死んだら英雄かよ。凶弾に倒れた、ジャーナリストが天職、イラクの子供たちを救った。
前回の人質事件の方向性で報道するならば、見出しはこうするべきだ。
「邦人射殺か 身勝手な日本人、死んで当たり前」
人質三人へのバッシングは、外国のマスコミには本気で不思議に思われておるらしい。これで益々不思議の国“ニッポン”になるだろう。
本屋に行く。駐輪場にバイクを止めて入店しようとしたところ、ガラガチャバチャンと自転車が倒れる音。振り返れば9歳程の少年が自転車のドミノ倒しを敢行してしまったようだ。仕方なく少年の自転車整理を手伝う。少年は終始無言で、結局何も言わずに去っていった。ありがとうぐらい言え、クソガキが。「礼を言おうとしたが、わしの顔を見て逃げた」との有力な見方もありますが。
わしは旅先で受ける親切が嬉しくて旅をしている、と言っても良いかもしれない。一人旅で味わう「無償の親切」とは心のヒダまで深く染み入るのだ。しかし、すみませんとは決して言わない。ありがとう、だ。心底からの精一杯のありがとうである。
時折、何でここまで親切にしてくれるのだろう、と「無償の親切」が心苦しくなる。感情を込めた「ありがとう」を言うのは、その心苦しさを払拭させるための言葉でもある。
旅番組を見ていると卑屈に「すみません、すみません」と連発しているレポーターがよくいるが、あの姿勢は旅人として間違っている。ある種の主従関係が出来てしまっているからだ。持て成す側と旅人はあくまで対等な関係であり、すみません、と謝った時点で「旅人」はただの「恵んでもらった人」となる。旅人は「ありがとう」との言葉とともに持て成し人を楽しませるのが正解だ。話し相手になる、、政治風刺が好きならその話をする、エロ話が好きならその話しをする、旅の思い出話しを語る。
旅をしている最中は自分が物語の主人公だ。第三者に物語の刺激に触れさせるのも、旅人の一役割である。
ところで、困ったのはモンゴルだ。モンゴルには「ありがとう」と言う言葉は事実上使われないのである。遊牧民においては、旅人を助けるのは当たり前、という考え方があるからだ。これはこれで苦労する。
そうか!分った。自転車を倒した少年はモンゴル人だったのだ。
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