隊長のざれごと 楽海余滴
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隊長の戯言


2004/11/14 (日)

 ソリティア七連敗。腹いせにマウスを叩きつけたら、見事に壊れた。
 翌日、電気店でビニール袋に包まれた650円の中国製マウスを購入。とはいえ、これでも5日分の生活費に相当する。かなり痛い。
 しかしながら操作性は大変素晴らしいもので、円を描いてみるとこうなった。

 



 おれはアルコール中毒者か。
 

*

 以下、有名なエスニックジョーク。

 とあるジャーナリストが「食肉不足」について、各国人にインタビューすることになった。
 「すみません、昨今の肉不足について意見をお聞かせ下さい」
 ロシア人は答えた。
 「“肉”ってなんですか?」
 サウジアラビア人は答えた。
 「“不足”ってなんですか?」
 北朝鮮人は答えた。
 「“意見”ってなんですか?」
 アメリカ人は答えた。
 「“すみません”ってなんですか?」
 
 流布されているジョークであるからして、応用編もある。時代によっては、ロシア人が北朝鮮人になったり、サウジアラビアがアメリカになったりする。
 

 かくいう日本は、つい最近までは「“自由”ってなんですか?」だった。元々、「自由」とは仏教用語から来たものらしく、それがようやく馴染まれる様になったのは明治時代になってのことだ。英語「freedom」の訳語として充当されたのである。その百年前のヨーロッパでは既に「自由」を謳う革命が行われていたことを考えると、やはりお国柄の現われなんでしょうなァ。

 あと、面白いのは「独断」という英語は存在しないのですね。これは、まったく逆のパターンで当たり前すぎるからである。1人で判断をするのは当たり前だろう、と。
 日本では大抵「独断と偏見」がセットになって使われる。これは明らかに「すみません、人の意見と違う上にこれは私が1人で考えてしまった意見ですが」という意味合いが含まれているのだ。ははは。


2004/11/12 (金)

 坂口安吾の小説『肝臓先生』に出てくる文章、

 医者は私人としての生活をすくなからず犠牲にしなければならないものだ。急病人の知らせをきけば、深夜に枕を蹴ってとびだして行かねばならず、箸を投げすてて疾走して行かねばならぬ。  自分は一介の医者としてまっとうしたいと願うほかにはなにも望んではいないはずだ。名声も地位も富みも望んではいない。病めるものが貧しければ、風雨にめげず三年五年往診をつづけて、一文の料金を得たこともない。

 
 肝臓先生には実在のモデルがいるらしいが、小生の知っている医者におきかえるとこうなる。

 
 医者は私人としての生活を尊び、少なからず他人の病気も見捨てるものだ。急病人が尋ねてくれば、深夜に布団をかぶり寝たフリをして、家人には居留守を使うように申しつけねばならぬ。
 自分は一介の医者としてまっとうしたいと願うほかにたくさんのことを望んでいる。名声も地位も富みも欲しくてたまらない。病めるものが金持ちであれば、あれこれ根回しして三年五年往診をつづけて、大枚を得ている。たまらんね、こりゃ。


2004/11/11 (木)

 告白してしまおう。実は僕は「スタンド」を使える。

 少年漫画『ジョジョの奇妙な冒険』を知らない方の為に説明申し上げますと、「スタンド」ってのは実存化した守護霊みたいなもので、『ジョジョの奇妙な冒険』ではいわゆる「スタンド使い」達が「スタンド」を使って戦いを繰り広げるという内容の漫画なのであります。
 で、「スタンド」にはそれぞれの特殊能力があって、例えば傷を治すことのできるスタンド、予知能力のあるスタンド、時間を止めるスタンドなどがいるのでありますね。


 発動したのは小林玉美のスタンド『ロック』だった。本作では、嘘をついた人間の心に錠前をかけ、その錠前をどんどん大きくさせて相手を苦しめるという能力だったと思う。つまり、錠前は罪の意識の現われということなのです。
 小生の場合は、錠前でなくてリングが現われた。金属性の重々しいリングである。それが、オノレの胸部にぽっかりと現われ、外れなくなってしまった。おまけのそのリングが勝手にグルグルと回り出すものだから、参った参った。参ったね。

