隊長のざれごと 楽海余滴
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隊長の戯言


2004/12/27 (月)

 ひとたび油断をすると、パンツがなくなってしまう。
 手持ちのパンツがだんだん減ってきたのだ。穴空きの靴下は我慢できるけれども、穴の空いたパンツというものはどうにも情けなく、そのようなパンツは次々と捨てて来た。
 しかし、だ。金を持っていた頃に買いだめしたのが災いしてか、最近は次々とパンツの寿命が尽きて行くのだ。ふと気がつけば、存命しているパンツは6枚のみ。他はみな、天寿をまっとうした。


 元々、洗濯は1週間に1回の頻度で行なっていたのだが、6枚のパンツでは到底サイクルしきれない。少しでも洗濯をサボると、履くパンツがなくなってしまう。なんだかパンツに洗濯を強要されているみたいだ。

 そして、恐れていた日がついに到来した。ノーパン・デーである。
 いや、昨日まで履いていたパンツを改めて履く、という選択肢もありえた。しかしながら、考えても見て下さい。キレイさっぱりとなったフロ上りにタンスを開ければ、パンツがない。この脱力感。
 先程、パンツ袋に放りこんだ脱いだばかりのパンツを引っ張りだせば、クシャクシャのヨレヨレでほんのりと生ぬるい。この不快感。
 フロ上りの排泄行為と同じく、中古パンツを履くと損した気分になるではないか。


 悟りの境地にいたり、快感を覚えることがある。いわば既成概念からの脱却。
 例えば、とある国の首都にある唯一の安宿はたいへん汚く、日本から来たばかりだと本当にげんなりする。便所なんか特にひどい。扉を空けた途端、その汚さにショックを覚え、再び扉を閉じる。一端は引き返すものの、便意は再び巻き返し、やはり便所に戻る。
 しかし、人間は恐ろしい。回数を重ねるごとに次第に「慣れ」てきて、終いには全然気にならなくなるのだ。むしろそれどころか快感を覚えるようになる。それは征服感というか、達成感というか、心境を表現するのは難しいのだけれども、なんだか「新境地に至った!」という気分になるのである。
 …悟りの境地というか、ただの開き直りか、これは。

 世には女装癖を持つ男性会社員という人種がおり、彼らの中にはスーツの下にひっそりと女性下着を着用したりするものがいるらしい。それが「良い」のだそうだ。
 察するにその快感は、上記の心境に近いのではあるまいかと思う。女性下着を覆い隠したスーツは、エリートサラリーマンというペルソナの象徴であり、また「別境地」をより自覚するための材料にすぎないというわけだ。

 ということで、好奇心の強い小生としては、今回をチャンスと判断してノーパン体験をしてしまった訳である。女装は抵抗あるけど、ノーパンならばいける。
 そしていざノーパン体験をしてみれば、女装癖会社員の気持ちがつくづく分かった。本屋でマトモに接客してくれる店員なんぞおかしくてたまらない。丁重な対応を受ける都度、思ってしまうのだ。
 「フフ、アンタはかしこまっているが、おれはノーパンなんだぜ。ざまあみろ」
 なにが「ざまあみろ」なのかは分からないけれども、とにかくまァそう思ってしまったわけである。心なしか痛快であった。勝った気がする。

 
 とりあえず収穫はあったので、ノーパン体験はこれきりにしよう。このまま露出癖が開花されたら、それこそまずい。これからは頑張ってパンツを洗おう。
 ところで「パンツ買えばいいじゃないか?」という惨酷な提案は止めて下さい。それではフランス革命時のマリー・アントワネットと一緒である。「パンがないのならお菓子を食べたらいいじゃない?」
 小生はパンツを買う金があったら、パンを買うよ。


2004/12/26 (日)

