創作 二十五歳の蹉跌 高森 繁

(1)

「あれっ? ああ! やっちまった」
 工事の遅れにイラつく現場監督の鬼瓦が
 「ひたすら掘り続けろ。ハカいったら、きょうの労賃、五割増しだ」
 ってハッパをかけるから、ツルハシを目いっぱい振り上げて掘りまくったら、トラブル勃発(ぼっぱつ)で作業はストップした。
 「カッキ~ン」
 渾身(こんしん)の一撃が、明らかに石ころのそれとは違う金属音を響かせると、 腰の高さまで掘り進んだ穴底の端っこ辺りから、みるみる間に水がわき出てくる。僕と相棒は 慌てて「ここか?」「そこだ!」と片足を泥水の中に突っ込み、必死に水道管の止血作戦に出たが、時すでに遅し。いや、人の靴底で穴がふさがるほど 、吹き出す水の圧力はヤワじゃなった。
 昭和四十七年春、人口規模は十六万人と、何か中途半端な北海道M市クズ鉄屋通り。昼飯もそこそこに済ませ、僕たちは社長が胸を張って名乗れという「地球整備士」稼業に汗していた。
 「ねじり鉢巻きに、ニッカポッカの地球整備士? 笑わせますよね」
 土をかき出す相方の声も上の空。(五割増し、五割増し)と欲丸出しの呪文を唱えながら、夢中で掘り続けていたら、水道管に穴をあけてしまった。 あふれ出る水の勢いの半端ないこと。あっという間に、穴ぼこに水はたまり、二、三分もしないうちに、車道にまで流れ出した。僕たちも、
 「やべえ、やべえ」
 と叫びながら、必死に泥水の海から脱出した。
 一番悪いのは「水道管あるぞ情報」を出さなかった鬼瓦だ。いや、やっこさん、はなっから地下埋設物調査をしていなかったかも。 ヒトのいい社長はどんだけ市役所に、断水被害の補償をしたのか、ご同情申しあげるばかりだ。

(2)

 水道管事件の二週間前、プー太郎生活二カ月目に突入した僕は下宿の布団の上で 仰向けになりながら、ズボンのポケットをまさぐっていた。最初から五円玉一個しか残っていない と知りつつも、ひょっとして奥の奥に折り畳まれた千円札がこっそり息を潜めているかも。
 (あるわけ、ねえよな。お先真っ暗だ。天井板も真っ黒だ。どうする)
 そう自問自答しているうちに、チャップリンの映画「ライムライト」の名せりふを思い出した。
 「人生に必要なものは『勇気』と『想像力』と『サムシングマネー』だ」
 勇気と想像力は、少しだけどある。けど、三つ目の「多少の蓄え」が底を突いたから万事休すだ。胃袋の中も、空っぽだ。
 「サワやん、何か食うもの、ないか~」
 歩いてニ、三分の学生下宿「水原荘」ニ階4号室。オスの三毛猫パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ を抱きかかえた夜間大学生のサワやんこと澤田清一君に、飢餓海峡航行中を訴えたら「素甘(すあま)、そこに」と、 テーブルの上に置かれた和菓子を指さした。
 僕は持参したミニサイズのマヨネーズをポケットから取り出し、キャップを外した。両手の指を総動員して、いざ、エア注入。 へこんだ容器をパンパンに膨らませて、再び蓋をして逆さまに立てた。
 「えっ! それかけるんですか」
 サワやんは、想定外の組み合わせに目を丸くした。
 四角形のモチモチした素甘の上に乗るマヨネーズはあくまでも調和を重んじ、脇役としてのフォルムを整えて正座しなければいけない。 それには、途切れ途切れの放出作業は御法度、一気に絞り出すのだ。
 プチョッ。
 (残量わずか)の警告音を残して、出てきた、出てきた。最強なる活動のエネルギー源。この黄色い流動体と薄紅色のたおやかな個体が 織りなす「マヨネ素甘」のビミョーな食感を舌先で確かめながら、僕は二日ぶりの食い物を喉の奥に押し込んだ。
 「学生課のアルバイト掲示板、見てきましょうか」
 髪も髭も伸び放題、収入ゼロの荒海を漂流する哀れな姿を見かねてか、救難ロープを投げてくれた。 ちょっと顎がしゃくれ気味で、井上陽水、いやサミー・デービス・Jr似のサワやんは、 大学の演劇サークル「泥」の副代表だ。僕が時々、裏方として通っている社会人劇団との合同公演で知り合った。
 一時間もたたないうちにサワやんは、大学事務棟から戻ってきた。
 「これ、いいんじゃないですか」
 渡されたメモには、「求む! 土工 経験不問 運転免許保持者優遇 日給即支払い可 丸一建設」と書かれている。
 「おおっ、助かる。行ってみる」
 えり好みする余裕はない。その足ですぐさま、雇ってくれそうな建設会社に向かった。
 

(3)