 と思いきや、次はジョルノ・ジョバァーナの『ゴールド・エクスペリエンス』が発動した。時間の感覚が暴走し始めたのである。一秒の時間が一分ぐらいに感じられるのです。「うわぁ、おれはァ椅子から立ち上がるだけの行為にィ一分もかかっとるー、とろいなァー」と思いながら時計の秒針を見てみれば、その間一秒。困ったね。

 また来やがった。今度は広瀬康一の『エコーズ』じゃないか。すごいな、おれ。音が、音がむやみやたらとクリアになった。あっ、あっ、身体に音が吸いこまれる。なんだ、これは。日常の生活音が、食器のぶつかる音が、人の足音が、話し声が、鳥のさえずりが、みんなオーケストラに聞こえるじゃないか。この共鳴感、協和感、なんとういう素晴らしい組み合わせなのかね。至上のおんがく。身体に溶ける。溶けていく。


 と、異国の地でマリファナを吸ったら、「スタンド」が続々と発動して困ったのでありました。
 とりあえず確信したこと。『ジョジョの奇妙な冒険』の作者は相当ヤっているに違いない。


2004/11/10 (水)

 11月10日は「トイレの日」なのだそうだ。11と10でイイ・トイレ。日本トイレ協会によって定められた。個人的には9月31日、もしくは8月8日の方がふさわしいと思う。
 

 インド。
 ガンジス川流域にあるバラナシという町には川の流れにそってたくさんの商店が並んでいる。魚もそこそこ獲れるようで、食堂では魚料理が食えるのだけれども、あれにはどうしても食指が動かなかった。
 ガンジス川にはあらゆる生活臭が溶け込んでいる。歯を磨く者、沐浴する者、クソをしている者、死して流されている者。死体が焼かれている川岸の前で、結婚式が行われている。もう何でもありである。
 仲間内で集まり、国内でキャンプをする時は、「下流で用を足すべし」との暗黙の了解を立てるが、ガンジス川ではそんな甘ったるいルールなどないのである。すぐ隣でクソをしている奴がいるのに、同じ水でうがいをしている人間がいる。大したものだ。
 そして魚たちは何をエサにしているのかと言うと、死体とウンコに違いないのですね。インド料理に辟易し、「魚料理」なんて良いなァと思った矢先にこの事実に気がついた。もう少しで、死体とウンコを食うところであって誠に危機一髪。もし食ってたら、死んでいたと思う。

 
 中国のトイレもひどく悩まされた。あちらのトイレは開放式トイレがメインで、つまり壁のしきりがないのです。大便をするにも丸見えなのです。
 当時小生は、北京で一番安いと言われている貧乏宿に泊まっており、そこには個室トイレ、つまり従来のトイレはたった一つしかなかった。300人近く宿泊できる宿で、宿泊客は西洋人が大半を占める宿である。当然、競争率は烈しくなり、おまけに使用頻度も高いのでたいそう汚い。行けば、必ず汚物が散乱しているのだ。一方、開放式トイレはいつも空いていて、しかもキレイだった。
 
 クソ塗れの便所で用を足すか、人に見られながらキレイな便所で用を足すか。難しい問題なのでありました。

2004/11/9 (火)

 久しぶりにギターを弾いてみたら、Fコードが押さえられず愕然とした。
 この調子では、後ろとびひねり着手前転とび前方伸身宙返りも出来なくなっているかもしれない。寂しい限りだ。

 
 ところで、中島らもの自伝的エッセイ『僕に踏まれた町と僕が踏まれた町』に出てくるギターのエピソードが好きだ。
 
 ロックの基本コード(C,Am,F,G)がようやく弾けるようになった中島らも(中学生当時)は、早速ながら無謀にもバンドを組もうとする。しかし、ギターをひける人間は1人しか思い当たらない。とりあえずはそいつと2人だけでやろうと声をかけたところ、
 「えっ! キミ、Fがひけるんか!」
 と尊敬の眼差しで見られ、無条件にバンドリーダーとなるのである。
 また相棒はFがひけないので、提案を持ちかけた。
 「このC、Am、ときて次にFにいくところでな、おれだけギターをひくのをやめて、次のGからまたひき始めるんや」
 「それはええけど、そこだけ音が弱くなるで。どうする」
 「そのFのところだけ、おれがな、“イエーイ”てさけぶんや」