 毎日、10通以上は届いてるエロエロメール。本日はパティ・スミスからバイアグラを勧めるメールが来た。ちょっと嬉しい。


 酩酊しておるので、マジメな話しでも書こう。首吊り未遂の友人がいたもんで。
 
 世の中には本当に救われ様のない人間がいる。“救い様のない”とはそうなるまでに至った原因を求めようがない人達である。
 例えば、だ。出勤途中、通学途中、夕飯準備の買物途中、なんでもいいのだけれども諸兄諸姉がぶらりと外に出るとしますよね。これらはなんら変哲もない日常生活上の行いである。
 で、近道をしようと裏道に入ったり、用を足そうと便所に行く。すると、そこには足がなかったり、メクラだったり、オシだったり、ツンボだったり、皮膚が崩れ落ちた、異界の住人のような人々がごくごく普通に生活していたりする。彼らは「カネ」さえあれば治療出来るのだけれども、そのカネを得る手段もない。諸兄からすれば、日常から切り離された世界に生きている人たちだ。
 しかし彼らはただ不幸を満身に背負っているのかというと、そうでもなくて意外とチャッカリ生きている。諸兄が出す小便のしぶきを浴びつつ公衆便所で寝食を果し、時には冗談を飛ばし笑い顔を見せる。
 たとえは悪いが、石ころみたいな存在だ。一見は見落としがちでありながらも、実はどこにでもいるありふれた存在である。だから、いちいち同情しては身が持たない。諸兄が一生を潰す覚悟があるならば、そのうちの数人は救ってやれるだろうけれども、赤の他人にそこまでの関心は持てようもない。某国で経験した日常はそのようなものだった。
 
 彼らの大半は現状を脱却する手段を持たず、そのように生まれたからにはそのまま死ぬまで過ごす。彼らは子供が“マトモ”な姿で生まれてしまうと、“マトモじゃない”人間に育てようとする。つまりは出生の時点で目を潰してあげたり、手足を切断してあげるのだ。それが生まれた子供にしてあげられる唯一の愛情手段だからである。つまりは悲惨に見えれば見えるほど関心を引きやすく、諸兄諸姉からお恵みを貰いやすいわけだ。それで生きる事が出来る。

 おれなら成人する前に自殺を果しているだろう。しかし、彼らはそうしない。腹が立つほどにしぶとく、明るく、元気である。「宗教感」が彼らを支えているからである。宗教が永遠の存在になっているのは、つまりそういうことだ。多くの宗教では、リセットボタンの存在を説く。―――― 今現在はリセットボタンを押すための準備期間であり、その準備をキチンと果せば新たなる幸福な世界へといけるのですよ。今のアナタは耐え忍ぶ世界に生きていて、そしてそれは仮の世界なのですよ、と。
 仏教もキリスト教もヒンズー教も、乱暴に要約すれば言っていることは一緒である。

 ところで、このような宗教感が根付いていない日本人は可哀想だと思う。絶対の存在ともいえる頼るべき手段がないからだ。それを必要としない人間はよほどの幸せバカか、ただのバカである。そして前者は必ず地獄に落ちるね。幸福は借金であり、不幸は貯金であります。最終的にはみーんなチャラになる。
 神様とは面白いもので(神がいるとすれば)、いったん不幸のどん底に陥っても落ちっぱなしということは有り得ない。
 そんなわけで、こんな文章は痺れるなァ。中島らもが自殺を遂げた友人に送った言葉。アル中、ヤク中の上に醜く老いていき酒の飲みすぎで死んだ作家だから説得力がある。
 
 「ただこうして生きてみると分かるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、“生きていてよかった”と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば。その思いだけがあれば、あとはゴミクズみたいな日々であっても生きていける。だから“あいつも生きてりゃよかったのに”と思う。生きていてバカをやって、アル中になって、醜く老いていって、それでも“まんざらでもない”瞬間を額に入れてときどき眺めたりして、そうやって生きていれば良かったのに、と思う。あんまりあわてるから損をするんだ」『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』

