登別町史の1
登別町史 第一編 総説 (3P~84P)
 
 
 第1章 登別町の自然環境
 1、位置・面積・境界
 登別町は、登別温泉を包蔵していることで全国的にその名を知られている。位置は北海道の南西部にあって、東は 東経141度11分22秒から西は東経140度58分15秒まで、また南は北緯42度20分59秒から、北は北緯42度33分13秒におよんでいる。
 形状はほぼ菱形をしていて、面積は213・677平方キロメートル、東西18キロメートル、南北22・6キロメートルである。
 東南は広漠とした太平洋に面し、海岸線は鷲別岬・富浦岬(旧蘭法華岬)を除いてほとんど一直線をなしている。東北は登別臨海温泉、クッタラ湖などの白老郡と接し、北はお花畑で有名なオロフレ山、それに来馬山・幌別岳を結んで有珠郡と接している。さらに西南は鷲別岳・鷲別岬を境として室蘭市と隣接している。この室蘭市との境界は過去においてしばしば変遷があり、ほぼ現在のような姿になったのは明治34年(1901)3月である。
 江戸時代は、松前藩が蝦夷島、すなわち現在の北海道を支配していて場所請負人制度が発達していたが、そのころの登別町は幌別場所といわれた。寛政以前における絵鞆場所(現在の室蘭市)との境界は、松浦武四郎著『蝦夷場所境取調書上』によると、チリベツの上からワシベツの見通しに境を定めたといわれる。
 その後、寛政11年(1799)松前藩士細界儀右衛門が幌別場所請負人のとき、両場所を合併して請負っていたことがあったが、その後また分けられて境標が建てられたという。
 明治3年(1870)開拓使は幌別・室蘭の二郡を改めて決定したが、明治23年(1890)になって室蘭市の輪西・元輪西・千舞鼈を合併したものの、明治31年(1898)にはまた元に戻し、さらに明治34年(1901)3月になると北海道庁は、境界をほぼ現在のように改めたのである。すなわち明治34年2月1日の北海道庁告示第八十三号によると、つぎのように明示されている。
 胆振国幌別郡、室蘭郡郡界は鷲別岬尽端より、鷲別山絶頂を縦断し丘陵および国道に沿ひて進むこと凡そ220間、やや東曲して丘陵に沿い、鷲別川にいで流身を遡(※正しくはシンニョウではなくサンズイ)り、鷲別岳に至るを以て境界とし、その郡界に伴ひ室聞郡に属すべき土地は、全部これを輪西村に編入す、ただし区域図は所轄戸長役場に備え置く。
 
 2、地勢
 登別町の地勢を概観すると北に高く南に低く、およそ火山地帯・台地・平野の3地帯に分けられる。
 火山地帯には、北東から西方にかけてクッタラ火山群・カルルス火山群・鷲別岳火山群がそびえたち、ついで海成の高原状台地が広く展開している。この台地に引き続いて、海岸平野ともいうべき沖積平野が南西から東に帯状に横たわり、そのつきるところが太平洋となっている。
 クッタラ火山群は、本町の北東部に位置してクッタラ火山(534メートル)を主峰とし、そのふもとに四方嶺(549メートル)、北山(580メートル)、日和山(366メートル)、船見山(280メートル)が続いている。クッタラ湖は、クッタラ火山の山頂の陥没によって生じたカルデラに水がたまったもので、周囲は完全なすり鉢状をなし、環 壁の見事さは他のカルデラ湖に比べるものがないほどである。径2・3キロメートル、周囲7・9キロメートル、湖水位は海抜279メートル、最深部146・5メートル、平均深度105メートル、透明度は11-24メートルである。
 また、地獄谷・大湯沼はともに爆発火ロで、その特異な景観のみならず登別温泉の泉源の三分の二を供給
 している。
 カルルス火山群は北部に位置し、来馬岳(1,040メートル)、登別岳(1,002メートル)、オロフレ山(1,230 メートル)、加車山(897メートル)などがほぼ長円状にカルルス盆地をかこんでそびえている。仙境カルルス温泉は盆地のほぽ中央に位している。カルルス盆地は爆裂火ロで、湖成堆積層が存在することからその昔湖水で あったと推定されている。おそらく千歳川によって谷が深くえぐられるようになり、湖水が排出され盆地となったのであろう。橘湖は、岩質の点からクッタラ火山の一員でないかといわれていて、湖水位海抜430メートル 、最大深度13・2メートル、周囲800メートルの小さい湖である。
 鷲別岳火山群は西北方に位置し、鷲別岳(911メートル)を主峰とし、幌別岳(736メートル)、アソイワ岳(791メートル)、462メートル山、鷲別来馬山(750メートル)、カムイヌプリ(760メートル)などの山がそそり立ってい る。鷲別岳の北山麓には川又鉱泉が湧出している。
 さて、本町のこれらの山々は、那須火山帯の北部に相当する後志火山群の一部に含まれるものである。大湯沼・地獄谷を除くその他の大部分は洪積世の前半までに生成したもので、わが国旧期の火山に属し、解析 が進んで地形が複雑である。しかもその中には温泉があり湖があって、自然の風景がすぐれていて支笏洞爺国立公園に包含されている。
 また一方学術的には温泉や火山についての貴重な資料を提供しており、あるいはまた金属鉱床地帯としても、幌別川上流一帯の金・銀・銅の採掘、カルルス盆地一帯の褐鉄鉱、大湯沼ならびに地獄谷の硫黄掘りなどはごく最近まで稼行されていた。硫黄掘りの歴史は古く、時に盛衰はあったにしても現在なお続いている。
 台地は隆起性の海成段丘面で、海岸側から山側に向かって3段の面が発達している。低位段丘面が50-100メートル、中位段丘面が200メートル前後、高位段丘面が300-350メートルと、かなりはっきり識別される。この特徴は、幌別市街からカムイヌプリの分水線を眺めたときに最も明瞭に認めることができる。
 一方、台地は川によって谷が深く刻まれ、中登別・札内・高野台などに分かれる。なかでも札内台地は可耕地1,400ヘクタールを有し、最も広大で本町農業の中心をなしている。札内台地も中登別と同じくクッタラ火山から噴出した登別熔結凝灰岩が基岩をなし、その上にさほど厚くない火山性の土壌がのっているだけなので地味が悪く、地下水も容易に得られない状態である。農村には珍しく水道が早くから引かれたのもこのためである。また、この台地はオカツベツ川、ライバ川などによって深い谷が刻まれ、交通のさまたげとなっている。名勝不動の滝はハルキオカツベツ川の水源にあるが、そうした谷によって作られたものである。
 札内のほぼ中央にポントコ山(223メートル)がある。来馬山とともに火山活動でできた山としては本町最古のものである。
 平野部は台地状段丘に続く低平な地帯で、海退と堆積によってできた沖積平野で、ところどころに泥炭湿原をはさみ、海浜には砂丘が発達している。したがって農耕地としては利用価値の少ない地帯である。平野の南西部に鷲別岬、東方に富浦岬が突出してわずかに単調さを破っている。なお、なぎさから200-300メートルの間に、良質な漂砂鉄の鉱床が鷲別川から東方10キロメートルにわたって埋蔵されており、現在盛んに稼行されている。
 河川は、隆起作用が急激であったと考えられるこの隆起性台地を、深く解析して峡谷を形成している。登別温泉の紅葉谷付近で、平らな段丘面上に、深さ約100メートルに達する峡谷が刻まれていることでもそれがうかがわれる。いずれの河川もこの地域の構造線の方向に一致して、北西から南東に向って流れ、太平洋に注いでいる。カルルス温泉の中央を流れる千歳川と、登別温泉街を貫流するクスリサンベッ川は、合流して登別川となって海に注いでいるが、この千歳川は室蘭市の上木道水源として利用されている。
 また岡志別川は、字千歳(旧字岡志別)を流れていて、北海道ソーダ株式会社幌別工場に工業用水を提供している。幌別川・来馬川はそれぞれ中途で富士製鉄株式会社室蘭製鉄所や登別町浄水場に引水された後、河口近くで合流して海に注いでいる。この幌別川は町内随一の大きい川で、総延長20・5キロメートル、かつて川には多数の漁場があって、明治の末頃までは多い日で一日千本以上も鮭が獲れたものであるが、幌別鉱山の創業によりまったく獲れなくなった。現在では新産業都市の指定をうけ、年々増大しつつある室蘭地区(室蘭
 市・登別町)の工業用水として利用するため、幌別川ダムを築設している。富岸川は字富岸を流れていて、室蘭市の上水道水源として利用されている。
 また鷲別川は、室蘭市との境界近くを流れ、日本製鋼所室蘭製作所と室蘭市の水源として利用されている。
 このように町内の河川のすべては、それぞれ高度に利用されているが、地勢が北高南低の単純であることと、昭和29年(1954)の十五号台風によって山林にかなりの被害があったこと、また近年急激に伸展をみせている宅地造成の結果、ひとたび集中豪雨に見舞われると下流部分はたちまち増水し、満潮時に氾濫を引き起して家屋に浸水するおそれがあった。しかしその後、河川の改修や砂防ダムの建設などがすすんで、現在はそのような心配はなくなった。
 三、地質・土壌
 地質
 本町の地質は、洪積世になって火山活動が激しく行なわれたため、ほとんど全地域にわたって熔結凝灰岩、および砕屑岩の新しい火山噴出物が厚くおおい、先白亜紀層・新第三紀層などの分布はわずかに西半部の地域に限られている。
 先白亜紀層 黒色の粘板岩を主体とする大曲沢層と、緑色を呈する輝緑凝灰岩を主体とする大峠の沢層の二層からなり、本町北西隅にあたる幌別川の上流にごく小さい窓状の露出として認められる。この層は一般に古生層といわれているもので、層厚150メートル、多くの場合新第三紀層と断層で接している。
 新第三紀層 本町北西方に広く発達し、不整合関係の幌別層と室蘭層の二層からなり、層厚800メートルをこえる下部の幌別層は、幌別川上流地域に模式的に発達する地層で、主に緑色凝灰岩や変朽安山岩からなり、かなりの厚さの砂岩・頁岩・石英粗面岩の互層をはさんでいる。
 室蘭層は、この幌別層の上部に不整合に重なる地層で、カムイヌプリの山麓部に発達している。凝灰質の集塊岩・砂岩・頁岩からなり、上方になるにつれて砂岩と頁岩が優勢になっている。この層の下部の砂岩中に炭化木片や植物化石片を、また上部の頁岩中には海成の二枚貝の化石を含んでいる。これによってこの時期の初期にかなり激しかった火山活動は次第に衰え、ついに正常に近い堆積環境に移ったことが知られる。
 この時代の火成岩としては、変朽安山岩と閃緑岩とがある。前者は幌別層の堆積期に熔岩流として溢流したものであり、後者は幌別層を岩脈として貫いていて、この地域に胚胎する金属鉱床と関係があると考えられている。
 第四紀層 この時代は、本町の地質構成からみてきわめて特徴のある時期で、クッタラ火山や鷲別岳火山などの山やまの噴出物が広く厚く分布し、さらに遠く支笏火山に由来する支笏浮石層も飛来するなど、火山活動がしれつをきわめた。それと同時に上昇運動も急速に進んで、隆起性台地が形成され、三段の段丘面が美しく発達した。
 本町の東部地域の隆起台地および西部地域の丘陵地は、洪積層からできていて新旧二つの洪積層に細分される。
 旧期の洪積層は、もっとも高い段丘面で切られる層で、東部では下から倶多楽火山噴出物・登別層に、西部では鷲別砂礫層・鷲別岳火山噴出物に分けられる。
 新期の洪積層は、段丘堆積物(三段の)と支笏浮石層が含まれる。
 ○来馬山熔山石・ポントコ山熔岩
 ともに普通輝石紫蘇輝石安山岩である。
 ○鷲別砂礫層
 本町西南部、および滝の沢・鷲別岬に模式的な発達がみられ、砂・礫・浮石などで構成されている。
 ○鷲別岳火山噴出物
 鷲別岳、カムイヌプリを中心とする地域に分布している。噴出物は凝灰質集塊岩・集塊岩質泥熔岩を主体とする。
 ○倶多楽火山噴出物
 幌別川から東の全域に分布しており、模式的な露出は富浦岬付近にみられる。この地層は下部からランボッケ浮石層・登別熔結凝灰岩・ポンアヨロ浮石層・虎杖浜火山岩屑堆積物にわかれる。クッタラ火山の噴出は海水の影響の強い環境のもとに行なわれた。すなわち、ある場所は汀線または浅海であり、ある場所はすでに陸地化しており、またある場所はやや深い所であった。当時の海岸線は、幌別川や来馬川の流れている地帯が入江となって深く湾入していた。しかも火山活動はいくたびか激しくなったり、静かになったりして同時に地盤の隆起と沈降も行なわれた。
 ○登別熔結凝灰岩
 幌別川から東に広く分布し、模式地は登別駅付近・登別温泉紅葉谷付近にある。この岩石は、班璃質の普通輝石紫蘇輝石安山岩質である。
 ○登別層
 この層は来馬川の東の地域に広く発達している。模式地は登別温泉からクッタラ湖に通ずる道路の切取りでみられる。分布地域の高度が300メートルもあることから、おそらくこの層の堆積後大きな地塊運動があったものと思われる。
 ○段丘堆積物
 当地域は、高度のちがう降起性の台地地形をなしており、それぞれ磯・砂礫・砂層などの段丘堆積物がのっている。
 また、幌別川流城に河成段丘が発達し、この段丘面上に火山岩礫を主体とする礫層をのせている。
 第四期沖積層は、海岸と各河川にそって発達している。とくにこの地域を覆う火山灰層は、駒ケ岳および有珠山からもたらされたものである。
 