 
 つくづくノーテンキでおかしい。
 
 もっとも当方だって人のことは笑えない。一応数曲のオリジナルソングを仲間内で作ってはいるものの、それらは演奏も録音形式も何もかもメチャクチャだった。
 収録の殆どはボロアパートの六畳間において行われ、また録音機材もチンケな会議用のテープレコーダーを使用した。集まって練習したのはたったの一度きりで、あとはぶっつけ本番。
 それでも技術なし、結束力なし、計画性なしの面子でやれたのは奇跡的だと思う。音合わせの当日、ドラマーが一時間ほど遅刻してやって来たけれども、彼はなぜか手ぶらで参上した。「ドラムセットはどうした?」と聞くと、「あんな重たいもの、もって来るかよ」 と即答。
 
 六畳間にて行われた演奏は、割り箸で叩かれる茶碗ビートを基調に順調に進み、茶筒マラカスから奏でられるリズムの元、おごそかに行われた。

2004/11/7 (日)

 書を捨てよ、町に出よう。
 と劇作家の寺山修司は言った。わしの場合は「職を捨てよ、旅に出よう」である。
 
 好きなフレーズだ。寺山修司のセリフであと一つ覚えているのは「サッカーはタマが大きいから魅力的だ」という言葉で、「ゴルフはしょせん欲求不満のはけ口だねえ」と言った高校時代の教師の言葉とあいまって妙に記憶に残っている。
 
 さておき、明快で清々しいフレーズだと思うのですよ。「書を捨てよ、町に出よう」。爽快感たっぷりじゃないか。
 特に“捨てる”って箇所が魅力的なのである。捨てると言う行為は気持ちが良い。それが大事なものであれなおさら良い。小生の場合は「職を捨てる」という快感に溺れ、それが趣味になってしまった。それが高給であればあるほど、要職であればあるほど効果が増す。
 そしてもっとも憧れているのは「札束をゴミ箱に捨てる」ことだが、こればかりは難しい。一生に一度だけで良いからやってみたい。もちろん“やらせてもらって”はダメで、“やらなくちゃいけない”のである。

 書を捨てよ、町に出よう。黄金の配列である。
 一見オゾマシイ行為もこのフレーズに当てはめると何故か爽やかになってしまうから不思議だ。
 
 
 ・パンツを捨てよ、ノーパン健康法を試そう
 ・キンタマを捨てよ、オカマになろう
 ・パイポを捨てよ、ニコ中で死のう 
 ・小指を捨てよ、カタギになろう
 

 居直りとフロンティア・スピリットが多分に含まれてて、いい。


〜以下滅多に書かない政治話〜

 大統領選挙戦について書かれた面白いページを見つけた。興味のある方はぜひ。URLはhttp://tanakanews.com/e1107bush.htm
 内容を要約すればこうだ。
 
 ・開票直前の出口調査ではアホのケリーが有利だったのにバカのブッシュが勝った。イカサマが行なわれたとの噂もちらほらあったのにも関わらず、アホのケリーは早々に敗北宣言を行ない、何一つ追求しなかった。
 ・民主党が支持されている州(労働者階級の多い州)では、投票を妨害する動きが多々見られた。
 ・電子投票機を使っている州に限って、バカブッシュの獲票数が出口調査で調べた票数の5〜7%増しになっていた。
 
 読んでいて思わず笑ってしまったのは、電子投票機を使った人の声である。
「ケリーの方をタッチしたが、確認画面では『ブッシュで良いですね』という表示が出て驚いた」
「何度ケリーを押しても確認画面でブッシュが出てきた」
「確認画面が出ないまま終わってしまった」

 鼻クソが目クソに僅差で勝利した。さて真実は?


