創作 ルウヰンのソネット 高森 繁

(1)

 打ち捨てられて、もう三十年になろうかという廃業ホテル前の舗道で、 この辺では見かけたことのない老人が、野外スケッチにいそしんでいる。 後ろを通り過ぎる直前、つい覗き見したら
 「詩人の立原道造は!」
 と、建物に顔を向けたまま、いきなり声を張り上げた。
 悟られたか?  飯田直樹は足を止めた。
 ひと呼吸おいて老人は、立ち去ろうとしない直樹の方に クルリと向きを変え、
 「卒論のテーマに『廃墟』を選んだ」
 と、真顔で付け足した。一瞬うろたえたが、老人はもう体を反転させ、 画用紙に鉛筆を走らせた。
 七月半ば土曜昼下がりの、登坂駅前商店街。七、八キロ北にある 有名温泉観光地を目指して駅から真っ直ぐ延びるバス通りで、ちょっと 奇妙な出会いが生まれた。
 老人がスケッチの題材にしている三階建てのエトワールは、これが ビジネスホテルかと見まがうほどの豪奢(ごうしゃ)な外観が売りの一つ だったという。しかし、廃業後は野ざらし状態で、前を通るたびにチラッと 見やっては(こんな無用の残がい、早く壊せばいいのに)と一瞥(いちべつ)して 通り過ぎていた。
 
 (シジン? タチハラ? なんのことだ)
 直樹は涼しげな眼(まな)差しの、何やら一風変わった老人の身なりを それとなく観察した。
 茶色のベレー帽や仙人然と伸ばした白いあご髭(ひげ)が、画家の 風貌(ふうぼう)を醸し出している。目尻のしわの刻み具合から 七十代くらいか。キャリーバックらしきものは足もとにないから、 車で十五分ほど行った温泉街の宿にでも預けてのスケッチ散策らしい。 高級そうなリネンジャケットの着こなし具合が、ますます、都会から来た 芸術家です、と名刺代わりにあいさつしている。
 お座りを命じられた飼い犬みたいな気分で立ち止まっていると、老人は ゆっくりとスケッチブックを閉じて、
 「まあ、立ち話もなんだから、あそこでゆっくり話しましょう」
 と、バス停前の木陰のベンチを指さした。まるで、旧知の間柄かのように。
 
 外回りの営業を終えて会社に戻ると、直樹はスリープ状態にして おいたパソコンのエンターキーを中指でパパーンと軽く叩いて、 ニュ~ッと眠りから覚めたグーグルの検索窓に「たちはら みちぞう」 と打ち込んだ。三時間前、あの老人と別れた後、すぐにスマホで調べ ようと思ったが、得意先との約束の時間が迫り、後回しにした。
 検索結果リストのトップに「立原道造—Wikipedia」と出た。
 「立原 道造(たちはら みちぞう、1914年(大正3年)7月30日 —1939年(昭和14年)3月29日)は、昭和初期に活動し 二十四歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を…」
 亡くなるまでに書き残した作品や詩集、詩論のほか詩壇、文壇の交友録などが長々と綴られ、 夭折した立原が大詩人であったことを詳述していた。
 しかし建築に関する記述となると「東京帝国大学工学部建築学科 卒業」「昭和12年3月11日卒業設計『浅間山麓に位する藝術家 コロニイの建築群』提出。三度目の辰野金吾賞受賞」といった程度で、 肝心の卒論については「昭和11年12月18日 卒業論文『方法論』 提出」とあるだけだ。
 最後の脚注まで二度も目を通して、
 (なんだ、卒論は「廃墟」じゃない。あの爺(じい)さん、ボケてたのか、 それとも何か勘違いしてるのか)
 老人の話をきっかけに、直樹が抱く廃墟観が少し変わり、その先に何かありそうな気がした。しかし、「方法論」の三文字で、 膨らみかけた想像世界への芽がしぼんでしまった。
 要点を書き留めたメモ用紙を、クシャッと握りつぶして ゴミ箱に捨てた。
 (だけど、あんなに真剣に講釈してくれたしな)
 やっぱり「廃墟」なるフレーズが引っ掛かる。思い直してメモ紙を つまみ上げ、申し訳程度にシワを伸ばしてから畳み、背広の胸ポケットにしまった。  
 
 

(2)

