OTHERS:他人
〜あなたのせいにするのは楽だから〜
作:元芝元夏


chapter:1

 真夜中過ぎに、キーボードを叩く音だけが響いている。近くを通る高速道路から、時折低い唸りを上げて車が行き過ぎる以外は、乾いた音だけが断続的に繰り返されている。

 文字を大きくしてみる。ここに、このレイアウトを入れてみる。気がついてこれが仕事ではないことを思って、苦笑いが口許に浮かぶ。これも賭けみたいなものだ。そう、うまい話が転がっている訳でもあるまい。欲望に突き動かされて行動に移している自分を、いまはまだ冷静に見つめる余裕はある。これが馬鹿げていることであり、あるいは犯罪に近い行為でもあり、そして単なる遊びと思えば、同僚の一人が、顔を引きつらせて自分に及ぼす心理的抑圧の方が遥かに邪悪であると考えている。もとを正せば、奴のせいで眠れないものだから、こんなことを考え付いてしまったのだ。責任の転化だ、全ては自分が悪い、それはわかっている。ちょっとした悪戯である。取り返しがつかない状況に陥る前に、身をかわせば済むことだ。誰にも迷惑はかけない。少なくとも彼女がもし、この悪戯に乗ることがあるとしたら、そのときは彼女も共犯者ということである。乱されたくない生活があるのなら、自分の他愛のない悪戯は確実に無視され、闇に葬られていくだろう。それで良い。

 そうは言っても、これがもしもゲームであるのならば、それなりに勝ちに行くことになるだろうことも、わかっている。そしてこの思いつきが、平凡な日常に影を挿す、隠微でふしだらな快楽を誘発するとしても、それが日常的に我々が心密やかに思い浮かべる白昼夢の域から、何ら、はみ出すものではない、ということにしておきたいのだ。

 マンションのエントランスに設えられた郵便ボックスは、暗証番号が設定されている。

テンキーを操作し、予め設定された番号を打ち込めばすんなりと開く。雑誌なり広告なりを挿しこむ程度のスペースはあるが、それ以外はカッチリとした硬い金属の箱であることに変わりはなく、したがってやすやすと壊せる程にヤワなつくりではない。

 イケルカモシレナイ、ほくそ笑む真夜中。

 たまたま帰りが遅くなり、エレベーターで乗り合わせた男は、つい先日越してきたばかりの若い夫婦で、恐らくは自分たちと、さして年齢的には変わらないだろうと思われる。街を歩いていたとして、少しお洒落をして出かけたとして、多少は男の視線を意識してみたい気分であり、そしてまた、季節は春先で、生暖かい風が若葉の香を運んで心地よく、しっとりと気づかぬ内に足の付け根が湿り気を増すような穏やかで幸せな気分のときに、たとえばこういう男が傍を通り過ぎたとしたら、それなりに視線はこの男の首筋や背中を追いかけるだろう、という程度には、男はまともな容姿をしていた。ネクタイのセンスも悪くない。

 「こんばんは」男の方から声をかけてきた。エレベーターの表示はまだAを表示していた。自分の声が少し上ずっている。誰かに何かを頼むときには意識して出す音域を、簡単にクリアしている。顔が上気していくのがわかる。いま、私は少しだけ頬を染めているに違いない。耳が熱い。男が開いた扉の向こうに消えると後を追って個室に足を踏み入れていた。違和感がない。会社の知り合いや同僚の後に続いて乗り込むのと何ら感覚的な差異はなく、むしろ男に対する無防備なほどの好感に戸惑いを覚えている。夫はもう帰っているだろうか、意識を自分に引き戻すように深呼吸をする。同じ階に住む隣の住民であるのだから、愛想のひとつふたつ言うのが当たり前だと、妙な理由を探して安堵している。挨拶くらいは気持ち良くしたい。

 「遅くまで、大変ですね」声が良かった。耳に馴染む。うやむやな返事をしながら、残業の疲れを過度に演出してみる。本当は、同僚とお茶を飲み、時を忘れて新婚生活に絶えず浮かぶいささかの不安と鬱憤を吐き出してきたところである。もちろん、そんなことは言えない。

 「何か、うちの方でご迷惑かけていませんか?」 大音量の山崎まさよしは悪くない、SPEEDはやめて、だいたい音楽って夫があまり聴こうとしない。私もテレビにしろラジカセにしろ飾り程度にしか思えない。それなりに充実した家事を楽しんでいる。やるからには、しっかりやりたかったから。

 「少しだけ、音が、CDか何かなのかしら、窓開けています、か? 何の曲かまではわからないし、誰が歌っているかまではわからないンですけど、ときどき…」一息に口にしてみるといじわるな気持ちが生まれてきた。アレも、昼間からしていません? それともビデオかしら…、そう口にしたらどんなことになるのだろう。隣人であって、知人と言えない、考えてみれば不思議な関係である。

 「あ、じゃ、結構ご迷惑かけているンですね。家具の置き方とか変えたほうが良いのかな。朝とか、起こしてしまったりします? 向きが悪いからかなぁ」申し訳なさそうに呟く男は、神経質そうな表情に映る。あまり刺激しない方がいいかもしれない。朝、は少なくとも何も知らない。

 「朝? はそんなことないです。別に、そんなに聞こえないです。ただ夜とか、あ、でもうちもこの間、友達が遅くまで騒いでしまって、うるさくなかったですか?」夫の大学の仲間が来た。夜中まで騒いでいた。笑い声の大きな男が一人混じっていた。柄が大きくて憎めないが、互いの壁の響き具合では間違いなく隣に聞こえてしまうことを、どう伝えてやめさせようかと思案したのだった。

 「別に、…」男は何も感じなかったように答える。帰っていなかったのだろうか。それでは正直に言ってしまったこちらの立場がないように思えた。「ちょっと聞こえたかも、しれないですけど」

 「そんなに気にならなかったですか? けっこう遅くまで騒いでいて」

 「いやぁ、別に」ドアは容赦なく開き、二人だけの密室の空間から解き放たれて歩き出しても、男を見上げながら歩いている私が、エレベーターに対して、もう少しだけゆっくりと動いてくれれば良いと感じてしまった気持ちを、笑顔で別れる際のおやすみなさいの言葉に込めてみていた。戸惑いは殆ど感じない。隣人との心安い関係は大切である、大義名分に満足しつつ、いささかなりとも、ときめいてしまっている気持ちは偽れなかった。


《つづく》


なまはげがさぼっているため全然コンテンツが増えない『図書室』でしたが、救いの手が差し伸べられました!!
元芝元夏さんありがとうございますm(_ _)m
これからも続きを送ってくださるとのことなので、皆さん楽しみにしていてください(^^)
読んだ方、ぜひ感想を送ってくださいね。
なまはげまでメールしていただければ、σ(^^ )が責任を持って作者に転送いたいたします。
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それはそうと、σ(^^ )も他力本願してないで、早いとこ自作のモノをアップせねば........(^^;;

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