 顔も身なりも貧相だけれど、肉体労働に耐えそうな体つきと車の免許が幸いしてか、 翌日から丸一建設の地球整備士になった。労賃その日払いは何よりもの魅力だ。そして、水道管破損事故が起きた。 ただし、会社から追い出されはしなかった。責任は、あくまでも鬼瓦にあると、僕が強硬に主張したからだ。
 土方仕事で急場をしのぐ現金収入の道はできたが、溜まっている二カ月分の下宿代を、数日働いて一気に払うほどの 稼ぎではなかった。安宿に移るしかない。
 「本当に残りの家賃、持って来てくれるんだろうね」
 雲隠れを警戒してネチネチと念押しする大家のおばさんを、滞納分は分割して支払うからと何度も頭を下げて、早々に下宿を引き払い、所属する 社会人劇団の事務所に転がり込んだ。
 「岬」という、遠来の観光客に喜ばれそうな駅名の国鉄M線駅。その目と鼻の先にある劇団事務所は、築四十年以上の二階建て木造住宅の一階にある。 引っ越し早々、試しに外壁を軽く叩いたら、モルタルに小さなひびが入った。古さ、国宝級。
 生活空間は十畳和室の劇団事務所ではなく、裏玄関の台所隅にある半坪ほどの階段下。そこに解体工事現場から出るベニヤ板や角材を持ち込んで、簡易ベッドを こしらえた。窮屈だけど、我慢、我慢。昔からいう、庇(ひさし)を借りて母屋(おもや)を乗っ取るまで、そう時間はかからないはずだ。夜は確実に、僕が本丸のあるじになる。
 「家賃はロハ、と言いたいところだけど、まあ月ニ、三千円でも入れてもらえれば、劇団運営の足しにもなるし」
 妻子持ちの四十歳。国鉄のM駅改札係が本業の劇団代表は、本当にいい人だ。ちなみに隣の十二畳間は「女性解放同盟M支部」とかいう、コワーイ女たちの団体事務所。
 建物一階を劇団と共同で借りているが、国境の壁はふすまだけだ。簡単にそれは取り外せるが、暗黙の不可侵条約が横たわっている。

(4)

 「あの~、何か仕事ありませんか」
 丸一建設に雇われて一カ月たったころだった。夕暮れ間近の小雨の中、岬駅近くの老朽化した病院職員寮を解体していたら、 カウボーイハットをかぶり、リュックサックを背負った若い男が声をかけてきた。二十五歳の僕より二つ、三つ年下のよう。細面(ほそおもて) の目尻を上げた多少きつめの視線にちょっと警戒心がわいた。
 事情を聞くと、「北海道をあちこち旅していたら、カネがなくなって、二日間、水しか飲んでなくて」
 と、神妙な顔つきで同情を誘っている。これが、アカンコとの出会いだ。
 「この道をもうちょっと行くと、『かもめ』っていう食堂がある。そこでメシでも食って待ってな。 仕事終わったら、行くから」
 僕はポケットから気前よく千円札を取り出しアカンコに渡した。
 この日つけたニックネームは、奴が道東の阿寒湖出身だから。本人の話では、湖畔にある稼業の民芸品店で、 クマの木彫りなんかを作っていたそうだが、観光客の若いカップルが店前でじゃれ合うのを見ていたら、何やら アホくさくなって黙って家を飛び出し、放浪の旅に出たという。
 社長に話すと、
 「あ~、いいよ。明日から連れて来い」
 と、あっさり採用してくれた。僕同様、履歴書、保証人、面接いずれも不要。身元確認など、どこ吹く風で、 実に大らかな慈しみに満ちた寛容な時代だ。もっとも、使い物にならなければ即、お払い箱だから、そう甘くもない。

(5)

 劇団事務所は、僕とアカンコの管理人二人体制になった。
 「管理人? 笑わせるわよ、はっきり言って居候でしょ」
 劇団幹部の君代女史は、タバコの煙をプ~ッと吹きかけ、せせら笑いした。東京の演劇学校で 芝居を学んだが、プロの世界には行き損ねた三歳年上のアネさん。ちょっと美人系だが、怒ると相手が 男だろうが、女だろうが凄みを利かせて理詰めでくるから若輩者はグウの音も出ない。
 日曜日。仕事休みのきょうは、事務所で公演が迫ってきた芝居の小道具作りと、立て看板の制作日だ。 江戸時代の劇とあって、集まったみんなは自分の頭の形に沿って細い針金を格子状に組み、黒い梱包用 テープを梳(す)いて巻き付けている。テレビの時代劇で俳優がかぶる本物のカツラなんて、夢また夢 の貧乏劇団だから、内職仕事は仕方ない。
 役者が足りなくて目明し役を押し付けられた僕は、公演当日、肩まで伸びた髪の毛を巻き上げて即席チョンマゲに するつもりだ。

 「よう! 売れない役者諸君、仕事は進んでいるか」
 夕方になって、製鉄工場で働く同い年のサンコウタイ、本名・岩井芯太が裏玄関から入ってきた。背丈 百八十センチ越えの筋骨隆々ギョロ目男が、みんなの間を行ったり来たりして、ざれ言を繰り出しては一人で かってに笑っている。仕事が三交代勤務だから、そのままのあだ名が付いた。一見すると豪放磊落タイプだが、 僕は(意外と神経繊細な奴かも)と、にらんでいる。
 「さあ、ズラも大分出来たし、お先に」
 申し合わせたように、一人、また一人帰って行く。背中に「アホに付き合っておられん」と書いてあった。
 あたりが暗くなりはじめたころ、サワやんも来て、三人で立て看板の下絵描きに取りかかった。アカンコは 久々の現金を手に、昼から繁華街に吹かれて行って、まだ帰ってこない。多分パチンコ店で、稼いだ持ち金放出中だろう。