 そんなわけで死んじまうことは損であり、アホタレですよ。おらぁ、墓前にツバ吐くぞこのやろう。


2004/12/24 (金)

 ようやく新紙幣を手に入れることが出来た。
 月々五千円足らずで生活しているとこういう事態になる。最後に銀行に行ったのは何時だったか。はて、覚えていない。

*

 先日、大量のタダビールを貰ったので、清水の舞台から飛び降りたつもりでスルメを購入した。特売百円のパック肉を2日分の食料としている小生にとっては大決断であったといえる。やや悔悟の念はあったものの、スルメをレジ係に差し出す時はニヤつく笑顔を抑えるのに必死であった。

 
 わしはスルメが好きだ。スルメと酒があるだけで、無常の幸せを覚える。自分のとっての人生が最大の目標は「毎日、スルメとビールが購入できる身分になること」である。一見、無欲な願いであるけれども、アル中患者の思う切実な願いとそう大差がないような気がする。
 
 スルメの魅力には、それ自体に多くの味が共生していることが挙げられる。頭、胴体、足。それぞれ味も違えば食感も異なる。ついでに足は10本もあるのだ。この点、イカはタコよりえらい。自明の理である。
 スルメはそのままむしり食うのも良いが、焚火で炙るとさらに香ばしくなる。焚火でなければガスコンロでもいい。さもなければ百円ライターだっていい。しかし通は生の味と火を通した味を楽しむのだ。
 さらなる上は、ちょっと味付けしてみるのもいい。その可能性たるやそれこそ無限大である。塩、しょう油、砂糖しょう油と何でもいける。本来の風味を損なうのであまりお勧めはできないけれど、辛子マヨネーズもたまにはいい。
 その味わいの深さを定理化したものが次の公式だ。

 要は、多次元にわたり無限大の可能性を秘めた食い物はスルメだということだ。スルメの偉大さを少しでも分かって頂ければ幸いである。小生の数学オンチを明らかにした公式ではないので注意。

 
 ところで。
 先日購入したスルメには足がなかった。欠けていたのではなく、丸ごと取り除かれていたのである。それは突然、地獄へ引き摺り下ろされたような気分だった。
 公式でいえば「10−a」の箇所が独断的に割愛されてしまっているのである。これをスルメ業者の欺瞞と呼ばずして何というべきか。
 そんなわけで、これはここ一ヶ月間の間でもっとも腹の立った出来事でありました。こんなものはスルメじゃない。
 旅に病 スルメは枯野を駆け巡る


2004/12/20 (月)

 人に聞きたくとも聞けず、数年来にわたって気になっていることがある。「フロイト」のアクセントの位置だ。

 そもそも日常会話においてはあまり使われる単語ではない。少なくとも小生自身は皆無に近い。
 ただある時、フロイト本を人に進呈したことがあった。それは旅先の出来事で、貧乏宿にてたまたま出会った広島県人が小生の持っていた『夢判断』をやけに欲しがったのだ。
 多分その時に小生は生まれて始めて「フロイト」の話しをしたのだと思う。実はまだ数ページしか読んでいなかったので大した話しも出来なかったが、それ以前に広島人のいう「フロイト」という発音が気になった。
 

 それまでフロイトは「ロイト」だと思っていたのだ。冒頭の図でいえば「その1」であり、「フ」にアクセントをおいていたのである。
 ところが広島人は「ロ」にアクセントがあった。2文字目を強調する。刺青やスピード、SMと一緒だ。
 その時はてっきり広島特有の「訛り」だと思ったのだけれども、よくよく考えてみれば小生は独断で「ロイト」と判断していたのだ。もしかすると、おれのほうが間違っているのかもしれない。
 