 登坂中央図書館は休館日明けの火曜午後だったが、 利用者はまばらで比較的閑散としていた。二階の受け付け カウンターで若い女性司書に聞くと、一見(いちげん)さんと 踏んだのか、再利用した折紙サイズの館内図を取り出し、 
 上の階にある開架書庫の、このあたりにございます。閲覧席は こちらです」
 と赤ペンで二カ所、丸印を付けてくれた
 パソコンで調べるわけでもなく、当意即妙に探し物の在りかを 答えるあたり、どの書架に何があるか、大方頭の引き出しにインプット 済みなのだろう。笑みを浮かべ「ごゆっくり、どうぞ」と案内図を 手渡された。イケメンの部類からは明らかに弾かれる、平々凡々顔の 自分に向けたのは、単なる愛想笑いか。まあ、無愛想な応対をされる よりはまだ、ましだ。階段を上る直樹の口元も、自然と緩んだ
 
 三日前、老人は、
 「立原は建物が出来上がった瞬間から、ただ絶え間なく崩れていくために作られたものとして、崩壊の第一歩を踏む。そして人間の労作が自然の中へ帰っていく、そこに廃墟が、空間ではなく時間の中で作られた—と定義し、それを自分の詩でも表現している」
 と、解説してくれた。そして、メタファやノエマ、ソネットなど、よく知らない英単語を織り交ぜながら、詩人建築家の卒論について話してくれたが、結局、何のことやらチンプンカンプンだった。
 「廃墟が教えるものは、何なんでしょうかね」
 別れ際に老人は、宿題とも受け取れる言葉を残していった。
 (それで知の迷宮に引きずり込まれ、図書館で金鉱探しか)
 自問自答しながら、立原道造全集や評論など書架から抜き取った本を閲覧席のテーブルに積み上げ、まずは、立原が生前に出した2冊の詩集と死後に編まれた詩集に目を通した。作品の大半は四・四・三・三行に行分けされた計十四行からなるソネット形式と呼ばれるものだが、速読で読み漁ると「廃墟」の文字が出てくる詩はたった一つ、ソネットとは異なる二十一行の「石柱の歌」だった。
 (これが、あの老人の言わんとした廃墟の詩か?)
 さらに評論・解説を読み進めると、ページをめくる指の動きが止まった。
 
 「ルウヰン」とはなんだね
 と、自分が尋ねると
 「廃墟のルウヰンだ」
 と答へた。
 自分は不思議なことをいふ男だと思ひ
 「廃墟と建築とは、どんな關係があるのか。」
 と重ねて訊ねると、立原道造は、つまり、どんな建築でも、結局、廃墟になる。あのアテネの神殿のように廃墟になる。だから、どんな建築でも結局、廃墟になった結果まで考へて、建築を考へなければいけないと思ふのです。と答えた…」
 
 やっと出てきた。廃墟論が。鉱脈発見の手ごたえに、思わずほくそ笑んだ。
 ただ、どっかで見たような「ヰ」の字は、なんと読むのか分からない。ヰ、ヰ、ヰ…。そうか、ニッカウヰスキーだった。ということは「ルウイン」か。
 ひとつ、賢くなった気がする。
 引用されているのは、立原の先輩にあたる同じ東京帝大卒の有名な評論家の回顧談らしい。
 しかし、この先輩は「君の建築学は虚無主義(ニヒリズム)に出発しており、むしろ美学的なもので、大学の教授には分からないものかもしれないから、当たり前の建築論にしたほうがいい」とアドバイスしたようだ。
 最終的には、ありきたりの建築論を提出したのか。
 赤ペンで傍線を引きたくなるその部分を読み直していると、向かいの席に座った男が「飯田ちゃん、なに調べてんのよ」と声をかけてきた。顔を上げると、荒木信正が身を乗り出して、直樹が読んでいる本の中身を探っている。
 「あっ、荒木さん。ごぶさたです」
 「珍しいね~、ここに来ることあるの。何か大事な調べものか」
 「いや、ちょっと」
 と言いかけて、思わずニンマリした。
 (いいところに軟石ハカセの登場だ)
 とっさに思い浮かんだのは、あの老人のひとことだった。
 「この建物には、登坂軟石がかなり使われていますね。確か、近くに採石場があるはず。取り壊さずに放置しておいたら、恐らく崩壊するのは百年先でしょうか。消滅へ向かう時間軸の、貴重な証言者にもなります」
 
 「なに、な~によ、ニヤけて。俺の顔になんか付いてるか」
 図書館だろうが、市役所だろうが、土に汚れた作業着にゴム長靴、 首にタオルの現場スタイルで出入りする荒木土木の社長が、 テーブルに両手をつき、いかつい日焼け顔をヌ~ッと突き出してきた。
 「いや、いや、ちょっと社長に教えてもらいたいことがあって」
 「なんだよ。登坂軟石のことなら、何なりと相談に乗るぞ。授業料は高いけどな。いや、冗談、ジョ~ダンのソーダン!」
 あたりを憚(はばか)らないダミ声が館内に響き、社長は「おっと、いけねぇ」と首をすくめた。
 都合のいい日にあらためて荒木土木を訪ねる約束をして、直樹は会社に戻った。
 