2004/11/5 (金)

 ゴールデンバット(貧乏人用タバコ・130円)を2箱コンビニで購入したところ、店員は「2年間この店で働いているけど、今回初めて売った」とひどく感激し、店を出た後も駐車場まで追いかけてきて「これを記念にあげます」と、灰皿にライターを貰った。
 憐れまれたのだろうか。万歳。
 

*

 ネタがないのでつまらない話しでもしよう。ホントにつまらないです。
 このような内容の本があって29ページめで挫折した。以下は、文章は変えているもののほぼ原文で。

 一家はようやく平和な日々を手に入れた、その翌月に夫妻は仮住まいの屋敷で何者かに殺害された。息子は生き残った、瀕死の重症を負った。
 警察はこの一家襲撃事件をテロリストの犯行と見て捜査を進めた、依然犯人は捕まっていない。 (3行省略)
 唯一ジェラードだけ、ある男に嫌疑をかけた。その人物とはDr.キンブル。被害者の息子を助けた医師である、彼はその手術の為にもうひとつの手術をキャンセルしていた。

 

 これでは幾ら内容が面白くても、しばしば神経を逆なでさせられて頭に来てしまう。趣味で書いた文章ならばともかく商業レベルでこれはまずいんじゃないかと思うのですよ。
 
 特に順接の「が」は瞬間接着剤のようなもので、何でも無造作にくっつけてしまう分多用してしまう。紙をくっつけるのはノリだけで充分間に合うのにアロンアルファを使ってしまうのである。よくよく見ればムラが目立ち下品さが気になる。
 
 無意識の内に接着剤の使い分けをしている人を「文才がある」ともいうのだろう。
 一例を挙げれば、“初期”の椎名誠の作品には「が」が使われていることは殆どなくて、今だに読み返しても面白い。そして後期になればなるほど「が」が増える。当初は気合を入れて書いていたものの売れっ子になるにつれて手抜きをし始めた、としか思えない。嫌いな作家の1人である。

 筒井康隆はまた面白い人で、小説には「が」を殆ど使わないのだけれども、エッセイになると極端に増える。そして彼の場合はエッセイがつまらぬのだ。これは手抜きしているのではなく、単に苦手分野なのだろう。これなんか最低だ。http://www.go-smoking.net/special/index.html 稿料が安いからか。


 本日の日記は「が」を一切使わなかったので苦労した。もっとも手抜きのメールを書いたりする時は、順接の「が」を使いまくっている。楽だからだ。
 今まで小生からメールを受け取ったことのある方はこれを機に内容を見直さないで下さい。お願いします。
 


2004/11/4 (木)

 「一日平均32.500人(さんじゅうにぃてんごぜろぜろにん)のアクセス数があるサイト」などという詐欺まがいの宣伝を某サイトでしたせいか、ランキング上位にくいこんでしまった。
 根が小心者なので申し訳ない限りです。お詫びの気持ちとして生き方を悔い改め、その意思表明にHNネームも変えようと思う。姓は坂口、名は憲ニ(けんに)。サイト名は「坂口憲ニ☆オフィシャルサイト」で。
 冠ニ郎も考えたけれど、集客は到底望めそうにないからやめた。


*

 キモイとかうざい、という言葉をしばしば耳にする。小生自身はこれらの言葉を使うことはないけれども、エセ文化人はここから「最近の若者は云々」とエラそうに講釈をたれる。お決まりのパターンでうんざりする。
 
 この短絡的な発想は既に奈良時代から行なわれていたという。当初は中国より輸入された漢語をそっくりそのまま使っていたものの、それらはより簡単な表記にされていった。語順も変えられた。一例としては「限制」が「制限」に、「式様」が「様式」に。現代語でいうワイハやショバ(場所)、ダフヤ(札屋)と同じ感覚である。
 奈良時代の文化人はこの変化をさして「最近の言葉の乱れは…」と嘆いたらしい。古代エジプトの象形文字に「近ごろの若者は…」いう文句が刻まれていたという話しに似ていて、ちょっとおかしい。

 ことばは淘汰され、変化するのだ。「制限」なんてものは何の恥じらいもなく使える一方で、淘汰された「ナウい」「チョベリバ」なんて今更使おうものならば失笑ものである。
 若者言葉をネットで調べてみたら、こんなものが出てきた。

