隊長のざれごと 楽海余滴
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隊長の戯言


2004/12/2 (木)

 ようやく冬布団を引っ張り出した。今まで薄っぺらい毛布一枚だけで寝ていたものの、さすがに限界である。ああ、羽毛布団の贅沢さよ。
 そんなわけで冬の野宿に向けての身体作り、これにて終了。よく頑張った。

 
 明日より週末にかけてちょいと大阪に出かけてきます。その間の更新はサボらせてもらいます故、ご勘弁を。野宿はしません。


2004/11/30 (火)

 「恭」という漢字は「うんこ」を意味する。
 「大恭」は大便のことであり、「小恭」は小便を指す。「出恭」は便所に行く、の意。中国語の話しである。
 
 とはいえ、このような使われかたをしたのはせいぜい清の時代までだったらしく、今ではほぼ死語になっているそうだ。「ちょっと出恭する」を日本語に言換えれば「ちょっと厠に行ってくる」みたいなものか。


 そもそもの語源は科挙試験に由来していているという。
 科挙というと受験の原型と呼ばれ、超難関の試験であったことが有名だ。何でも3,000倍の競争合格率だったそうである。ちなみに日本の司法試験の競争率は約10倍だ。
 そんなわけでいわゆる「カンニング」行為も横行し、下着にびっしりと答えを書いて試験に望むものもいた。それに併行して試験中の管理体制がどんどん厳しくなっていったことも自然な流れである。

 本試験は3日3晩を通して行われた。受験生は文房具の他に、食料や布団を持ってこなくてはならない。
 試験前には身体検査も実施される。カンニング防止の為だ。饅頭の中身まで調べられた。カンニングを発見すると、発見者は報奨金が貰える。
 
 試験は朝から晩までぶっ通しである。その間、受験者は座席を離れてはいけない。小便は尿瓶で済ます。
 大便の場合には、試験官との手続きが必要で(どんな内容なのかは知らぬけれども)、それを経てから晴れて外出許可証ならぬ大便許可証を貰える。試験者はその大便許可証をぶらさげて、用を足しに行くという。
 大便許可証には次のような文句が書かれていたそうだ。
 「出恭入敬」
 静かに退出して、礼儀正しく入室します、との意味だろう。もしかしたら「礼儀正しく食って、静かに出す」の意味もあるかもしれない。

 このことから「出恭」はすなわち「便所に行く」という意味で使われ始めた。なるほど、納得なのである。
 つまるところ、日本の恭子さんは糞子さんだ。今日の文章を全国にいる恭子さんに捧げます。
 

零壱【01】ランキング

2004/11/29 (月)

 二日間、飲んだくれていました。

 

 某所でメガネ屋の広告を見かけたのでありました。
 「不要なメガネは買いとります。恵まれぬ国の人々に寄付します」
 くそたれが。この手の「ボランティア」には反吐が出そうになる。げろげろ。

 
 ところで、友人に大変なグータラ志向の友人がおりまして。食事は朝・晩の二食を宅配して貰っていて、自炊はしたことがないという。ベンチャービジネスの企業家だから、金は腐るほど持っているんだそうだ。
 それでも仕事上の付合いから宅配された食事を食べぬままに、残飯化させてしまうことが多々ある。  ある時、友人は思ったそうだ。
 「そうだ。捨てるぐらいなら、メシが食えないヤツにやろう」
 そこで呼ばれたのは小生でして、しょっちゅう友人の食い残しを食ろうております。もう最高だね。友人には心からの感謝感激アメあられ。土下座してひれ伏しまさァ、ダンナ。

 なんて思うか、阿呆め。以上、妄想が及んだ作り話し。

 それにしても世に言う「ボランティア」の体質は殆どがこんなものだと思う。
 例えばインドでは多くのコジキに物乞いを求められたが、救われるのはモノを貰ったほうではない。モノを上げた方なのだ。
 戦時中、進駐軍からいわゆる「ギブミーチョコレート」で、お菓子をせしめていたという老人の話しを聞いたことがある。彼がいうには、チョコレートを貰って嬉しいことには変わりがないものの、米兵には一切の感謝の気持ちは湧かなかった、と。一方、米兵はチョコレートをあげて“恵まれぬガキを救ってあげた”と思っている。
 違うのだ。救われているのは米兵なのである。

 
 日本人はボランティア好き好き民族であるけれども、その体質となると「チョコレートを恵んであげる米兵」の精神と何ら変わらぬと思うのですよ。
 例えば、インドでは「「持てる者から持たざる者へ」という宗教精神が根本にあるわけで、無宗教の日本は「慈悲心」に頼るところが大きい。ところが、その「慈悲」ほど残酷なものはないのだ。「慈悲」とは言換えれば「親切の押し売り」であり、そのベクトル方向となると左右ではなくて上下なのです。だからどうも好きになれない。

