創作 鉱山線を止めた男  高森 繁

プロローグ

 「戸長! あんたら何バカなことやってるんだ」
 大正六年二月中旬、幌別村戸長役場に山仕事姿の中年男が憤怒の形相で怒鳴り込んできた。雪焼けした浅黒く、いかつい顔のへの字眉毛が一層尖(とが)っている。
 それまで役所の奥にでんと据えられた机を前に、悠然と吏員の仕事ぶりを眺めていた戸長は、玄関戸を力任せに開け一目散に向かってきた男の勢いにたじろぎ、思わず腰を浮かした。
 「ゲ、ゲンゾさん、な、なんだね、いきなり」
 (失礼じゃないか)と、言いかけた口を封じて男は、
 「なんだじゃねぇ。煙害と学校の改築ばなしを一緒くたにして。煙の問題には目つぶるから、小学校の改築資金出してくれって、鉱山に頼みこんだのか」
 「待ってくれ、ゲンゾさん、そうじゃねえ、そうじゃねえが」
 昼下がりの役場内で突如起きた、ゲンゾなる男と戸長のいさかいに、たまたま居合わせた村人や仕事をしていた吏員たちは呆然として、成り行きを見守った。

 見た目四十歳ほどのゲンゾと呼ばれた男は、この幌別村で造材と砂利採取業を営む岩田源三だ。丸刈りの坊主頭をのせた体は、中肉中背の背丈百七十センチほど。山仕事で鍛えた体はキリリと締まり、怒らせるとカッと見開いた眼(まなこ)は獲物を狙うタカのごとく鋭く、身のすくむ思いをした男たちも少なくない。しかし根はやさしく、まわりの面倒見もいいことから「ゲンゾさん」の愛称で、人々から慕われている。
 両手で机の両端をがっちりつかんだ源三が睨む相手は、人口六千人足らずの村の行政をつかさどる戸長の松崎三郎。有能なる為政者というより、地域の経済人の顔色を始終窺いながら一介の役場吏員からトップの座に昇ってきた。

 源三が口にした鉱山とは、戸長役場のある村の中心地から十キロ余り北西の山奥に入った幌別鉱山を指す。操業を開始したのは明治三十九年二月。三井系財閥の重役が鉱山主となり、個人事業として金、銀、銅や硫黄などを目当てに採掘を始めた。そして開鉱から約十年、源三が役場に怒鳴り込んだこの年の鉱山地区の世帯数は四百五十戸、従業員家族を含めた住民の数は千数百人を数え、幌別村全人口の二、三割を占めるまでに発展した。
 そのありがたい鉱山に対して、ゲンゾさんは何ケチつけてんだべか、と周りの人々は耳をそばだてた。

 「そりゃ、役場にとって鉱山は大事な金づるだ。しかしな、戸長! 煙問題と寄付願いを一緒に持ち出すとは、何事だ」
 「いや、ゲンゾさん、落ち着いてくれ。奥で話すべ、な、な」
 一点に集まる周囲の視線から逃れようと戸長は、奥の応接室に突発劇の舞台を移そうとしたが、
 「いいや、ここでも話はつく。鉱山は学校改築の寄付は決めたという。煙害は目をつぶるからと言ったのか。さあ、わけを聞かせてもらおう」
 と、源三は地下足袋を包んだつまご草履から根をはやしたように、ガンとして動かなかった。



(1)

 ことの発端は、十日ほど前にさかのぼる。
 松崎戸長と村の農業会長や教育界の長老らが、幌別停車場と鉱山を結ぶ馬車鉄道・ 鉱山線の客車に乗り合わせて、まだ雪深い鉱山事務所を訪問した。
 用件は開鉱翌年の明治四十年に浮上し、未解決のままだった製錬所からの煙害対策と、 就学児童の増加や老朽化に伴う幌別小学校改築資金の寄付要請。鉱山側は幌別鉱山代理役 の金沢方正と本部のある札幌から駆け付けた鉱主の補佐役の高木某が対応した。
 それから一週間後の二月五日、鉱山側は小学校新築資金の寄付を決めたという。

 「ゲンゾー、母校の改築もやっとメドがついたわ。戸長たちがヤマに行って 頼んだそうだ」
 仕事の関係で、たまたまマチ場に下りてきて、この一件を耳にした源三は、 「なに~」とすぐさま、役場に走った。その後ろ姿を見て幌別小時代の幼(おさな) なじみは「あっ、まずいこと言ってしまった」と、源三が数年前から鉱山の煙害を訴え、 対策に奔走していたことを思いだしたが、手遅れだった。
 (それにしても、あいつはガキのころから、はしっこかったな)と彼は、 視界からとっくに消えた源三の俊敏ぶりに改めて感心した。

 以前から、うわさは耳にしていただけに、源三は松崎戸長を威圧するように鎌をかけた。すると、
 「確かに、学校改築と煙害対策で要請に行ったが、陳情書は別々に出した」
 と、源三が狙った通りの答えが返ってきた。
 「煙の害を交渉の種にした」「いいや、分けて話した」と張り合う水かけ論の末、源三は「こったらアホ戸長に、こんな立派な机なんか、必要ねぇ!」と、机の縁に両手を移し替え、「な、なにすんだ」とうろたえながら相手が壁際に後ずさりするのを見定めてから、思いっきり机をひっくり返し、ぶ然とした表情で出て行った。
 この日の源三の乱暴狼藉をとがめる動きが、まったくなかったわけでもない。しかし、幌別村における二つの公害、幌別川の鉱毒垂れ流しと煙害が鉱山事業所を発生源としているのは誰もが知っていた。
 源三の振る舞いがいささか度を越したとはいえ、公権力をもって罰するには無理がある。おまけに前年の大正五年夏、煙害に泣く農民らが村民大会を開いて、抗議の気勢を上げるなど、被害救済を求める声は広がっていた。

 北海道の南西部に位置するこの村は当時、「大字」で仕切られた幌別村、鷲別村、登別村から成る「幌別郡」としてくくられ、幌別村に戸長役場が置かれていた。三村まとめて正式な「村」に移行したのは、人口規模が二級町村制の該当規模に達した大正八年、源三が戸長を問い詰めた二年後のことだ。
 「これで村議会も出来る」「道庁からの補助金も出るらしい」と、地方自治体としてのステータスが一段上がったことに喜びは広がった。
 そのお墨付きを得るための人口と、財政規模を押し上げてくれたのが幌別鉱山だったから、村の有力者の目は畑作地帯の公害より、その先の煙たなびく山あいの景況に向けられていた。