 
 

(3)

 (あれ? また会った)
 得意先との打ち合わせを済ませ、登坂温泉街の坂道を下る直樹の視界に、民芸土産品店の前に立つあの老人の姿が入った。駅前通りでの出会いから、とうに二カ月は過ぎている。そのときは道外、おそらく東京あたりからの旅行者と思い込んでいたが、きょうの身なりは意外と地味だ。というか、足元の革靴をサンダルに履き替えたら、普段着のまま自宅からふらっと出てきたような、ラフな服装だ。
 シルバーグレーの頭髪も櫛(くし)を入れてないようで、しゃれたベレー帽はかぶっていない。おまけに立派なあご髭は、数センチの長さに刈られていた。手提げのエコバッグから頭を出すスケッチブックが目に入らなければ、他人の空似でそのまま通り過ぎていたかもしれない。
 何はともあれ、偶然の再会になにか嬉しくなって
 「お久しぶりです」
 と、思い切って声をかけてみた。
 すると廃墟の老画家は、直樹をじっと見詰め、疑い深げな口ぶりで問い返した。
 「どなた…、でしたか」
 あの日に比べると声に張りがなく、顔の生気もどこか失われている。
 「いや、あの、ほら、登坂駅前通りでお会いした」
 今度はきょとんとして、首を傾げた。
 「ほら、廃墟ホテルのそばで立原道造の話をした」
 「立原? 誰ですか、その方は」
 予想もしなかった反応に、直樹はうろたえた。無視とも、からかいとも違う。先方の記憶は、すっかり飛んでいるらしい。わずか二カ月でボケ老人になったのか、それとも最初から痴呆症、認知症だったのか?
 話の接ぎ穂を失い、直樹は言葉に詰まった。どう返事をして、この場を離れるべきか。
 躊躇(ちゅうちょ)していると、
 「ナカムラさん! 見~つけた」
 いつの間にか老人の後ろから近づいたニコニコ顔の中年女性が、両手でしっかり画家の右の手首をつかんだ。
 「いた、いた」
 もう一人、同じ薄いピンクの制服を着た若い女性も反対側に駆け寄り、ナカムラさんとガッチリ腕組みした。胸に緑の糸で刺しゅうされた「緑光園」の文字が見てとれる。温泉街から一キロばかりマチ場に下った、高級クラスに入る高齢者入居施設の職員だ。
 「さあ、帰りましょう」
 幼児をあやすかのように耳元でささやかれ、老脱走兵は抵抗するでもなく、薄化粧の香り漂わせる両脇の看護兵に連行されていった。満更(まんざら)でもなさそうに、かすかな照れ笑いを見せながら。
 離れ際、振り向いた先輩格が声を潜め「ご免なさいね。ちょっと、あれで」と、推察通りの事情を直樹に伝えた。
 多分、「中村」が苗字だろう。忘れかけていた廃墟の画家との距離が、少しだけ近くなった。けれど、中村老人のあまりの変わりように、身内を思いやるような同情心と驚きが交錯した。廃墟ホテルを前に、たった一度言葉を交わしただけなのに。
 
 笑ってはいけない温泉街の捕物劇から、二カ月余りが過ぎた。あの老画家は、今どうしているのだろう。時々思い浮かべると、 払いきれないモヤモヤが直樹の心に立ち込めてくる。廃墟が教えるものは何か。その答えは、まだ厚いベールの向こう側にある。
 そろそろ、ケリをつけようと、月暦が残り一枚になった師走入りを機に、いくつかのキーワードを取っ換え、引っ換えしてネット検索してみたら、何人か大学教授や研究者の関連論文やブログを見つけた。
 まず分かったこと。立原道造の卒論はタイトルこそ「方法論」だが、後半は廃墟論で占められていた。ただし、解釈となると諸説紛々というか、平たくいうと難し過ぎる。解説本の中で詩人の代表作として挙げている「のちのおもひに」の一行を拝借して書き直すと「向学心は そのさきには もうゆかない」だ。しかし、ジ・エンドにするには、ちょっと早い。登坂軟石が課題として残っている。温泉街での一件以来、教えを乞う予定だったハカセの研究室を訪ねるのをためらっていた。
 