 
 マザー・テレサまではいかないにしても、小生は中国の食客制度が好きだ。信陵君とか、孟嘗君とかはある種のイカしたボランティアだと思う。
 そして小生自身、酒やメシをたかって生きておりますが、彼らのことを信陵君と思っとります。うひ。


2004/11/26 (金)

 「あったかーい」自販機ジュースを「あったか〜い」自販機ジュースに変えてみたところ、途端に売上が向上。以後、表記は全て「あった〜い」に統一されるようになった。

 という話しをどこかで聞いたことがある。人間って単純なのですね。
 
 
 『ゴースト・ネゴシエーター』という映画があるらしい。来月18日に公開される邦画にも関わらず、今になって急遽タイトルが変更された。新しいタイトル名は『ゴースト・シャウト』。
 突然の改名に至ったのは細木数子の影響によるという。どうやら、某テレビ番組に出場した細木数子が映画出演者の占いをしている最中にこう言ったのだそうだ。
 「“ゴースト・ネゴシエーター”では売れない。“ゴースト・シャウト”にしなさいヨ、あんた」
 番組は見てないけれど、恐らくはそんな口調だったのだろう。

 なんとも無神経な占いである。チンケなタイトルながらも、一応ながら練り出されたタイトルなのだろうに。
 しかしながら、製作者側はこの発言を受けて、あっさりとタイトル変更した。1000万円の経費を上乗せして、ポスター・前売り券等を改めて刷り直すのだそうだ。
 どうせならば細木数子には「“リーチ一発! 尻の穴”にしなさいよ」「“フルチン阿波踊り"がいいわよ」ぐらいの支離滅裂な発言をして欲しかった。それでもやっぱりタイトルは変更になったのだろうか。
 
 
 細木数子の発言力は凄まじい。ミッチー、サッチー等の毒舌オバサンとの徹底的な違いは、神がかった(ように見せかけた)発言にある。「アンタなんか死になさい」と言われるよりも、「アンタは呪い殺されるよ」と予言されたほうが恐ろしいではないか。

 しかし、製作者側の意図もいやらしいなァ。「前代未聞」と言われる程の珍事であって、マスコミ各社がこの事件を取り上げる。香ばしいネタでもあるから、各個人サイトでもこれを紹介しているはずだ。おれだってこんなクソ映画について書くものか。宣伝費だと思えば1000万円の経費なんて安いものだ。

 それにしても「幽霊・交渉人」と「幽霊・叫び」とは随分とかけ離れてしまったものだ。ここはひとつ本作の内容を見て、この愚行をあざ笑ってみたい。
 と、ちょっぴり思いながらも、やっぱり誰が見るものか、こんなウンコ映画。


2004/11/25 (木)

 『うまい文章の書き方』などという類の本が好きで、古本屋で見かける度に購入している。矛盾に満ちていて面白いからだ。
 構成に関しては、まず「例文」を出してから「批評」を述べるというカタチが一般的になっている。
 具体的にはこうだ。

 〈例文〉
 昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがおりました。おじいさんは山に芝刈りに、おばあさんは川に洗濯に行き…
 
 
 〈批評〉 
 作者は先年に○○賞を受賞した作家であり、文壇パーティにおいても幾度かあったことがある。
 さて、結論から言おう。冒頭の部分からして読む気が失せた。
 それから無駄な部分も多すぎる。例えば…


 
 すみません、小生にも一言いわせてください。

 〈批評の批評〉
 冒頭の部分からして読む気が失せた。「大作家と繋がりのある私」をここで出す必要性は何もない。
 それから随所に無駄な部分が見られる。筆者には猛省をうながしたい。


 こういう本を書く奴は大抵が元・新聞記者であり、今現在はボロビルの六階において「文化センター・文章執筆講座」の講師などをしているものの、優れた本を書いたことは一度もなくて、むやみやたらと訓を垂れ、公式・規則の類が大好きで、パープーリン受講生から尊敬の眼差しを受けることを唯一の生きがいとしている冴えないハゲ老人である。9割方は、この公式にピタリ当てはまる。
 


2004/11/24 (水)

 レイモンド・チャンドラーの小説『夜明け前の珈琲』には次のようなシーンがある。

 旦那が浮気した、と半狂乱になって事務所にやってきた金髪女。主人公のフィリップ・マーロウは彼女を冷ややかに見つめてこう言うのだ。
 「男は朝に目覚めたその時から試練が待っているのですよ。奥さん」
 呆けたようにマーロウを見つめる女。彼は続ける。
 「寝起きの小便は大変なんです」

 
 すいません。嘘です。作りました。
 そんなわけで「朝立ちの状態のまま、いかにして放尿をするか」というのは男にとって人生最大の命題であり、日々立ち向かわねばならない試練だ。
 萎えさせようと努力してもなかなか収まらず、またそのまま放尿するにも便器とブツとの相対的角度が大いにズレている。
 男は次のいずれかの手段を取ることが多い。