 採鉱可能面積は七十七万坪と広大な幌別鉱山は、当初、金、銀、銅の鉱脈がある旭鉱と銅の産出が多い岩の崎鉱を主要鉱区して採掘が進められた。

 「どうです、岩田さん。ここに火が入ると、一日十トンの鉱石を溶解します」
 「う~ん、これはすごい。なんぼ金がかかったのかね」
 直径一・八メートル、高さ六メートルの三基の溶鉱炉を見上げながら、仕事着に地下足袋といつものスタイルの源三は唸った。
 製錬所が完成した明治四十年七月、村の重鎮や請負業者、馬鉄用地を提供した村民を招いてのお披露目会が開かれた。もちろん、公害はまだ発生していない。源三らグループ分けされた数人を案内しているのは、この年の三月に給仕として雇われ、すぐに鉱石の分析係に転じた金沢と名乗る若者。源三は仕事に忠実な、いかにも実直そうな印象を覚えた。

 「これの高さは二十五尺あります」
 村内の鋳物・焼き物工場でも、これほどそびえるものはない、という巨大な煙突にも目を見張り、
 「いや~あ。これからウチの村にも金の卵がじゃんじゃん産み落とされるぞ」
 と、長老の一人が言い放つと、どっと笑いが沸き起こった。
 しかし金の卵とともに、ありがた迷惑な灰色の煙が舞い落ち、有害な水が流れ出すとは、源三はこの時、まったく想像しえなかった。

 
 

(2)

 最初に顔をのぞかせたのは、幌別川の鉱毒だった。
 「鉱山近くの川床が赤茶けている」
 「味もおかしい。なんか、鹿肉の腐ったような」
 「鮭だけじゃねえ、マスも、ヤマベもいなくなった」
 「こりゃ、あぶねえ。飲み水は支流から汲むしかないな」

 幌別川から水を引いている住民や、河口から上流六キロメートルの両岸に陣を張る漁場の人々が日を追って、川の異変を口にするようになったのは、幌別鉱山で銅製錬が始まって二、三カ月過ぎたころだ。
 広いところだと川幅七十メートルを越える幌別川には明治十年ころから、アイヌや元士族などが共同所有する鮭の漁場が六ケ所設けられ、秋口から正月にかけて回帰した鮭の群れを捕獲していた。最盛期には「きょうは、朝だけで五百匹も獲れた」と自慢する漁場持ちもいて、前浜漁と合わせた漁獲高もばかにならない。漁民の懐を潤すはずの、その魚たちが鉱山の製錬事業が始まると、まったく見られなくなった。

 銅製錬の場合、溶けた銅と鉄硫黄の混合物が出来上がると、これを低炉に入れて強風を吹きつけ硫黄や鉄を硫化させ、最終的に残る金、銀を含む粗銅を取り出す仕組みだ。
 こうした真吹き製銅法と呼ばれる製錬過程で生じる亜硫酸ガスは、高さ七メートルの煙突から大気中に放出される。そして用済みとなったカラミと呼ばれる残滓(ざんし)や木炭、コークスなど燃料の灰などは、いったん集積場に貯蔵された後、雨の日を待って近くを流れる幌別川にこっそり捨てられた。豊かな水と緑の大地が蝕まれる序章だった。

 明治四十四年には硫黄製錬も始まったが、幌別は産出量が乏しい。そこで目をつけたのが、ひと山もふた山も越えた北西に位置する壮瞥村黄渓の硫黄山買収。約九キロメートルの玉村式索道、いわゆるロープウェイを整備し、硫黄鉱石を運んできては製錬し、幌別停車場から出荷した。

 「鉱山の操業をやめさせるというのも、村にとっちゃあ損失は大きい」
 「そもそも、やめさせる権限は俺たちにないしな」
 「支庁や道庁は知らん、存ぜねを決め込んでいるみたいだ」
 鉱毒問題が浮上すると、幌別川の漁場持ちたちが戸長役場に集まり、鉱山側とどう交渉を進めるか、策を練った。
 結局、製錬所の稼働から四年後の明治四十四年十一月末、鉱山主の小田良治と元士族の幌別水産組合長が話し合いを持ち、幾度かの協議の末、漁業補償金を支払うことで合意した。
 内容は大正二年夏以降、六カ所の漁場に毎年、合わせて六百円の補償金を支払うというもの。
 「おお、うちらは六戸合わせて三百円だぞ」
 「これで、だいぶ楽できるな」
 一番喜んだのは、千石場所といわれ最も好漁場だった仙台漁場の元士族たち。ほかの漁場にも水揚げに応じた額が補償された。米一俵が五円の時代。濡れ手に粟とはいわないまでも、冬場の厳寒期、冷たい水しぶきを浴びながらの鮭漁を思い起こすと、ここが手の打ち所とだれもが判をついた。おまけに彼らにとって鮭漁は農閑期のいわば副業だっただけに、怒りの刃をおとなしく鞘におさめたのだった。

 もうひとつの公害である亜硫酸ガスによる煙害問題。被害を被った農民たちにとって、こちらはカネ以前の問題だった。
 「一本や二本の立ち枯れなら驚かねえが、これほど広い範囲で杉の木が枯れるのは初めてだ」
 買い取った山を見て回る源三が異変に気付いたのも、鉱山が操業開始した翌年あたりからだった。
 「野菜も葉っぱが黄色や茶色に変色して売り物にならない」との声も聞かれ始めた。
 彼らは「とにかく、作物を枯らす煙を出さないようにしてほしい」と、鉱山や幌別農会、戸長役場に訴えた。とりわけ、西寄りの風が吹くと大きな影響を受ける札内台地や、四、五キロメートル下った川上集落の被害は目に見えていた。

 しかし、村全体が被害農家に同情したかというと、そうとも言い切れなかった。地域によっては「うちの葉物は、別に枯れたり、弱ったりしていない」と話す農家があれば、「漁場の補償があったから、おこぼれにあずかろうとしているんじゃねえか」と邪推する者もいた。被害の全容がつかめないことや、天候次第で煙害の出現度合いにムラがあるなどの要因も、不利な条件となった。

 ともあれ、鉱山側は折れた。抗議の村民大会が開かれた翌年の大正六年四月、農業団体である幌別農会に三千円の一時金を渡した。役場に対する源三の叱責が影響したか、否かは、定かではない。ただし、漁場への継続補償とは違い、一回限りの見舞金的な性質の金だった。さらに被害の大小にかかわらない平均しての分配だったから、大きなダメージを受けた農家の不満や憤りはなお、くすぶり続けた。
 源三も「いっときの金に惑わされるな。これからも続く煙害を考えたら、こんなの、はした金だぞ」と、矛(ほこ)を収める気など、さらさらなかった。

 
 

(3)

 鉱山の製品積込場と幌別停車場を結ぶ馬車鉄道九・六キロメートルは、開鉱翌年の明治四十年七月に開通した。その軌道線上の中間地点に、十五戸の農家が点在する川上集落がある。岩田源三がこのあたり一帯の国有林を払い下げてもらい、市街地から移り住んだのは明治三十三年の秋だった。結婚したばかりの二十二歳は、馬二頭と農具一式を親から譲り受け、夏は砂利採取業、冬は造材の請負業を営み、木材の搬出に欠かせない馬の飼料作りや自家野菜の畑作にも励んだ。