 「これですよ、これ。この投影機でパンフレットの原画フィルムをベニヤ板に映して、鉛筆で線をなぞって いけば作業効率は三倍、絵柄も文字もバッチリ正確!」
 サワやんが大学の研究室から拝借してきた光学機器を、自慢げに箱から取り出し見せてくれた。彼のことだ、「借用」の前に 「無断」の接頭ナントカが付く。
 明かりを消した部屋の白いふすまに、「劇団天地第9回公演 『一揆争乱』 公演日 〇〇・・」のパンフレット画像が、おぼろげに 映し出された。今までチラシ片手に、ベニヤ板にイラストや文字の輪郭を鉛筆で書き写すのは大変な作業だった。その重労働から 解放してくれる投影機の登場にサンコウタイは、
 「おっ、すげえ! 文明開化はここまで来たか」
 と感激しきりだったが、すぐに首を捻った。
 「近過ぎるな~。字や絵がでか過ぎてボヤけてる。これじゃベニヤ板に入りきらねえぞ。もっと離さないと」
 三人の視線は、自然と国境の向こう側に向けられた。きょうは日曜日。隣は今晩、会議も事務局作業もないはずだ。
 「誰も来ない! ウッ、シッ、シッ」
 僕がそおーっと、ふすま二枚を取り外すと、敵の領土にサンコウタイが抜き足差し足で慎重にベニヤ板を運んで、 向こう端の壁に立て掛けた。
 「お~、距離ピッタシ。今ピント合わせます」
 サワやんも手柄顔を見せてご満悦だ。
 ところが!
 表玄関のガラス戸が勢いよく開けられると、M支部の女戦士二人が僕たちを睨みつけて立っていた。
 「勝手に使わないでって、言ったっしょ!」
 間髪入れずメガネ女の金切り声が、飛んできた。一瞬、僕らは立ちすくんだ。
 (やばい、やばいぞー)
 暗いはずのM支部事務所のガラス戸に、ボワ~と怪しげな明かりが映っているのを見て、敵はただちに戦闘態勢に 入ったらしい。
 このまま領土奪還に踏み込んで来て、交戦状態に突入かと覚悟したら、「ピシャ」と荒々しく戸は閉められた。二人は 憤怒の塊を置き土産にして帰って行った。
 「ふん、いいじゃねえか。俺たちは使ったからって減るもんじゃあるめいしょ。だけど、あの ベレー帽のメガネ女、かなり勝ち気だったな」
 サンコウタイの強がりに同調して僕も、
 「こうなったら、あとは野となれ山となれだ。やっちまおう」
 と、看板作りを続行した。
 後日、この件は劇団の代表とアネさんが向こうの支部長に、一筆詫び状兼誓約書を書いて幕切れになったが、 話はまだ続く。
 僕らを一喝したM支部のサブリーダとサンコウタイが、あの事件をきっかけに付き合い始めたから驚き、桃の木だ。
 二人は街で偶然顔を合わせ、サンコウタイが、
 「あの時はどうも」
 って、下心見え見えに謝罪したのが、逆に気に入られたという。あんな女戦士のどこがいいのか、まったく理解に苦しむが、 サンコウタイはすっかり惚れ込み、一カ月もたたないうちに同棲を始めたから、世の中、なにがどう転ぶか、分からない。

(6)

 「おい、交番に近すぎねえか」
 「だけど、指令書じゃ、この辺が設置場所になってるぞ」
 「しゃ~あねえな。早くやるべ」
 劇団天地第9回公演の立て看板数枚を丸一建設の軽トラックに積んで、夜の設置作業に出かけた。 昼間は、まずい。無許可で電柱に看板を取り付けるんだから、警察に通報される可能性は十分にある。軽トラは、
 「あしたの日曜、友人の引っ越しに使いたいので」
 と温厚社長に頼んで、会社から持ってきた。
 「いいか、お巡り来たら、すぐに合図しろよ」
 見張り役のアカンコにクギを差し、腰の工具袋に入れた針金やペンチ、金槌を使って僕とサンコウタイは仕事に取かかった。

 「あんちゃんら、ナニすてんだ」
 金槌の音を響かせて間もなく、作業着姿の酔っぱらいの中年男が、あっちにヨロヨロ、こっちにヨロヨロしながら近付いてきた。
 「え~っと、頼まれたんです。看板取り付け。何だか、僕たちもよくは知らないんですけどね」
 どう答えようかと迷っている僕に代わって、サンコウタイが、請負仕事であることを強調し、追っ払おうとしている。
 僕は(この酔っぱらい、絡んでくるんじゃねぇか)と踏んだ。そして的中した。同業者らしい東北訛りのオヤジは、
 「なんだあ、なにゃ~。天地? 天地がひっくりけえる芝居けぇ~」
 外灯に浮かび上がる看板の文字に目を凝らし、立ち去ろうとしない。
 「おじさん、危ないから、離れてくれない。もうちょっとで終わるから」
 と、サンコウタイが追い払おうとしたら、
 「なにゃ~、俺に文句あんがっ! 若造が。てめえら、怪しいな~、こんな夜ふけによ~」
 「おじさん、違いますよ、違います」
 「ますます、ウイッック! 怪しいぞ~。お前ら、ひょうっとして天地をひっくり返すようなことをする、 カ、ゲ、キ、ハ、かあ? お巡りさんに、言っちゃろ~」
 と、捨てぜりふを残して、交番の方にヨタヨタ歩き出した。
 「やばい! 来るぞ。このへんで、引き揚げるぞ」
 「なあ~に、お巡りもあんな酔っぱらい、相手にしないさ。もうちょい。針金締めるから」
 たかをくくっていたら、「来ました」と、震える声でアカンコが合図した。
 軽トラは念のため、少し離れた裏通りに停めてある。急いで針金や道具を工具袋にしまい込んでテッシュウ~。
 「ちょっと、キミたちー」
 二十メートルほど後ろから、呼び止めようとするお巡りさんのカン高い声を振り切って、僕たちは足早に駅前通りから、シャッターを 下した八百屋の角を曲がった。走ってはいけない。走り出すと、ますます不審者とおぼしき靴音が高鳴り、赤いランプを回転させた パトちゃんがすぐに来る。
 何度か右に曲がったり、左に折れたりして、やっと軽トラを置いた場所に生還した。
 息を切らしながら、運転席のドアに手をかけた瞬間、
 「おい、あんたら、なんで逃げるんだ」
 上ずった声が背後で響いた。建物の陰から外灯の下に現れたのは、若い制服警官だった。
 (どひゃー! 先回りされていた)
 立ちすくむ僕の胸に早鐘が打ち鳴らされ、真夏というのに冷や汗がタラ~リ、額に流れた。
 「えっ? ええ~っと」
 声を詰まらせ戸惑う僕を標的にして、
 「このトラック、あんたのものか」
 と、疑わしげな口調で聞いてきた。明らかに不審者に対する職務質問だ。
 「いや、会社のものです」
 すると懐中電灯の光をトラックの荷台に向け、横のあおりをのぞき込んだ。
 「丸一建設? こんな時間に何してんだ」
 すっかり、尋問口調だ。
 「頼まれ仕事で、看板の取り付けを、よ、よ、夜しか時間がとれなくて」
 やばい、どもり始めた。
 「免許証、見せてくれない」
 こりゃ、素直に従うしかない。作業服の胸ポケットから免許証を取り出して、見せようとしたら、
 「俺たち、何か悪いことをしたんですか?」
 と、サンコウタイが反撃のノロシを上げた。背丈が頭二つ違う長身男の、突然の野太い抗議の声に、若いお巡りはビクッとしたように見えた。さっきから、声も ちょっと裏返っている。ひよっとして、交番配属一年目の新米か? 押せ、押せ、ノッポ。
 「いや、そういうわけでじゃないんだけどね。一応、確認のために・・・」
 と、若い警察官が半歩後退した。
 「なんか、おかしかったら明日、ここに電話して確かめたらいいじゃないですか」
 サンコウタイが丸一建設の電話番号を指さし、開き直りの援護射撃に出た。こいつ、こんなに 頭、良かったっけ?
 結局、若いお巡りは車輛ナンバーや僕の免許証番号、氏名などを携帯無線で問い合わせた後、会社の電話番号を書き留め、無罪放免してくれた。
 別に過激派の看板というわけでもなし、むしろ地域文化の向上に一役買っているのに、何で設置作業でコソコソしなけりゃならないんだ? 後日、君代女史に話すと、
 「ばかね~、ポスターやパンフレット、会場費だけでも予算ぎりぎり。入場料三百円で、電力会社に払う看板広告代、出てくる訳ないっしょ」
 って、一蹴された。