 と、思いつづけてはや5年が経過した。そのうちに自ずと正解は判明するだろうと思っていたのだが、はっきりいって口にする機会も耳にする機会もないのである。
 インテリに聞けば分かるのだろう。ところがあまりにもアホっぽい内容なので勇気が要る。
 「心理学に造詣の深い貴方にご質問させて頂きたいのですが“ロイト”ですかね、“フイト”ですかね」

 そんなわけでこんな下らない内容は自サイトに掲載するに限る。そして、どなたかご教授ください

 ※圧倒的多数で「その2」が正しいとのご意見を頂きました。というか「その1」意見は皆無の由。「訛り」だと思われていたのはおれのほうだったのか。


2004/12/19 (日)

 大阪を訪れた際、下品なホルモン焼き屋をしばしば目にした。
 ビニールシートがぶら下がった軒下では、清く正しいおっちゃんたちがこれまた下品にホルモンを食らっている。裸電球に照らせれたおっちゃんは淡く光り、掛かっていた手書きの看板「ホルモン五十円也」。

 
 インドの田舎町を歩いている時、いやそれは町というより村なのだけれども、とにかく土煙の上がる砂利道をひとり散歩していたところ、ふと老人に呼びとめられたことがある。
 もちろん言葉は通じない。老人は「おいでおいで」と仕草を繰り返すばかりだ。
 そこで誘われるままにひょいひょいついていくと、村の老人連中が六、七人集まり車座になって青空宴会を開いていた。
 知らない人から食べ物を貰うと一服盛られているのがインドの魅力であるが、この時は一切の警戒心も沸かずに参加した。

 
 初めに出されたのは『チラム』と呼ばれる直径2センチほどの筒状の物体で、ほらよっと手渡された。『チラム』からは甘い香りが立ちこめ、もくもくと煙が出ていた。マリファナだった。
 インドではそれまで何度となくこのような機会に恵まれ、どうやら自分はマリファナに耐性があるらしいと薄々分かってきていたのでガッチリと吸った。
 どうもこれが「試験」だったようで、老人たちはニンマリと笑うと蒸留酒を出してきた。身振り手振りの会話を試みるに、花から作った密造酒だという。イケる味だったのでこれもガッポリと飲んだ。ツマミは木の実だった。
 しばらくすると、代表格らしい老人の1人がいかにも偉そうに「アレを持ってこい」と仲間に指図した。立膝で座っていた老人の股からはしわくちゃのキンタマが見え、白い珍毛が生えていた。
 やがて老人その2が戻ると、ギトギトと脂ぎった手で握手を求めてきた。と、思ったら、手中には臓物の塊が収まっており、それをプレゼントしてくれたのであった。多分、ブタの臓物だと思うのであるが、真偽は定かではない。とりあえずガッツリと食うと、さらにお代わりをくれた。
 
 一通り飲んで食い尽くすと、老人たちは金を要求してきた。金ならもってない。おれが告げると、老人は、じゃあ仕方ないね、とあっさりと諦めた。
 
 宿に戻ると、次第に申し訳ない気持ちになっていったので、おれは翌日改めて村を訪れ、老人たちに十ルピー(約30円)を渡した。そして、その日もまた飲んだ。
 
 大阪もいいところだ。


2004/12/15 (水)

 あの時はネパールに2週間ほど滞在して、ふたたびインドに入国したのだった。
 イミグレーションのすぐ傍では農民がノグソをしていたので、おれも隣で立小便をした。
 
 国境に入った途端、エロ写真屋に捕まる。要らん、要らん。
 エロ写真屋は大変しつこくて、ずっと後をつけてくる。この辺りはテロリストが出没するようになってきているので、旅行者の姿は殆ど見かけない。向こうも商売に必死なのだろう。でも、要らん。
 
 まだついてくるのか。
 ふと、インドのポルノに思いを巡らせた。レアといえばレアである。なんせ『カーマスートラ』の国だ。ちょっとならば見てやっても良いか。
 歩きながら「見せてくれ」と頼むと、エロ写真屋の目に光りが灯った。何とも嬉しそうにコレクションの数々を見せてくる。
 