 1.そのまま潔く放出する
 2.前傾姿勢を取って射程をあわせ、放出する
 3.萎えるまで待つ


 2番がもっとも多いのではないだろうか。1番は尿の飛沫量が格別に多い。妻に叱られ、1番から2番に移行したものも多数いると思われる。そして最終的には誰もが3番に落ちつくだろう。年を経ると共に屹立角度が下がるケースも含まれるからだ。

 ところが、23歳の時に出会った花村萬月のエッセイには並々ならぬ衝撃を受けた。仔細は忘れてしまったものの、このような記述があったと記憶している。
 「朝立ち時の小便には座り小便を勧めたい」
 晴天の霹靂である。なるほど、座って放尿すれば砲台自体の可変が効くのだ。便器との距離が近づくので尿が飛び散ることもない。完璧である。
 しかし、なんとなく「負け」てしまった感があるのは気のせいか。

 
 「座り小便」派は確実に増加しており、その数は過去5年で2倍に増加したともいわれている。理由としては、やはり前述の「妻に怒られるから」というモノが多い。その「妻」の子供となると「座り小便」派はさらに増加する。調査によれば2男の子のうち25%は「座り小便」の経験があるようだ。http://www.toto.co.jp/kids/enquete/03.htm

 こういう事態になってしまうと、「立小便」を応援してしまいたくなるのは小生の性分である。今日、喫煙者が迫害を受けているように、近い将来「立小便」派も迫害を受けるようになるのではないか。
 ドイツ列車のポスターには「座り小便」を推奨するポスターが貼られているという。そのうち、飲食店ではこう聞かれるようになるはずだ。
 「お客さまは立小便なさいますか? それとも座ってなさいますか?」
 立小便派は日当たりの悪い、部屋の片隅に追いやられる。
 TOTOはトイレの表面積30%に「座り小便しろ」との刻印が表示されることを義務付けられる。
   
 おお、考えただけでも恐ろしい。立小便派は今こそ奮い立つべきだ。立小便派の魅力を広め、後世に伝えて行かねばならない。そのためにはこんなものも存在する。

 
 男女兼用立小便器。
 開発間もなくあっさりと絶滅したとのこと。    


2004/11/23 (火)

 昨日の文章について「いやァ、私も時々しか洗いません。ほっとしました」とのメールを貰う。「私は2日に1回風呂に入り、4日おきに身体を洗います」という人もいた。おお、同士よ。安心なされい。われわれはいたって正常なのですぞ。
 
 
 さておき。
 「小便に行ったら必ず手を洗うよ」と公言している人間がいたら、そいつはうそつきか偽善者だと思う。「とりあえず手を洗ったと、見せかけています」という方がよほど信頼出来る。
 あと、「大便の時にも手を洗わんよ」という人もたまにいる。これはさすがに賛同できぬなァと思っていたものの、数年前から途端に抵抗がなくなった。モンゴルでのノグソ経験を果したからだ。あっ、でも小生は「大便に行ったら必ず手を洗いますよ」。
 

 遊牧民たちと生活するにあたっては、トイレはすべてノグソであった。当然ながら水道もない。思いがけず食事直前にノグソをしてしまい、手掴みで食事をする時はちょっと憂鬱な気分になる。

 話しはヤヤ横道にそれるけれども、これはやはり小生の作法が間違っていたのだ。いくら遊牧民でもクソをぬぐった手を使って食事をとることはない。では、どうするのかというと、これは大変に簡単な解決策を用いていており、つまるところ方法論の問題なのであった。
 遊牧民はクソをしてもケツを拭かないのである。(あちらの食事を取っていると排泄物は羊のウンコ化して、拭く必要がなくなるのだ)

 そんな訳で「大便の時に手を洗わない」のも正しい行為である。
 
 ところで、ケツを拭かないモンゴル遊牧民。ケツを手で洗うインド人。クソを紙で薄く延ばす日本人。どれが一番不潔な民族なのかは難しいところだ。

   


2004/11/22 (月)

 これは貴方と小生だけの秘密にしておいて欲しいのだけれども、僕は風呂で身体を洗わないのです。二日に一回、いや三日に一回ぐらい思い出したかのように洗う程度だ。
 
 これはやはり「不潔」の範疇に入るのであろうか。悩むそぶりをみせつつも実際はたいして気にせず三十年近く生きてきた。
 そして、風呂は好きか嫌いかと問われれば、嫌いである。風呂は習慣ではなく“義務”だと見なしているからだ。