 終業時刻を見計らって、直樹は勤め先から車で三十分ほどの荒木土木を訪ねた。
 土木工事全般、なんでもござれの二代目社長は、地元の高校を出て関東の私立大に入り、子どものころから興味を持っていた地質学を学んだ。大学院まで進み博士号も取ったが、どうにも抗(あらが)いようのない一人息子の宿命なのだろう。結局Uターンして会社を継いだ。五十二歳の妻子持ち。マチのうわさでは、本業以外に「登坂歴史探偵倶楽部」なる集まりをつくり、休日には喜々として飛び回っている。
 「で、登坂軟石の何が知りたいの」
 「勉強不足で申し訳ないんですが、そもそも登坂軟石とは何ぞやから」
 「簡単に教えるけど、詳しいことはこれ読んで」
 荒木社長は、用意していた厚めのレポートらしきものをテーブルに置いた。
 登坂軟石がいつごろ、市内のどこで採られるようになったか、どんな建物に使われているか、より安価な建材の登場でいつごろ 衰退の道を下りはじめたのか、かいつまんでレクチャーした後、
 「何で、興味持ったの? 専攻は経済学だろう」
 と、最初にすべき質問を口にした。
 「う~ん、そうか。その爺さんとの出会いがきっかけか」
 立原道造の廃墟論探索に至った経緯や温泉街でのエピソードを聞き終えた荒木社長は、「面白いね」と付け加えた。
 「まあ、高名な学者の論文とか批評なんか、一度あっさり捨てちゃってさ、飯田ちゃんなりの感性、感覚で立原の廃墟論を読み解けばいいんじゃないか。余計な概念にとらわれないで」
 のどの奥につかえていたものが、ストンと落ちた。 ハカセのアドバイスを受けて、直樹はもう一度ハチマキを締め直すことにした。
 
 
 
 

(4)

 「でもね、ナカムラさんだって、ある日突然、お爺ちゃんになったわけじゃないでしょ。あなたと同じように、若い時もあったんだから」
 カーテン越しの会話に、点滴でまどろみがちな直樹の脳波がピコッと波打った。
 (ナカムラ? おじいちゃん? 中村老人が緑光園からこの病院に移ったのか。それとも、別なナカムラさんの話か)
 二日前、直樹は登坂温泉病院に担ぎ込まれた。インフルエンザにかかり、たかをくくっていたら悪化して、入院前夜には高熱と頭痛が治まらずダウンした。翌朝、無遅刻、無欠勤のまじめ男が出社してこない。スマホの電話やラインにも応答なし。そしてアパートに駆け付けた同僚に、脱水状態でぐったりの直樹はレスキューされた。
 ひと息ついてはポタリと落ちる、点滴液のチューブをぼんやり見詰めていた時だった。みんな出払っていて、直樹一人だけだった処置室に男女二人が入ってきた。声のトーンから年配の女性看護師長と若い男、何度か廊下で見かけた茶髪の介護士らしい。 とんがり気味の声で、何か訴えている。「ナカムラさん」うんぬんは、それに答えての看護師長の諫(いさ)めるような言葉遣いだったが、処置用ベッドのカーテンが、ぐるり回されているのに気付いたみたいだ。「この話は終わり」と看護師長が小声で打ち切ろうとした。男に目配せしたのだろう。ブツブツ言いながら部屋から出て行く介護士の「お漏らし」「やってられねぇ」といった捨てぜりふが耳に入った。何が原因でプリプリしていたのか、はっきり分からないが。
 ある日、突然、年寄りになった訳ではない。当たり前の話だよな。看護師長は何を言おうとしていたのか、もっと敬意を払えという意味か。
 考えこんでいるうちに、点滴液が残り少ないのに気が付いた。時間を見計らって、針を抜きに来るのは誰だ? 直樹の心臓が早鐘を打ち始めた。別に盗み聞きしたつもりはないが、聞いてはいけないものを聞いてしまったような、なぜか後ろめたい気持ちになる。あの看護師長だけは来るな、と念じていたら、「開けますよ」と弾んだ声でカーテンを引いたのは、若い女性看護師だった。背後の窓から差し込む西日が、しなやかなシルエットをいっそう色濃くした。
 