 ・あぶい (危ない)
 ・イミ不 (意味不明)
 ・イノラーッペ
 
 前者二つは聞いたことあるような気はするけれども、三番目に至ってはまったく理解の及ぶところではない。いったい「イノラーッペ」とは何でありますか。

「猪木の真似をしながら右手でフランスパンを食べ左手でトマトを潰す人達の事」

 ステキな言葉だ。死ぬまでに一度でいいからイノラーッペとの邂逅を果し、得意げに叫びたい。
 「あっ、イノラーッペだっ!!」

 キモイは淘汰されてもいい。イノラーッペはぜひとも生き残ってほしいものです。
 Googleでは3件しか検索されなかった。ネタだと悔しい。騙すのは好きだが、騙されるのは嫌いだ。

http://www.google.com/search?hl=ja&inlang=ja&ie=EUC-JP&oe=EUC-JP&c2coff=1&q=%A1%A1%A5%A4%A5%CE%A5%E9%A1%BC%A5%C3%A5%DA&lr=lang_ja  


2004/11/3 (水)

 Otearai webはよく巡回しているサイトの内の一つだ。昨晩、日記の過去ログを見ていたらこんな文章が出てきた。

  4月18日(日曜) 午後
 何かデカいことをやりたい!という気持ちも少しはあるんだが、ついチマチマしてしまう。ぼくはチマチマ族なのだろうか。
 でもまぁ、日記でなら何とでも書けるので安心だ。「デカいことをした」とウソついてもバレやしないだろう。
 ということで今日は、インドに行ってきた。追い剥ぎに襲われて死にかけたが、空手チョップで何とか撃退した。おかげで、今こうして日記を更新できてます。
 ビッグな人物と考えて、「インド」「追い剥ぎ」「空手チョップ」くらいしか思いつかない自分が情けない。


 えーと。
 これをそっくりそのまま現実体験した(本当に怖かった)小生としてはなんとも複雑な気分である。ネタをそのまま実践していた自分の方がもっと情けない。おれは存在自体がギャグか。


*

 赤恥をかくつもりで参戦したランキングサイトだったにも関わらず、予想外の健闘ぶりを見せてくれて急浮上している。このまま急転落していくのは小生の人生パターンだと覚悟しているものの、とりあえず嬉しい。
 さておき、このような投票型のランキングに参加しているホームページでよく見かける一文がある。

 「もしよろしければ投票してやって下さい。気が向いたらでいいんです」

 こういうのは偽善ぶった政治家みたいでなんだかイヤらしい。いや、常識的な文章ではあるが、せめてネットの世界ぐらいは本音をぶちまけてみてはどうか。たまにはこんなものもあっていいと思う。

票を稼ぐのに必死です
零壱【01】ランキング
頼むからクリックして下さい。いや、マジで


 うわぁ素直だなァ、と思う。ちょっぴり好感も持てる。その代わり必死さがひしひしと伝わってきてみっともない。ここはやはり建前でもなく、また悪あがきをせずにクールに行くべきだと思う。

零壱【01】ランキング
押しな。一日一回


 朴訥としていて良いけれども、何だか腹が立ちますね。いったい何様のつもりであろうか。
 ここでふと妙策を思いついた。深層心理をたくみに利用してアクセスを促す方法であります。

危ない。クリック禁止。
零壱【01】ランキング
本当にやめて。押さないで。


 いいね。これ。火災報知器のスイッチみたいだ。押したくてムラムラする。
 
 なにはさておき、自分が一番最低ですね。


2004/11/2 (火)

 同時通訳者という職種の方には本気で尊敬の念を抱いている。そもそも外国語を理解する為には思考回路の切り替えが必要なのであり、あの方たちはそれらの回路を瞬時に切っては入れて、入れては切っているのだ。変態的な脳ミソしていますね。
 
 ところでPRIDEの同時通訳者はオバちゃんがやっているのだけれども、時々脱力感を味わってしまう。選手との声のトーンが圧倒的に違うこと。また、会場が沸くのは血汗を流した選手の肉声を聞いてからではなく、オバちゃんの声を聞いて盛りあがるという現実。そして何よりも通訳がキレイすぎるのだ。

