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隊長の戯言


2004/9/8 (水)

 3。

 2。

 1。

 ハッスル。ハッスル。

 とばかりに空手をしたところ、どう言う訳か体の調子がすこぶる良い。コンビネーションがキレイに繋がる上に、間合いもハッキリと掴める。そんなわけで一人で総当り戦などやらかして、強いなァ俺。
 と、今現在「投げ」をくらって違えた首筋と、受け損なって痛めたスネに、握りが甘くて炎症起した指の痛みを堪えつつ、日記を書いとります。中年間際になってハッスルするのは危険だ。


 今更ながらモブ・ノリオすみません。バカにして悪かった。凄い作品じゃないか、と思ったらアホの石原がこの作品を酷評していた。当然のことだろう。嫉妬深い卑劣漢で虚言癖を持つ精神異常者で、珍珍を障子に突きたてる変態が作品の力を理解できるはずもないわけで、ましてや黒人文化も何も知らずに「ニガー」なんて表現はダサいと軽々しくほざく山田詠美は尚のこと。正しい選評眼を持っておる黒井千次と池澤夏樹がますます好きになり、アホの石原と山田詠美はますます嫌いになりました。めでたしめでたし。


※以下、クソ文につきフォントサイズを極小にしとります故、興味の湧く方だけブラウザのフォント設定変えるなり、コピー&ペーストするなり、顕微鏡で見るなりして下さい。
 
 老人介護にあたり真っ先に発生する感情は怒りである。何に対してか? 介護人はそれすら分からない。口出すばかりで何もしない親戚か。幼児扱いを飛び越え、被介護者をモノ扱いしている看護士か。人は老いるという当たり前すぎる事実に対してか。己の無力さを嘆いてか。金を持っている患者を優先的に扱う病院か。裏金渡した途端に急に待遇を良くしたその病院の院長か。幼き頃、我を見捨てた親に代わって老齢の女手で育て上げ、俺が高熱を発したときは華奢な身体で身を抱え、深夜の病院を探し歩き回った女性が、今や指一本動かすことすらままならないという悲劇に対してか。起因のない理由からか。いつしか甘えに依存するようになった被介護者を一人で出来ることは自分でやりなさいと叱り飛ばさず、いっそのこと回復を願わずに甘えさせるだけ甘えさせた方がいいんじゃないのか、という介護者当人の逡巡に介してのものか。被介護者が有する孤独感の共有からか。終りの分からぬ道に際しての不安感、絶望感からか。介護人の持つこれらの思いをそれとなく察知し、密やかに医者に「どうかアタシを殺して下さい」と依頼した被介護者の発言からか。かような世界に唐突に入りこむあまりにも非現実的で痴呆じみた社会の断片を思うてからか。あまりにも漠然とし、捉えどころもない理解出来るはずもない怒りに対しての怒りか。
 荒荒しく不器用な個々の文にはこれら全ての感情が網羅され、明確な「怒り」を載せた小説だった。絶望も悲しみも混ざっておらぬ純粋な怒り。ただひたすらに怒り。荒く汚い文が身に沁みた。継続性なんてどうだって良いじゃないか。これだけの作品を書くならば、一発屋でも何でもよろし。YO、朋輩。


2004/9/7 (火)

 今週をもって企画出版社との契約が切れる。再び無職になれるので嬉しい。
 
 ところで、今回の仕事の依頼元であった作成委員会での出来事。
 「と、ようやく校正段階に入りましたので、委員会の皆様でも校正担当者を設けて頂きまして、誤字・脱字の確認の程を…」
 と中間報告を述べたころで、「待った」の声がかかった。声の主は“良い”ヤクザとして知られるSさん。
 「ちょっと待てや。この中に間違いがあるんていうんか」
 「はァ、その可能性もあるわけで」
 「そりゃあ、なめとらせんか。完璧な仕事を心がけとらんちゅうことか」
 「いや、私も人間ですから多少の間違いは出てくることもあろうかと…」
 「なにィ? そいつは人の道としてまちがっとりゃせんか。わしは仁義(中略)義理(中略)人情(中略)指つめろ」
 「え、えと、校正というのはその間違いを発見し、また指摘して頂くという場でありまして」
 「なんだ。初めからそう言え」
 
 ヤクザが出版業に頭を突っ込むとこのようになるのか。勉強になった。確かにSさんの言っていることは全面的に正しい。こんなSさんを尊敬しとります。


満面の笑顔を見せるSさん
 ※私信
 雲さんへ。毎度日記を紹介して頂きありがとうございます。小生のうんこ日記は「黄色」の背景になると、一層パワーアップすることを再認識させられました。

 Hさん。インド旅行の際に記録を残したノートを紛失しとりましたが、先日発見致しました。現在、ぼちぼちたらたらと書いとりますです。


2004/9/4 (土)