 土 壌
 
 土壌地帯の概況
 本町の土壌地帯は主として札内を中心とし、富浦・登別および来馬の一部の標高40-260メートル(ほぼ平坦ないし五度内外の緩傾斜)の段丘地帯に分布している。面積は2,249ヘクタールにおよんでいて全農牧適地の36パーセントを占め、本町で最も面積の広い重要な地帯である。
 本町の土壌統は洪積世にできた熔結凝灰岩を基盤とし、その上に火山灰性の表土が乗っかってできているといってよい。この火山灰層の厚薄によって土性に相違がある。
 表層は厚さ18センチメートル、有珠岳の噴火(192-350年前)の際に噴出した有珠a統の火山灰である。灰褐色を呈し、6メートルの腐植を含有した砂壌土である。
 第二層は厚さ12-17センチメートル、有珠岳の噴火(400-500年前)による有珠b統とよばれる硬質の浮石・礫・火山砂のまじった明灰色の層である。この層は北上するにつれて厚さを増し地区の最北端ては17センチメートルに達している。
 第三層は厚さ16センチメートル、20パーセントの腐植質を含む黒褐色の埴壌土である。この層は有珠b統降灰以前に地表を構成した火山灰層であるが、噴出源については明らかでない。
 第四層は厚さ20センチメートル、褐黒色の壌土である。
 第五層は厚さ75センチメートル、明褐黄色の埴壌土で浮石の風化物を含んでいる。
 第六層は厚さ38のセンチメートル明黄色の埴壌士である。
 第七層は厚さ10センチメートル、浮石風化層である。
 第八層は厚さ47センチメートルの砂層で、固い盤になっている。
 第九層は厚さ27センチメートルの浮石風化層である。
 第十層は薄い所で20センチメートルはあり、ピンクないし赤色の浮石風化層で木炭を含んでいる。この層は色からみて、
 かなり温暖な気候の時代に風化したものと思われる。
 土壌区の概況
 本町の土壌地帯は登別川と幌別川の間にひろがっているが、洪積世に形成された台地上の火山灰地であって、ミズナラ・カシワ・シラカバ・ケヤマハンノキ・ヤマモミジ・エゾイタヤ・エゾヤマハギ・ススキ・オオョモギ・クマイザサなどが自生している。耕作放棄地には、ヒメスイバ、メマツヨイグサ・ヒメムカシヨモギ・ヒメジオンなどが多い。本土壌区の作土は深さ約20センチメートルで、灰褐色の砂壌土で有珠a統の火山灰土である。海岸に近づくほどその厚さは薄くなり、腐植は6パーセントぐらいで多い方ではない。
 心土は深さ約15センチメートルで、未風化の硬い浮石・砂・岩片から構成された火山噴出物で、有珠b統とよぱれているものである。
 本町の土壌は次の各地区に分布しているので、それぞれの地区の特色をあげてみよう。
 東北区 中登別・上登別の大部分および札内北部の標高約100-330メートルの地帯がこの区に属している。この区の地形は平坦か、または緩波状の高台となっている。積雪が深いうえに風や海霧の影響が強く、気温は低い。本町で最も気象条件が悪い地帯である。
 東端区 ここは登別付近の標高約7メートル内外の低い地帯である。標高約55メートルのフンべ山が悔岸にびょうぷのように横たわっていて、風や海霧をさえぎっている。放牧や採草あるいは野菜畑として利用されている。一部に泥炭性湿地があり、土地改良は不充分で生産カは低い。一部に残る未耕地にはヤチハンノキ・カラフトヤナギ・サビタ・ヨシが多い。
 登別川下流区 ここは標高約30メートルの平坦地で、狭い谷となっているために風や海霧の当りが弱い。一部にヤナギやハンノキ類が残っているが、大部分は一度耕地化されたものがその後荒地となり、ヒメスイバが繁茂している。
 札内区 札内の標高100-200メートルの地帯である。地形は緩傾斜ないし緩波状段丘で、川に面する段丘縁辺部は断崖となっている。湧水はごく一部の地域に少量見られるだけで、水道の完備なしには住めないない所である。未耕地にはカツラ・ミズナラ・カバ類・イタヤ類が混生し、下草クマイザサ・ミヤコザサがはびこっている。第二次大戦後開拓地となり、土地の改良、草地造成、 肉牛導入なとに鋭意努力し、不利な営農条件の克服に努めている。
 西区 川上・富岸および鷲別がこの区に属している。この区域は標高20一100メートル、4-10度の傾斜をなし、面積は442ヘクタールで全農牧適地の7・1パーセントを占めている本町ではとくに多雨の地帯である。未制地にはカシワが多く、下草にはササ類が茂っている。採草地、放牧地のほか、牧草・野菜畑として利用されているが生産量は少ない。
 沖積区 幌別川および来馬川流域を中心とし、岡志別川・富岸川・鷲別川などの流域、標高8-20メートル内外の平地がこの区に属している。気象条件は海岸を遠ざかるにしたがって好転する。平坦で交通が便利であり、土壌条件は本町の中で最も恵まれているため、明治初期から開拓されており、現在も利用率の高い地帯である。未耕地にはアカダモが多かったといわれている。現在一部水稲・野菜類を主な換金作物とする小規模経営の農家が多い。
 
 4、地史
 
 地球の年齢は45億年と推定され、現在までにみつかっている地殻をつくる最古の岩石の年齢は35億年と測定されている。
 今から10億年の昔、 アンガラという古い大陸があった。そこは果しない片麻岩の大平原で、一本の草もない死の国であった。日本はこの大陸の一部をなしており、海成の層はなくすべて陸地であった。
 やがて地殻の膨大な圧力の下で、地底2,900キロメートルにひろがるマントルにうまれた熱が巨大な対流となって動きはじめ、この熱はマントルの上層に波及し、しだいに上昇して灼熱したマグマとなり地殻に近づく。マグマの移動につれて地殻にたわみができ、アンガラ大陸の梅岸地帯が沈降して海底に沈み浅い海がうまれた。こうして4億年前の古生代中期の頃の日本は、全域が三葉虫やサンゴの息づく静かな海底に横たわっていた。わが登別町もまたその頃は海面下にあって、当地域の基礎岩層をなす、いわゆる古生層とよぱれる大曲沢粘板岩層と、大峠の沢輝緑凝灰岩層を海底に堆積しつつあったのである。
 浅い海には削剥された陸地からの土砂がつもって、地向斜の海ができる。やがて堆積層にもひずみができさけ目が走る。このさけ目からマグマが吹きでる。いわゆる海底火山の活動である。巨大なルツポと化した灼熱のマグマは、周囲のすべてを溶かしつくし、その中から片麻岩と花崗岩をうみだす。軽い花崗岩のマグマは浮力で上昇しはじめ、地向斜の海の堆積層を押しあげる。押しあげられた堆積層は、海を押し分けて山となってもりあがり陸地を造る。このようにして2億2000万年前の中生代のはじめになると、本州地向斜の巾心帯であった中国・近畿・中部の地方には、日本アルプスにも匹敵する山脈が東西につらなり、大陸からテラスを張りだしたように海岸山脈という形でそびえた。本町の地域もまた陸化し、この後長い間削剥作用を受けることとなった。
 1億3000万年前、中生代ジュラ紀から白亜紀にかけて、今の本道の中央から樺太にまたがって南北に細長い地向斜の海が発達した。その底部の断層や弱線を通って海底火山の活動がはじまり、それまで沈降の過程を経た地向斜が、反転して隆起の過程をたどるようになった。そして今から6000万年前、日高山脈と神居古潭地はますます隆起し、丘陵性の山脈にまで成長した。日高山脈が本道を二分する大山脈になったのは3500万年前のこと。またその頃、北九州は南方から、常盤地方は東から、石狩と釧路は南方から海浸を受け海底下にあったので、これらの地方に石炭を埋蔵することになり、日本の石炭時代をうんだのである。日本の石炭のうち、質からいっても、量からみても一番重要なものは、みな古第三紀層とよばれる地層の中に含まれているのはこのためである。この頃の登別地域は完全に陸化していて、削剰作用を受け続けたのである。
 地下の奥深い部分は、高温高圧のプラスチックな状態にある。このような地殻の部分の力の平衡が破れたり、大断層が深く切りこんでくると、この部分が急激にアメのようにとけて動きはじめる。大断層やそれにともなってできた断層は、火成活動の際に地下でとけた岩石、つまりマグマの通路の役割りをし、マグマは地殻の弱線をたどって上昇してくる。地表に達したマグマは、熔岩や凝灰岩・集塊岩となって、沈降の過程をたどっている内帯の凹地をうずめていった。こうした火山噴出物にはいろいろあるが、グリーンタフがこの時代の代表である。それで新第三紀をグリーンタフ時代ともいう。2500万年前のことである。この時代における火山活動は、太平洋の火の環としてあらわれた。幾筋ものさけ目が大地をきりさき、大きな陥没がおき、マグマの奔流がふきあがった。さけ目は地球のまるみに沿って弓なりに太平洋周辺を走り、太平洋をかこむ火の環をつくった。わが日本列島の土台は大陸から離れ、日本列島の弧状の性格の基礎をつくり、洪積世に引きつがれるのである。
 さらにグリーンタフ地域は、グリーンタフの噴出にひきつづく沈降の過程で、随所に入江とか、潟といった海底盆地をつくった。そのような場所には石油の母岩になる黒色の泥岩層を残していった。石狩・秋田・山形・新潟の各油田はこうしたものである。また、グリーンタフ地域の火成活動、すなわち安山岩や石英粗面岩の噴出の末期に、これにともなって上ってきた比較的低温の熱水鉱液から沈澱して生じる金属資源を埋没するのがひとつの特徴である。
 新第三紀のはじめ本町全域が海水下に没した。堆積盆またはその周辺で、造構運動に伴って火成活動がある時期には激しく、ある時期には休止するというように繰返し行われた。その結果グリーソタフをはじめ、火山砕屑岩、プロピライト熔岩等が堆積し、また多くの黒鉱式鉱床が形成された。これが幌別層であって、幌別川上流地域の金属鉱床帯はこの期のものである。
 幌別層の堆積後、本町の地域は再び陸化して削剥を受ける。
 1200万年前、再び当地域は海面に没し、浅い海で火山活動が開始され火山砕屑岩層をもたらした。これが室蘭層である。
 ついで当地域は陸化し、削剥が続けられた。これで当地域の大きな地質構造を決定した造構運動は終わったのである。
 200万年前、洪積世といわれる氷河時代が地球をおそった。寒い氷期には海水面がさがり、多量の水分を陸封する結果、乾燥性の気候をもたらす。間氷期の暖かい時期には世界の氷がとけ、海水がふえ、低い陸地は海底となり、あるいは海峡となって切れる。
 洪積世の終り頃の大きな氷期には、隆起を続ける日高山脈や日本アルプスにも氷河が張りつめた。その頃の本道には2000メートル級の山は日高にしかなく、ホロシリ・ トッタベツは本道・樺太・シベリヤを通じて最高の山であったので、これらの山は頂上に氷河を飾ることになった。
 また一方火山活動はやまず、グリーンタフ地帯の断裂の古傷の上には火山の列がくりかえし噴きあげた。カルデラはこの時代の特徴である。火山にはその誕生から死滅にいたる歴史があり、その時期に応じた活動の形式や火山岩の種類がちがう。この時期の火山は、熔結凝灰岩という天然ガラスのかすり模様をもった特殊な火山噴出物を一時に多量にふきだし、熱雲をともなって当時の地形にそって流れくだり、谷をうずめ丘をおおい、一種の火山台地をつくっている。いっぼう熔結凝灰岩を多量にふきだすと、その山体が中空になるため陥没をおこし、四周を急崖によってとりかこまれたなべ底地形をつくる。これがカルデラである。
 さて、洪積世における本町の地史をみると、まずカルルス火山・幌別岳火山が活動を開始し、ついで来馬山・ポントコ山が火を噴いた。さらに55万年ないし45万年前、ギュンツ・ミンデル間氷期の頃になると鷲別岳・クッタラ火山などの火山がいっせいに息ぷきはじめ、この地域をそれらの噴出物で厚くおおった。
 これらの火山活動は硫黄礦床を形成し、あるいは登別温泉の熱源となった。クッタラ火山から大量の熔結凝灰岩がふきでたのもこの頃である。この岩石は登別軟石として現在採石されており、その露頭は紅葉谷のバス道路付近や蔭の沢付近の幌別川岸などにみられ広大な地域をおおっている。支笏カルデラや洞爺カルデラにみられるように、わが国の多くのカルデラは洪積世末期か沖積世初頭のせいぜい1万年内外のことであるが、ひとりクッタラカルデラだけが例外的にその形成の時期を異にしていることは注目すべきことである。また当時この地域は、ある場所は陸地であり、ある場所は浅海であるという状態であった。
 38万年前のミンデル・リス間氷期の頃になると、この地域は海浸をうけて海面下に没し登別層の堆積をみた。登別層の堆積後、さきに巨大な量の噴出をみた反作用として、20万年前クッタラカルデラが形成された。これと相伴うような形で断層連動が行われた。
 24万年前の洪積世後半になると、本町の地域は次第に海退に移り、三段の段丘面と段丘堆積物層を残しながら隆起運動を続け、沖積世へとひきつがれた。わが国が大陸から完全に離れて四つの島国を形成するに至ったのも洪積世二百200万年の間である。
 1万年前、沖積世のはじめ、氷河時代が終って暖かい気候となり海浸にみまわれたが、洪積世以来の陸地の上昇運動により5000年前に海退に移り、現在の海岸線に平行する海岸線と、現在の日本列島の姿とが完成したのは約2000年前のことである。
 本町の沖積層は海岸平地・河川・扇状地などに発達し、砂・粘土・礫および火山灰からなる地層である。
 海岸には砂丘を構成する砂層や砂鉄層が認められる。火山灰層は駒ヶ岳および有珠火山からもたらされたもので、2メートル内外の層厚で全地域がおおわれているが、一部の低地には泥炭層が形成されている。また幌別川に沿う地帯に数段の河成段丘が発達している。
 さらに鷲別岬をはじめ諸所に貝塚・ 土器・住居趾を含み、先史学的に注目されている。
 
 五、気候
 
 気候概要
 北海道は地理的位置と環境からみて、大体温帯気候の北限にある。西に巨大なアジア大陸を、東に太平洋を有する関係から、冬季は大陸に蓄積された寒冷な気団が北西季節風となって運ぱれ、夏季は北太平洋の温暖な気団が南東季節風として流入し、年間を通じてこの卓越した二気団によって四季が構成されている。
 本町もこの気団の支配下にあり、11月頃から冷い北西の季節風が吹きはじめ、12月、1月、2月を最盛期として3月頃までこの状態が続く。この期間中は天気の変動が少ないが、海岸部では発達した低気圧の通過後、北西の強い風が少量の雪を伴って吹き続くことがある。四月に入ると北西季節風も弱まり、五月にかけて時々好天が統き、春ののどかな日和となる。しかし6月になると、オホーツク海高気圧の影響で、霧または霧雨の日が多くなり、低温湿潤で天気の悪い日が七月中頃まで続く。7月末頃からは北太平洋高気圧の圏内にはいり夏となるが、暑い期間は短かく、9月には大陸に高気圧が発生して移動し、本地方をおおうため朝タの気温は下がってくる。このころ接近する台風または低気圧が、一時に多量の雨を降らせることはあるが、そのあとは空がよく澄みわたり、11月に北西季節風の支配下に入るまで一年中で一番すぱらしい季節となる。
 北海道は近年とみに観光ブームにのって、夏季に本州方面から来道する客が多くなった。これはもちろん北海道の雄大な風物に魅せられることもあるが、東京付近の高級避暑地である軽井沢の気温と、本町登別温泉の気温の年変化を調べてみるとおどろくほどよく似ており、本州の人々にとっては、ねがってもない避暑地になることが大きな原因であるともいえる。これは本町が北梅道でも南に位置し、太平洋に面して海洋の影響を受ける関係で、昼夜ならびに夏冬の温度差が内陸に比べ非常に少く、したがって夏は涼しく、冬の気温もそれほど低くないためであり、これらの点から北海道としては比較的恵まれた温和な地方といえる。
 気候要素
 1、気温
 本町平地部の気温は年間を通じて室蘭に似ており、年平均気温は8度ぐらいであるが、気温は高さが増すごとに下がるので山間部では低く、登別温泉では6・5度が平均気温となる。道内各地の月別平均気温に比較してみると次表のとおりである。
 気温の最低は1月~2月に現われ、平地部の現在までの最低気温の極値は(一)15度くらいであるが、山間部の登別温泉では昭和25年(1950)1月24日に、(二)28・5度の最低気温を記録している。最高気温は八月に出現し、平地部では29度~30度くらいが極値であるが、山問部では局地的に内陸のような現象を起すので、登別温泉では昭和35年(1960)8月6日に、35・2度の最高気温を記録した。これらの極値を道内各地に出現した極値と比較してみよう。
 高温も低温も内陸ほど高くなったり低くなったりしやすく、室蘭の極値と比較するとその顕著なことがわかる。日本付近の気温は緯度一度について約一度の温度差があるといわれているが、海流や地形などの地理的条件により必ずしも緯度に比例していない。すなわち、冬季はシベリア大陸の寒冷な気団に強く影響されたり、夏季はオホーツク海高気圧や、北太平洋高気圧の勢力の盛衰により気温の変動が大きくなる。そのため寒い冬、暖かな冬があったり、暑い夏、涼しい夏があって平均気温の差が二度にもなることがある。本町とほぽ同じ条件にある室蘭の年平均気温の変動をみると、高低差は二度にもなっている。低い年の昭和6年(1931)、昭和20年(1945)は農作物に影響し、凶作の年であった。(次頁グラフ参照)
 2、風
 本町の風は冬季は北西季節風、夏季は南東季節風に支配されている。町の大半である悔岸部では、図のように室蘭の月別風向頻度とほぽ同じような傾向で風が吹いていると考えられる。すなわち、冬はほとんど西~北西の風が吹き、夏は東~南東の風が多く吹いている。風速は海岸部では比較的強く、とくに冬季は低気圧の通過後、西よりの風が10~15メートル(秒速)に達することが珍しくない。
 A表は本町と似ている室蘭の月別平均風速を道内各地点の風速に比較したものであり、B表は同じく10メートル(秒速)以上の風が吹いた日の月別平均日数を示したものであるが、11月から2月までの冬季間は、日本海側と同様に強い風の吹いていることがわかる。しか
 し、山間部の登別温泉などではそれほど強い風は吹かない。
 