 新天地に居を構えて六年。源三と鉱山の関係は最初、それほど悪くはなかった。むしろ、「奥地に鉱石を掘り出す会社が出来るらしい」といったうわさが広がると、「坑内や鉱夫長屋、工場など建設用の丸太材や角材、馬鉄線路に敷く砂利が売れるかもしれない」と、固く結んだ口元をほころばせ胸算用した。
 ただし、馬車道沿いや幌別川を幾つか渡って敷かれることになった馬鉄の用地買収で「線路にかかる用地すべて買い上げたい」という申し出に、源三は首をたてに振らなかった。すでに市街地や川上集落を除く鉱山周辺の地権者は、相場に上乗せした買取価格に一も二もなく喜んで買収に応じたが、源三には何かしらの勘が働いたようだ。

 「岩田さん、カネ弾むから土地売ってくれ。ほかはみんな同意しているんだ」
 鉱山に雇われた、いかにも狡猾そうな交渉人の中年男が威圧感を感じさせるダミ声を響かせた。しかし、源三にそんな脅しめいた買収話は通用しない。
 「だめだ、だめだ、帰れ! 借地じゃなきゃ、土地は使わせない」
 「そこを何とか」
 設計を変更して、う回路を図面に引き直すと膨大な開削費用を要する区間だけに、源三が所有する路線予定地約二キロメートルにどうしても軌道を通すしかなかった。
 源三は頑として譲らなかったが、
 「ただしなあ、村のためになることだ。地代金はいらない。タダで貸してやる」
 と、腹の太いところを見せた。
 線路が敷設される土地は九割ほど買収が進み、「あの山師野郎め」と百戦錬磨の業者も地団太を踏んだが、「借地料ゼロ」に気を良くして引き揚げた。

 鉱山にとって岩田源三が唯一、言いなりにならない相手と意識するようになったのは、鉱毒・煙害問題が出始めた明治四十年の秋ころからだ。ただ、両者の対応が硬直化し、互いに背を向けて口もきかないほどだったかというと、それほど冷えた関係でもなかった。
 むしろ、川上集落の代表でもある源三が幌別川の鉱毒や煙害に憤慨しているようだ、との情報がもたらされると、鉱山側は枕木やその下に敷く砂利の購入に便宜を図り、穏便に済ませようとした。

 「金沢さん、うちが貸している馬鉄用地、返してほしいんだが、どうすりゃいいのかね」
 公害に間接的ながら手を貸しているという自責の念からだろうか、明治の末、鉱山事務所に二度ほど足を運んだ源三は、幌別鉱山代理役の金沢方正に用地契約を破棄したいと申し出、その手続き方法を教えてほしいと伝えた。
 銅製錬の溶鉱炉が完成したとき、構内を案内したあの金沢だ。
 「岩田さん、そんな、急に解約したいといわれても…」
 金沢は言葉を詰まらせ、分厚いレンズをはめこんだ丸眼鏡に手をかけて源三を見つめ直したが、そこは事務所の給仕からわずか三年で、事業所の幹部に抜擢された人物だ。
 「とにかく、契約内容を良く確かめて。上の方にも伝えておきますから待ってください」と、あくまでも丁重に応接した。
 「ところで、あんたはどこの出かね」
 源三が問い掛けると、金沢は「長野の片田舎ですよ」と答え、「貧農でした。養蚕を手伝っていたのですが、町の資産家の伝手で三井物産の札幌支店に」と、幌別にたどり着くまでの簡単な経緯を語り、幼少期に生家が破産したとも明かした。
 源三は、貧しい農家に生まれ北海道に渡ってきた十歳余り年下の金沢に対して、自身の来歴と重なり合うものを感じ、少なからず好感を抱いていた。

 岩田源三は明治十一年、兵庫県の辺ぴな村で生まれた。
 「明治の世になるまで、うちは由緒ある武家だった。今こそ、こんな身だが、侍の魂、気骨だけは忘れてはならぬ」
 口を開けば源三ら子どもたちにこう言い聞かせる父親の吉三郎は四十八歳になった明治十八年、北海道に渡り開拓に成功しているという親戚の話を聞き一念発起。妻と源三ら子ども三人を引き連れて同年秋に渡道した。
 最初の住まいは幌別村字浜のオンボロ小屋。源三はまだ七歳だったが、寸暇を惜しまず懸命に汗して働き、家屋も少しずつ広げる父母や兄の姿を見ていて、いずれ、自分もこの地で身を立て、財と名をなそうと心に決めていた。

 山をひょいひょい飛び回る源三と、机に向かいコツコツと鉱山経営を裏で支える金沢。性格や行動は真逆ともいえたが、事務所に何度か足を運ぶうちに、源三は貧しさゆえに故郷を離れざるを得なかった二人の似た境遇とともに、
 (腹の底にたくらみがない。生真面目なところは、俺と一緒だな)
 と、共鳴するものを感じ取っていた。
 その実直さに加えて、几帳面な性格も日頃の行いに現れていた。勤務日には鉱山の稼働状況を業務日誌に記録するのは当然として、彼はほかに自分用の備忘録を書き残していた。
 「六月二十日(木)晴 馬鉄敷地借用にて岩田源三氏との解約照会の返事に鉱長より来状ありて、近く事なく纏(まと)まる筈」
 経営陣にとっては呼び捨てにしたくなる相手だが、金沢は明治四十五年正月にしたためた備忘録の中でも、「来訪者、岩田源三氏」と敬称をつけるのを忘れなかった。

 一方の源三はというと、理にかなわないことがあると鋭く問いただす性格だったが、前後の見境もなく乱暴をはたらく直情径行型の男かというとそうでもない。幌別村の中心地にある菩提寺の総代を務めるほど信心深い仏教徒だったし、集落の長にとどまらず大正八年の二級村制施行に伴う初めての村会議員選挙では、当選者十二人中六番目の得票率を得た。当時の有権者は納税額や財産の多寡によって絞られ、全人口の五パーセント三百人ほどだったが、部落や周辺地域にとどまらず、村内のあちらこちらに「なにかと世話になっているゲンゾさんを、落とすわけにはいかねえ」という隠れ岩田派が結構いたのだ。

 
 

(4)

 「おとっさん」
 半分ほど戸が空いた玄関の向こうで、焚き木を手にした妻のヨシがかすかに震えながら、源三に顔を向けたまま納屋の方を指さした。夏も終わりに近づいた夕暮れ時だった、あと一、二時間もすれば深い闇があたり一面を黒く塗りつぶして、山も人里も押し黙り静かな眠りにつく。
 上り框(かまち)で地下足袋を脱ぎ、部屋に入ろうとしていた源三は、コクンとうなずいて、(分かった)と無言の合図を送り、草履に履き替えて表に出た。