 「おい、サツのお世話になりそうなことは、あんまりするなよ」
 職務質問された翌日の夕方、作業現場から会社に戻ると、いつもは温厚な社長が僕を呼び寄せ、 眉間にしわを寄せながら耳元でささやいた。会社に、あの警察官から電話があったな。ここは従順なろ シモベに徹するのみ。僕は、役者たちの演技を見て、少しは身につけた愛想笑いを浮かべて、
 「すみません。これから気をつけます」と、しおらしげに答えた。

(7)

 「はい、そこまで」
 演出担当の佐藤正男さんがパンと両手を打ち鳴らし、立ち稽古終了の合図を出した。
 我慢していたトイレに急行—と、その他大勢役が座るガヤ席を離れ、稽古場の入り口まで来たとき、主役の雪子が立ちはだかった。
 「あんた、わざと私の胸、触ったっしょ!」
 目をつり上げて、詰め寄ってきた。とっさに、
 「えっ、何のことだよ」
 と言い返すと、僕が雪子を羽交い絞めする場面で、彼女のおっぱいを両手でつかんだという。 素直に認めて謝罪せよと、迫ってきた。
 「いや、いや、触ってないって。勘違いだよ、妄想だよ」
 と反論すると、彼女はいっそう顔をこわばらせて、正男さんの元へ駆け寄った。そして、こっちを指さしてオヨヨと泣き崩れた。 最後の「妄想」にショックを受けたのか。それにしても、泣きのしぐさが迫真もの。みんなが僕の方を疑わし気な目で見ていたが、 あの女、本当は泣いてなんかいなかった。目のまわりのアイシャドーが崩れていないもの。さすが、看板を張るだけあって、演技はピカいちだ。
 三十に手が届きそうな独身OLだが、近付くと色気ムンムン。若い男を前にすると、しきりに髪をかき上げながら、猫なで声で接近する。下心はみえみえだ。 でも、僕にだけは、いつも冷ややかな態度を見せる。(日雇い男、眼中になし)と言いたげに、明らかに見下している。
 トイレから戻ると、サンコウタイが、
 「お前、本当はつかんだろう。あの豊満な乳房をよ~。素直に吐けよ」
 と、ニヤニヤしながら自白を強要している。
 目明し役の僕が、「逃げるな! 女」
 と、叫びながら、雪子を捕まえるシーン。実を言うとと、芝居はド素人だけにそうした演技でも、体育会系ゆえの本気モードに入っちゃうのだ。
 背後から雪子の両腕を下から抱え込む、その形が決まるまでのほんの一瞬、無我夢中でおっぱいまで両手が伸びた・・かもしれない。おまけに、 ブラジャーをしていなかったような気もする。こうなりゃ、とぼけを決め込むまでだ。
 その後、「一揆争乱」の台本は書き直され、雪子を追いかけて羽交い絞めする場面は全部削除された。 僕が登場するのは、そこ一ケ所だけ。まともなカツラもつけない十手持ちを出させるのはいかがなものか、と横やりも入って、舞台から下ろされた。
 なるほど、うそっぱちでも、女の涙は武器になる。