 海岸部では冬季山に沿って吹く強風のため、建造物に被害を受けることがあり、夏季は台風による高波で被害を受けることがあった。現在は防潮堤など海岸保全に努めた結果、その心配はなくなっている。
 3、降水量
 北海道の降水量は本州に比べて比較的少く、ほとんどの地方が年降水量1、300ミリメートル以下である。しかし、登別町では夏から秋にかけしぱしぱ集中豪雨に見舞われるため、山間部では年降水量1,800ミリメートルから2、000ミリメートルに達している。これは登別町が太平洋に面していて、暖候期には南からの湿った空気が入りやすく、この高温多湿な気流がオロフレ山系によって上昇させられ、これが前線や低気圧の刺戟を受けたとき、多量の雨を降らせるものである。このため山間部の登別温泉では昭和6年(1931)に年降水量2、735ミリメートル、翌7年(1932)には2、586ミリメートルにも達しており、また昭和37年(1962)には二2、453ミリメートルの年降水量があった。
 登別温泉の月別平均降水量を室蘭および道内各地に比べると、降水量の大半は暖候期に降っている。室蘭も量は登別温泉より少いが、やはり暖候期に多く、日本海側の小樽では反対に冬季が多い。
 昭和36年(1961)10月5日~6日に550ミリメートルの降雨があったが、これは一降雨(一つの降雨原因で降った雨)としては、昭和28年(1953)7月7日~9日に日高の目黒で降った558ミリメートルにつぐ道内での記録である。また十10月6日の日量350ミリメートルは、昭和25年(1950)8月1日の苫小牧における448ミリメートル、昭和28年7月8日の目黒の435ミリメートルにつぐ記録でもある。このような降水量は、九州や本州方面の豪雨地帯におとらない量であり、このため本町では毎年どこかで大雨による被害を受けるのが例になっていた。しかし河川改修や護岸工事により現在ではまったくその心配はなくなった。
 4、日照
 北海道は本邦の北端に位し高緯度にあるため、本州に比べ暖候期(4月~9月)は可照時間が長く、薄明時間もまた長い(ただし、冬季は可照時間は短い)。このため比較的低温な北海道でも予想以上に作物が生育する原因になっている。しかし北海道でも地域によって可照時間に差があり、また季節によってもかなりの違いがある。下図は道内各地域代表地点の月別日照率を比較したものであるが、オホーツク海側は1年を通じて日照が多く、日本海側や旭川地方は冬季非常に日照が少ない。
 室蘭や本町は、春と秋に日照が多く、暖候期には霧のため日照が少くなる。冬は日本海側ほどではないが、雪を伴う季節風のため日照は少く、年間の日照時間は約1,816時間である。山間部ではこれよりさらに日昭時間が少い。
 室蘭の日照時間、日照率は次表のとおりであり、本町の日照もこの程度と考えられる。
 
 5、天気
 雲量の年間を通じての変化は、次に掲げた図表のように4月と10月に極小、12月と7月が極大となっており、曇天回数もこれと同じ変化をしている。快晴日数はこれと逆の関係があり、図に示すとおりである。
 これは本町が冬季少量ながら雪の降る日が多く、また夏季は海霧の影響を受けているためで、天気の良いのは4、5月と9、10月である。
 本町の雪と霧の状況はつぎのとおりである。
 
 [雪について]
 本町の月別降雪日数はC表のとおりであるが、海岸部では降雪日数が多い割合に積雪は少なく、冬季間の最深積雪が1メートルを越すことはほとんどない。雪の降りはじめるのは海岸部で11月3日頃で、終りは4月17日頃であるが、最も早い降雪は10月18日、最も遅かったのは5月8日である。山間部では降雪日数はそれほど変りはないが、雪の初終日や積雪量は大きく相違している。登別温泉の雪の降り始めは10月29日で。最深積雪は2・36メートルを記録しており、カルルス温泉方面では3メートルを越すことがある。海岸部の大雪は主として春先に多いが、これは北海道太平洋側に特徴である。
 本町の月別霧日数はD表に示すとおり、そのほとんどが暖候期に発生している。これは太平洋に発生した海霧が進入してくるものであって、この霧の高さは300メートル以下のものが多いためあまり内陸には入らない。海岸部に比べ山間部の登別温泉で無霧日数は三分の一である。海岸部の霧日数も釧路・根室方面に比較すれば三分の一以下であり、霧の濃度もずっと薄いので不幸中の幸いといえる。
 
 6、その他の現象
 〔潮流の状況〕
 登別地方付近の潮流は北から親潮(千島寒流)が流れ、甫からは黒潮が北上してちょうど合流地点にあたっている。冬は親潮が強くなるので当地方の沿岸は寒流に洗われ、夏は黒潮の勢力の方が強くなるために暖流に洗われる。潮流は一般に微弱で漲潮流は北から南に、落潮流は南西から北に転流し、満干潮時の平均流速はつぎのとおりである。
 最高0・25メートル 最低0・05メートル 平均0・15メートル(以上秒速)
 〔湿度の状況〕
 本町の湿度は各季節ごとにはっきり差異が出ている。冬季乾燥し夏季湿潤となるのが特徴で、春の乾燥期(山火季節)は、海岸地方はそれほど乾燥しないが、内陸、山間部では非常に乾燥し、山火事の発生することがある。海岸部でもこの季節には異常に乾燥した大規模な空気の移流があるので、湿度の極少値が出ることがある。下図は平均湿度の季節変化を示したものである。
 〔霜の状況〕
 地面付近の水蒸気が、主として昇華によって地面や地物に氷の結晶となって付着する現象を霜というが、本町では11月7日ごろから結霜がはじまり、4月21日ごろに終る。内陸や山間部では海岸部より霜の初日は早く、登別温泉の平年初日は10月21日で、終霜は5月2日ごろである。霜の早晩により作物に被害を受けることがあるが、本町では晩霜よりも初霜による害が大きい。凶冷時に生育が遅れ登熟期の遅延している作物が、早霜により無収穫となることがある。海岸部で最も霜の早かったのは10月12日、登別温泉では10月2日、晩霜は海岸部が5月19日、登別温泉も5月19日である。
 
 六、動植物
 
 陸上動物だけでなく移動性に富む生物の分布上の種名は、必ずしも本町にはっきり現れる特徴ではなく、隣接地域にも共通することが多い。また一般に生物は環境に作用されるが、木町の環境は他に例の少いものであろう。すなわち、洪積世旧期の火山活動で生成した十指に余る山やま、あるいはクッタラ湖・登別温泉などがあり、さらには魚族の豊かな噴火湾に臨んでいることなどのため、その生物相のきわめて複雑であることを特色とする。
 
 動物
 A、噛乳類
 大型陸上動物としては、とくに本町の特色といったものは明瞭ではないが、次のものが確認されている。
 ヒグマ・エゾシカ・ キタキツネ・エゾタヌキ・エゾリス・エゾイタチ・エゾノウサギ・エゾヤチネズミ・ミカドネズミ・エゾハツカネズ、・ エゾトガリネズミ・ドブネズミ・シマリス・ヤマコウモリ・エゾモモンガ。
 玉虫左太夫の「入北記」に今から110年前の安政4年(1857)、幌別の産物としてクマ・カワウソ・キルネ・テン・ムジナの皮があげられている。また、明治3年(1870)にクマ6頭、シカ170頭、明治4年(1871)クマ2頭、ツカ470頭を開拓者の手で捕獲した記録がある。その後開拓の進むにつれカワウソ・テンは絶滅したが、久しくその姿を見なかったエゾシカが近年、稀ではあるが見かけられるようになってきた。 恐らく日高方面で繁殖したものが 山伝いに移動してきたものであろう。
 B、鳥類
 本町で確認された鳥の数は111種におよんでいるが、調査が進めばその数は150種を越すだろうといわれている。鳥の棲息にとって大事なことは気温と食物で、本町の地勢はこうした条件を満たすだけでなく、鳥の渡り道にあたっていることもこれを豊富にしている原因であろう。
 留鳥として年間を通じて多く見られるものに、ハシブガラス・力ラフトスズメ・シジュウカラ・シロハラゴジュウカラ・ヤマガラ・アオジ・シマエナガ・ヒガラ・ミヤマホオジロ・エゾメジロ・ミソサザイ・セグロセキレイ・エゾアカゲラ・ヤマゲラ・ヒバリ・トビ・キジバト・ウミネコなどがある。
 近年とくに減少しごく稀にしか見れないものは、エゾライチョウ・ウズラ・キクイタダキ・クマゲラなどであるが朝鮮から日高に移入したコウライキジ は次第に繁殖し、人家近くまでその美しい姿を見せるようになった。
 夏鳥としてはカッコウ・アオバト・ キビタキ・ルリビタキ・オシドリが多く目につき、稀に見られるものとしてホトトギス・ヨタカがある。冬鳥にはマガモ・ウミアイサをはじめ、イスカ・シメ・べニヒワ・ベニマシコ・オオカワラヒワ・クロツグミ・キレンジャクなどが多い。冬鳥で注目されることは、イスカ・ベニヒワ・クロツグミが当地の一部オロフレ山地にとどまり、夏季にも見られることである。
 
 野鳥 目録
 〈カラス科〉ハシブトガラス・ハシボソガラス・ミヤマカケス〈ムクドリ科)コムクドリ・ムクドリ〈キンパラ科〉カラフトスズメ・ニュウナイスズメ〈アトリ科〉イカル・マヒワ・ベニヒワ・ベニマシコ・ウソ・イスカ・ミヤマホオジロ・アオジ・ノジコ・ホオジロ・オオカワラヒワ・シメ〈ヒバリ科〉ヒバリ〈セキレイ科〉セグロセキレイ・キセキレイ・ハクセキレイ〈メジロ科〉エゾメジロ〈ゴジュウカラ科〉シロハラゴジュウカラ〈シジュウカラ科〉〉シジュウカラ・ヤマガラ・ヒガラ・キクイタダキ・シマエナガ〈モズ科〉モズ・チゴモズ〈レンジャク科〉キレンジャク・ヒレンジャク〈ヒヨドリ科〉エゾヒヨドリ〈ヒタキ科〉サンコウチョウ・オオルリ・キビタキ〈ウグイス科〉ウグイス・エゾムシクイ・センダイムシクイ・コムシクイ・エゾセンニョウ・オオヨシキリ・コヨシキリ・ヤブサメ〈ツグミ科〉トラツグミ・マミジロ・マミチャジナイ・アカハラ・クロツグミ・イソヒヨドリ・ルリビタキノゴマ・コマドリ・コルリ・シロハラ・ノビタキ〈ミソサザイ科〉ミソサザイ〈カワガラス科〉カワガラス〈ツバメ科〉ツバメ・イワツバメ〈アマツバメ科〉キタアマツバメ・ハリオアマツバメ〈ヨタカ科〉ヨタカ〈カワセミ科〉エゾヤマセミ・カワセミ・アカショウビン〈キツツキ科〉ヤマゲラ・エゾアカゲラ・エゾコゲラ・クマゲラ〈ホトトギス科〉カッコウ・ツツドリ・ジュウイチ・ホトトギス〈フクロウ科〉コノハズク・オオコノハズク・シロフクロウ・エゾフクロウ〈ハヤブサ科〉ハヤブサ・チゴハヤブサ〈ワシタカ科〉トビ・ケアシノスリ・ノスリ〈ガソカモ科〉カルガモ・マガモ・コガモ・クロガモ・ウミアイサ・ビロードキンクロ・
 コオリガモ・オシドリ・アビ・マガン〈ウ科〉ウミウ〈ハト科〉キジバト・アオバト〈シギ科〉オオジシギ・ヤマシギ・アオアシスギ・キリアイ〈カモメ科〉ウミネコ・カモメ・フルマカモメ〈ウミスズメ科〉ウミスズメ〈クイナ科〉ヒクイナ〈キジ科〉エゾライチョウ・コウライキジ・ウズラ
 
 C、は虫類
 本町のは虫類としては、アオダイショウ・ジムグリ・シマヘビ・カナヘビ・トカゲ・マムシの六種が知られている。マムシは本道唯一の毒へびで、開拓当時はかなり棲息していたといわれるが、最近はあまり見かけない。これは個体数が少くなったことにもよるが、マムシは毒へびにも似あわず非常に気が小さく、また夜行性のため、日中は茂みにひそんでいるので容易に人の目につかないためかも知れない。ことに近来炭焼のような山仕事がなくなったので、一層人目にふれなくなったのであろう。背面がわら色で、四つの濃い茶色のしまもようを持つたシマヘビがいる。またカラスヘビとよぱれるものは、シマヘビの突然変異による黒化型で特別な種類ではない。棒のように丸いからだで、頭部にV字型のもようのあるジムグリは美しいヘビである。このヘビは名のとおり地面にもぐりこんで、もっぱら鼠を追っていてめったに姿を見せない。本町のヘビの中で一番大きいのはアオダイショウで平均体長1・5メートルもあり、町内いたるところに棲息している。一匹のアオダイショウは一夏100匹の鼠をとるという。山林を鼠害から守るためにも、ヘビの保護についての認識を改める必要があるように思われる。足が早くカナチョロの愛称を持つカナヘビ、そのほか美しいトカゲもいる。
 登別温泉・カルルス温泉・川又鉱泉などの温泉地区は、地温が高いためかは虫類の個体数が多い。ことに川又鉱泉では、八月初旬の産卵期にアオダイショウ・シマヘビが多数発見され、足の踏場もないほどである。
 D、両棲類
 本町のカエル類で一般的なものは、エゾアカガエルとニホンアマガエルの二種である。鷲別から幌別の間の湿原に非常に多い。
 春早く、細長いひも状の卵塊を水溜りに浮かべるエゾサンショウウオは、鷲別湿原、橘湖に多数棲息しており、またクッタラ湖にはエゾカスミサンショウウオの棲息が知られている。
 力エルのオタマジャクシは夏の景物のひとつであり、よい子たちの科学する心を育てるうえになくてならない役目を果している。
 
 植物
 
 本町のシダ植物以上の高等植物は約874種知られている。そのうち、わが国で登別町だけに生育するもの3種、本州と共通種約456種(52パーセント)、沖織と共通種約87種(10パーセント)、千島と共通種約317種(37パーセントとなっている。つまり約60パーセントが温帯の植物で、約40パーセントは亜寒帯の植物である。北方的要素の強いのは本町に高山が多いことによる。本町の低山平地帯は沿岸性の気候の影響を受け、本道の中では最も暖地性の植物が生育するところで、クサギ・サンショウ・ムラサキシキブをはじめクズ・ヌルデあるいはトキンソウなどが自生し、そのほか栽培種ではあるがスギ・ヒノキ・キリもよく育ち、ところどころにスギ林やヒノキ林を見かける。またサイカチ・ネムノキなどが育つのもこのためである。
 本町の植物は、その分布の特徴から高山帯・登別原始林・泥炭湿地帯・低山丘陵地帯・海浜地帯に区分することができる。
 
 高山帯の植物
 オロフレ山 この山の植物は峠、登別岳、頂上付近の三地帯に便宜上区分される。
 峠である大観望付近は標高約960ー980メートルで、雄大な展望と相まって美しいお花畑をみることができる。イワカガミ・チングルマ・ミヤマオダマキ・チシマフウロ・エゾキスゲ・ガンコウラン・シラネアオイなどが中心で、ミヤマヤナギ・ダケカンバの樹林が繁茂している。
 峠から鳥居をくぐってダケカンバの茂みを通りぬけると、 突然大絶壁があらわれる。このあたりが登別岳で標高約1000メートル、幌別・有珠・白老三郡の郡界になっている。オロフレ山の植物約190種のうち約半数はここに生育する。チシマツガザクラ・イワハゼ・イワカガミ・ミネズオ・ツガザクラ・ゴゼンタチバナ・ウメパチソウ・シラタマノキ・ウラシマツツジ・イワヒゲなどが、山はだをおおって茂るハイマツ・キバナシャクナゲ・エゾイソツツジを背景として、目もくらむような絶壁にむらがり咲くさまは、絶景というほかに言葉もない。低木としてはチツマザクラ・ナナカマド・コメバツバザクラ・ウコンウツギ・マルバシモツケ・ヤマハンノキがあり、その下生としてツバメオモト・ハクサンチドリ・ネバリノギラン・ヨツバシオガマ・コイチョウラン・ミヤマスミレなどがその美をきそっている。
 頂上は標高1230メートル、胆振第三の高峰である。支笏湖・洞爺湖・クッタラ湖は足下に横たわり、日高連峰・積丹半島の山なみは雲煙の彼方にかすみ、蝦夷富土・無意根山はよべばこたえ、太平洋の波頭は白く砕け、雄大な展望はしばし人を仙境に遊ばせる。足下には、ミヤマダイコンソウ・ウスバトリカブト・オヤマリンドウ・ヨツバシオガマ・エゾタヌキランなどが生育し、まさに登山の妙味はここにつきる。
 