 直樹はその日の夜、入院病棟の同じ階にあるラウンジに出掛けた。病室からはわずかな距離だが、歩くとまだ多少ふらつく。専用病棟が三つもある、五階建ての院内を探索する勇気も気力もない。中村老人探しはあきらめた。退院があさってなら、ちょうど年末年始休暇入りの日と重なる。会社に顔を出さずに済むから、ちょっと気が楽になる。
 ラウンジには、誰もいなかった。リモコンでテレビの電源を入れると、ドラマなどで見知っているベテラン女優と、世界的にも有名な日本人の女性ジャズピアニストの対談画面が現れた。テロップでは「1929年12月生まれ。終戦後、別府の駐留軍キャンプでピアノ演奏を始める」とあるから、ジャズウー メンは九十歳にもなる。今も演奏活動を続けているらしいから、超人というか、怪物というか。
 チャンネルを変えようとしたとき、「えっ」と女優が驚きの声を上げ、思わず身を乗り出した。
 「だって、人間、死んでからが勝負でしょう」
 ピアニストが、あっけらかんと放った矢文(やぶみ)が、直樹の常識の壁に突き刺さった。
 (なに言ってんだろう。生きてるうちが勝負でしょう)
 直樹はその言葉の先にある、老ピアニストの真意を探ろうと思った。すると同じパジャマ姿のおじさんが入ってきて、断りもなくお笑い番組にチャンネルを変えてしまった。
 「面白いよな、これ。なっ、なっ」
 売れっ子漫才師が連発するギャグに腹を抱え、同調圧力をかけてくる。あの舌鋒(ぜっぽう)を耳にした後だ。たわいない言葉のやり取りはゼロに等しい。いや、それ以下か。「え~、まあ」と返すと、気のない返事におじさんはプイッと顔を画面に戻し、しゃべくり漫才を見続けている。直樹はため息まじりの足取りで、病室に戻った。(生きてるうちが勝負だよな。逆だよな)と、反すうしながら。
 
 
 

(5)

 「えぇっ!」。朝礼後の弛緩(しかん)した空気を切り裂く驚きの声に、社内の視線が一斉に直樹に向けられた。地元新聞朝刊の忌中広告欄に目を移した瞬間、飛び込んできたのは、黒枠の中におさまる中村老人の顔写真だった。
 「東京大学名誉教授 父 中村隆太郎(八十一歳)儀 入院中のところ…」
 (東大の名誉教授? そんなに偉い人だったのか)
 死因や病院名は書かれていないが、「かねてより」の決まり文句が抜けており、入院して間もなくの病状悪化らしい。今となっては、亡くなった場所がどこだったかは、あまり関係ない。ただ、実際よりは十歳若い顔写真を見直すと、 たとえ認知症であっても、駅前通りで熱心に立原道造の話をしてくれた中村さんに、もう一度会って言葉を交わしたかった。
 通夜は今晩。葬儀会場は隣のM市にある一番規模の大きい斎場だ。「喪主 長女・吉田紗英子 施主・吉田栄一郎」とあるから、奥さんは既に亡くなっているのだろう。親戚一同に続いて、葬儀委員や顧問に立派な肩書の人たちが名を連ねている。その中には大手建設会社の会長もいた。
 忌中広告爛とは別の頁に、中村元教授の略歴、功績を示す黒棒記事が載っていた。出身はM市。地元の高校から東大に進み建築工学の大学教授になった。国内で大きな評価を受けた論文や自身が設計した有名ホテルなども紹介されている。
 (かなり大きな功績を残したんですね、中村さん、ご苦労様でした)
  心の中で手を合わせて、直樹は新聞を畳んだ。
 
 「電話だよ、電話だよ」
 中村氏の葬式から半月が過ぎた二月初旬の日曜朝、直樹はスマホのせわしないアナウンスに起こされた。画面にはアドレス帳には登録されていない携帯電話番号が表示されている。高額な利用料金を要求するワン切りかもしれない。そう思って放っておいたら、三コールを過ぎても相手は切らない。思い切って受話器のアイコンをクリックした。
 「おはようございます。こちら、飯田さんのお電話でよろしいでしょうか」
 (早朝のセールス電話か。出なきゃよかった)
 舌打ちしたが、こちらの名前を知っているということは?
 「飯田ですが、どちら様ですか」
 「朝早くから、申し訳ございません。わたくし、吉田と申しますが」
 得意先にも、知り合いにも吉田という女性はいない。この人、何者だ。
 「なんの御用でしょうか」
 「あの~、実は父の中村隆太郎のことで…」
 一瞬、言葉を失った。そうか、思い出した、忌中広告に載っていた喪主の長女だ。下の名前は忘れてしまったが。しかし、自分と中村さんとの接点を示すものはどこにもないはずだ。どうして、この電話番号が分かったのだろう。
 「父のこと、ご存じでしょうか?」
 「ちょっと、ちょっと、待ってください」
 スマホを耳元から離し、宙をにらみながら記憶をたぐり寄せていると、よみがえった。あの時、二度と会うことはないだろうと思いつつも、別れ際につい営業マンの癖で会社の名刺を渡してしまった。
 気を取り直し、スマホを耳にあてた直樹は、
 「いま思い出しました。去年の夏、登坂駅前通りのベンチでお話ししたのを」
 と、さっきまでのつっけんどんな喋り方を改め、声の調子を多少穏やかにした。
 「よかった~。実は父の遺品を整理していると、スケッチブックに飯田さんの名刺が貼られていたものですから」
 ホッと和んだような息遣いが伝わってきた。しかし、あれだけの人だ、名刺など数えきれない程あるだろうに。なんで自分の名刺なんか、それもスケッチブックに。
 