 悔い改めてキレイな話しでも書こう。
 
 インド周遊から帰国し、職場に復帰した時にひとつの条件を提案された。
 「左手をよく洗うこと。左手で俺に触るな」
 インドに行けば便所紙はなく手で洗い流さなくちゃいけないのです手動式水洗なのです左手は尻を拭く手とされておるのです、と出国前に面白おかしくアピールしすぎた為にこんな事態になった。
 
 実際、悲壮な覚悟を決めてインドに行ったのである。持参した便所紙は二ロール。それこそ便所紙が尽きる日を想えば、悲しみで胸がうちひしがれそうになり、焦燥感に身が焦げた。そんなわけで便所紙は二ミシンで切り離してまずはファースト・チャンス、それを二つに折ってセカンド・チャンスというカッコイイ拭き方を心がけたのである。
 結果として便所紙を購入することは可能だったものの(もちろん旅行者向けの)、その価格ときたら一泊の宿代に相当するもので、買うのもバカらしい。だからさっぱりと爽やかに手で拭いた。
 便所紙を沢山もっていけば、この問題は解決されるのかというと、これがまた甘い。そもそもインドの便所は便所紙を流せないようになっており、当初わしはそんなことも知らずに便所紙を使っていたのだが、ある時ついに便所紙が排水溝に詰まり大変なことになった。
 そこで宿の人間にこの危急存亡乃時を告げたところ、彼は「あぁ、またか」という様子で、至極あっさりと、それでいて面倒くさそうに処理する。その時、宿の人間、つまりインド人の表情の裏で見て取れた感情が忘れられない。
 「ケツを紙で拭くなんて、なんて汚い奴だ」
 
 大便ショックであった。確かに一理あるのである。紙で拭くという行為は、要は“引き伸ばしている”でけであり、“誤魔化している”だけだ。フグリカスを水でさっぱり手洗いした方がきれいになる(手は別だけど)。
 ある時、大量の便所紙が便所を埋め尽くしていたことがある。しかもすべて使用後の便所紙。それまでインドの便所に置いてあるボックスの用途が分からなかったものの、これで初めて理解した。つまりインド便所のボックスは使用済みの便所紙入れなのである。水で流せないから、便所に放置せねばならぬのだ。細かな描写をしてもいいけれども、またお叱りのメールを貰いそうなのでやめる。とりあえず衛生的に精神的に大変よろしくなかった。

 というわけでインド人のケツは日本人よりもキレイということでした。以上、インド人のキレイなケツの話し。 


2004/9/3 (金)

 一ヶ月近くフロに入らなかったことがある。しかも夏場だ。一ヶ月ぶりに湯船に浸かれば、お湯は見る見る内に真っ黒になった。それがどのくらいの汚れであるかというと、雑巾を洗った時のバケツの水ぐらいなのですね。人間の身体とはこんなにも汚いものなのか、と恐れ入った。
 
 と、以上はモンゴルでの話し。朝青龍さん、結婚おめでとう。
 小生の義理のオヤジであるドルジバドが暮らすゴビ砂漠地方は、夏場はあっさりと40度を越す。けれどもフロには入らない。そもそも空気が乾燥しているので、じとじとぬめぬめの汗はかかずに爽やかな暑さではある。爽やかな摂氏40度という世界をこの時に初めて知った。
 もう一つの理由に水が貴重だ、ということもある。電気もガスもなければ、当然水道もないわけだから水は近所の井戸や川に汲みに行く。近所といってもモンゴルの近所は10km範囲内も近所と呼ぶ。オヤジの家ではバッファローにリヤカーをひかせて水を汲みに行っていた。おかげで小生もバッファローの扱いには自信がある。財団法人日本バッファロー乗車能力検定協会の検定があらば、受けてみたいところだ。
 
 大きな川が流れている地方ではそこまでしないけれども、遊牧民ならではの水の使い方というものがある。コップ一杯の水で、歯磨き、洗顔、洗髪を全て済ますのだ。つまり、口をゆすいで吐いた水を手にすくい、その水で顔を洗う。日本では中流水といって生活排水を便所の水に使ったりするところもあるが、遊牧民ならば一笑に付すだろう。いや日本の公園や遊園地にある噴水を見れば、卒倒するに違いない。

 「その国の水を飲んだら、その国の習慣に従え」。朝青龍の結婚式ではモンゴルの諺が使われていたけれども、小生自身は習慣を持ちかえってしまうことが多々ある。それはクセというよりも強迫観念に近い。ここで激白してしまうが、小生は時々モンゴル式の水の使い方をしているし、未だに手を合わせてインド式にお礼を言ってしまう。
 そしてこれはごくごくタマにであるが、クソした後は手で洗い流す。ケツを手で拭くのも国際人と呼ぶならば、わしも立派な国際人だ。





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