 ワシぺツ岳 この山は鷲別駅の北方12キロメートルにあって標高911メートル、さして高くはないが植物学上注目に値する山である。目本のエーデルワイスといわれる純白の綿毛に包まれたウスユキソウのかれんな姿は本道ではここだけにみられ、日高のアポィ岳にしかないと信じられていたアポイタヌキランも生育している。さらにこの山で、花弁が梅花に似ているウメザキチシマザクラ、非常にたけの低いコエゾサクラソウ、イネ科のワシベツミヤマコウボウの三種が発見されている。これらの植物はこの山の特産種として誇っていいものであろう。そのほか、ユキワリコザクラ・フギレオオバキスミレ・オオタカネバラ・オクエゾサイシンなども見かけられる。
 
 登別原始林
 登別原始林は、〈本道中帯南部の比較的温暖な地方の植物区系を代表する天然林を保存するため〉と〈登別温泉の環境保持に周囲の自然風光を維持する〉ことを目的として天然記念物に指定されたが、この原始林は三つの地帯に分けられる。
 ①地獄谷と大湯沼の旧爆発火ロの部分で、面積約39ヘクタール、ここは地質学上の参考のために保存するものである。②地獄谷と大湯沼の周囲に繁茂する天然林で、登別温泉の背景をなし、のびてクッタラ湖畔におよんでいる。面積約139ヘクタール。この森林の全部が原始林ではないが、繁栄する大温泉市街に近接する天然林としては、部分的ではあっても原始林を含むことはきわめて貴重な存在である。③橋湖背面から東部にかけての地帯で、面積約216ヘクタール、かつてはミズナラ・エゾネマガリを基底とする落葉広葉樹林が存在し、登別原始林の本体をなしていたが、第二次大戦末期におけるミズナラ原始林の伐採と、その後の相次ぐ風害で倒壊し、林相が一変したことは惜しいことである。
 この原始林内の植物は樹木約60種、草本約110種の計約170種が知られている。
 高木にヤマウルシ・ウダイカンバ・ナナカマド・ベニイタヤ;ホオノキ・クリ・ミズナラ・センノキ・シナノキ・アズキナシなどがあり、低木にはサビタ・コヨウラクツツジ・ホツツジ・シラタマノキ・エゾイソツツジなどがある。そのほか藤本にイワガラミ・ゴトウヅル・ツルマサキ・コクワ・ツタウルシがみられ、下生としてミヤコザサ・クマイザサ・ネマガリダケをはじめシラネワラビ・エゾメシダ・ハクモウイノデ、アカソ・オオイタドリ・ツルリンドウ・ニシキゴロモなどがあるが、ここでとくに注目したいのは、1907年にミズスギが発見されたことである。ミズスギはヒカゲノカズラ科のもので、九州・四国ならびに本州南部にみられるほか、神奈川県箱根大湧谷などに自生することが知られているにすぎない。しかし残念なことに、現在本町では見ることができない。絶減したものであろうか。
 
 泥炭湿原の植物
 鉄道線路の北側に約1キロメートルの幅で、鷲別川から岡志別川まで約9キロメートルに横たわる帯状の地帯は、低平な泥炭湿原で、その間に乾燥地や丘陵地をところどころにはさむ特異な地帯である。ヨシやスゲを中心として、早春の花としてはミズバショウ・ザゼンソウなどがある。ミズバショウは大群落をつくり、白一色の風景は雪かとあやしまれる。夏にはアヤメ・カキツバタ・ノハナショウブ・ヒオウギアヤメをはじめ、レモン色のエゾカンゾウ、白色のミツガシワ、赤色かれんなトキソウ、皇太子のお好きなクロユリが咲きほこり、夏も深まるにつれ、エゾミソハギ・サワギキョウ・タチギポシ・エゾゴマナ・シラヤマギク・ツオガマギク・クサレダマが目立ち、その間にウツボ・モジズリがひそやかに花をつけ、ナガホノシロワレモコウやエゾリンドウの咲く頃は秋もいよいよ深まり、この湿原の花のしとねに終止符が打たれる。水の深いところにヒツジグサがある。分布上珍しいものにヒロハドクゼリがある。帰化植物のオオハンゴウソウが大群落をつくり、ビロウドモウズイカも見られる。食虫植物のタヌキモ・モウセンゴケも自生している。樹木はほとんど生育していないが、カンポク・ガマズミ・ヤチハンノキ・ヤチヤナギ・ハイイヌツゲが場所によってわずかに見られるにすぎない。
 
 海浜の植物
 ○鷲別湖(※岬の誤り?) この岬の頂上に、オクトリカブト・コジマエンレイソウ・トチバニンジン・オオバキスミレ・カタクリなどがある。コジマエンレソウは松前方面のものであって、ここにあることは分布上珍しいことである。鷲別川の川ロからがけ下にかけて、エゾオグルマが黄色の大きな花を見せ、紫褐色のつぽ形の花をつけるエゾヒナノウスツボが色どりをそえる。
 ○富浦岬 この岬にラセイタソウある。これはイラクサ科のもので、とくに美しいというものではないが、わが国における分布の北限になっている。秋にはコハマギクが白い花で岩壁をいろどる。
 ○砂浜 本町の海岸には砂丘が発達していて、ハマニンニク・コウボウムギ・ハマヒルガオ・ハマイチョウ・ハマハコベ・ウンランが生育している。その間にまじってハマボウフウは早春の摘草として食通の人を楽しませ、純白の綿毛に包まれたシロヨモギ、濃紫色の花をつけるイソスミレ、ルリ色の花の美しいハマベンケイソウなどがある。砂丘に続く海浜草原の植物には、エゾスカシユリ・エゾカワラナデシコ・ハマフウロ・ハマエンドウ・ナミキソウ・カセンソウなどが四季おりおりにその美をきそい、クサフジ・ヒロハクサフジ・センダイハギ・マルバトウキ・エゾオオバコなどが点在し、今も昔にかわることなくハマナスやナワシロイチゴが、つぷらな赤い実をつけ子供たちに親しまれている。
 
 低山丘陵地帯の植物
 樹木では高木としてサワシバ・ミズナラ・シナをはじめ、トチ・クリ・カバ類など、低木ではミツワウツギ・カンボク・ガマズミ・ムシカリ・ムラサキツキブ・タニウツギなど、常緑広葉樹ではツルマサキ・エゾユズリハ・ハイイヌツゲ・ツルツゲなど、常緑針葉樹にはオンコ・エゾマツ・アオトドマツがあり、オンコによく似たアイズイヌガヤは、ヤニ臭いがおいしい大きな実をつける。その他オオバクロモジ・ハクウンボク・サンショウ・アオハダ・ウスゲカマツカなどがある。
 草本ではラン科のものが非常に多く、サルメンエビネ・ノビネチドリ・クモキリソウ・キンセイラン・ヒメミヤマウズラなどがある。ゆり科ではシオデ・エダウチチゴユリ・ヤマジノホトトギスなど珍しいものがある。
 参考までに、本町の植物こぼればなしともいうべきものや、町民の生活に関係の深い摘み草、名産の竹などについて次に記しておこう。
 
 シャコタンチク 『東蝦夷日誌』に、今の幌別鉱山の名産としてシャコタンチクがあげられている。この竹は稈に茶褐色の斑紋があって美しく、キセルのラオ・筆軸・軸掛などに適し、その名のとおり積丹半島自生種である。しかし、前掲書にいうシャコタンチクは、文字どおりシャコタンチクか、あるいはネマガリダケの有紋型のケンモンチクであるかどうか、残念ながら確認されていない。
 ブシ 熊を獲るのにアイヌが毒矢を用いたことは、人びとのよく知るところである。この毒はオクトリカブト(センウズ)が最も強く、その製法について松浦武四郎は、「とりかぶとの根に、たぱこのやにとくも、クルンへ(長さ二センチくらい、水中の石につく虫)と四種ねりあわして筒に入れ、くさらして用ゆ。しかし、食せし者は当る故、今はとりかぶと一味にて製す。されぱ、毒のまわり遅けれ共、肉を捨るところ少なし」と書いている。とりかぷとは産地によっても毒成分に差があるといわれ、この辺のものは毒も強く遠くからとりに来たと伝えられている。
 マロニエ 地中海沿岸の原産で、イタリヤ・フランスなどに多く、街路樹としてよく知られているが、これと姉妹種の木がトチノキである。マロニユとトチノキは一見しただけでは区別が困難で、トチノキは俗に七葉樹といわれ、七枚の小葉でできた掌状複葉である。開拓当初この葉に字を書いて紙のかわりに用いたという。
 摘み草 本町の春の摘み草は、ハマボウフウにはじまり、アサツキ(エゾネギ)・ギョウジヤニンニク・セリ・ミツバ・ウド・クサソテツ(コゴミ)・フキ(アキタブキ)で最高頂に達する。木の芽ではタランボ(タラノキ)が珍重され、エゾネマガリの竹の子は孟宗とその味を競い、フクベラ(ニリンソウ)・ヨモギ・ワラビ・ヤチゼンマイ(ヤマドリゼンマイ)・アザミ(チシマアザミ)・アズキナ(ユキザサ)などは、今も人びとに親しまれている。ゼンマイも本州と同じものがあるが、ヤチゼンマイほど利用されない。アスパラガスよりうまいシツデや木の芽料理の王といわれるサンツョウの葉が、どうしてなのか町民からほとんど関心を持たれていない。
 