 納屋の戸をそっと開け、道具置き場の先に目を凝らすと源三の予想通り、裸の、いや赤い褌(ふんどし)姿の若い男がうずくまっていた。薄い胸板を両手で抱き体を震わせながら、声を殺して泣いている。
 (またか。これで何人目だ?)
 男はここから一キロ余り鉱山寄りにある、俗にいうタコ部屋から逃げ出してきた土工夫だった。仲間から「あそこに逃げ込めば、まず大丈夫」と聞いた源三の家をめがけて、命がけで脱走してきたのだ。

 坑道にせよ、製錬所にせよ、あるいはズリ山や残滓の捨て場にせよ、鉱山に勤める者たちの仕事は極めて過酷だ。しかし、彼らを束縛するものは、何もない。賃金に不満があれば雇われている飯場長にひとこと「辞める」といって他の鉱山に流れることもできるし、転職も不可能ではない。だが、「タコ」と、ひとくくりにされ、夜は頑丈な錠のかかった丸太小屋に監禁される男たちに自由はなかった。

 「握りメシでもやれ」
 こけた頬に、洗濯板のような胸板、背中に残る幾筋もの痣(あざ)が痛々しい。もう気力は尽きたといった若い坊主頭の男の腕を肩に回して家の中に入れると、源三は渋面をつくりながらもヨシに命じた。
 チロチロ燃える囲炉裏のぬくもりに気が緩んだか、湯飲み茶わんの水をごくごく飲み干した若者の泣き声は、いつしかやんでいた。

 「あっちを探せ!」
 一時間もたたないうちに、こん棒とカンテラを手にした屈強な男たちが集落に入り込んで、家々の窓をのぞきこんでは、玄関戸を叩いて隙あらば入り込もうとしていた。この世界で、土工夫十人に一人監視役として置かれている棒頭と、その下っ端の小頭と呼ばれる男たちだった。

 距離十キロ弱の馬車鉄道と、事務所より奥の銅製錬所と旭鉱をつなぐ四・六キロの鉱石運搬用軌道。この二区間の線路建設や維持補修を請け負う三つの組がある。そのひとつが、若者が逃走をはかった黒崎組で、三十人ほどの男たちを苦役に就かせていた。

 仕事は線路の盛り土や切土、砂利や枕木工事、慣れない者はモッコかつぎや馬鉄の荷馬車押しなどに立ち働いたが、少しでも作業の手をとめて休むと、すぐさま駆け寄ってきて「働け!」と棒頭が、こん棒で打ちすえる。五回、六回と棒を振り上げるのには、見せしめの意味も込められていた。そして、逃亡を企てて捕まると凄惨なリンチが始まる。そのまま、命を落としても病死などとして、遺体はすぐさま幌別川の幾つかある中島に埋められた。官憲の手が届かない、治外法権の世界だった。
 丸太を組んだ長屋は板敷の三十人部屋で、窓も太い木材の格子造りで簡単には外せず、夜は入口に頑丈な鉄製の錠がかけられる。建屋内に仕切り壁はなく、屋根はあるが天井はなく、夏はアブや蚊に悩まされた。

 (ふん、どうせ奴らは入ってこられない。しかし・・)
 念のため、子ども部屋のさらに奥の小部屋に若い逃亡者を移した源三は、「どこの出だ」と聞いた。返ってきたのは、「とうきょう」。消え入るような声の底から、悔恨の慟哭(どうこく)が聞こえる。
 「お前も、そのくちか」と、源三はため息を漏らした。

 まだ「東京市」と呼ばれていた日本の首都や、大阪、名古屋などの大都会から、彼らは甘言を誘い水に集められた。
 「北海道に行けば、こっちより高い労賃を稼げる」
 駅前や公園、歓楽街などに網を張った「蛸釣り」と呼ばれる男たちが、紳士然とした身なりや言葉遣いで、たむろする浮浪者や家出人に声を掛ける。「ここではなんだから、一杯やりながら」と料亭などに連れ込み、ふだんありつけない豪勢な酒食でもてなす。「向こうに行けば食事代は雇い主持ち。酒も毎日出る」との言葉に気をよくした無宿者は、泥酔状態になるまで酒を浴び、いつの間にか差し出された契約書らしき紙に指印を押していた。そして列車や海峡を渡る船内で弁当や酒を手渡してペコペコしていた道案内役の男は、幌別鉱山の飯場に着くと豹変した。一生働いても返すあてのない借金地獄に、放り込まれたのだ。

 血眼になって脱走者を探す棒頭らの叫び声や足音は、小一時間ほどで闇に吸い込まれて消えた。二、三年前、源三が初めてかくまった時、玄関前で追手が立ち入ろうとするのを一喝し、翌日、鉱山事務所に「許可なく勝手にひとの家に入り込もうとする。鉱山はこんなこと、許しているのか」と、ねじ込んだのが今も効いている。
 「岩田の家だけは、行くな。下手に騒がれると面倒になる」
 黒崎組だけでなく、ほかの組頭も手下に厳命した。

 数日後、晴れ渡った空の下、荷馬車に製材を積み、馬車道から市街地を抜けて隣町の室蘭に向かう源三の馭者(ぎょしゃ)姿があった。
 (きょうは、大きな線路改修がある。奴らも忙しいだろう)
 ほくそ笑む源三の背で揺れる荷台の、人ひとり入れる木箱の隙間から、何かにおびえた若者の眼がのぞいている。三度目の逃亡ほう助にも、源三は平然とした顔で手綱を握っていたが、時折振り返っては後を確かめた。木こりの仕事着に身を包み息を潜める若い男は、室蘭港から森へ渡る船賃など幾ばくかの金が入った懐中袋を、しっかりと握りしめていた。

 
 

(5)

 大正九年五月、小田良治の私山だった幌別鉱山の鉱業権は、三井財閥の資本を投じて設立したばかりの北海道硫黄株式会社に渡った。
 この年の三月、第一次大戦後の景気から一転して、東京市場の株価が暴落するなど国内に金融恐慌の嵐が吹き始めた。幌別鉱山ではそれ以前から、銅の大幅な取引価格の下落や、好調だったオーストラリア向けの輸出不振が経営に響いていた。壮瞥・硫黄山から引いた索道の維持補修費もばかにならない。村内では「川の鉱毒や煙害問題もあって、鉱主の小田さんが嫌気をさして手放したらしい」といったうわさも流れた。

 ヤマの主の交代早々、北海道硫黄は第一次五カ年計画を立て、すぐさま実行した。その第一弾が、六月下旬に打ち出された旭鉱、岩の崎鉱の採掘中止。事業を止めれば人手は不要と、壮瞥側を含め、鉱夫や製錬作業に従事していた二百人が整理され、八月中旬には全山休業に入った。
 銅や硫黄製錬所の大煙突から吐き出されていた煙は、ピタッとやんだ。