 オヨヨ事件から一週間たった日曜日、事務所の裏玄関が勢いよく開けられると、サワやんがせわしなく部屋に飛び込んできて、
 「僕、きょう誕生日なんです」
 と、鼻息を荒くして満面の笑みを浮かべた。夜、七時は過ぎている。電気ポットでお湯を沸かして、即席ラーメンをその中にぶっこみ、 晩飯代わりにしようかと、準備していたところを急襲された。
 「サワやん、人間、生きていれば誕生日は一年に一回、必ずやって来るものだ」
 と、毒にも薬にもならない返答をすると、
 「まあ、そうですがねぇ・・」
 と、期待に反したのか、ちょっと口をとがらせた。その空気を察して、
 「これで、ワンカップとソーセージ、サンマの缶詰、買ってきて。サワやんの誕生パーティーだ」
 千円札二枚をアカンコに渡して、買い出しを頼んだ。近くの酒屋は、まだ開いているはずだ。
 道南の小さな町の出身で、二浪の末、このM市の国立大学に入学した澤田君は二十三歳。たまに議論をふっかてきて、 相手をへこまそうと意気込む理屈屋タイプの演劇学生だ。でも、
 「長万部駅のアナウンス、よく聞くと『お茶、飲んべ~、お茶、飲んべ~』って言ってるんです」
 と、ダジャレで笑わそうとするから面白い一面もある。かと思うと、
 「サミュエル・ベケットの芝居『ゴドーを待ちながら』。あのゴドーって、誰のことか、分かりますか」
 と、難問を出すから、意外と手強い。

(8)

 「会社側か、真に働く者の側か、すぐ分かっちゃうんだ」
 劇団の演出担当で下請け企業の鉄工場に勤務する正男さんが、公演打ち上げの二次会 でコップ酒片手にボヤいた。
 安居酒屋「鳥膳」の店内は、工場から吐き出された交替勤務明けの労働者で大にぎわいだ。
 老いも若きも、まずは受け皿にも溢れ出た日本酒の「盛っきり」を前に目尻を下げる。そして、すぼめた唇をそ~っと コップの縁に持っていき、ひと口すすると序盤戦終了。次は受け皿に待機するオマケの液体を、持ち上げたコップに慎重に移し終えると 酒盛りの第一ラウンド開始だ。洋辛子を添えた四角い皿の上には、玉ネギを挟んだ串刺しの焼き豚が並ぶ。長年これを「焼き鳥」と呼ぶことに、M市民は 、何の違和感も覚えない。
 カウンターに並んで座った正男さんは、「どこかに耳あり」と、後ろを一度見回した後、小声で労働組合の役員選挙のやり方が汚い、と僕に明かした。
 「投票場所は入構門なわけよ。そこに小学校で使うような小さな机が置かれているんだ。投票用紙には、 会社側の三役候補の名前が上半分に、下半分には会社にモノ申す少数派の候補者の名前が印刷されているんだ」
 正男さんが言うには、机の広さは投票用紙の半分くらいしかない。守衛が横から見ていて、鉛筆で上の方にマルをつけたか、投票用紙をずらして 下の候補にマルをつけたか、バッチリ見ているのだという。守衛の背後には、会社の幹部も立っているとか。  「え~、それっ、何ていうの、何て~の、カンシ! ケンエツ!」
 僕が素っ頓狂な声をあげると、正男さんは「シィー」と人差し指を口元に近づけ、周囲を窺った。
 時代は、まだまだ高度経済成長期。夜のネオン街は工場労働者や建設作業員、外国航路の船員、港湾労働者などで肩がぶつかり合うほど、それゆけドンドンの 浮き世絵巻が繰り広げられている。言い換えるなら「立て、万国の労働者~」なるインターナショナルの叫びは、しぼみつつあり、真っ向から企業に要求を突きつける 従業員は迫害の坂道を転がりつつあるらしい。
 それでも、細身の正男さんは、
 「民衆の喜び、悲しみ、怒りなどを偽りなく表現し、生きる糧となり、明日への希望となる演劇創造に努める」
 と、稽古前に劇団目標を大声で唱和する。役者名は、見たまんまの骨皮筋ヱ門。栄養失調かと疑う体のどこから、そんな闘魂パワーは出てくるのかと、僕はいつも 感心していた。
 でも、結構背丈のある筋ヱ門さんが机に覆い被さるようにして、必死にどちら側の候補にマルをつけたか、周囲から分からないように鉛筆を動かす姿を想像しているうちに、 (頭隠して尻隠さず、じゃねえの)と、思わず吹き出した。それを察してか、
 「キミィ~、そこは笑うとこじゃないよ」
 と言いつつ、自分でも笑いをこらえていた。
 真顔に戻った正男さんは、
 「君は『夜と霧』という本を読んだことがあるか」
 と、問い掛けた。
 (いいえ)と言う前に、
 「人は置かれた環境や状況によって、善人にも極悪人にもなれる」
 と、自分に言い聞かせるように、つぶやいた。
 正男さんの言わんとするところを消化不良にしたまま、その夜は別れたが、 「極悪人になる」じゃなくて「なれる」という結びのフレーズが、なぜか耳にこびり付いた。
 後日、「夜と霧」は第二次世界大戦が終わった翌年、オーストリアのユダヤ人精神科医が ナチスの強制収容所体験も基に書きつづった本だと知った。M市の中央街にある古本屋店主のウンチク翁 から「夜と霧」を格安で売ってもらい、早速読んでみたが、ム、ム、難しい。
 劇団の代表は稽古前の演技指導に熱が入ってくると、口を酸っぱくして、こう言う。
 「台本に書かれているセリフやト書きを十分咀嚼(そしゃく)すること。咀嚼とは、食べ物をよく噛み砕き呑み込む こと。台本も一字一句の意味をしっかりおさえて自分のものにする。これが大事なんだ」
 でも読解力貧弱な僕に、それを求められても無理な話だ。それと同様に「夜と霧」は咀嚼不能だった。まだ、青い・・証拠か。
 ただし、本の中で一カ所だけ、記憶に残る場面がある。
 「ガラスの破片でも何でもいい。それを使って、とにかく髭をそれ」
 と収容所の先輩から、ひそかにアドバイスされるところだ。ドイツ兵から、 髭面は即、強制労働には耐えられない病弱者と見なされ、たちまちガス室に 送られるからだ。
 読み終わった翌日から、僕も出来るだけ髭をそるようにした。

(9)

