創作 ルウヰンのソネット 高森 繁
(1)
打ち捨てられて、もう三十年になろうかという廃業ホテル前の舗道で、
この辺では見かけたことのない老人が、野外スケッチにいそしんでいる。
後ろを通り過ぎる直前、つい覗き見したら
「詩人の立原道造は!」
と、建物に顔を向けたまま、いきなり声を張り上げた。
悟られたか? 飯田直樹は足を止めた。
ひと呼吸おいて老人は、立ち去ろうとしない直樹の方に
クルリと向きを変え、
「卒論のテーマに『廃墟』を選んだ」
と、真顔で付け足した。一瞬うろたえたが、老人はもう体を反転させ、
画用紙に鉛筆を走らせた。
七月半ば土曜昼下がりの、登坂駅前商店街。七、八キロ北にある
有名温泉観光地を目指して駅から真っ直ぐ延びるバス通りで、ちょっと
奇妙な出会いが生まれた。
老人がスケッチの題材にしている三階建てのエトワールは、これが
ビジネスホテルかと見まがうほどの豪奢(ごうしゃ)な外観が売りの一つ
だったという。しかし、廃業後は野ざらし状態で、前を通るたびにチラッと
見やっては(こんな無用の残がい、早く壊せばいいのに)と一瞥(いちべつ)して
通り過ぎていた。
(シジン? タチハラ? なんのことだ)
直樹は涼しげな眼(まな)差しの、何やら一風変わった老人の身なりを
それとなく観察した。
茶色のベレー帽や仙人然と伸ばした白いあご髭(ひげ)が、画家の
風貌(ふうぼう)を醸し出している。目尻のしわの刻み具合から
七十代くらいか。キャリーバックらしきものは足もとにないから、
車で十五分ほど行った温泉街の宿にでも預けてのスケッチ散策らしい。
高級そうなリネンジャケットの着こなし具合が、ますます、都会から来た
芸術家です、と名刺代わりにあいさつしている。
お座りを命じられた飼い犬みたいな気分で立ち止まっていると、老人は
ゆっくりとスケッチブックを閉じて、
「まあ、立ち話もなんだから、あそこでゆっくり話しましょう」
と、バス停前の木陰のベンチを指さした。まるで、旧知の間柄かのように。
外回りの営業を終えて会社に戻ると、直樹はスリープ状態にして
おいたパソコンのエンターキーを中指でパパーンと軽く叩いて、
ニュ~ッと眠りから覚めたグーグルの検索窓に「たちはら みちぞう」
と打ち込んだ。三時間前、あの老人と別れた後、すぐにスマホで調べ
ようと思ったが、得意先との約束の時間が迫り、後回しにした。
検索結果リストのトップに「立原道造—Wikipedia」と出た。
「立原 道造(たちはら みちぞう、1914年(大正3年)7月30日 —1939年(昭和14年)3月29日)は、昭和初期に活動し
二十四歳で急逝した詩人。また建築家としても足跡を…」
亡くなるまでに書き残した作品や詩集、詩論のほか詩壇、文壇の交友録などが長々と綴られ、
夭折した立原が大詩人であったことを詳述していた。
しかし建築に関する記述となると「東京帝国大学工学部建築学科
卒業」「昭和12年3月11日卒業設計『浅間山麓に位する藝術家
コロニイの建築群』提出。三度目の辰野金吾賞受賞」といった程度で、
肝心の卒論については「昭和11年12月18日 卒業論文『方法論』
提出」とあるだけだ。
最後の脚注まで二度も目を通して、
(なんだ、卒論は「廃墟」じゃない。あの爺(じい)さん、ボケてたのか、
それとも何か勘違いしてるのか)
老人の話をきっかけに、直樹が抱く廃墟観が少し変わり、その先に何かありそうな気がした。しかし、「方法論」の三文字で、
膨らみかけた想像世界への芽がしぼんでしまった。
要点を書き留めたメモ用紙を、クシャッと握りつぶして
ゴミ箱に捨てた。
(だけど、あんなに真剣に講釈してくれたしな)
やっぱり「廃墟」なるフレーズが引っ掛かる。思い直してメモ紙を
つまみ上げ、申し訳程度にシワを伸ばしてから畳み、背広の胸ポケットにしまった。