 全山休業とはいえ、鉱山からすっかり人が消えたわけではない。収入は途絶えたが、大資本をバックにした会社の懐具合に余裕はあった。
 旭鉱や岩の崎鉱、硫黄山鉱区は、採掘再開に備えて坑道の維持管理に人手を必要だったし、製錬場の設備類、電力をまかなう水力発電所、鉱山線の点検整備なども大事だった。結局、人員は最盛期の四分の一に減少したが、購買所や役場支所、診療所のある山峡での社宅生活を続けることができた。

 新会社への引き継ぎ業務を終えた金沢方正に大正十年春、小田良治が所有する道北の鉱山への転任指示が出た。
 「いろいろあったが、あんたには結構、世話になった。これ少ないが」
 幌別駅ホームに見送りに来た北海道硫黄の幹部や請負の親方らが居並ぶ中、源三は大工の一日の手間賃に相当する二円を餞別として金沢に手渡した。
 この十年余、煙害問題で二人の間に何度か、気まずい雰囲気が漂うこともあった。しかし、それはそれ。源三が四十二歳の初老長寿祝いをしたとき、金沢は餅を贈り、そのお返しが届くと、「丁重なる返礼あり」と備忘録に書き記すなど、ささやかだが単なる儀礼にとどまらない交遊もあった。

 鉱山関連の仕事がほとんどなくなった源三はというと、伐り出した丸太の七割を苫小牧の製紙工場に継続して納めていたし、室蘭本線の線路維持に必要な砂利や枕木の販売なども続けていて、事業規模こそ縮小したものの生業は維持していた。

 すっかり黙りこくった幌別鉱山から、東へ南へと流れる風がすがすがしい。こんにちで言う酸性雨も含め、亜硫酸ガスの煙害に泣いた農民たちは、生気を取り戻した緑の大地で笑顔の労働に励んでいる。漁民たちは幌別川への鮭の回帰を期待した。

 「三津原さん、大根の育ち具合はどうかね」
 高原の夏を謳歌する揚げ雲雀のさえずりを背に、馬上の男が野良仕事にいそしむ農夫に声をかけた。
 「煙が来なくなって、今年はうまく育ちそうだわ。ゲンゾさんとこは、どうだね」
 「うちらの方も、まずまずの出来だ」
 大正十年夏、アイヌのひとたちが「乾いた沢」と呼ぶ札内の台地に馬で乗り入れた源三は、畑仕事に忙しい三津原伊三郎と久しぶりに言葉を交わした。
 日焼けした額や目尻のしわ数が、野良仕事への精根ぶりをうかがわせる伊三郎は、源三より八歳年上の明治二年生れ。生地は同じ兵庫県三原郡(淡路島)で、岩田家より四年のちの明治二十二年、一家挙げて幌別村に移住してきた。

 「嫁と二人で、奥川上地区からここに移り住んだときは、とにかく水、水、水だった」
 ちょうど二十五年前、新婚間もなく移り住んだ無水の台地を両親、兄弟の手も借りて居住地周辺の水脈を探し回った。
 「一カ月、いや二カ月かかったかな。苦労の末に、やっと噴き出し口を見つけたときの喜びといったら。分かるか、ゲンゾさん」
 その後、井戸水も掘り当て、樽に水を入れて家まで運ぶ苦労もなくなったと、伊三郎は源三に会うたびに、入植当初の苦労を繰り返し語った。

 幌別村市街地から北へ約四キロ、海抜百メートルからニ百メートルの台地に広がる札内は、楢の木が多い森林地帯だった。当初、屯田兵用地として幹線道路が整備されたが、明治二十八年に屯田兵条例は廃止された。その二年後に入植したのが、北海道開拓移民募集に応じて渡道した、十数戸の香川県人だった。同時期に、結婚二年目の伊三郎も、川上集落の更に奥地から札内に移り住んだ。
 住民らは主要作物の大豆や小豆を隣の室蘭や小樽などにも出荷し、馬鈴薯やソバ、根菜類も栽培。冬場には鉄道の枕木になる樹木を伐り出し、現金収入を得た。

 「しかしなあ、八年前の大冷害で、二十戸以上あった農家は、うちら六軒だけになってしまった」
 遠くに見える高さ千メートルほどの来馬岳を眺めながら、伊三郎はどうにも抗(あらが)いようのない自然災害の猛威に溜息をついた。
 「それに追い打ちをかけたのが鉱山の煙よ」
 今度は幌別鉱山に近い西方に端座する神の山カムイヌプリに目を転じて、止めようとすれば止められるはずの人間の手による禍(わざわい)をののしった。
 「まあ、去年の休山で煙は止まったが、いつまた空から毒ガスが降ってくるか分からない」
 (その時は、頼むよ、ゲンゾさん、俺たちの議員さん)
 そんな切実な訴えを、源三は聞き取った気がした。

 この年、二回目の村議会議員選挙が行われた。当時の議員の任期は二年。当然、源三も立候補した。結果は定員十二人中、最下位の十二位。ギリギリ滑り込んだものの、源三はこれまで支持してくれた村の中堅どころの中から一人、また一人と自分から離れて行くのを薄々感じていた。彼らが背を向けた理由は何か。
 「景気のせいもあるが、あまり煙害、煙害と騒ぐから鉱山が休みに入った。村の活気が失われていった一因は岩田にもある」
 陰でささやかれるお門違いのマチ場の声も、人の口を介して聞こえてきた。
 (捨てておけ。俺は間違っていない)

 しかし、二年後とその次の村議選挙で当選者名簿に岩田源三の名前はなかった。
 連続三期目に挑んだ大正十二年五月の村議選では、地元新聞が四十五歳の源三をこう評した。
 「渋みのある論法は善く、全村議会の花形として吾らに君を想像せしむ。幌別鉱山の得票は或いは君に移るものとならんと伝えられ、あるいは親族票にて有に当選するという者もいる。幌別村議会の幸運児とは君のことというべきか」
 随分、持ち上げた下馬評だが、これで選挙運動のタガが緩んだのか、あえなく次点で落選した。あの記事は、ひょっとして源三陣営を油断させる鉱山会社の差し金だったのかも、と裏を読む支持者もいたが後の祭りだった。

 
 

(6)

 構造物は屋根と鉄骨むきだしの柱だけ。外気をさえぎる壁も扉もないその建屋に、 破砕選別され、水洗いの後乾燥させた硫黄の原鉱石が運び込まれた。レール上の トロッコを押してきた男たちのいでたちというと、袖丈が中途半端な薄手のシャツに 下は粗末な作業ズボン、頭を薄汚れた手拭で蔽っていた。