 「企業城下町」という、よく意味の分からないレッテルが張られたマチで、風に吹かれて 揺れるちっぽけな一人の男、つまり僕が生きている。
 地球整備士稼業で疲労困ぱいした肉体を、カップ酒の泉の沈めて「きょうの仕事はつらかった~」と 歌いながら、明日が見えない青春をさまよい、夢の中に埋没する。そんな、やけっぱちな、きのう、今日 を生きている身だが、こいつは何者だという奴と出会うこともある。
 製鉄工場の煙突から吐き出される赤茶けた鉄粉と、国鉄M線のSLがまき散らす黒煙が頭上で狂喜乱舞 するから、いつしか通りの名前が「九条」から「苦情」に変わった石畳の商店街ロード。そのド真ん中を末吉君が行く。 劇団「天地」と交流のある学生演劇サークル「泥」の代表、末吉敏邦君だ。合同公演の練習日。夕暮れの坂道を哲学者風の ヨロイをまとって、坂の上にある青年センターを目指している。その後ろ姿を追って横に並び、
 「やあ、元気か」
 と声を掛けた。
 末吉君も「水原荘」に下宿しているが、ひょうきんなサワやんとは対照的に、いつも沈着冷静だ。身長百七十センチ前後の 中肉中背。普段は口を真一文字に結び、芝居が始まると、よく通る声で堂々と演技する堅物役者だが、その甘いマスクからか、 劇団の看護学校生やOLの何人かは胸キュンキュンだ。
 「末吉君は卒業したら、どこに就職するんだい」
 何気ない質問に、
 「上京して、舞台俳優になります」
 と、きっぱり答えた。
 プロの世界がどんなものなのか、まったく想像がつかない。東京からすると北海道の片田舎にすぎないM市から出てきて、生き馬の 目を抜く大都会でスターの座に這い上がり年収ガッポリ組になるのか、それとも芸能界のご贔屓(ひいき)をつかめず 浮き草稼業で終わる組か。相反する将来を思い描いたが、やはりこいつはいつか大物になる、そんな気がした。
 未来に夢がある末吉君に比べたら、穴を掘り続ける僕のモグラ人生、トンネルの出口がまだ見えないから、何ともつらい。

(10)

 青年センターの会議室で、次の公演に向けた作品の読み合わせが始まろうとしていた。 テーブルの上には、インクの匂いが残る台本が並べられ、役者連中は早速、丈夫な糸ひもで綴じられた、 ガリ版刷りの分厚いシナリオをめくり始めた。
 隣で自分の出番あたりのページに目を通していたサンコウタイが、
 「これ、何て読むんだ」
 と、肘で突っついた。奴のセリフの前に、主人公の劇団代表が言い放つ言葉が書かれている。
 「俺たちの、青春の蹉跌だった」
 蹉跌?
 言葉に詰まった。「青春の」に続く漢字の読み方が分からない。鉄筆を握った物知り顔の誰かが (お前らには読めねえだろう)と意地悪したのか、カッコ書きのルビが省略されている。
 だけど、ひらめいた。中学校の国語の授業で、先生が「同じ篇(へん)が続く二字熟語は、右側のつくりを音読みするといい」 と言っていたのを思い出した。
 (「差」の次は「失」か)
 「青春のサシツだよ」
 得意顔で答えてみたものの、(サシツって何だ?)と、僕自身、ますます、何の意味か分からなくなった。
 そう言えば、前回の公演一週間前、地元紙M日報学芸課の男性記者が取材で稽古場に来たときのことだ。 いかにも頭脳明晰(めいせき)、知識豊富そうな黒縁メガネの記者から、若い裏方ということでインタビューされた。
 「最後に君の信条は?」
 と訊かれ、
 「コダカの精神です」
 と胸を張ったら、記者さんは、
 「コダカ?」
 と口にして、思案した。そして、
 「それ、『ココウ』じゃない。漢字で書くとこれ」
 取材用のメモ帳に書かれた「孤高」の二文字を見せられ、赤っ恥をかいたことがあった。
 「サシツ? サシツって、何よ。どんな意味だ」
 サンコウタイは追及の手をゆるめない。弱った。
 「それ、サテツです」
 すぐ隣に座る博学の末吉君が、軽く言ってのけた。彼にアッサリ言われ、僕はバッサリ、斬られた。
 「サテツって、鳴り砂海岸にある、踏むとキュッキュって音が出るあの砂のことか?」
 「いや、蹉も跌も『つまずく』という意味です。足を踏み外すというか。最近発売された『青春の蹉跌』っていう小説、ご存じですか」
 僕もサンコウタイも自信をもって、首を横に振った。

 「『青春の蹉跌』? あるよ」
 数日後、東大文学部卒のウンチク翁が、文庫本コーナーから石川達三という作家の「青春の蹉跌」を抜き出し、
 「百円にまけてあげる」
 と手渡した。
 読んでみた。そして、あらすじをサコウタイに教えた。
 「主人公の青年が、愛してもいないのに妊娠させた女。実はその女が宿したのは、別に付き合っていた男性の子だった。でも 主人公が勘違いして女を殺し、最後は警察にバレて御用、というのがストーリーだ。 若者のたくらみの挫折がテーマらしい」
 「もう、いい。よく分かんねえけど、簡単にいえば女をめぐる失敗ということだな。俺には関係ねえけどよ」
 「そう言えば、そうかもな」
 サンコウタイ流の単純解釈に、何か釈然としなかったが、まあ、そんなところか。

 小説ほど深刻じゃないけれど、振り返れば、僕にも小さな蹉跌がいくつかある。二つ目の会社に就職して半年余り過ぎた ころだ。天下りしてきて、ろくに仕事もしないでふんぞり返っている上司が許せなくて、退職届をたたきつけた。親や友達 が止めるのも聞かず。
 後から考えれば、あれも若気の至り、プー太郎生活に陥る青春の蹉跌だったのかもしれない。