 登別町の植物目録(注・カタカナは木 ひらかなは草)
 裸子植物〈イチイ科〉オンコ〈イヌガヤ科〉アイズイヌガヤ〈マツ科〉アオトドマツ・クロエゾマツ・トウヒ・ハイマツ〈スギ科〉スギ〈ヒノキ科〉ミヤマビャクシン・ヒノキ 双子葉植物〈ヤナギ科〉ドロヤナギ・イタリヤポプラ・アメリカポプラ・ギンドロ・イヌコリヤギ・バッコヤナギ・オノエヤナギ・ミヤマヤナギ・ェゾノカワヤナギ・ェゾノキヌヤナギ〈ヤマモモ科〉ヤチヤナギ〈クルミ科〉オニグルミ〈カバノキ科〉アサダ・サワシバ・ウダイカンバ・シラカンバ・ダケカンバ・ミヤマハンノキ・ケヤマハンノキ・ヤマハンノキ・ヤチハンノキ・ヒメヤシャブツ〈ブナ科〉カツワ・ミズナラ・クリ〈センリョウ科〉ひとりしずか・ふたりしずか〈ドクダミ科〉どくだみ〈ニレ科〉ハルニレ・コブニレ・オヒョウ・あさ〈クワ科〉ヤマグワ・ロソウ・からはなそう〈イラクサ科〉えぞいらくさ・ほそばいらくさ・むかごいらくさ・みやまいらくさ・あおみず・あかそ・くさこあかそ・らせいたそう〈タデ科〉ひめすいば・のだいおう・すいぱ・えぞのぎしぎし・みずひき・みちやなぎ・いしみかわ・ままこのしりぬぐい・みぞそば・おおみぞそぱ・やのねぐさ・たにそば・やなぎたで・ねばりたで・はるたで・はなたで・いぬたで・おおいぬたで・そぱかずら・おおいたどり・さなえたで〈ヒユ科〉いぬびゆ〈アカザ科〉おかひじき・はまあかざ・ほそばはまあかざ・あかざ〈ナデシコ科〉えぞかわらなでしこ・なんばんはこベ・ふしぐろ・けふしぐろ・うすべにつめくさ・つめくさ・はまつめくさ・えぞのたかねつめくさ・おおやまふすま・みみなぐさ・うしはこベ・こはこベ・みどりはこベ・たちはこベ・みやまはこベ・しらおいはこベ・のみのふすま・からふとまんてま・はまはこべ〈スベリヒユ科〉すべりひゆ〈キンポウゲ科〉るいようしようま・みやまおだまき・やまおだまき・えぞとりかぶと・うすばとりかぷと・えぞのれいじんそう・おくとりかぷと・えぞほそぱとりかぷと・みつばおうれん・しらねあおい・やましゃくやく・えぞりゆうきんか・さらしなしょうま・えぞみやまはんしようつる・にりんそう・ひめいちげ・えぞいちげ・きくざきいちげ・ふくじゅそう・あきからまつ・からまつそう・ながばからまつ・たがらし・きつねのぽたん・やまきつねのぽたん・はいきんぼうげ・みやまきんぽうげ・けきつねのぼたん・こきつねのぼたん〈スイレソ科〉ひつじぐさ〈メギ科〉さんかよう・るいようぼたん〈カツラ科〉カツラ〈モクレン科〉ホオノキ・キタコブシ〈マツブサ科〉チョウセンゴミシ〈クスノキ科〉オオパクロモジ〈モウセソゴケ科〉もうせんごけ〈ケマンソウ科〉えぞえんごさ<・えぞきけまん〈ケシ科〉くさのおう〈アブラナ科〉なずな・まめぐんぱいなずな・たねつけぱな・おおばたねつけばな・こんろんそう・わさびだいこん・はまかきねがらし・やまはたざお・はまはたざお・いぬがらし・すかしたごぼう・みちばたがらし・はくせんなずな・あぶらな〈フウロソウ科〉いちげふうろ・げんのしょうこ・ちしまふうろ・はまふうろ〈カタパミ科〉えぞたちかたばみ・こみやまかたばみ〈ミカン科〉サンショウ・ヒロハノキハダ・ツルシキミ〈ニガキ科〉ニガキ・ニワウルシ〈トウダイグサ科〉のうるし・なつとうだい・エゾユズリハ〈ガンコウラン科〉ガンコウラン〈ツゲ科〉フツキソウ〈ウルシ科〉ツタウルシ・ヤマウルツ・ヌルデ〈モチノキ科〉アオハダ・アカミノイヌツゲ・ハイイヌツゲ・ツルツゲ〈ニシキギ科〉オニツルウメモドキ・ツルマサキ・コマユミ・ニシキギ・ヒロハツリバナ・ツリバナ・マユミ〈ミツバウツギ科〉ミツバウツギ〈カエデ科〉エゾイタヤ・イタヤカエデ・ベニイタヤ・メイゲツカエデ・ヤマモミジ・オガラバナ・ミネカエデ〈トチノキ科〉トチノキ〈ツリフネソウ科〉つりふねそう・きつりふね〈ブドウ科〉ヤマプドウ・ノブドウ〈シナノキ科〉シナノキ〈オトギリソウ科〉こけおとぎり・ともえそう・えぞおとぎリ・ひだかおとぎり・いわおとぎり・おとぎリそり・みずおとぎり〈マタタビ科〉コクワ・マタタピ・ミヤママタタビ〈スミレ科〉おおばきすみれ・ふぎれおおばきすみれ・えぞのたちつぼすみれ・つぼすみれ・たちつぼすみれ・けたちつぼすみれ・おおばたちつぼすみれ・みやますみれ・ふいりみやますみれ・おおたちつぼすみれ・けおおたちつぼすみれ・すみれ・さくらすみれ・いそすみれ〈イチヤクソウ科〉ぎんりょうそう・あきのぎんりょうそら・うめがさそう・こいちやくそう・べにばないちやくそう・じんよういちやくそう・むよういちやくそう〈ツツジ科〉キバナシャクナゲ・コメツツジ・エゾヤマツツジ・ムラサキヤシオ・エゾツツジ・チシマツガザクラ・コヨウラクツツジ・ツガザクラ・ミネズオウ・エゾイシツツジ・ホツツジ・ミヤマホツツジ・ハナヒリノキ・エゾウラジロハナヒリノキ・コメバツガザクラ・イワヒゲ・シラタマノキ・イワハゼ・ウラシマツツジ・コケモモ・イワツツジ・クロウスゴ・オオバスノキ・ウスノキ・ナツハゼ〈イワウメ科〉イワウメ・いわかがみ〈サクラソウ科〉うすげのえぞさくら・ゆきわりこざくら・こえぞさくらそう・おかとらのお・ぬまとらのお・くされだま・こなすび・うみみどり・つまとりそう〈エゴノキ科〉ハクウンボク〈リンドウ科〉えぞりんどう・えぞおやまりんどら・ふでりんどう・ほそばつるりんどう・はないかり・あけぽのそう・みつがしわ〈モクセイ科〉ヤチダモ・アオダモ・ドスナラ・イボタノキ・ミヤマイボタ〈ガガイモ科〉ががいも・いけま〈ヒルガオ科〉まめだおし・ねなしかずら・はまひるがお・ひるがお〈ムラサキ科〉はまべんけいそう・おにるりそう・むらさき・いぬほおずき〈クマツズラ科〉ムラサキシキブ・クサギ〈シソ科〉なみきそう・えぞなみきそう・えぞたつなみそう・やまたつなみそう・ひめなみきそう・にしきごろも・にがくさ・ひめじそ・いぬこうじゅ・しろね・こしろね・ひめしろね・えぞしろね・なぎなたこうじゆ・えぞいぬどま・いぬごま・えぞはっか・くるまばな・みやまとうぱな・いぬとうばな・かきどおし・みやまうつぼぐさ・うつぼぐさ・きたかわみどり〈ゴマノハグサ科〉よつばしおがま・えぞしおがま・しおがまぎく・こしおがま・うんらん・うりくさ・えぞひなのうすつぼ・えぞくがいそう・びろうどもうずいか・てんぐくわがた・ひよくそう・はたけくわがた・さわとうがらし・みぞほおずき・おおぱみぞほおずき・ときわはぜ〈タヌキモ科〉たぬきも〈ハエドクソウ科〉はえどくそう〈オオバコ科〉おおばこ・えぞおおばこ・へらおおばこ・おおへらおおばこ・とうおおぱこ〈ヤドリギ科〉ヤドリギ〈ビャクダン科〉かなびきそう〈ウマノスズグサ科〉おくえぞさいしん〈ベンケイソウ科〉いわべんけいそう・みつばべんけいそう・おのまんねんぐさ・きりんそう〈ユキノシタ科〉ちしまねこのめそう・ねこのめそう・つるねこのめそう・まるばねこのめそら・うめばちそう・すだやくしゅ・とりあししょうま・ふきゆきのした・えぞくろくもそう・だいもんじそう・みやまだいもんじそら・イワガラミ・ハナイワガラミ・ゴトウヅル・エゾアジサイ・サビタ〈バラ科〉やまぶきしょうま・きんみずひき・おにしもつけ・みやまだいこんそう・だいこんそう・おおだいこんそう・のうごいちご・へびいちご・みつもとそら・きじむしろ・えぞつるきんばい・みやまきんばい・いわきんばい・ながぼのしろわれもこう・エゾマルバシモツケ・チングルマ・ホザキナナカマド・エゾホザキナナカマド・ナワシロイチゴ・クマイチゴ・エビガライチゴ・エゾイチゴ・カジイチゴ・クロイチゴ・ノイパラ・ハマナス・オオタカネバラ・オオヤマザクラ・チシマザクラ・シウリザクラ・カスミザクラ・ミヤマザクラ・ウメザキチシマザクラ・ウワミズザクラ・ズミ・ウスゲカマツカ・ナナカマド・オオナナカマド・アズキナシ〈マメ科〉イヌエンジュ・エゾヤマハギ・クズ・ハリエンジュ・フジ・サイカチ・めどはぎ・ぬすびとはぎ・せんだいはぎ・やはずそう・みやこぐさ・えぞのれんりそう・はまえんどう・ひろはくさふじ・くさふじ・しろつめくさ・あかつめくさ・うすばやぶまめ・なんてんはぎ・すぎなも・ほざきのふさも・えぞみそはぎ・けなしやなぎらん・ひめあかばな・いわあかばな・からふとあかばな・むつあかばな・あかばな・めまつよいぐさ・おおまつよいぐさ・みやまたにたで・たにたで・みずたまそう・うしたきそう〈ジンチョウゲ科〉カラスシキミ・ナニワズ〈グミ科〉アキグミ〈セリ科〉おおちどめ・うまのみつば・しゃく・ほたるさいこ・やぶじらみ・みつぱ・みやまやぶにんじん・やぶにんじん・かのつめそう・ひかげみつぱ・せんとうそう・やなぎばどくぜり・ひろはどくぜり・たにみつば・せり・おおかさもち・しらねにんじん・いぶきぜり・いぶきぼうふう・はまぼうふう・まるばとうき・えぞのししうど・みやませんきゅう・いわてとうき・おおばせんきゅう・あまにゅう・えぞのよろいぐさ・はくさんぼうふう・おおはなうど〈ウコギ科〉うど・とちばにんじん・タラノキ・コシアブラ・ウコギ・オニウコギ・センノキ・ケセンノキ・ヒロハハリブキ〈ミズキ科〉ごぜんたちぱな・ミズキ〈アカネ科〉あかねむぐら・やえむぐら・ほそばのよつばむぐら・おおばのやえむぐら・えぞきぬたそう・えぞおおきぬたそう・かわらまつば・えぞのかわらまつば・おくくるまむぐら・きくむぐら・よつばむぐら・えぞのよつばむぐら・くるまむぐら・くるまばそう・つるありどうし〈スイカズラ科〉エゾニワトコ・オオカメノキ・ケカンボク・ガマズミ・ミヤマガマズミ・ウコンウツギ・タニウツギ・クロミノウグイスカグラ〈レンプクソウ科〉れんぷくそう〈オミナエシ科〉おとこえし・おみなえし・まるばきんれいか・えぞかのこそう〈ウリ科〉あまちゃづる・みやまにがうり〈キキョウ科〉さわぎきょう・つるにんじん・ばあそぶ・つりがねにんじん・ながばしゃじん・たにぎきょう〈キク科〉のげし・おにのげし・はちじょうな・おにたびらこ・やくしそう・おおばなにがな・しろばなにがな・おおじしばり・いわにがな・はまにがな・やまにがな・えぞたかねにがな・やなぎたんぽぽ・こうぞりな・せいようたんぽぽ・えぞたんぽぽ・やぶたびらこ・せんぼんやり・えぞのきつねあざみ・ちしまあざみ・おおのあざみ・えぞやまあざみ・えぞのさわあざみ・たかあざみ・さわあざみ・のぼろぎく・えぞおぐるま・はんごんそう・おおはんごんそう・やえおおはんごんそう・みみこうもり・よぶすまそう・おおよもぎ・しろよもぎ・ひろはうらじろよもぎ・おとこよもぎ・ほそぱおとこよもぎ・いぬよもぎ・こはまぎく・ときんそう・あかぱなえぞのこぎりそう・のこぎりそう・きたのこぎりそう・せいようのこぎりそう・たうこぎ・あめりかせんだんぐさ・めなもみ・のぷき・あきたぶき・かせんそう・やぶたばこ・みやまやぶたばこ・こやぶたばこ・ひめちちこぐさ・やまははこ・うすゆきそう・ひめじょおん・ひめむかしよもぎ・やなぎよもぎ・へらばひめじょおん・しらやまぎく・えぞごまな・えぞのこんぎく・おおあわだちそう・あきのきりんそう・えぞのこがねぎく・こがねぎく・よつばひよどり・ひよどりばな・みつばさわひよどりばな・おなもみ・きくいも 単子葉植物〈ガマ科〉がま〈ミクリ科〉えぞみくり〈ヒルムシロ科〉ほそばひるむしろ・おひるむしろ・いとも〈オモダカ科〉さじおもだか・へらおもだか・あぎなし〈イネ科〉きつねがや・はまにんにく・かもじぐさ・しばむぎ・ほそむぎ・ねずみむぎ・うしのけぐさ・かもがや・すずめのかたびら・おおいちごつなぎ・ながはぐさ・いちごつなぎ・みやまどじょうつなぎ・こめがや・ふおーりーがや・おおにわほこり・にわほこり・ねずみがや・おおねずみがや・ぬまがや・つるよし・よし・こめすすき・こうぼう・わしべつみやまこうぼう・こぬかぐさ・すずめのてっぽう・おおあわがえり・ほつすがや・やまあわ・ひめのがりやす・ねむろがや・のがりやす・はねがや・しば・とだしば・ぬかきび・いぬびえ・ひえ・きんえのころ・あきのえのころぐさ・こつぶきんえのころ・すずめのひえ・あきめひしぱ・すすき・あしぼそ・きたささがや・かりまたがや、こぶなぐさ・あぷらすすき・エゾネマガリダケ・チシマザサ・エゾタカネザサ・クマイザサ・チマキザサ・スズ・ミヤブコサ〈カヤツリグサ科〉いぬほたるい・ふとい・かんがれい・さんかくい・こうきやがら・あいばそう・あぶらがや・こほたるい・さぎすげ・しろみのはりい、まつばい・しかくい・くろはりい・やまい・おにひめくぐ・みかずきぐさ・やちかわずすげ・こうぼうむぎ・おおかわずすげ・たかねしょうじょうすげ・ひめすげ・あぜすげ・おおいとすげ・ごんげんすげ・かみかわすげ・みやまかんすげ・おくのかんすげ・みやまくろすげ・あおすげ・みのぼろすげかみかわすげ・なるこすげ・いわきすげ・えぞたぬきらん・あぽいたぬきらん・ひらぎしすげ・はりがねすげ・ひごくさ・えなしひごくさ・ひかげしらすげ・こはりすげ・えぞさわすげ・かさすげ・ひめしらすげ・むじなすげ・たがねそう・ごうそ・ごうぼうしば・みやまなるこすげ・かわらすげ・あぜなるこすげ・びろうどすげ・やまてきりすげ・きんすげ・おになるこすげ・ひめおになるこ
 すげ・あずまがや〈サトイモ科〉みずばしょう・ざぜんそう・こうらいてんなんしょう〈ウキクサ科〉あおうきくさ〈ツユクサ科〉つゆくさ〈イグサ科〉いぬい・はまい・い・みやまい・くさい・どろい・せきしょうい・こうがいぜきしょう・ひろはこうがいぜきしょう・はりこうがいぜきしょう・あおこうがいぜきしょう・ぬかぼしそう・すずめのやり・やますずめのひえ〈ユリ科〉ねばりのぎらん・しおで・つくばねそう・くるまばつくばねそう・えんれいそう・みやまえんれいそう・おおばなのえんれいそう・しらおいえんれいそう・こじまえんれいそう・すずらん・つばめおもと・まいずるそう・ゆきざさ・ほうちゃくそう・ちごゆり・えだうちちごゆり・ひめいずい・みやまなるこゆり・あまどころ・おおばたけしまらん・ひめたけしまらん・きじかくし・くろゆり・かたくり・つるぼ・きばなのあまな・ぎょうじゃにんにく・のびる・えぞねぎ・おおうばゆり・くるまゆり・えぞすかしゆり・たちぎぽうし・えぞきすげ・えぞかんぞう・やぶかんぞう・やまじのほととぎす・こばいけいそう・ばいけいそう・しょうじょうばかま・のぎらん・ちしまぜきしょう・おにどころ・のはなしょうぶ・ひおうぎあやめ・かきつばた・あやめ〈ラン科〉おおみずとんぼ・はくさんちどり・のびねちどり・とんぼそう・ひろはのとんぼそう・おおやまさぎそう・ほそばのきそちどり・つれさぎそう・たかねとんぽ・みずちどり・つちあけび・ときそう・おにのやがら・ぎんらん・ささばぎんらん・えぞすずらん・ねじばな・ふたばらん・ひめみやまうずら・あけぼのしゅすらん・ありどおしらん・こいちょうらん・くもきりそう・すすむしそう・せいたかすずむしそう・さるめんえびね・きんせいらん・さいはいらん・とけんらん・こけいらん・ひめむようらん シダ植物〈ヒカゲノカズラ科〉ひかげのかずら・たかねひかげのかずら・うちわまんねんすぎ・ほそばのとうげしば・みずすぎ(絶滅)・ひめすぎらん・とくさ・すぎな・おくえぞすぎな・いぬすぎな・えぞふゆのはなわらび・ぜんまい・やまどりぜんまい・こけしのぶ・やまそてつ・くじゃくしだ・いわがねぜんまい・おうれんしだ・からくさしだ・わらび・りようめんしだ・おくやまわらび・えぞめしだ・いわいぬわらび・へびのねござ・やまいぬわらび・おしだ・たにへご・しらねわらび・うさぎしだ・ならいしだ・はくもういので・ほそばしけしだ・くさそてつ・いぬがんそく・こうやわらび・みやまわらび・じゆうもんじしだ・ほそいので・おおばしょりま・ひめしだ・いわでんだ・ししがしら・とらのおしだ・こたにわたり・みやまのきしのぶ・のきしのぷ・ほていしだ・おしゃぐじでんだ・いわおもだか・みつでうらばし
 
 菌類
 本町のきのこは、現在約150種ほど知られていて、大部分は食用に適する。食用菌として優秀なものに次のものがある。
 ○しいたけ・ならたけ(ぼりぼり)・ぬめりいぐち(らくようたけ)は最も町民に親しまれている。味もよく個体数も多く、とくにならたけとぬめりいぐちは秋のたけ狩りの王様といってよい。
 ○むきたけ・ひらたけは大変似たもので、この両者は区別されず、むきたけとして食膳にのぼる。
 ○なめこ・えのきたけもおいしい。えのきたけもなめことして扱われている。
 ○まいたけ・ますたけ・たもぎたけも美味である。たもぎたけはあかだもの倒木に夏季自生する。
 ○はつたけ・しろはつたけは主にトウヒ林内にできる。
 ○落葉林内のきのことしては、前記のぬめりいぐちのほかに、はないぐち・きぬめりがさがある。はないぐちとぬめりいぐちとは区別が困難で、ともにらくようたけとよばれている。きぬめりがさは淡黄色の小さいきのこで味にくせがない。
 ○すぎたけもどき・ぬめりすぎたけ・しろしめじ・くりたけなどもすぐれだもので、本町にはたくさんある。
 〈毒きのこ〉本道では毒きのこが18種知られている。そのうち本町で確認されているものは、たまごてんぐだけ(稀)・つきよたけ(多)・にがくりたけ(多)・もえぎたけ(稀)・くさうらべにたけ(稀)の5種である。つぱとつぼのあるきのこを食べなければ、たまごてんぐだけを誤食することはない。つきよたけは柄の所を割ると中に黒色の部分があるのですぐわかる。にがくりたけは硫黄色で味は苦い。そのほか、ほていしめじがある。これは酒をのみながら食うと中毒を起すという変ったきのこである。
 