 大きな土管をいくつも継ぎ足したような、長さ九メートル余りの沈殿管が地面から 顔を出している。その両サイドに並行して、六つずつ、計十二枚の鋳鉄製丸釜が土中に 埋められ、直径八十センチほどの蓋が被せられている。男たちはその蓋を外し、 鉱石をせっせと放り込むと、再び、しっかりと蓋をしては次の釜口に移り、 作業を繰り返す。やがて焚口に火がくべられ、コークス燃料などが燃やされると、 炎道を走る数百度の熱風が釜の周囲や底を熱していく。
 「ゴォー」と、地下から炎の唸り声が響く。そして釜の温度が四百五十度に達すると、 硫黄成分は気化して沈殿管へと導かれ、その後液化して受け釜に移される。あら熱を 取った後、柄杓(ひしゃく)で型缶に移し終えると、焼取製錬法と呼ばれる大まかな 硫黄製品化の作業工程にピリオドが打たれる。そして炎道を走った燃焼ガスは製錬 ガスとともに、大煙突から大気中に放出された。

 (すげえ・・・)
 硫黄製錬建屋から十メートルほど離れた木陰に隠れながら、男たちの仕事ぶりを 見守っていた小学生たちが、目がチカチカするのを忘れ、息をのんだ。
 横風が吹き込むのを見計らって、男たちはさっと焼き釜の蓋を開け、特殊な形状の 鉄の棒を釜の中に突っ込んだ。両手に耐熱用手袋、鼻から下は厚手の手拭で蔽い、 灼熱と有毒ガスに備えているが、命がけの仕事であることに違いはない。夏の暑さに 地面から湧きたつ熱気が加わり、いっそう動きが緩慢になった男たちの姿が かげろうのように揺らいでいる。

 (地獄の釜から、悪魔がおっかないベロを出している)
 身震いして覗き見る子どもたちの目に映ったのは、蓋を外した瞬間、釜の口から顔を 出す青とも黄色にも見える炎だった。風上に足場を構えた男たちは、中で溶融した硫黄を 必死にかき混ぜると、素早く釜に蓋をしてマスク代わりの手拭を外すと、ふぅーと肩の力 を抜いた。
 黒砂糖を口に放り込んで、次の作業に取り掛かる男たちに背を向けて、子どもたちは 一キロほど離れた社宅に戻って行った。
 「すごかったな」と一人が声に出したが、ほかの子どもたちは口をつぐんで、 うなだれるようにして歩いた。製錬工場の付近一帯に広がる草木の枯れ果てた 光景には、日常のそれとして、もう驚きはしない。だけど、ついさっき目に 焼き付けた、汗だくになりながらゼニを稼ぐ男たちと、親の姿が重なって見えた。
 鉱山小学校の先生や親たちから「あそこだけはダメだ」と、行くことを 禁じられていた製錬工場。夏休みに入り、年長の六年生が「黙っていれば分からない」 と言い出し、怖いもの見たさ半分の冒険心をときめかせてこっそり見に行ったものの、 目や喉の痛みと共に、はしゃぐ気持ちはすっかり萎えて足取りは重かった。

 大正十三年七月、幌別鉱山は操業を再開した。
 全山休業に入る四年前と大きく違ったのは、手間とコストの割に利益が少ない金、銀、 銅の採掘はあきらめて、硫黄製錬一本に絞ったこと。それも壮瞥村黄渓の硫黄山から 掘り出される鉱石を主力にした。壮瞥側にも製錬所はあったが、採掘能力を高めると 幌別側にある五基の製錬炉もフル稼働させた。
 同時にまた、農民たちを泣かせる煙害も復活した。

 「ゲンゾさん、よかったな。これからだ」
 「村の議会でも、煙の実害を訴えてくれ」
 大正十二年以来、二期連続で村議会の議席を得られなかった源三もまた、昭和二年五月 の選挙で最下位ながら復活を果たした。
 造材業者の看板にふさわしい御殿造りの岩田邸で、親類縁者や支持者らが集まり、 ささやかな祝勝会が開かれた。
 反公害にとどまらない支持者たちの、さまざまな期待を受け止めながら、 (あの貸借契約の但し書きを、もっと有利にしておけば)と、源三は唇をかんだ。
 悔やまれるのは、煙害阻止の唯一の武器ともいえる軌道敷地の貸借契約書の一項だ。 鉱山線敷設の際、取り交わした書面の最後に「但し、貸借契約を解除する場合、 双方合意の上とする」との条件がつけられ、それまでは契約を自動継続するとしていた。

 源三が村議に返り咲いた翌年四月、鉱山線の貨車や客車を引く馬に代わって、英国製の 中古六トン蒸気機関車が投入され、秋には雨宮製作所の新しい五トンSLも追加購入 された。製品化された硫黄棒を詰め込んだ樽にとどまらず、ダイナマイトや燃料、 生活用品など、人間も含めてありとあらゆるものを運ぶ鉱山会社の生命線だけに、 北海道硫黄は輸送力アップに心血をそそいだ。

 「ゲンゾさん、俺を雇ってくれねえか」
 「砂利屋でも、木こりでも、なんでもいい。頼む」
 蒸気機関車への切り替えで、仕事を失った馬車負(ばしゃおい)たちが 源三を頼ってきた。鉱山会社の私線ではあるが、馬鉄はすべて請負仕事で、 九・六キロを四区間に分け、親方と子方数人でつくる四つの組が「貨物一トン当たり 運送料は幾ら」と取り決め、輸送に携わっていた。
 「分かった。何とかする」
 もとよりイヤとは言えない源三は早速、幌別鉱山事務所に乗り込んだ。
 「会社の都合で、奴らはあぶれたんだ。口添えだけでも、するべきだろう」
 凄みをきかした直談判に、再び敷地の貸借契約を持ち出されては困る—と、鉱山 事務所は要請状を書き、源三はそれを手に他の砂利詐取業者や運輸関係の業者を 回った。結果、土地を離れることなく新しい職にありつけた男たちの中には、馬引き による鉱車入れ替え運送業の経営権を手にした者もいた。

 しかし、このころの国内経済は昭和金融恐慌の波に呑まれ、とりわけ農村地帯が 生産物の価格下落などで貧困にあえいでいた。そこで国がとったのは海外への移住促進。 幌別村からもこの年の十一月、大字鷲別村の農民一家六人が「ここより、 まだましだろうと」と希望を胸に、ブラジルへ渡った。

 どこかソリが合った金沢方正が去り、私山経営から会社組織に衣替えしても、 源三と幌別鉱山の関係は、それほど険悪にはならなかった。状況が変わったのは、 でっぷりした新しい鉱山長が東京本社から赴任してきた昭和四年の春あたりからだ。
 三井系の別会社が持つ本州のいくつかの鉱山を歩いてきた四十代のチョビひげ男は、 着任早々、あいさつにやって来た村の有力者が平身低頭しても、明らかに(田舎者が) といった冷ややかな態度を見せた。源三に対しては直接会うことを避け、一緒に 他の鉱山から移ってきた三十代半ばの事務長にこう命じた。
 「被害農家には、三千円もの大金を出している。すでに解決済みの話だ。取り合う 必要はない」
 土地の人間と仲良くやろう、という態度はみじんもない。会社の利益第一主義に 凝り固まっている。