(11)

 劇団のちょっと時期遅れのサマー・キャンプ。M市の隣町にある人造湖の湖畔にテントを張り、 キャンプ・ファイアーを囲んで即興の朗読劇を披露する劇団天地の研修を兼ねた夏の恒例イベントだ。 もちろん、口から出任せのにわか劇が終わると、キャスト、スタッフ入り乱れ、飲めや歌えのドンチャン 騒ぎの第ニ幕が上がる。
 「こいつは、うめぇ~。ウイスキーはジョニクロに限る」
 普段飲めない高級な液体をぐいぐい流し込んでいるうちに、かなり酔っぱらってきた。星をちりばめた 漆黒の夜空も、ゆっくり回り始めている。酔いを覚まそうと、焚き火を囲む団員の群から離れて、僕は薄暗い 闇の岸辺に腰を下ろし、仰向けになって夜空を見上げた。
 (ん? 誰かいる)
 ものの一分もしないうちに、数メートル離れた草むらで同じように仰向けになっているヒトの気配を察した。 そして目を凝らした。
 (女だ。えっ! 恵美子か?)
 遠火の明かりが、うっすらと女の顔を浮かび上がらせた。間違いなく、想いを寄せている村木恵美子が、そこにいた。 三つ年下の劇団メンバーで、地元のデパートで働いている。雪子のように、とびっきりの美人じゃないが、いつも、うつむき加減に、 控えめに人と接するところが好きだ。文学少女的な雰囲気もいい。
 地味なTシャツを着て、下はキュロットスカート。劇団の女たちの中では実に質素なスタイルの、おかっぱ頭のマドンナが、 すぐ傍(そば)にいる。しかし、眠っているのか、起きているのか、分からない。
 どこから、そんな勇気が湧いたのだろう。
 「破廉恥なことはするな」という自制心に、「チャンス到来、敵前上陸だ」という戦闘心がうち勝って、ついに僕は ホフク前進で足元から這い寄り、真上からそぉ~っと唇を重ねた。
 「何するのよ!」と、突き飛ばされるのを覚悟したが、最悪のシナリオは消去され、恵美子は黙って僕の口づけを受け入れた。
 甘い薫りがしたのか、しなかったのか、何しろ心臓バクバク、ファーストキスの味はついに分からなかった。
 (次は双丘占領)
 あまり豊かとは言えない胸の上に、手を伸ばし掛けて躊躇(ちゅうちょ)した。
 (ん? いいのか、それともダメなのか)
 結局、それ以上の行為には及ばなかった。恵美子が起きていることは、乱れ気味のかすかな息づかいから、分かっている。 しかし、僕の首に腕を回すわけでもなく、身を捩らせるでもなく、仰向けのまま目を閉じている恵美子の真意が分からないからだ。
 二人の間に気まずい沈黙が流れた後、彼女はゆっくり起き上がり、「星がきれいね」
 と、ひとこと残して、焚き火の方へ何事もなかったかのように歩いていった。 ちょっと妖しげなシルエットが小さくなるのを見届けて、僕は(この次は、正々堂々と交際を 申し込もう)と心に誓った。

(12)

 両親の承諾を得て、正式に結婚式を挙げようという土壇場になって、サンコウタイの彼女は、東京から来た 女性解放同盟の顧問で大学講師の中年男性のトリコになり、行方をくらました。おそらく、華の都行き片道切符を 握りしめて。
 「あいつの勝ち気なところが、好きになっちゃってよ。メガネを外すと、これが美人でな」
 と、あの女にどっぷり溺れていたサンコウタイだったが、同じ職場で働く劇団メンバーが言うには、
 「女は男に縛られない。これが解放同盟のテーゼ。あんた、意外と封建的でしつこいのよ」
 と、三くだり半を突きつけられたという。惚れた勝ち気が、あらぬ方向に彼女を走らせた。
 よほどショックが大きかったのか、この一週間、工場を休んでいるという。もちろん、 芝居の稽古にも出てこない。二人で二カ月ほど暮らした蜜月アパートの一室も引き払い、実家に引きこもった。
 奴を励まそうと、日曜日にアカンコと一緒に一升瓶を持って会いに行ったが、
 「誰にも、会いたくないそうで・・」
 と、おふくろさんもしおれた声で面会謝絶の断りを入れた。

 その一週間後、今までの人生で最大級、いや、二番目に大きなショッキングなことが起きた。
 「え! サワやんが死んだ?」
 (冗談よせよ)と言いかけて、憔悴しきった末吉君の顔を前に言葉をのみ込んだ。 あれだけ元気だった澤田君の急逝を、作業現場まで来て伝えてくれた。死因は先天性の心臓病。
 「実はあいつ、六歳のとき心臓に重い病気が見つかって、札幌の大学病院で有名なW教授の手術を受け、 成功はしたんですが、はたちまで生き延びれるか、保証はできないと宣告されていたんです」
 何か、過去の暗い秘密でも明かすように、末吉君は申し訳なさそうに言葉を選びながら話してくれた。 このあいだまで、サワやんが難病の持ち主だったことを知らなかったことに、僕も何か後ろめたさを感じた。
 (それで、二十三歳の誕生日をあれだけ喜んでいたのか。それを知っていれば、もっと盛大に祝ってやったのに。 後悔、先に立たずか)
 およそ、葬式の参列者に似つかわしくない粗末な服装だったが、僕はサワやんの柩(ひつぎ)を乗せた葬儀社のバスに乗って、 故郷から出てきた遺族らとともに、山のふもとにあるM市の火葬場に行った。