 例えば、ぶっとい鎖のチェーンを首に巻きつけているような黒人の選手が激昂し、汚いスラングでありとあらゆる侮辱の言葉を吐き、挑発し、野太い声でこう叫ぶ。

 「おい、そこのマヌケ。てめぇだよ、ぼけ。こんな試合じゃオレの血は満たされねェ。次はおまえだァ。ひひひ。おまえをぶっ潰すぜえ。ケツの穴から手を突っ込んで奥歯をがたがたいわせたるでぇ。せいぜい悪あがきしろや、イヌのクソめ」

 ここでオバちゃんの出番である。オバちゃんは極めて抑揚のない声でたおやかに冷静に淀みなく通訳する。そして、その声は地域振興の運動会で迷子案内の放送をするPTAオバちゃんの声を彷彿とさせるのです。

 「ぼくは今日の試合の内容に満足できませんでした。次はアナタと試合がしたいです。絶対に勝ちますよ。お尻の穴に指を入れて震えさせてあげますね。お互いがんばりましょう。わんちゃんのうんこ」

 最近は選手の試合を見るよりも、オバちゃんの通訳を聞く方が楽しい。

※何となくランキングサイトに登録しました。下記のバナーをクリックして頂ければ、投票されるシステムであります故、アクセスして頂けると男の大平原的無常の喜びを感じます。
 サイトの紹介文には一日32.500件のアクセスがある駄文公開サイトと銘うっておりますが、根が細かいもので思わず小数点以下まで記載してしまいました。32,500人ではなく32.5人。0.1以下数値は四捨五入。zero-ichiさんから来ていただいた方、すみません。その実、閑古鳥サイトです。

零壱【01】ランキング

2004/11/1 (月)

 11月になった記念にエロビデオの話しでもしましょうか。

 身が埋もれてしまうぐらいに大量のエロビデオを所有している友人がいる。そのエロビデオの全ては闇社会で作られたビデオで、つまりは暴力団の資金源稼ぎに使われている類のもの。
 闇ルートとは言え一応は客商売である。注文すればきっちりとお客様宛てに届けてくれるらしい。
 面白いのは友人がそれらを全てタダで手に入れているということである。当初は後払いをし忘れたのが発端だったらしいが、その後の請求がまったく来ない。そして二本目、三本目を注文してみても、請求が来ない。いくら注文してもこない。そして調子に乗って注文し続けること10年。ビデオの数は300本以上になった。
 以来、ビデオには困らなくなったそうだ。“ツメ”部分にテープを貼って、有効に再利用しているとのこと。
 
 気がついた点が三つある。友人の利用しているビデオ製作会社に限定するけれども、
 1.闇商売であるから、表だった請求が出来ない。あるいは請求をしない。
 2.つまりそれなりに儲けていて、注文を受けたら送りっぱなしのほったらかし。顧客リストや受注リストを作るだけ管理費のムダだ。労力のムダだ。面倒だ。と思っている。


 …のだろう。で、あと一点。
 これには感嘆の念が込められているのだが、よくぞこれだけの作品が生み出されるものだと感心したわけでありますよ。考えてみればどの作品もストーリー運び、及びエンディングは凡そ一致しておるわけで、それでもやはりそれぞれの内容は違うわけである。
 当然主演女優はS型、M型、スカトロ型、美女型、ロリコン型と性格は様々で、ストーリーに限っても噴飯もの内容ばかりだろう。しかし、凡そのエロビデオにおいては過程および終局は共通している訳だ。
 エロビデオの発売タイトル数は年間に五千本(らしいのです)にも上る。裏を合わせれば、その数は倍以上になる可能性もある。
 大したもんじゃないか。

 以前の日記に「全てのメロディーは出し尽くされたなどという考えはタワゴトだ」と書いたことがある。例えばたった十七文字の俳句の世界でも2664936506952193496322192687通りの組み合わせがあるそうで、それならば一切の制約を受けない文学や映画や音楽の世界はいかに無限の可能性を秘めているか、ということである。
 年間にどれだけの音楽が生み出されているかは知らない。けれども、「サビ」と「エンディング」が制約されているエロビデオで、これだけ多数の作品が生み出されているのは大変に素晴らしいことですね。

 うむ、書いてて段々バカらしくなってきた。





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