 (やっぱり、これまでと違うな)
 煙害で枯損した杉の丸太などを持ち込むと、会社はその都度、快く買い上げて くれていたが、最近はそれを渋るようになった。砂利の納入にしても「ほかの業者 もいるんで」と取引上の優先、優遇度合いを薄めてきた。金沢の後を継いだ佐々木 という事務長の言葉遣いや応接態度も以前と比べ、どこか、よそよそしい。
 源三の顔をさらに険しくさせているのが、製錬炉の増設で農業被害が以前にも増して 深刻になっていることだった。
 そのうちに、あのチョビひげ鉱山長が「線路用地の契約解除? 打っちゃっとけ」 と事務方に指示していた、という話が飛び込んできた。
 (何とか、止めなくては。こりゃあ、ひと戦(いくさ)になるかもしれん)
 まなじりを決して鉱山会社に立ち向かう、もう一人の自分が、想念の中に現れては消え、また現れた。

 
 

(7)

 黒い六トン級タンクの上に山高帽を思わせる煙突をチョコンと載せた蒸気機関車が、 連結した客車と貨車ニ両を引っ張り、あえぎながら、さして急でもない勾配の山懐へと 上ってきた。
 朝方、幌別鉱山を出発した客車には、幌別尋常高等小学校の高等科に通学する 十ニ、三歳の鉱山の子どもたち十人余りが乗っていて、幌別駅に着くと、貨車に 積まれた硫黄の製品樽とともに降ろされた。折り返しの便に積まれたのは郵便物や 雑貨類で、ほぼ空の状態だったが、下りと違い、駅から約十キロ先の終点は 海抜百メートルの山の中だ。このクラスの汽車だと馬力が違うだけで、上りの速度は 馬鉄時代とそれほど大きな差はなかった。
 黒い煙を吐きながら住宅地を抜けると、カムイヌプリ山麓と、溶結凝灰岩の 百メートル級懸崖に挟まれた幌別川沿いの軌道上に差し掛かった。
 (渋谷橋まで、あと十分はかかるな)
 機関士が、茶屋もある列車交換線までの所要時間を、胸算用していたときだ。
 「うん? なんだ、ありゃ」
 前方を見据えていた釜たきの機関助士が、窓から身を乗り出して目を細めた。
 レールの先にポツンと見える豆粒は何か、はっきりしない。障害物であることは確かだ。 だれかの悪戯(いたずら)だとしたら、鉱山線開通以来初めての運行妨害になる。
 「ブレーキ! ブレーキ!」
 機関士は声を張り上げながら慌ててハンドルを操作し、若い機関助士が「ピィー、ピィー」 と汽笛を何度も鳴らした。そしてレール上に筵(むしろ)旗らしきものを認めると同時に、「人だ!」と、肝を抜かした。
 昭和四年七月半ば、村始まって以来の椿事が、深い緑に抱かれた川上集落近くの鉱山線で起こった。

 制輪子のきしむ音がやみ、二軸の動輪がピタッと回転を止めると、二人は息せき切って 二十メートルほど先の線路上に座る、裸の男の元に駆け付けた。

 「あっ、ゲンゾさん」
 そこには、褌姿であぐらをかいた岩田源三がいた。右手で一升瓶を持ち、何やら ブツブツ言っている。二人は一瞬(気でも触れたか)と顔を見合わせたが、すぐに それが般若心経であることに気づいた。

 まだ昼前とはいえ、夏の日差しはきつい。二百六十二文字の経文を唱え終えると、 源三は立ちすくむ二人を見上げてからニヤリと不敵な笑いを浮かべ、一升瓶の蓋を取ると、 頭の上からドクドクと酒を浴びた! と思ったら、それはただの水だった。そして 今度は傍らの日除け笠をかぶると、再び「マカハンニャ、ハラ、ミツタシンギョウ~」 と低く唸るように読経を始めた。長期戦の構えだ。うろたえつつも「頼むから、 のいてくれ」と訴える機関士の声など、まったく耳に入らぬ体(てい)に、鉱山事務所に 走った三十代の機関助士の頭の中に、かっと目を開き剣を手にした不動明王の坐像が浮かび上がった。

 一時間後、機関助士が鉱山の幹部とともに馬車に乗り合わせて、戻ってきた。 幌別の市街地からも村長や、鉱山の仕事を請け負う業者などが駆け付けた。
 「ゲンゾさん、なんでこんな真似するんだ」
 「営業妨害で訴えられるぞ。早く、やめろ」
 説得は小一時間ほど続き、それまで何も答えず、ひたすら般若心経を繰り返し唱えていた 源三が、やっと周囲を見回して、一喝した。
 「鉱山から毒ガスが出てるうちは、やめねえぞ」

 取り囲む男たちの中に、あの鉱山長の姿はなかったが、開鉱当時から鉱山に 常駐する請願巡査のいかつい顔があった。鉱夫らの暴動などに備え、会社が給与や 派出所の建物などを負担する警察官は、源三とも顔なじみではあったが、機をみて 事務長に近づき、半ば職務に忠実であるところを見せようと、「捕まえましょうか」 と、腰のホルダーに手をあて耳元でささやいた。
 佐々木事務長は眉根を寄せて目線を地面に落としたが、すぐに顔をあげて「だめです」と小声で強制排除を止めた。

 「タダで貸してる俺の土地だ。ここで何しようが俺の勝手だろう」
 源三は、再び大喝した。いささか無理のある言い分ではあるが、 二十三年前の開鉱当初に交わした契約書には「用地の貸主といえども、 列車運行中は線路敷地への立ち入りは禁止」との約束事は、どこにも書かれていない。
 あえて例えるなら、戦後の労働争議で使われたロックアウト、それもたった一人の 線路封鎖という、企業側にダメージを与える実力行使は、この日の夕方まで続いた。

 「今度だけで、終わるべか」
 「あの男のことだ。また、やるぞ」
 「ほら、何とかキケン罪とかあるべ。それで取り締まれないか」
 翌朝早々、鉱山事務所では請願巡査も交えて、幹部たちが額を寄せ合い、源三の座り込み 対策を練ったが、これといった妙案は浮かばない。
 すると鉱山長が「君たち、まず東京の弁護士に相談したまえ」と薄笑いを浮かべながら 「あんな男の一人や二人」と言いかけて口をつぐんだ。

 「汽車又は電車の往来の危険を生じさせた者は、二年以上の有懲役に処する」
 明治四十一年に施行された刑法の第百ニ十五条一項に「往来危険罪」がある。この 「危険」には官営、民営を問わず「脱線、転覆、衝突、破壊など交通機関に 実害の発生する可能性」も含まれている。