 「それでは、これが最後のお別れです」
 ゴォ~と釜の炎がうなりを上げて、サワやんの、二十三年間にわたる人生の何もかも焼き尽くそうとしている。
 (あっけねえな~。ヒトの一生って、こんな、もんかよ)
 外に出ると、木立の中で蝉たちが羽を振るわせ、一瞬の夏を謳歌していた。地上に生まれ出て、残り一週間ほどの 命をまっとうしようと。
 見上げると、昆虫合唱団の葬送曲に乗って、サワやんは高い煙突から立ち上る灰色の煙とともに天国に旅立った。 白木の箱に、ついこの間まで存在した証(あかし)を残して。

 サワやんの死に続いて、秋には悲報の第ニ弾が届いた。
 恵美子がお嫁に行くという。相手は三十歳手前の銀行マンとか。父親も、同じ銀行の重役らしい。
 「えみちゃんの家、鮮魚店だけど商売うまくいってないみたい。 銀行のテコ入れが必要でね。両親が縁談話を早くまとめたかったのよ」
 恵美子の女友達が、こっそり教えてくれた。
 「『劇団に好きな人がいる』って、両親に打ち明けたんだけど、あなたのことを聞いたお父さんは『どこの馬の骨か分からん 日雇いのプー太郎に、大事な一人娘をやれるか!』って、すごい剣幕だったんだって」
 どこの馬の骨か。先祖の系譜など、どこにも見当たらない貧しい家の出だけど、どこかの馬の骨であることは間違いない。 現にここに生きているんだから、失礼な話だ。
 マドンナは劇団も辞め、家族のために嫁いで行く。収入を比べると、足元にも及ばない男のもとへ。

 独り工事現場近くの川縁に座り、免許証入れから恵美子の写真を取り出した。サマー・キャンプの広場に集まった役者連中の端っこに立ち、カメラに笑顔を 向ける彼女だけをハサミで切り抜き、ずっとお守り代わりにしていた。
 「星がきれいね」
 あの夜の、恋の始まりを予感させるひとことが、浮かんでは消える。今も僕にささやいているような唇あたりを、 指でなぞっているうちに涙でぼやけた。
 「おしまいだね」
 写真を千切って水に浮かべると、ひと夏の思い出のきれぎれが流れに揉まれながら消えて行った。

(13)

 九月の終わりの鳴り砂海岸。クジラ半島のゴツゴツした岩肌を鈍い朱色に染めて、 夕陽が沈んでいく。
 海を見つめる僕の隣には、サンコウタイが座っている。苦情通りでばったり顔を合わせ、いやがるのを 無理矢理引っ張ってきた。途中、酒屋で瓶ビール三本とつまみを買って。
 サワやんの死から二カ月近く過ぎた。そして恵美子との別れ。いや、そんな親密な仲まで行かなかったんだから、 正しくは千切れた片想いのフィナーレだ。あれから二週間ー。
 もうひとつ。土方仕事の労賃がたまったからか、それともパチンコでひと山当てたのか、アカンコがきのう 「お世話になりました」と頭を下げ、再び風の人になった。奴の本名は白樺一郎(と、本人が言っていた)。 何か、演歌歌手の芸名みたいで、もしかしたら、盗みでもやらかして、偽名で通そうとしたのかも知れない。 でも、いいのだ。ウソだろうが、本当だろうが、僕にとっていい奴だったから、それでいいんだ。

 (「サヨナラだけが人生さ」って誰か言ってたな。また、独りになった。いや? まだサンコウタイがいるか)

 (「僕たちの青春の蹉跌」エピローグ)
 ■ 祭壇らしきオブジェの前に、大学生の遺影がゆっくりと下りてくる。蝉しぐれ、フェードイン。
 ■ ベレー帽のメガネ女と中年男は、腕を組み、弾むような足取りで上手(かみて)にハケる。けたたましい駅ホームの発車ベルの音。
 ■ 二重の上に立つギョロ目男、がっくり両膝を落として、突っ伏す。ロアーホリゾントは 青から鮮烈な赤に変わる。
 ■ 紳士面した男を、おかっぱ頭の娘がためらい気味に追い、二人とも下手(しもて)にハケる。マイナー調に アレンジした「結婚行進曲」が重なる。
 ■ サスの下にヒッピー風の若い男、ぼうぜんと立ちすくむ。蝉しぐれ、十秒後にフェードアウト。暗転。
 ー 幕 ー

 わずか半年余りの出来事が、ト書きに置き換わり、心のすき間を埋めていく。僕の人生もフェードアウトしたままだ。

 「ブォ~オ~ッ」
 沖を行く貨物船の汽笛で、われに返った。サンコウタイはまだ、しょげている。

 「傷は癒えたか」
 「だいぶ、あきらめがついてきた」
 「女なんか、星の数ほどいるぜ。この先、もっと、いい女に会えるって」
 「そうかもな」
 気のない返事をして、サンコウタイはビール瓶をつかみ、あご歯で勢いよく栓を抜いた。
 「うめぇ~!」
 吹き出す泡ごと、ゴク、ゴクと喉を鳴らして、一気に飲み干した。
 波の束が身をよじらせながら、ドドッと打ち寄せては崩れ落ち、白い泡と 化して消えていく。繰り返し、繰り返し。
 (うたかたの恋でしたね)
 同情と哀れみに満ちた波しぶきのささやきが、一層むなしく響く。
 突然、奴はビール瓶を放り出し、砂を握りしめて立ち上がると、海老反りになって拳を突き上げ、
 「ウオーッ!」と、雄たけびを上げた。
 思わず僕も立ち上がり、暗い沖に向かって、
 「馬鹿野郎!」
 と、叫んだ。どこにもぶつけようのない怒りや、憤りや、悲しみをまぜこぜにして。

 指の隙間からこぼれ落ちる砂の粒が、乾いた時を刻んでいた。
      (了)

  「のぼりべつ文芸38号」(2019年7月発行)に掲載

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