 その日の午後、直樹は登坂市との境界近くにあるM市の喫茶店に向かった。クラシック曲が流れるレトロ調の店内には、近所の常連らしいおばさん三人組がいるだけ。直樹がコーヒーを頼むと間もなく店の扉が開いて、カシミヤのコートを着た中村さんの長女が現れた。おばさん連のはしゃぐ声がピタッと止んだ。直樹自身も、目を見開いた。この店本来の雰囲気にゆったり溶け込む、シックな気品が際立っている。直樹の母親に比べると見た目十歳は若い。
 店内をゆっくり見渡し、若い男は奥のテーブルに座る直樹だけと見定めると、東京銀座の有名デパートの手提げ袋を手に近づき「飯田さんですよね」と念押しした。
 
 
 

(6)

 一時間は話し込んだだろうか。紗英子さんは、父親が息を引き取るまでの、この半年余りの出来事を話してくれた。
 中村さんは大学を退官後、東京の自宅で夫婦二人の穏やかな生活を送っていた。夏には紗英子さん夫婦が住むM市にも避暑を兼ねて突然やって来て、一、二週間滞在しては東京に戻ったという。
 こちらに来る時は東京の妹さん夫婦に奥さんの世話を頼んだが、六十年近く連れ添ったその奥さんも、癌が進行して去年の八月末に亡くなった。直樹との出会いから一カ月ほど後になる。ショックは大きかったようで、気の抜けたような父親の姿を見るのは忍びないと、M市の自宅に連れてきたという。
 「認知症の症状が出始めたのも、この頃からでしょうか。目を離したすきに、ふらっと家を出て行っては、警察のお世話になることも一、二度ありまして。やむなく『緑光園』に入居させてもらいました」
 そしてまったく兆候がなかった心筋梗塞が、中村さんを襲った。M市の公立病院に救急搬送された後、札幌にある大学病院に転院したが、三日後に帰らぬ人となった。
 
 「それで、これなんですが」
 紗英子さんは、スケッチブックを取り出すと、付箋(ふせん)を付けたページを開き、向きを変えて差し出した。
 画面いっぱいに描かれていたのは、まぎれもなく廃墟のエトワールだ。裏をめくると、横書きのソネットらしい文字が並んでいる。題名はない。下の隅に自分の名刺が貼られていた。その次のページを開くと幼児が描いたのかと目を疑う、どの輪郭も大きく歪んだ建物が現れた。残りの数ページは白紙のままだ。
 「あの時は正直、ちょっと驚きました。中村さんがスケッチの最中、たまたま後ろを通り掛かったら、急に小説でも朗読するように大きな声を上げたものですから」
 出会いのきっかけを明かす直樹に、
 「教官ぐせが抜けないのか、退職後も父は時々、見知らぬ若い人を街でつかまえては話し掛けることがありました。一緒に歩いていて、私も何度か注意したのですが。急に言い出すものですから、大概の人は逃げて行きます」
 と、うつむき加減にクスッと思い出し笑いした。
 「名刺を見て、飯田さんは父が好きだった立原道造の話を、最後まで聞いてくれたのだと思いました。でなければ、遺品として私どもの手元に残すところですが、添え書きに『旅する青年へ』とあるものですから、なおのこと、この絵はそちらにお渡しした方がいいかと」
 ひと通り話し終えると紗英子さんは、冷めてしまったコーヒーをやっと口にした。
 
