活躍したころである....



卓球の紹介
卓球が、スポーツとして行われるようになったのは、起源については諸説があるが、1898(明治31)年にイギリスのジェームス・ギップスがアメリカからセルロイド製ボールを持ち帰り、現在に近いプレーを行ったのが最初といわれている。
そのセルロイド製ボールを、打ったときに“ピンポン”と音がすることから、「ピンポン」の名称が生まれた。
卓球が日本に伝わったのは1902(明治35)年、坪井玄道氏が、ヨーロッパからピンポン用具を持ち帰ったのが最初である。
1921(大正10)年には、「大日本卓球協会」が組織され、同時に、ピンポンに代わって「テーブルテニス」の名称で呼ばれるようになり、後、「卓球」という呼称で知られるようになった。
卓球は、スポーツの中でも老若男女誰でもが楽しめるスポーツであり、国内での卓球人口は、800万人から、1000万人ともいわれ、生涯のスポーツとして飛躍が大いに期待されている。