 会社側の頭脳である弁護士は、源三に刑事罰を与えるあらゆる可能性を探った。 しかし、実害といえば鉱山線の運行ストップで製品や資材運搬面で時間的な遅れは 生じたが、脱線、衝突などによる実害発生の可能性とするには、根拠が乏しかった。
 「もともと、この刑法は置き石などによる騒乱罪を念頭につくられた法律でしてね。 レール上の生きた人間まで想定していません」
 東京から足を運んだ、いかにも頭脳明晰な都会の中年弁護士が、鉱山長以下居並ぶ 幹部に説明した。
 「おまけに、そこに座り込んだのが土地の所有者で、相手は借地料を 受け取っていないとなると、話は複雑になります」
 民事裁判で損害賠償を訴えても、マスコミを通じて煙害問題も全国に報じられ 可能性がある。最初は鼻息の荒かった幹部連中も、最後は黙りこくった。

 二回目の座り込みは、会社所有地の境界近くで行われた。最初と同じ褌姿ではあったが、 無地だった筵旗に目をやると縫い付けた白地の布には「毒ガス、とめろ」の朱文字が大書きされていた。

 年が明け、雪解けを待って月一回ペースの反公害行動は再開されたが、村の空気が変わってきたのを源三は感じていた。
 奇想天外な示威活動は村人たちをあっと言わせ、「よくやった」とひそかに称賛する人もいたが、 それも最初のうちの話。線路上のデモも幾度か繰り返されるうちに、好奇のまなざしは 薄れ、やがて飽きられる。年を越すと「何もあそこまでやらなくても」「鉱山だけでなく、 うちも損害が出た」「高等科の小学生の帰る足がなくなって、やり過ぎだ」との声が マチ場から聞こえ始めた。

 もうひとつ。こちらの方が深刻な、源三を窮地に追い込む出来事が起きた。
 「おかしいな」
 座り込み二年目の昭和五年五月下旬、事務所に充てている自宅の一室で源三が 怪訝(けげん)な顔つきで、しきりに入金伝票などの束をめくり直していた。 会社の会計事務を手伝っている小柄なヨシは「どうしたんよ」と聞いた。
 「とうに入金されているはずの丸太代が入っていない。遅すぎる」
 半年前に幌別駅で貨車積みし、製紙会社や木工場など得意先に送ったはずの丸太の 代金が、まだ振り込まれていない。
 「ああ、ちょっと遅いから、先々月と先月のお給金、金庫から出して払って おいたがね」
 ヨシは、(稀にある入金遅れだ)と、さほど気に留めていなかったらしい。

 「それにしても」と、源三はその日のうちに、運搬から貨車への積み込みまでを 委託している二つの運送店を回ってみると、意外な答えが返ってきた。

 「なに! まだ積み込みもしていない? なんでだ」
 停車場へも移動していない岩田組の丸太の山が、それぞれの運送店の仮置き場に放置されているのをみて、源三は色を失った。
 害虫や菌類の浸入、繁殖などで丸太の商品価値が失われかねない。いや、それ以上に 雇い人の賃金支払いなど、もろもろの次の出費が迫っていた。
 (のんびり、待っていた俺がばかだった)
 不屈の闘志は萎え、ああだ、こうだと言い訳する担当者を怒鳴りつけるでもなく、 源三は「早く、しろ」と言い残して、その場を去った。
 (間違いない、あっち側の差し金だな)
 源三はこの時、貨車積みの遅延行為が鉱山会社を大得意先とする運送店二社が、 事務所の意を汲んで仕組んだ妨害工作だと読んだ。そこには、無言の警告文が張られていた。
 「これ以上、鉱山線の座り込みはやめろ」

 
 

エピローグ

 丸太の荷送り妨害が発覚してほぼ半年が過ぎた十二月初め、小雪舞う早朝の幌別駅ホームに旅装を整えた岩田一家八人の姿があった。
 見送る人々の目が、涙でにじんでいる。川上集落の住民や札内の三津原伊三郎、再就職で世話になった元馬負たちも泣いていた。
 当の源三は晴れ晴れとした表情で一人ひとりに「世話になったな」「ひと旗あげて、帰ってくるからな」と胸を張って別れのあいさつをしていたが、さすがにいつもの覇気は感じられない。
 第二の故郷幌別村を離れて彼らが向かうのは、船旅で二カ月は要する一万七千キロ彼方のブラジル・サントス港だ。

 源三がブラジルへの移民募集に手を挙げたのは、この年の秋口だった。妨害工作による丸太の大幅な出荷遅れが資金繰りを悪化させ、取引先が他の業者に替えたことも経営に大きく響いた。
 (列車の妨害には、出荷妨害の意趣返しか。負けた、負けた)
 村の一大産業を敵に回して戦いを挑んだ男は、兵糧攻めによる敗北をあっさり認めたが、転進への決断も早かった。
 残りの預貯金や所有地、家屋などを売り払った金で、冬場だと四、五十人はくだらない木こりや山子たちへの残りの賃金を、きれいさっぱり支払った。
 マラリアや猛獣、劣悪な衛生事情など未開のジャングルに潜むさまざまな危険は、すでに二年前にブラジルに渡り命からがら戻ってきた移住体験者からも聞いている。

 「俺たちのせいで、こんなことになってしまって」
 「何とか、思いとどまってくれねえか、ゲンゾさん」
 集落や札内台地の農民たちは、まさか、自分たちのために戦ってくれた男が、ここまで追い込まれていたとは、と胸を締め付けられる思いだった。
 彼らだけはない。ブラジル移住の話を聞きつけ、村長や村の有力者までが、夜になって慰留に訪れたが、「済んだことだ」と、恨み言ひとつ言わず帰した。

 遠い異国に旅立つのは源三と妻ヨシ、五人の息子と四女。すでに結婚した娘たち三人は、地元に残ることになった。

 岩見沢から疾駆してきた蒸気機関車が、ホームに滑り込んだ。列車に乗り込み窓を開けた源三の胸に、タコ部屋から逃げ出し逃走を助けた青年の蒼白な顔が一瞬よみがえった。
 「ボォー」と汽笛が鳴らされると、期せずして「ゲンゾさん、バンザーイ!」と誰かが両手を高く挙げた。つられて唱和する人々の声が、ホームの屋根や煤にまみれた車体を震わせた。まるで戦地に赴く出征兵士の見送りに似てはいたが、そこに沸き起こったのは歓呼の声ではない。惜別の哀感に満ちた叫びだった。
 粉雪はいつしか、ホームに残った村人たちの涙の粒を包みこみ、落ちては消える牡丹雪に変わっていた。
      (了)

  「文芸のぼりべつ41号」(2022年8月発行)に掲載

 
 
 

主な参考文献


 史観(長内弘)
 幌別鉱山と藤江出来太(登別南高校人類研究部)
 金井抱二日記(登別市教育委員会蔵)
 登別町史(登別町史編纂委員会)
 市史ふるさと登別(登別市史編さん委員会)
 山の想い出(幌別鉱山会)
 郷土史探訪・郷土史点描(宮武紳一)
 
 
 

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