 登別町の菌類目録
 A、担子菌類
 (1)同担子菌亜綱
 (a)菌じん類 〈あかやまたけ科〉おとめのかさ・はだいろがさ・きぬめりがさ・こ<りのかさ・べにやまたけ・とがりべにやまたけ・ひいろがさ・しろひがさ〈しめじ科〉ほんしめじ・しゃかしめじ・すぎえだたけ・おおほうらいたけ・きつねたけ・おおきつねたけ・うらむらさき・やぐらたけ・しろひめかやたけ・ほていしめじ・つきよたけ(毒)・ならたけ(ぼりぼり)・つぷえのしめじ・こむらさきしめじ・むきたけ・あかしめじ、しろしめじ・きさまつたけ・にせまつたけ・くろさかずきたけ・すえひろたけ・あらげかわきたけ・たもぎたけ・ひらたけ・しいたけ・つえたけ・ぬめりつばたけ・えのきたけ・すぎひらたけ・あまたけ・おおあしながたけ・においあしながたけ・ちしおたけ・あくにおいたけ〈てんぐたけ科〉たまごてんぐたけ(毒)・つるたけだまし・かばいろつるたけ・つるたけ・しかたけ〈はらたけ科〉しろひめからかさたけ・おにたけ・わたからかさたけ・こがねたけ〈ひとよたけ科〉ひとよたけ・むじなたけ・いたちたけ・ひめひがさひとよ・ねながのひとよたけ・きららたけ・わたひとよたけ〈おきなたけ科〉つちいちめがさ・おきなたけ・つちなめこ〈もえぎたけ科〉もえぎたけ(毒)・きさけつばたけ・くりたけ・にがくりたけ(毒)・ぬめりすぎたけ・すぎたけ・やけあとつむたけ なめこ・ちゃなめつむたけ・すぎたけもどき・きなめつむたけ〈ふうせんたけ科〉ひめこがさ・ふうせんたけ・まんじゆうがさ・ちゃつむたけ・なみわかふさたけ〈ちゃひらたけ科〉まるみのちゃひらたけ・にせこなかぷり〈いっぽんしめじ科〉たまうらべにたけ・ひめしろうらべにたけ・くさうらべにたけ(毒)〈あみたけ科〉ぬめりいぐち(らくようたけ)・はないぐち・ちちあわたけ・あみたけ・やまいぐち・しろいぐち・あみはないぐち〈べにたけ科〉どくべにたけ・ちぎれはつたけ・くさはつ・はつたけ・あかもみたけ・しろはつ・きはつたけ・かわりはつ・つちかぷり〈ほうきたけ科〉ほらきたけ・かべんたけ・あくいろうすたけ〈こうやくたけ科〉むらさきうろこたけ〈しわたけ科〉しわたけ〈はりたけ科〉やまぷぶしたけ・ はりひらたけ・けにくはりたけ〈あんずたけ科〉うすたけ〈さるのこしかけ科〉まいたけ・しかたけ・やきふたけ・あしぐろたけ・ ばらいろさるのこしかけ・くろさるのこしかけ・ますたけ・かわらた・あらげかわらたけ・ひいろたけ・ほうろくたけ・かいがらたけ・ちゃみだれあみたけ・こふきさるのこしかけ・おつねんたけもどき・おつねんたけ・にっけいたけ・あみひらたけ・やにたけ・うさぎたけ・れんがたけ〈きこぷたけ科〉にせかいめんたけ・まめこぶたけ・かわうそたけ
 
 (b)腹菌類 〈ほこりたけ科〉きつねのちゃぶくろ・たぬきのちゃぶくろ〈つちぐり科〉つちぐり・たまねぎもどき〈すっぽんたけ科〉きつねのろうそく
 (2)異担子菌亜綱
 〈きくらげ科〉ひだきくらげ〈しろきくらげ科〉しろきくらげ・ひめきくらげ
 B、子嚢菌類
 〈のぼりりゅう科〉あしぼそのぼりりゅう・あみがさたけ・とがりあみがさたけ〈ちゃわんたけ科〉ちゃわんたけ・ながえのちゃわんたけ・べにちゃわんたけ・くりいろちゃわんたけ・ひいろちゃわんたけ・きちゃわんたけ〈くろさいわいたけ科〉あかこぶたけ・ちゃこぶたけ〈てんぐのめしがい科〉へらたけ
 
 魚貝類
 A、海産魚
 本町の沿岸に棲息する魚類は、直接調査した資料がないので不明であるが、1950年の調査による噴火湾の魚類は、暖流系と寒流系とをあわせて141種にのぼり、また昭和33年(1958)に調査された室蘭港根拠の底曳船での漁獲種類は、170種以上にもおよんだ。底曳船の漁場は噴火湾ロから本町沿岸沖合にわたっているから、当然底曳網で漁獲される種類の魚は、当地沿岸や沖合に周年分布し、あるいは季節的に回遊してくるものと思われる。なかでも産業的に重要な種類を、最近5か年、昭和34年(1959)-昭和38年(1963)の漁獲量統計から抽出して、上位にあるものをみると次のようである。
 スケトウダラ・ソウハチ・アブラツノザメ(アブラザメ)・マガレイ・ババガレイ・アカガレイ・ヒレグロ(ナメタ)・ヒラメ・ニシン・メヌキ類・サクラマス・カラフトマス・ネズミザメ(モウカ)・ハタハタ・サバ・サンマ・マイワシなどである。そのほかサケ・ホッケ・アイナメ類・キチジ(キンキン)・ツマグロカジカ(ギスカジカ)・マカジカ(ナベコワシ)・トウベツカジカなどのカジカ類、アブラガレイ・アサバガレイ・イシガレイ・クロスジガレイ(マツカワ)のカレイ類がある。
 これらのうち、最も漁獲量の多いのはスケトウダラである。とくに最近は資源の増大によって、スケトウダラは沿岸漁業の主幹となり、魚類総漁獲量の八割前後をしめ、昭和38年(1963)には、1000トンをこえた。漁獲は刺し網によって行われ、漁期は10月から翌年3月頃までであるが、盛期は一般に11月から12月である。
 サクラマス・カラフトマスおよびサケ(トキシラズ)は5月から6月にかけ、おもに小型船による流し網によって漁獲されるが、この漁況の豊凶は、他漁業経営にも大きな影響をおよぽしている。ソウハチはスケトウダラに次いで多く、とくに1960年頃から急増しており、ほとんど周年獲の対象となっているが、盛期は5月から6月で、11月から12月も比較的漁獲が多い。マガレイは春期および秋期に、ババガレイは冬期に多い。アカガレイもかつてはかなり重要な対象種であったが、現在はほとんど漁獲されていない。ニシン・マイワシ・サバ・サンマなどは、年による来遊量の変動が大きく、ある年は多量に漁獲があっても、翌年にはまったく来遊しないことが再三ある。メヌキ類にはバラメヌケ(バラサガ)・サンコウメヌケ(キンサガ)・オオサガ(サガ・オオメヌケ)などがあるが、現在これらはおもにスケトウダラ刺し網などで混獲されている。
 B、貝類
 貝類で最も重要なものはウバガイ(ホッキガイ)で、桁網で漁獲される。それと同時に混獲されるのがエゾバカガイ(アブラガイ)・サラガイ(ジョロウガイ)で、この2種類でウバガイと同量程度の漁獲がある。そのほかわずかではあるがエゾイガイ・アサリなどがある。
 C、海産動物
 本町の海産動物では、まずミズダコ・スルメイカが多い。籠網でケガニ(オオクリガニ)・ズワイガニ(ヨシガニまたはマツバガニ)が漁獲され、量は少いがタラバガニ・ワタリガニの産もある。年によってはトヤマエビ(ボタソエビ)・ホッコクアカエビ(ナンバンエビ)を対象に籠網漁業が行われる。
 そのほかヒトデ・ウデナガヒトデ・イトマキヒトデ・エゾバフンウニ(ガンゼ)・キタムラサキウニ(ノナ)・ハスノハカシパンなどがあり、室蘭沿岸の岩礁地に多いエラコ類は非常に少い。
 また、海産の大型動物、晴乳類では冬季にゴマフアザラシ・トドが稀に散見されるが、数が少いため漁業上の影響はほとんどない。
 D、淡水魚
 本町の淡水魚としては次のようなものが知られている。
 スナヤツメ・サケ・サクラマス・ヤマベ・オショロコマ(イワナ)・ウグイ・ヤチウグイ・キンブナ・ギンブナ・コイ・フクドジョウ・キタノトミヨ(トンギョ)・ボラ・アメマス・ハナカジカ・ウキゴリ・ウナギスナガレイ・イシガレイ。
 養殖魚ではドイツゴイ・ヒメマス・ソウギョ・テラピアなどがある。ソウギョは原産地が中共・ベトナム・ラオスで、わが国へは1943年頃利根川に持ちこまれたものが繁殖し、ここから稚魚が出荷されている。テラピアは原産地がアフリカ、水温25度が適温なので、登別では温泉水を利用して飼育している。おすは卵を口の中でかえす奇習がある。
 なお、幌別川にイトウが江戸時代末頃までは棲息していたというが、現在は絶減したもののようである。
 ヤマべはサクラマスの陸封型である。降海期に生殖腺の発達の著しいものが雌雄を問わず川へ残ってヤマべとなる。
 なお、淡水産の節足動物としてはザリガニ・サワガニ・スジエビが棲息する。
 
 海藻
 本町の沿岸は、鷲別岬・富浦岬周辺および登別川から伏古別川間に海藻礁があるのみで、他は海藻不毛の砂浜である。
 鷲別岬周辺は、岸から10メートルくらい離れたところまで岩盤があり、これに続いて水深5ないし6メートル(岸から50ー150メートル)までの海底は転石である。潮干帯にはノリ・フノリ・マツモ・ク口バギンナンソウ・ミツイシコンブが生育する。鷲別岬沖合にはかなり広い範囲に暗礁があって、ミツイシコンブ・チガイソ・スジメが混生している。
 富浦岬の周辺の岸辺には大岩石が散在している。岸から150メートル、水深5ー7メートルまでは、岸から順次ノリ・フノリ・マツモ・クロバギンナンソウ・アカバギンナンソウ・チガイソ・ミツイシコンブが生育する。ノリ・フノリ・マツモは割合い少いが、クロバギンナンソウ・ミツイシコンブはかなり多い。
 
 昆虫
 無脊椎動物の中で最も個体数が多く、人間と関係の深いものは節足動物の昆虫である。当地方に分布する昆虫類は種類数も膨大なので、当地の特色をあらわす特定の種をあげて本道における当地の様相を概説する。
 甲虫類 山地部と海岸近くの平野部では様相がはっきり異なる。山地部では、ミヤマハンショウ・アイヌハンミョウ・セダカオサムシ・オオルリオサムシ・オオキンナガゴミムシをはじめアオアシナガハナムグリ・フタゴルリハナカミキリ・アカガネカミキリ・ヨモギハムシ・キマダラコメツキなどが多く見られる。これらは北海道的な種というべきものであって、道北では非常に個体数が多い。
 以上の種の中で注目に価いするものは、オロフレ山地に産するオオルリオサムシである。この虫の原種は金緑色を皇して美麗なのに対し、本道中央部のものは全体暗紫色で、明かに異なっている。オロフレ山では標高600ないし1000メートルにかけて、かなりの数が見られる。
 平野部は海流の影響を受け、植生も北海道の中では暖地的な、ミズナラ・カシワ・サンショウ・ヤマウルシが多く、本州の東北地方に似ている。したがって棲息する甲虫類も、従来北海道では記録されていなかった
 ものが多数含まれ、この点からしても当地の特徴をうかがい知ることができる。現在までの当地における北
 海道未記録種をあげれば次のとおりである。
 セスジゲンゴロウ(鷲別、幌別の池沼)
 キノコアカマルエンマムシ(倶多楽湖)
 ツマグロアカバハネカクシ(倶多楽湖)
 ニジゴミムシダマシ(登別)
 サタカミキリモドキ(登別)
 ハイイロカミキリモドキ(登別)
 キバネトビイロカミキリ(登別シナの花)
 トガリバアカネトラカミキリ(川又鉱泉)
 クモノスモンサビカミキリ(登別ミズキ)
 以上であるが、これらは個体も多く、決して偶産というわけではない。このほか、北海道では稀なエサキキンヘリタマムシやヒゲコメツキ・ヘイケポタルなども知られている。
 要するに本町の甲虫類は山地では寒地系の種が多く、平地部では東北地方と共通の暖地的な種が見られるというふうに、本町ではこの両者を混合して見られる特異性がある。
 蝶類 現在まで76種が知られ、ハヤシミドリシジミ・ヒメギフチョウなど特異な種を含んでいる。蛾類の調査は現在のところあまり進んでいないが、ビロウドハマキをはじめ暖地系の種が多く、その総数は400種をこえることは確実である。
 害虫としては、農業に影響を与えるものも少くないが、本町の産業構造で農業の比重がさほど大きくなくあまり問題となっていない。
 
 第ニ章 先史時代
 一、概説
 幌別郡は太平洋に面した先住民族の早くから居住した地である。その歴史は付近の市町村とともに長期間にわたり、約8500年前から近世アイヌ期、さらには開拓時代にまで、その歴史は連綿として尽きなかったのである。ここでその長期間にわたる先住民族の歴史、つまり先史時代史を代表的な遺物である土器をもって便宜的に六期に区分し、さらに近世アイヌ期を加えて七期に分けると、次のような時代区分になる。
 第一期 初期平底土器を主に使用していた時代、約8500年前~6500年前
 第二期 弾頭形土器を主に使用していた時代、約6500年前~5500年前
 第三期 筒形土器を主に使用していた時代、約5500年前~3500年前
 第四期 多形の土器を使用していた時代、約3500年前~2000年前
 第五期 鉄石併用の続多形土器時代、約2000年前~1200年前
 第六期 鉄器使用の最終段階の土器時代、約1200年前~700年前
 第七期 木器使用の近世アイヌ時代、約700年前~
 以下これらについて、その時代時代の独自の文化を考えてみよう。
 
 二、通史
 第一期
 この期は「初期平底土器を主に使用していた時代」と呼ぱれ、その名が示すように平底の土器が盛んに行われた時代である。全道的な土器型式名を示すならば、貝殻の背あるいは腹縁を用いて施文したいわゆる貝殻文土器の仲間、および条痕文・沈線文のグループである大樹式土器・沼尻式土器・下頃部式土器・虎杖浜式土器などの1グループ、さらにやや細い紐を軸に巻いて押圧したり回転させた
 
 り、組紐にして押圧施文したりする文様を持つか、まったくの無文あるいは細い隆起帯を横位に数段めぐらせ、その間に撚糸文を施すなどの文様技術を有するところの東釧路式土器・浦幌式土器・タンネトウE式土器・田原式土器・
 梁川町式土器などの1グループをあげることができる。そして前グループは後者よりも若干先行するようである。
 本町では、これら両グループに該当する土器片が出土している。つまり第2図の土器や第3図5、6がそれで、無文土器に属している。第3図1の貝殻の背面を押圧して引いた文様の貝殻条痕文を有する土器は、白老郡白老町虎杖浜第1遺跡(遺跡番号22)から出土している虎杖浜 式土器に相当するものである。これには土器裏面にも外面と同技術による文様(条痕)が施されている。ま
 た、第3図2~4の文様は、紐を組み合わせ矢羽根状に表現した組紐圧痕文であり、当期の代表的な施文技術の一種である。注目すべきものは同図7であり、これは細紐あるいは撚糸を一本の軸に巻き押圧施文したもので、絡条体圧痕文と言われるグループである。この仲間は虎杖浜にも出土例があり、前記の静内町出土の田原B式土器などとともに太平洋側の一文化圏を担うものと考えられる。
 第一期の土器群に伴出する代表的な石器のうち、打欠き式石錘は、当時の生活が漁猟にその多くを頼っていたことを示す好例であるが、本町ではまだ発見されていない。しかし、付近の室蘭・虎杖浜などでは出土しているから、本町でもやがて発見されるのではなかろうか。
 
 第二期
 この時期は、不安定な砲弾状・乳房状・丸底などの底部をもつ土器によって代表される時期である。前期の土器群に比して厚手であり、胎土に植物性繊維、撚糸などを含むことが多い。文様を構成しているのは単軸巻き回転文、太目の斜行縄目文、羽状縄目文、結節のある縄目文、押型文などである。全道的な分布は、札幌・苫小牧低地帯以東に濃厚である。代表的な土器型式名は、静内中野式土器・加茂川式土器・日進式土器・春日町式土器・綱文式土器・朱円式土器などである。
 本町ではまだその遺跡、遺物は確認されないが、前期同様の漁猟生活を基盤にしていた人々は、おそらく本町にもその足跡を残したはずである。今後、標高30~40メートル段丘上の調査が進むと、何らかの手がかりが発見されるのではなかろうか。
 第三期
 当期は前期の弾頭形の土器に代わって、筒形で底の平らな装飾感にあふれた士器が使用されるようになる時代である。北海道の各地からこの時期の土器が発見報告されているが、それによって箇形の土器にはいくつかのグループのあることが知られている。奥羽地方の北部から北海道西南部に円筒式土器と呼ぱれる一群の時代的な流れを持った土器があり、他方、札幌・苫小牧低地帯以東には、大陸的影響をうけたと考えられる文様要素を持った北筒式土器が、時代的に円筒式土器に一部重なり、やや遅れて存続する。また、北海道西南部から札幌・苫小牧低地帯にかけて、余市式土器と呼ばれる前二者とは若干異なる土器群が円筒式土器のあとを埋める形で分布する。
 本町にあっては円筒式土器の終末期のものと、余市式土器に比定される土器が発見されており、それらの土器を使用した生活が営まれたことを知ることができる。箆のような道具で器面を引くことによって施される沈線を持つ土器(第4図2)は、円筒式土器終末期のものである。また、粘土帯を貼付けた上に紐を押しつけた文様の見られる土器(第5図5)は、苫小牧付近から噴火湾にかけて、海岸線に沿った台地上から多数発見されている。この土器を用いた人々の生活は、海にその生活の糧を求めていたのであろう。また、彼らの残した貝塚から鹿などの陸獣骨角も多く発見されており、陸獣狩猟も盛んであったことが想像される。字来馬の相良菊治宅付近(遺跡番号4)には、この種の土器を出土する遺跡があり、土器のほか若干の資料も採集されている(第6図)し、後述する鷲別遺跡もこの時期に相当する。
 