 そもそも風呂に入る為には次のような手順が必要とされる。
 まずは前日の風呂の湯を抜く。排水溝が詰まっておるので、風呂が空になるまでには半時間を要す。
 続いて水を満たす。水道が壊れているので、蛇口からは小便のような冷水がちょろちょろと滴る。それが溜まるのを辛抱強く待機。ようやく水が張ったところでガス点火。ふたたび待機。
 そして。
 おもむろに素ッ裸になり寒さに打ち震えつつ、風呂場に入室。そして日常生活上では絶対に触れることのないであろうケツメドにそっと手を伸ばしてフグリカスをくまなく洗浄する。屈辱感に堪えながら、すみやかに「全身の洗浄」へと移行する。手の届きにくい背中を洗うにはそれなりの修練と工夫が必要とされる。身体が硬い人間にとっては特に難関。要注意。最終的には棺桶のような浴槽に無理やり身体を縮めて熱湯に浸かる。
 風呂、いいかえれば自主的拷問。


 苦労した末にようやく風呂湯が完成したのだからこそ入湯してやるのだが、それでも冒頭に書いた試練が待っておるのですね。全然苦労が報われない。それどころか銭湯などにおいては金を毟り取られてしまう。実に理不尽だ。

 
 ところで、風呂では身体を洗わない方がいい、とタモリが言っていた、と偶々見かけたホームページに書いてあった。孫引きの不確かな情報ながらも、自分に都合の良い情報はすぐに信用し納得してしまうのはおれの良い所だ。
 なんでも湯船に10分浸かれば大半の汚れは落ちてしまうという。シャンプーのしすぎは若ハゲの元とされているように、身体を洗ってしまうと肌に必要な防御膜までが剥げてしまうのだそうだ。タモリはずっと身体を洗っていないという。
 
 そうか。おれは正しかったのか。


2004/11/21 (日)

 最近は、努めてお笑い番組を見るようにしている。中島らもではないが、「笑い」を理論体系で分析しようと思ったのですね、改めて。

 ところが段々と悲しくなってくるのである。初めの方こそ、その下らなさに怒りを覚えるものの、その下らないギャグがオオウケしていることを見ると、なんや自信喪失しちまうのである。おれはギャグセンスが根本的にズレているのではないか、と。どこが面白いのか、理解できない。

 
 本日、唯一笑ったのは、某番組の「変え歌コーナー」で、これは町でスカウトした酔っぱらいサラリーマンに変え歌を歌わせるという内容である。
 医者に酒を止められているオッサンが哀愁たっぷりに『おもちゃのチャチャチャ』を歌っていた。

 ♪いいちこ飲んじゃった
  記憶も飛んじゃった
  いぬのウンコも踏んじゃった

 
 良いなァ。番組スタッフの“入れ知恵”が入っているのかもしれないのだけれども、何とも奥深いギャグじゃないか。たったこれだけの歌で、オッサンの人生の一端が見えてくる。
 
 笑いの中でもっとも低俗だとされているのは、シモネタ、ダジャレ、パロディーの3種だそうだ。だとすれば、当戯言も低俗づくしということになる。たいへん嬉しい。


2004/11/19 (金)

 病院とケンカしたり、本を読んだり、映画を見たり、酒を飲んだり、シーカヤックを漕いだりと多忙な日々でありました。
 映画の感想。
 
 『スクール・オブ・ロック』惜しい。
 『華氏911』必死過ぎて痛々しい。
 『キル・ビル2』卑怯。
 『イノセンス』冗長。
 『21グラム』マンネリ。

 

 せっかくだから『21グラム』風に時空列を交錯させた日記を書いてみよう。例えばエンディングから“始まり”、オープニングで“終る”逆回転的展開だ。

 
 11月の風が身に染みた。

 コンビニ店員の顔を直視することは到底出来ず、小生は逃げるようにして店を出たのであった。

 トイレに戻って、尻をふいた。

 悲惨なことにレジには長蛇の列が出来ていた。知ったことか。こちらは緊急事態である。列を無視して割りこみ、店員に用を告げる。恐らく相当な誤解を抱かれているのであろうが、一応、応急処置は施しているのだ。蔑むような目つきでおれを見るな。

 さて、どうすべきか。ポケットを探ると、チラシが一枚。ヨレヨレのティッシュが一枚出てきた。とりあえずコイツで尻を拭き、あとはレジへの決死行を敢行するしかない。

 ここは二重構造の部屋になっていて、洗面所を通してトイレ部屋に行くのである。一瞬、このまま洗面所に赴きインド式にケツを拭くことを考えたものの、洗面所には鍵が架からないのであった。下半身を丸だしにして、ケツを手洗いしている姿を客に見られてはたまったものじゃない。

 畜生。

 紙がない。

 以上、シーカヤックに乗るために早起きしようと、その前夜に睡眠薬代わりに飲んだ酒を思わず深酒してしまい、腹を壊した男の話し。




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