 が、期待しすぎたせいか拍子抜けしてしまった。
 エロ写真は洋モノのポルノ雑誌の切りぬきがそのほとんどだった。なんの珍しさもない。しかも相当に年季を感じさせる写真で、モデルの姿態もなんとなく古めかしい。哀しいかな、1500年の英知はどこに消えたのか。
 
 「やっぱり要らん」
 エロ写真屋に告げると、彼は案の定くらいついてきた。小生は、ひとこと言い返す。
 「興味がないんだ」
 
 しかし、エロ写真屋は一向に慌てなかった。それどころかマカセロ!といった表情を浮かべている。どうやらとっておきの切り札を持っているらしいのだ。
 もっているならもっと早く出せってんだ、チキショーめ、ひひひ。マイ・リピドー、ウィル・ゴー・オン。
 
 エロ写真屋が見せてくれた写真は、男同士が絡んでいた。


2004/12/11 (土)

 パソコンの文字入力においては変換予測機能が備わっておりまして、頻繁に使う語句は優先的に変換されるのであります。
 ちなみに小生の場合は「へらへら隊」は一発で変換される。通常は「へらへ裸体」だと思われます。
 
 近頃の携帯電話にもこの機能がついていて、しかもパソコンよりもずっと性能がいい。「う」と打ち込んだだけで「うんこたれ」と変換されるのです。普段、「うんこたれ」という単語は多用しております故、携帯電話が「あっ、どうせまたコイツ“うんこ”と打ちやがるのだろう」と判断してくれるのですね。
 
 先日、女友達より添付ファイルが送られてきました。ファイルには「その1」と書かれておりましたので、「次のファイルは?」と返信しようとしたところ、携帯電話は先取り変換を立派に果して頂き、  「次のファックは?」と。
 送信寸前で気がついて良かった。

*

 
 そんなわけで大阪より帰還。
 宿泊先は友人の友人宅に泊まっていたものの、素晴らしい環境だった。
 朝に目が覚め、友人の友人に「おはようございます」と告げる。すると、こう返ってくる。「おはよう。コーヒーにしますか? それとも酒ですか?」
 
 結局、睡眠時間を除いてはずっと酒を飲んでいたことになる。サカナも豊富だった。
 まァ、よろしいか。おかげで三年ぶりの体重増加が望めた。とはいえ苦労して縮小させた胃(一日・米一合で満足のいく胃)がまた元通りになってしまったので、苦しい。すぐ腹が減る。悔しいけれども、また苦行を始めよう。

 それでも貴重な時間が過ごせたことに感謝している、酒がなかったとしても。
 生きている上では、「切り出された一枚絵」のような瞬間が度々訪れる。それは数秒の瞬間であることもあるし、数時間に渡ることもある。いずれにせよ長い人生の中では一瞬だ。だが、一瞬で終るからこそいい。そして滅多に遭うことのない瞬間でもある。

 “旅”先では、この瞬間に巡り合える機会が多々訪れる。「おれはこの瞬間に立ち会うために生きてきたのではないか」とすら錯覚する。よもや“旅行”先で体験するとは思いも寄らなかった。
 どんなにクソ塗れでも、このような瞬間は誰にでも訪れるのであり、そのクソが一瞬してに払拭される時があるのでありますよ。
 
 と、タマにマトモなことを書くと妙に恥ずかしい。ウイスキーボトルを空けつつ。

2004/12/2 (木)

 ようやく冬布団を引っ張り出した。今まで薄っぺらい毛布一枚だけで寝ていたものの、さすがに限界である。ああ、羽毛布団の贅沢さよ。
 そんなわけで冬の野宿に向けての身体作り、これにて終了。よく頑張った。

 
 明日より週末にかけてちょいと大阪に出かけてきます。その間の更新はサボらせてもらいます故、ご勘弁を。野宿はしません。





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