 第四期
 この時期になると土器は薄手になり、形態に種々の変化が現われる。つまり浅鉢・深鉢・注口付・台付・徳利形・盃形・かめ形皿形・壷形・双口形・香炉形その他がある。さらに用途別に精製のものと粗製のものとが分化する。このような分化は文様要素の面にも反映した。前期までの比較的単純な技術に加えて、数多くの施文技術が出現した。例えば縄目文・撚糸文などに加えて沈線文・刻線文・突瘤文・点列文・類竹管文・爪形文・磨消文などが代表的である。
 これらの要素を分類すると、全道的には若生式・入江式・野幌式・栗沢式・堂林式・静内御殿山式・亀ケ岡式(大洞式)・前北式・タンネトウL式・ヌサマイ式・釧路緑ケ岡式・オコツ式・大狩部式土器などの土器群に分れる。
 このように土器の多種多様化をもたらしたのは、本州文化との接触によるものであろう。本州のより高い水準の文化が流入してきたとしても、それを受け入れる側の文化的段階がそれに伴わなけれぱならない。その結果として以上のような多彩な土器が使用されることになる。
 本町でも前記の各型式の文化圏の一部を担ったものが出土している。その本州文化の影響を最も強く受けたものは、第7図3の類亀ケ岡式土器である。きわめて精巧に作られており、室蘭市イタンキ浜出土の同類土器などとともに文化的水準の高さを物語る好資判である。また同図1は、長沼町堂林遺跡出土の堂林式土器に相当する。同図2は静内御殿山式土器に対比し得るものである。これら3点の資料だけでもその文様要素の多彩さが物語られる。当時代の人々の墳墓はかれらの生活様式をよくわれわれに伝えてくれるが、本町ではまだ発見されていない。
 
 第五期
 以上のように前期は、北海道全般にわたって欄熟した文化の華やかな時代であった。その伝統を受継いだ当期もやはり本州の文化と接触しており、土器以外の面において大 きな影響を受けるのである。つまりここに画期的な鉄器あ
 るいは鉄製品の移入を見るのがそれである。しかも、従来の石器もそのまま使用されており、いわゆる鉄石併用の時代に移行する。土器の形態としては、前期に比べて若干の単純化あるいは統一化がみられ、深鉢形が主体を占め、他に浅鉢形・かめ形・壺形さらに後半には片口形・注口形も出現する。その文様は縞目の縄目文のほかに沈線文・刻文・刺突文・擬縄貼付文・撚糸文などの組合わせである。型式名としては、前期の亀ケ岡式土器の退化形と考えられる恵山式土器、さらに江別式土器(A・B・ C1・C2・D)、北見式土器(A・B・C1)などのほか、後半には北大式土器・シュンクシタカラ式土器などが出現する。
 このように前期に比較すると、代表的な型式名は非常に少くなる傾向が認められる。これは各文化圏が広範に拡がったことを物語るもので、遺跡の分布からも明らかであり、当地においても恵山式土器の出土を見るのである。この恵山式土器は、道西南部に濃厚に分布し、当地の北海道ソーダ会社裏の遺跡(遺跡跡番号11)は、その東の限界である札幌・苫小牧低地帯の一連と考えられよう。なお、本町付近の遺跡を考えると、室蘭市イタンキ浜を初めとして、渡島半島にかけて数多くの恵山式土器を出土する遺跡が点在分布している。
 この時期からつぎの第六期への移行形として、北大式と呼ばれる土器群が介在する。文様は●OI突瘤文・縄目文・磨消文・沈線文・擦文、帯状貼付文などである。ほぼ全道的な広がりをもっているが、道西南部では積丹半島古宇郡発足洞窟出土例が顕著なだけである。当地付近ではあまり出土例を聞かない。
 
 第六期
 この時代の代表的な土器型式のーつは擦文式土器である。大形のものは深鉢形、かめ形を呈し、小形のものには深鉢・浅鉢・台付・高坏形などがある。文様は刷毛目状擦文・刻点列文・刻線文が主である。分布は 全道に拡がり、さらに東北地方北部にも及ぶ。
 当式土器の発生は、北悔道の縄文系の土器群(主に第五期土器群)が本州からの土師器などの影響を受けて変化発展したものと考えられる。この土師器の影響は道酉南部ないし札幌・苫小牧低地帯にかけて多く認められる。
 擦文式土器は数型式に分類できる可能性がある。本町で発見されているものは、小破片ながら刻線文の文様表現で当時代のグループに属する。
 当期の人々は竪穴式の住居に住んでいた。それは同住居址が広く全道で発見されていることから明らかである。この住居址形態は大部分が隅丸方形を呈し、石囲みのない炉が住居のほぽ中央に位置し、カマドを南東側の壁面に多く構築している。煙道には斜行上昇するものと、直角に折れて上昇するものとがあり、前者が一般的なもののようである。小形(一辺約4メートル未満)の住居は、床面に柱を持たず、直接に壁の外部から屋根をかけ、中形のもの(一辺約4ー8メートルくらい)は4本柱、さらに大形の場合(一辺約8メートル以上)は8本柱を基調としている。
 かれらの生活基盤はサケ・マスなどの漁猟におかれていたと思われ、多く川の付近の段丘上に住居址群が形成されている。もっとも、竪穴式住居址は現在のところ道西南部ではあまり顕著ではないのだが、登別川をさかのぼったケネウシの東側の林の中に、僅かに平坦なアイヌ語でチセコチと呼ばれる地点(遺跡番号20)がある。おそらくトイチセコチ(穴居の跡)の意味と考えられる。土器も出土している。
 
 第七期
 以上のような擦文式土器を使用した人々はアイヌと考えられ、かれらは本州から移入されてくる金属器・木器・漆器などをかれら自身のものとして吸収し、いわゆる木器時代に移行する。この時期を近世アイヌ時代として一応の区別をしておく。幌別郡付近で、この時代の遺跡として現在までに知られているのは五カ所だけであるが、このほかに古老ァイヌによるロ伝もいくつかある。ここでは遺跡を概観してみよう。
 現在の登別高校から約700メートル幌別川沿いに登った地点にチャシコツ
 が残存している(遺跡番号5、第9図)。舌状台地を利用した丘先式であり一本の直状濠がチャシコツの先端部より約60メートルの位置に、南側から頂上部にかけて掘られている。北側はやや急崖をなしている。現存の濠の大きさは幅約1・5メートル深さ約1メートル、長さ約10メートルである。比高は約50メートル。このチャシコツの南側の沢は、古くからアイヌの鮭の密漁のた
 めの通路と伝えられており、当時幌別川に鮭が遡上していたことを示す好資料である。
 同様のチャツコツは隣の白老町に二個確認されている。
 そのーつは、白老町ポンアヨロ付近のカムイエカシチャシコツ(遺跡番号16)と呼ばれているものである。南東側が太平洋に面した丘先式である。西方はポンアヨロ川に臨んでいる。標高約三十数メートルで、直状濠が一本残存している。
 また他の一個所は、カムイミンタルと称される台地上にあり、前者の力ムイエカシチャシコツより約400メートル西方に位置する(遺跡番号14)。面崖式で半周状濠が一本認められている。
 以上のチャシコツのほかに、幌別駅付近(遺跡番号6)でアイヌの墳墓と思われるものが発見されている。昭和41年5月28日、建設工事中に人骨が二体、鹿の骨とともに出土した。他にマキリー本の伴出遺物がある。この地点からは以前にも人骨一体が出土したことがあるが、葬制その他は不明である。現在、遺物は室蘭栄高校に保管されている。
 また、富浦岬の北西方、通称七曲りの坂を登りつめた地点(遺跡番号21)にアフンルパル(入る・道・ロ)と呼ぱれているものがある。アフンルパルは普通「あの世の入ロ」とか「地獄穴」と言われているもので、全道では18カ所確認されている。通常、洞窟にその名称が付けられているが、登別町の例は、長径約30メートル、短径約22メートル、深さ約4メートルの竪穴式のものである(第10図)。そこにまつわる言い伝えは、知里高吉翁、板久孫吉老によると「そこは昔から近づいてはいけない場所であった。付近にはよいエゾニュウがたくさん生えていたが、ここだけは取りに行かないことになっていた。また近くの大きな樹によく鷲が来てとまっていたが、アフンルパルのそぱだからといって取らなかった。またここは地獄極楽へ行く穴だから子供たちは行ってのぞいてはいけないといわれていた。夜になると、亡者がここから出て来て、昆布(コンブ)や海胆(ニノ)などの磯のものを取り、戻って行ったとのことであった。」と伝えられている。このような遺構は他地域では類例がなく、その詳細はいまだ不明である。
 
 三、登別町の遺跡
 先史時代の登別は以上のような経過をたどって歴史時代へと続くのであるが、考古学の面では学術的な調査はほとんど行なわれていない。しかしながら、現在までに判明している遺跡がいくつかあるので、掲記して今後の資料としたい。
 なお、番号は第1図の遺跡番号を示す。
 1、亀田公園 円筒上層式(第4図1、第5図4)及び第四期前半の土器片。
 2、富岸神社裏土器片。
 3、自衛隊裏 円筒上層式(第4図7、第5図3)及び擦文式(第8図)の土器片。
 4、来馬相良宅付近 余市式土器に比定される土器片及び伴出の石器(第6図)。
 5、来馬のチャシコツ(第9図)。
 6、幌別駅傍 アイヌの人骨三体とマキリ(小刀)。
 7、山木第一地点 第一期の無文土器。第2図、第3図5、6)、貝殻条痕文土器(第3図1)、組紐圧痕文土器(第3図2~4)、絡条体圧痕文土器(第3図7)。第三期の土器片(第4図3、5)。
 8、山木第二地点 第三期の土器片(第5図1・2・5)。第四期の堂林式(第7図1)、静内御殿山式(第7図2)の各土器片。
 9、千歳 第三期及び第四期の土器片。
 10、今田 第三期(第4図8)及び第四期の類亀ケ岡式土器(第7図3)の破片。
 11、北海道ソーダ工場裏 恵山式土器の破片(知里・山田昭和33年)。
 12、ポソアヨロD遺跡(豊田等 昭和26年による)余市式土器を包含する貝塚。
 13、E遺跡(同右)厚手縄文式土器・石錘・有柄縦形掻器・石鏃。又、人骨も発見されている。ここは虎杖浜第二遺跡(大場等 昭和37年)に一致する。それによれぱ縄文の尖底土器・北筒式土器、石器では石槍・石錐・有柄縦形掻器・擦切石斧・庖丁形石器・石冠・石錘・石臼などが発見されている。
 14、カムイミソタルのチャシコツ(第10図)
 15、ポソアヨロF地点(豊田等 昭和26年による)遺物包含地。
 妬、ポンアヨロのチャシコツ カムイエカシチャシコツである。
 17、アヨロ川傍A地点(豊田等 昭和26年による)類恵山式土器・石鍛・有柄縦形掻器・石斧、その上層から擦文式土器。
 18、アヨロ川傍B地点(同右)擦文式土器の破片。
 19、アヨロ川傍C地点(同右) 擦文式土器の破片。
 20、トイチセコツ 竪穴式住居址があったという。土器片が採集されている(知里・山田昭和33年)
 21、アフンルパル(知里・山田 昭和31年)(第10図)。
 22、虎杖浜第一遺跡(大場等 昭和37年)第一期の虎杖浜式土器とその住居址。
 23、鷲別遺跡 鷲別遺跡は本町の西端、鷲別岬(鷲別町二四番地)にあって、室蘭市にまたがって存在している。標高40メートル、南と東側は断崖、西北部はゆるい傾斜面になっている。ここの遺物出土については、古く明治28年頃の記録がある。その後久しく忘れられていたが、昭和35年以来、大谷高校溝口稠らの調査で注目されるに至った。
 
 出土品は土器・石器・骨格器・貝器・人骨・動物骨格などで、土器には第三期の円筒上層式、余市式の土器片、第四期の入江式・亀ケ岡式の土器片がある。入江式土器を用いた人びとが貝塚を形成したと思われる。食料としては鹿・熊・あざらし・いるか・犬・鳥・かき・はまぐりあさり・ほたて・ほっき・えぞぼら・いがい・つめたかい・うになど、陸上動物・海獣・魚介類など豊富な残滓が発見される。貝塚の下層には、19個の積石の下に、2個の石を抱えた仰臥屈葬の人骨の墓が発見された。首に副葬品として平玉3個がある。第二次調査では珍しい二段式竪穴も発見されている。
 なお人骨は北大医学部(現在文学部に移る)大場利夫らによって目下研究が深められており、その成果が期待される。
 24、川上 原市太郎宅利近 縄文晩期から続縄文期初頭にかけての土器・石器が出土する。土器には亀ケ岡式の完形品もあり、石器は有柄の黒擢石製石鏃が多い。
 
 ******************75~ ******************
 
 第三章 地名
 一、胆振の地名
 
 
 胆振国という国名、幌別郡という郡名は、明治2年(1869)8月15日に命名された。開拓使が設置されてまもなく、幕末以来蝦夷地探検家として有名な松浦武四郎が提出した原案をもとに、蝦夷は北海道と改名し、11国86郡に分けられたのである。このとき胆振国が創設され、その中に山越・虻田・有珠・室蘭・幌別・白老・勇払・千歳の8郡がおかれた。
 胆振の名は、『日本書紀』の斉明天皇5年(659)の阿倍臣の蝦夷征討の記事、「胆振鉗(いぶりさえ)の蝦夷二十人」 に由来する。すなわち胆振地方の中心が「ユーフツ」で、「ユーフツ」はもと「イブッ」とよんだので、その音から阿倍臣の胆振鉗をこの地方と考え、命名のときに下部の鉗を省いたものである。
 「イブッ」は「イ・ブッ」の転化で、「それの・川ロ」という」息味のアイヌ語である。
 