 中村さんの遺作の一枚は、意外ときれいに切り離せた、明日、上京して親のマンションを処分する都合から、どうしてもきょう渡したかった—と、紗英子さんは安堵し先に店を出た。一人残された店内に流れる、クラシックのピアノ曲が物悲しい。何も語るな、ただ頭(こうべ)を垂れて祈れよ。そう暗示する、ゆったりとした旋律は中村さんの葬送曲か。
 曲が終わり、マスターがレコード針を上げたタイミングで、直樹は席を立った。さっき、「大事なものを頂いたので」と引き寄せた会計伝票と、その大切な一枚を入れたバッグを手にして。
 以前、耳にしたことはある。けれど曲名は知らない。勘定を済ませると直樹は勇気を出して「あのー、今、最後にかかっていた曲は?」と尋ねた。白い口髭がお似合いのマスターは「ベートーベンのピアノソナタ『月光』。いい曲ですよね」と顔をほころばせた。今は亡き人をしのび、月の光の下で一人寂しく回想する、そんなイメージが浮かぶ、いい曲だ。無言のまま直樹は、うなずき返した。
 
 
 

(7)

 次の日の夜、額に入れる前にスケッチ画の裏側に書かれたソネットを読んでみた。どこか立原道造の作品とは違うような気がする。ひょっとして、これは中村さん自身が書いた詩ではなかろうか。そんな疑念が頭をもたげる。
 立原道造の作品を網羅したネット通販の中古本を開いてみた。似ているけれど、やっぱり、どれも一致しない。
 
 色あせたパピルスに、草文字でこう書き出そう。
 エルデナの修道院を見下ろす丘に立ちたまえ、と。
 そして、天使と戯れていた鳥たちは、もう歌わないことを
 蒼穹の旅人は一人として戻らなかったことを記しておこう。
 
 空間に支配されていた存在は、たちまち時間に凌駕されていく。
 聡明なる詩人は痛みに耐えながら、こう予言するだろう。
 雨風や灼熱や、わざわいに穿たれた柱や壁は
 いずれ母なる自然に回帰するのだと
 
 星たちの輝きは、まだ共有されている。
 月は今も、僧院の頭上に安らぎの光をそそいでいる。
 けれど、祭礼をつかさどる黒衣の祈り人は、もういない。
 
 うつろいの美しさにふるえながら
 終わりのみが、始まりであることを
 Rovineは黙示していた。
 
 感傷的な立原の詩とは距離をおいた、どこか西洋的な文体に、直樹は確信した。これは中村さんのオリジナルだ。ネット検索したらRovine(ロヴィーネ)は、イタリア語の廃墟、遺跡を意味した。聡明なる詩人とは、立原道造のことに違いない。
 裏面はコピーを取り、エトワールの景観図とコピーページを並べて、大きめの額に入れた。
 (これでよし。わが城の応接間も、かなり格調高くなった)
 月めくりカレンダーと丸い掛け時計だけだった六畳間の壁面が、中央に飾られた芸術作品でグレードアップした。額のすぐ下にピン止めした「中村画伯作 Rovine」の画題プレートが、いっそう作品を引き立てている。
 
 今年も義理チョコだけに終わったバレンタインデーから、ホワイトデーの飾り立てに忙しい大型店内を歩いていると、荒木社長から「レキタンの関係で」と電話が入った。次の土曜午後、会社に来てほしいという。
 「どうせ、彼女がいるわけじゃないんだろう、お前」
 余計なひとことが痛いとこを突く。おまけに「飯田ちゃん」から「お前」に格下げされた。ムッとしたが、これからも仕事上の付き合いがある。渋々、来訪の約束をした。
 
 登坂歴史探偵倶楽部、通称レキタンは有限会社荒木土木二階の一室を活動拠点にしていた。呼び出された理由は、入会のお誘い、というよりは半ば強制的な勧誘だ。
 「いや~、メンバーが次々仕事が忙しくなって、もう休会状態だろう。手が足りないんだよね」
 (嘘でしょう。みんな、ワンマン会長に愛想つかして逃げたんじゃないの)
 顔で同情し腹の中で笑ったが、登坂軟石の講義で世話にもなったし、入会することにした。思った以上に高い年会費は印刷手伝いなどの労力提供で、相殺免除してもらった。
 
 「死んでからが勝負か。面白いね」
 雑談しながら、何気なく女性ジャズピアニストのことを話したら、荒木社長は意外と興味を示した。懐疑的な反応ではない。むしろ、肯定的な解釈に近い。
 そして、まだ雪が残る窓の外をしばらく見つめた後、「思い出した。棺(かん)を覆いて、事定まる、だな」と自らに言い聞かせた。
 「かん、って何ですか」
 「棺桶(かんおけ)のかんさ。いや、中国のことわざなんだけどね。人間の価値なんて、棺桶の蓋がパタッと閉まって、初めて決まるということ」
 「普通、死んでしまえば、勝負なんかできないですよね
 「一種の逆説かな。そのピアニストが死んだ後も、後世に長く語り継がれる仕事をすれば勝ち、という感じ」
 歴史探偵だけに、中国の古典にも精通していたか。この人、ばかにできない、と見直した。
 「ところで、飯田廃墟論はまとまった? 何でもいいから、紙に書いておいたほうがいいぞ。良かったら、レキタンの四季報に載せてあげる」
 「まあ、難しいですけどね」
 「あっ、そうだ。あの廃業ホテル。新年度早々、取り壊されることになったぞ」
 「えっ、たしか持ち主が複数いて、おまけに土地の所有者は別。利害関係も複雑で放置されていたとか」
 「いや、市の役人が必死に関係者を説得して解体の話をまとめたらしい。役所にとっては有名観光地の玄関口に居座る、恥さらし物件だもな」
 去年の今ごろ、この話を聞いていたら一市民感情として「めでたし、めでたし」で終わっていた。だが、今は違う。できるものなら自分も生き永らえて、崩れ落ちて砂塵(さじん)となるエトワールの最後の最後まで見届けたい。直樹の心はすっかり、逆方向を向いていた。
 
 
 

(8)

 取り壊される前に写真に収めようと、次の日曜日の午後遅く、直樹はアパートから車で二十分ほどのエトワールの前に立った。取り壊しが決まったからか、去年までなかった立ち入り禁止のロープが、舗道際まで巡らされていて、建物の前には日本語と英語、中国語による警告看板が立てられている。そういえば、数年前から廃墟マニアや、それにつられて外国人観光客も勝手に敷地内に入り込むようになった、と地元新聞が伝えていた。問題になったのはゴミの置き土産や、招かざる喧噪(けんそう)。周辺住民の要望もあって立ち入り制限に至ったらしい。
 見上げると、緩やかな曲線が頭頂部で結合した角形ドームの塔屋に、西に傾き始めた物憂げな陽の光が反射していた。営業当時は青銅色の荘厳な輝きを放っていただろう屋根板も、今やすっかり錆(さ)びつき、カモメたちが落としていった白い飛沫模様が空しく映える。建物の肩越しに、さほど高くはない鯨山が見える。かつてエトワールの外観を気品高い彫刻美で飾った、登坂軟石の採石場跡がある。
 去年の夏、この場所で、それまで無用の長物としか思わなかった廃墟のイメージが変わった。きっかけは、中村画伯を通して知った詩人で、建築家でもあった立原道造という存在だった。はるか七十年前の同じ三月、直樹と同じ二十四歳の若さで世を去った天才詩人は、建築を「絶え間なく崩れて行くために作られたもの」「すべてのはかなさ、虚無性を身にしているもの」と定義づけた。その行き着く先にあるものは「うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!」とソネット「薄明」の中で高らかに歌った抒情的無常感だ。
 
 (だけど、僕の廃墟論は大詩人のそれとは、ちょっと違う気がする)
 
 何度かシャッターを切った後、何だろう、何だろう、と探りながら建物から視線を移すと、鯨山の肩あたりまで落ちた日の光が目に入った。
 春の先触れと、冬の名残を撚(よ)り合わせた光の糸は、もうすぐ憂愁を誘うあかね色に変わるだろう。
 (夕陽、夕陽の美しさ…)
 直樹はふと、荒木社長との話を思い出した。
 喫茶店で見せてもらったスケッチブックの中に、一枚だけパステルカラーの絵があった。夕陽を背にした、今にも崩れ落ちそうな木造の廃屋画で、端には「うつろう夕陽の美しさ」の文字が記されていた。
 「なんで、ひとは夕陽を見て美しいと思うんですかね」
 「夕陽の美しさ? そりゃ、当たり前の話さ。目の前の夕陽が、水平線や山の向こうに沈まないで、そこにじっとしていたら、感傷的になると思う? 花火とおなじさ」
 言われてみれば当然な例え話から、あのピアニストの言葉が息を吹き返した。「死んでからが勝負」は、まさに花火の「消えてから、その美しさがどれほど人々の心に焼き付けられたか」なのだと。
 つまりは、時間なのか。
 直樹が漠然と抱いていた廃墟観の輪郭を、中村画伯の詩の一行が描き出した。
 「終わりのみが、始まりである…」
 風が吹いた。荒れた庭園の隅に一本だけ残る、イタヤカエデの枝先が揺れた。石壁の隙間から、砂礫(されき)がパラパラ落ちた。背を向けて、黙々とスケッチする老人が、まだそこにいるような気がした。
      (了)
 
  「文芸のぼりべつ40号」(2021年7月発行)に掲載
 
 
 
 
 
 
 

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