 二、郡名・町名・字名
 郡名幌別は本町の一字名でもある。江戸時代に幌別場所がおかれ、この地方の中心になっていたのが、明治2年の郡名に選ばれた理由であろう。幌別郡はもと鷲別・幌別・登別の三村に分かれていたが、大正8年 (1919)この三村を合わせて幌別村になったので一郡一村になった。その後昭和26年(1951)町制施行、同36年(1961)登別町と改称して今日に至った。国際的にも著名になった登別温泉の名によって、町名を代表させることになったのである。
 町内は現在、カルルス・上登別・登別温泉町・中登別・登別町・札内・富浦・幌別町・来馬・千歳・川上富岸・鉱山・鷲別町・上鷲別の十五字に分れている。以下、宇名の由来について簡単にのべよう。ただし、 上とか中とかは省略する。
 ○登別(のぼりべつ) この町名を代表する登別はアイヌ語「ヌプルペッ」に由来する。「ヌプルペッ」は今の登別川のことで、「色の濃い川」という意味である。温泉から流れでる川なので、水が暗く濁っているからである。
 ○幌別(ほろべつ) 「ポロペッ」というアイヌ語にもとづくもので「大きな川」という意味。大きな川は幌別川のことである。この地はもと「カニサスペッ」とよんでいた。「カニ」は金、「サス」は金の音、「ペッ」は川で、幌別川は上流で「シノマンペッ」「エコイカオマペッ」の両川が合流して大川になり、金属音をたてて流れたので「カニサスペッ」といったが、のちに大川のあるところから「ホロペッ」とよぶようになった。
 ○鷲別(わしべつ) アイヌ語「ワシぺッ」は「チワシペッ」の「チ」が脱けた形であろうといわれる。「チワシペッ」は「波立つ川」の意味で、直接には鷲別川のこと。以上がもとの大字三村。
 ○カルルス 「力ルルス温泉」の名に由来する。カルルス温泉はもと「ペンケユ」とよんだ。「川上の温泉」の意味で、登別温泉を「パンケユ」(川下の温泉)というのに対した名であった。〔注 古文書には「ペンケネセ」とよばれ(川の床)という意味である〕ところが「ペンケユ」の泉質が、チエッコスロヴァキァのカルルス・バード(現在カルロヴィ・ヴァリ)に似ているところからカルルス温泉と名づけられた。
 ○札内(さつない) アイヌ語「サツナイ」で、乾いている沢の意味。
 ○富浦(とみうら) もと「ランポッケ」、アイヌ語で「坂下のところ」の意味で、七曲りと称する急坂の下にあったコタンを「ランポッケ」とよんだ。これに「蘭法華」の漢字をあてていたが、難しいので、昭和6年富浦と改名したものである。
 ○千歳(ちとせ) 旧字岡志別、アイヌ語で「オカシペッ」で「川尻の意」である。
 ○来馬(らいば) アイヌ語「ライパ」で、意味は「死んだ川ロ」である。古川の川ロ、ということであろう。
 ○川上(かわかみ) 幌別の川上の意味。
 ○富岸(とんけし) アイヌ語「トウムケシ」で「沼尻の末」の意味。
 ○鉱山(こうざん) 硫黄鉱山があり、北海道硫黄株式会社幌別鉱業所がおかれていた。
 三、登別町アイヌ語地名一覧
 本町出身の故知里真志保博士と、北海道曹達の社長山田秀三が、町内のアイヌ語地名について詳細な調査をされた。この報告をもとにその一覧表と地図を次に掲げることにしよう。地名の通し番号は地図上の番号を示している。
 1 クッタルシ 「オオイタドリ(ウラジオイタドリ)・群生している・所」
 2 アヨ口 「矢・そこ・に群在する・部落」
 3 オムンぺ 「川尻・ふさがる・川」
 4 トプシナイ 「竹・群生する・川」
 5 シノマン・アヨロ 「本当に・山奥へ行く・アヨロ川」
 6 エシカリ・アヨロ 「そこヘ・廻って行く・アヨロ川」
 7 オソルコチ、オソロコチ 「尻・の凹み」「その尻・の凹み」
 8 イマニッ、イマニチ 「魚・焼串」「魚・その焼串」
 9 カムイエカシチャシ 「神祖・の砦」
 10 ポンアヨ口 「小さい(子である)・アヨロ」
 11 ヤウンクットマリ・ヤウンクルトマリ 「土地の人の・碇泊所」
 12 レプンクットマリ・レプンクルトマリ 「外地人の・碇泊所」
 13 カムイミンタル 「神・庭」
 14 パイカルマトンペチセウシ 「春・女・あるもの(雌狐の)・家・ある・所」
 15 力シヤムニウシ「その上・クリの木・群生している所」
 16 トプシナイ 「竹・群生している・沢」
 17 力ムイワッ力 「神・水」
 18 クッタルシト 「オオイタドリ・沼」
 19 クッタルシェトコ 「オオイタドリ・の突端」
 20 アヨロエトコ 「アヨロ川・の突端」
 21 ポンヌプリ 「小さい・山」
 22 ポロヌプリ 「大きい山」
 23 ポンアヨロエトコ 「ポンアヨロ川・の突端」
 24 フシコペツ 「古い・川」
 25 ポル、ポール 「洞穴」
 26フシコペッ・エンカシケ 「伏古別川・の上方の所」
 27 ニトシコッ 「細捧・群在する・谷間」
 28 工工ニ 「頭、尖っている・もの」
 29 ルオコッ 「道・ついている・谷」
 30 ハルキエエニ 「左方の・尖り山」
 31 ハリキエエニオシマケ 「ハリキエエニ山・の背後の所」
 32フシコペッ・エトコ「伏古別川・の突き当り」
 33 ルートラシコッ「道が・それに沿って登っている・沢」
 34 フンコペッエトコ・エサン・シト 「フツコペッエトコ山・から・浜へ出てくる・尾根」
 35 チャラシナイ 「サラサラと音を立てて流れ下る・谷川」
 36 チプタウシ 「いつもそこで舟を掘った所」の意。
 37 チャラシナイエトコ 「チャラツナイ・の突き当り」
 38 ポプケナイ 「沸騰する・小川」
 39 フンペサパ 「鯨・頭」
 40 オンネヌサウシ 「古い幣場」
 41 ヌサウンコッ 「幣場・に行く・沢」
 42 ヌプルペッ 「色の濃い・川」、「山の川」の意はないか。
 43 ヌプルペップトフ 「登別川・の川ロ」
 44 ペウンナイ 「やち水・入る・小川」
 45 メナプト 「泉(メナ川)・の川ロ」
 46 メナ 「泉」か。
 47 サッナイプト 「札内・の入ロ」
 48 サッナイ 「乾いている・沢」
 49 ポントクセ 「小さな・凸起している・もの」
 50 ランコウシ 「カツラ・群生している・所」
 51 ラルマニウシ 「イチイ(オンコ)・群生している・所」
 52イチャヌニ 「鮭鱒の産卵場(ホリ)・そこにある・所」
 53ヘサンケ 「頭を・前へ出している・者」
 54 ケネウシ 「ハンノキ・群生している・所」
 55 チセコチ 「穴居・の跡」の意か。
 56 シュオピ力 「箱を・溢れ出る」
 57 チキサニウシ 「アカダモの木・群生している・所」
 58 キムンタイ 「山奥の・森林」
 59 シケルペニウシ 「シコロの木・群生している・所」
 60 ピラコルハッタル 「崖を・もつ・淵」
 61 ルイタウシ 「砥石を・掘り取り・つけている所」
 62 パナイサキペナイ 「川下(川ロ)・の方・にある・マス・入る・小川」
 63 トレプンケナシ 「オオウバユリの球根・そこにある・川添の林」
 64 エマウリウシ 「イチコ・群生している・所」
 65 ポール 「洞窟」
 66 ペナイサキペナイ、ペナ(ウ)ンサキペナイ 「川上・の方・になる・マス・入る・谷川」
 67 ペナイサキペナイ・エトコ 「ペナイサキペナイ川・の前方」
 68 ナイコチェプンナイ 「産卵後のサケ・入る・谷川」
 69 オオホペッカスユシ 「深い・徒渉場」
 70 レウケハッタル 「曲っている淵」
 71 ポント 「小さい、沼」
 72 プルプルケピラ 「清水が湧き出ている・崖」
 73 プルプルケハッタル 「水の湧き出している・淵」
 74 モユクンポル 「ムジナ(エゾタヌキ)・入る・洞窟」
 75 ペトコピ 「川がお互いに別れていく所」「川が・お互いに・分れる・所」
 76 クスリエサンペッ 「薬湯・そこを通って・浜の方へ出てくる・川」
 77 クスリサンペツソー 「クスリサソペッ川・の滝」
 78シピンナイ 「本当の・細谷川」
 79 ユクペサウシ 「鹿がいつもそこへ入ってのたうちまわる所」
 80 クスリエサンペッ・ニセイ 「クスリエサンペッ川の断崖峡谷」
 81 ユッテルケウシ 「鹿がいつも飛び越える場所」
 82 コルコニタウシ 「フキをいつも掘りとる所」
 83 フレピラ 「赤い・崖」
 84 ボールンナイ 「洞窟・ある・沢」
 85 パンケユ 「川下の・温泉」
 86 ホルカレイェプンナイ 「ザリガニ・入る・谷川」
 87 ピシュンケタナシ 「浜の方にある・山」
 88 アクナイ 「われら・飲む・谷川」
 89 ポイユ 「子である・湯」「小さい・温泉」
 90 シッカルユ 「目を・治療する・温泉」
 91 アクユ 「われら・飲む・温泉」
 92 プルプルケヌプリ 「もくもくと煙をふいている・山」ポロユエトコ「湯沼・の奥」ともいう。
 93 ユーエサンペッ 「温泉がそこを通って・出てくる・川」
 94 ソーアンナイ 「滝・そこに・ある・谷川」
 95アクナイ 「われら・飲む・谷川」
 96 チライマチリウニ 「オシドリ・入る・所」
 97 ペケルペッ 「明るい・川」
 98 ペトコピウンポルコ 「二股・にある・洞窟」
 99 力シュンナイ 「狩小屋・に行く・沢」
 100 タクネピンナイ 「短い・細く深い谷」
 101 シュヨプ 「箱」の意。
 102 ニセイカ 「絶壁・上」
 103キムンケタナシ 「山手にある・山」
 104 ポイウェイシリ 「小さい・けわしい・崖」
 105ライパヌプリエオマンペッ 「来馬山・に・行く・川」
 106 ショーヤウンナイ 「滝・そこに・ある・谷川」
 107 パスイヤノト 「箸が・そこに・より上る・沼」
 108 ペンケユ 「川上の、温泉」
 109 シノマンペッ 「ずうっと山奥へ行っている・川」
 110 ソーアンペッ 「滝・そこに・ある・川」
 111 エコイカオマぺッ 「頭(水源)が・東方・に向っている・川」
 112 ヌプキユ 「濁リ水の・温泉」
 113 ショーヤアンナイ 「滝・そこに・ある・谷川」
 114 ルイタウシ 「いつもそこで砥石をとっている・所」
 115 ナムワッカオイ 「冷い・水・溜っている・所」
 1l6 リコマペッ 「高所・に人って行く・川」
 1l7 シュマオマペッ 「石・ある・川」
 118 オタシクマ 「砂・山」
 119 オロフレ岳 「その中・赤い」山。
 120 サマッキヌプリ 「横になっている・山」
 121 リーフル力 「高い・丘・上」
 122 アフノルバル 前記。
 123 ワッカオイ 「水・溜っている・所」
 124 ハンナウシ 「枝幣・ある・所」
 125 ワカタウシ 「水を・汲み・つけている・場所」
 126 ランポクノツ 「ランポク・岬」
 127 ランポク、ランポッケ 「坂・下」「坂・の下・の所」
 128 ランポッケエトコ 「ランボッケ川・の水源」
 129 モユクンナイ 「エゾタヌキ(ムジナ)・入る・択」
 130 モセシナイ、モセウシナイ 「草を刈り・つけている・沢」
 131 ポルンナイ 「洞穴・そこにある・小Jll」
 132 シパペシコッ 「?・崖・谷」語源不明。
 133 サトカチペ、サトカシペッ 「乾いている・オカシペッ川」
 134 コペチャウシ 「鴨・群生する・所」
 135 オカチぺ、オカシペッ 「川尻・魚捕小屋・ある・川」?
 136 ハルキオカシペッ 「左の・オカツベツ川」
 137 シンケプシニナル力 「ハギ・群生している・上」
 138 オホコチ 「深い・その谷」
 139 ウコエペチトイ 「互・に・そこで・裂け・切れている・所」
 140 オカシペッエトコウンソ 「オカシベツ川・の水源・にある・滝」
 141 シンノシケウンオカシペッ 「まん中・にある・オカシベツ川」
 142 エコイカウンオカシペッ 「頭が・東・に向っている・オカシベツ川」
 143 イクンネレぺ 「物を・黒く・する・水」
 144 ニナル力 「台地・上」
 145 ポロト 「大きい・沼」
 146 ウツナイ 「肋骨・小川」
 147 ライパ 「死んだ・川口」
 148 ウキシマニシト 「取組みあっている、太・山の走り根」
 149 ポンライパ 「子であるライバ川」
 150 シライパ 「本当の・ライバ川」
 151 オシケフレナイ 「その中・赤い、小川」
 152 パナ(ウ)ン・エモイネイ 「下流・にある・そこで・湾・のようになっている・所」
 153 ペナ(ウ)ン・エモイネイ 「上流・にある・そこで・湾のようになっている・所」
 154 シュマウンペッ 「石・ある・川」
 155 サマッキライパ 「横へ行っている・ライバ川」
 156 ルークシト 「道・通っている・尾根」
 157 シノマンライパ 「ずうっと山奥へ行った・ライバ川」
 158 ポロペッ 「大きい・川」
 159 タッカルシナイ 「樺皮を・とり・つけている・沢」
 160 ランコタイ 「カツラ・林」
 161 ランコウシナイ 「カツラ・群生する・沢」
 162ランコハッタル 「カツラ・淵」
 163 ヌプリトラシナイ 「山・に沿うて登る・沢」
 164 オピラカシ 「川尻の・崖・の上」
 165 ヌィナクル 「隠れる・道」
 166オピラカシウンハッタル 「オピラカシの所にある淵」の義(※意の誤り?)。
 167 ノコッマナイ 語源不明。
 161 コムハッタル 「病葉・淵」
 169 ポロシュマ 「大きい・石」
 170 ピラカシハッタル 「崖・のかみ(の)・深淵」
 171 シュマウシ 「石・群在する・所」
 172 タンネピウ力 「長い・小石川原」
 173 パナ(ウ)ン・トレプンケナシ 「川下・の方・にある・オオウバユリ・ある・川添の木原」
 174 ウトルクシポンナイ 「その問・を通る・小さな・沢」
 175 ペナ(ウ)ン・トレプンケナシ 「川上の方にある・オオウバユリある川添の木原」
 176 ラルシハッタル 「潜り・つけている・深淵」
 177 タプコプエアンナイ 「たんこぶ山・そこに・ある・谷川」
 178 ウトムコチ 「互に・ぷつかる・その窪み」
 179 ウトムコチナイ 「ウトムコチに注ぐ小川」の義。
 180 ウヌンコイ 「峡谷を恐しい勢で水が流れているような所」
 181 ウヌンコイナイ 「ウヌンコイの所にある谷川」
 182 ウヌンコイハッタル 「ウヌンコイの所にある深淵」
 183 パナ(ウ)ン・ペト(※正しくはトの半濁音)コピ 「下流の方にある合流点(分岐点)」
 184 ワシペッエオマペッ 「鷲別に水源のある川」
 185 クスリアフプカルシ 「薬湯を・我等・貰う・のが常である・場所」
 186 レウケハッタル 「曲っている・淵」
 187 ペトコピ 「川が・そこで・お互い・分れる・ところ」
 188 シノマンペッ 「ずうっと・おくに行っている・川」
 189 力マンペッ 「岩盤・そこにある・川」
 190 レプネウコピ 「三つ・になっている・そこで・互・に・別れる・所」
 191 チュッポクシペッ 「西・を通る・川」
 192 チュププカクシペッ 「東・を通る・川」
 193 エコイカオマペッ 「頭(=水源)が・東・に向っている川」ライパニオマペッ「来馬に・水源が・向っている・川」
 194 フレペッ 「赤い・川」
 195 フレルイ力 「赤い・川の・橋」
 196 アハタシト 「ヤブマメ・掘る・走り根」
 197 キウシト 語源「キ・ウシ・シト」「カヤ・群生する・走り根」別にル(ー)クシト「ルー・クシ・シト」「道・通っている・走り根」
 198 トンケシ 語源「ト・ウム・ケシ」「沼・尻・の末」
 199 ウカオプ 語源「ウ・カ・オ・プ」「互・の上・にある・もの」
 200 ワシペッ 鷲別川。「チワシペッ」「波・立つ・川」
 201 サッテクワシペッ 「やせ衰える鷲別川」の意。
 202 ワシペッライパ 「鷲別川の古川」の義。
 203 トプシナイ 語源「トプ・ウシ・ナイ」「竹・群生している・沢」
 204 イワエカリナイ 語源「イワ・エカリ・ナイ」「山・を廻って行く・沢」
 205 タッカルナイ 語源「タッ・カル・ナイ」「樺皮・はぐ・沢」
 以上が幌別郡に存在するアイヌ語地名である。数的にみて他の市町村よりはるかに多いが、それは当地が早くからアイヌによって占拠されていたことを物語る。現在これらの地名の多くは容易に解し得なくなっている。また、その示している対象が、われわれの生活を強く規制していないため、一部は忘れられつつある。先人たちの遺産として伝承させねぱならない。再録したゆえんである。