隊長の戯言


 
2003/2/14 (土) 

 日本、牛丼撤廃で1千万人が空腹に!!
 一日八ドル程度の小遣いしか使えない日本のサラリーマン。彼らにとっての牛丼撤廃は1千万人以上のサラリーマンに混乱を来たすことであろう。


 やってくれるぜ、サン紙。英サン紙はゴシップネタを中心に扱う、いわゆる日本のスポーツ新聞的な存在なのだけれど、この仰仰しい報道には笑える。日本人は牛丼しか食わないってか。

 吉野家の牛丼は数えることの出来るぐらいしか食ったことはないのだけれども、やはり無期限停止ともなると寂しいものがある。
 100円の捻出ですら四苦八苦する貧乏旅行においては、吉野家牛丼の存在はすごくありがたかった。貧乏旅行中の食いものと言えば自然と穀物限定になってしまうのだが、吉野家は二百円そこらでメシと肉とお茶が飲み放題となるわけだから、これは重宝するのである。
 ある時は、狂ったようにお茶を飲んでいたら、その様を見かねた店員からペットボトルにお茶を詰めて貰った事もある。サン誌流に言うならば、数百人いる(と思われる)日本をさ迷っているバックパッカーも空腹に陥り、混乱を来たしているってところだろうか。きっとそうだ。

 北京で食った吉野家の味も忘れられない。
 毎日毎日、ドロドロベトベトギトギトの中国料理を食っていると、腹のみならず頭までが変になってくる。「どこどこに吉野家があるらしい」との日本人旅行者からのタレコミが入ってきたのは、北京のハズレに位置する北京一安い貧乏宿で悶々としている時で、わしは即刻詳しい情報を仕入れるとすぐさま宿を飛び出したのである。
 さわやかだった。この上なくさっぱりとしていた。極上のデザートだった。
 というのは、毎日ドロベトギトの中国メシを食っていると、日本の牛丼が清涼感たっぷりすっきりのメシに感ずるのである。あの時は油料理に胸がムカムカする度に、牛丼を食いに行っていた気がする。
 ただ唯一の難点は、吉野家が大衆向けの食堂ではなかったことだ。中国の吉野家は日本のそれと雰囲気がまるで違うのである。
 森閑とした雰囲気が漂う店内にいる客はみな煌びやかに着飾り、"かっこよく"牛丼を食している。客層はカップルが多い。店員に元気なおばちゃんはおらず、ビシッと決めた兄ちゃん姉ちゃんばかりで、みな一流レストランのウエイターの如くに澄ましている。
 そんなわけでわしは日本とのギャップに大笑いしたのだけれども。実際に笑われていたのはヒゲ面ボロシャツボロサンダル姿で下品に牛丼をかっ食らっていたこのわしだと思う。あのバカ、あんな恥ずかしい格好して、よくぞスタイリッシュなYOSHINO-YAのGYUDON食ってられるな、とか。

 この文章を麗しき吉野家の牛丼に捧げます。


2003/2/12 (木) 

 「この前、本屋でサトー(副隊長)君に会ったよ、多分」
 「多分って?」
 「本人だと確信持てなかったから、声かけられなかった」
 「汚かった?」
 「いや、小奇麗な格好してた」
 「じゃあ、人違いだ」
 「やっぱりそうか!」
 
 よくよく考えたら大変失礼な会話である。サトーさんお詫びします。

*


 映画『カンバック』を観た。シナリオ原案は倉本聰、音楽に久石譲。出演俳優は若山富三郎、菅原文太、渡瀬恒彦、竜雷太、宍戸錠etc。そして監督・製作総指揮・脚本・企画・主演がガッツ石松。
 幼稚園のおんがく会にストラディバリウスを投入したかのような陣営である。名器を幼稚園児が演奏したらどうなるか、という素朴な疑問が解けるだろうと楽しみにして観たのだが、何だ普通に面白いじゃないか。
 ツッコミ所は彼方此方にあるにはあるのだが、どれもやや弱い。ダメじゃないか、ガッツ石松。もっと破壊してくれなきゃ。
 
 面白いので面白くなかった。
 ちなみに某映画評価サイトで下された点数は0.5点。10点満点評価の0.5点である。


2003/2/10 (火) 

 熊本に行ってきた。九州徒歩縦断の際にお世話になった人達に、むらむらと会いたくなったからだ。
 それにしても国道3号線は思い入れが強すぎる。福岡から鹿児島までこの国道伝いにずっと南下して行ったのだが、何度通っても色々な感情がつい込み上げてくる。
 今回の行き先は熊本県山鹿地方の温泉。旅先で床下浸水を起こすほどの豪雨に遭い、この地の温泉で二日間の逗留生活を余儀なくされたところなのでここも大変思い出深い。
 温泉場は「どんぐり村」と言う一大レジャー施設を思わせる名前だけれども、大抵の観光者は近場の有名温泉に流れるので、利用者は地元民の常連客ばかりだ。逆にいえば、地元の常連客ばかりということはそれだけ"しっかり"した温泉と言うことでもある。ここはよくあるような循環方式の温泉ではなくて、垂れ流しの温泉なので、おっさんの珍毛が湯船を漫然と漂っているということは無い。
 常連の温泉マニア客の爺ちゃん曰く、「この湯はまったりとしていて、柔らかい。肌に吸い込まれていく」とのこと。言っている意味はよう分からんが、良い温泉ということだけは分かった。入浴料も350円と低価格で、お勧めです。

*


 拙宅の離れにある物置小屋を十年ぶりに掃除することにした。今はへらへら隊の備品置き場と化しているこの小屋は、つい先頃までは野良猫一家の住処となっていた。
 ところが、掃除をすればするほど部屋に漂う異臭が強くなるのである。さては野良猫の「置き土産」があるな、との判断を下し、小屋中の雲古捜索を試みるが、一向に発見出来ない。いや、それどころか異臭はさらに増してきているような気さえする。
 
 部屋中雲古のカス塗れになっていたのに気がついたのはそれから間もなくの事で、それというのは本宅に掃除機を取りにいく途中、気がつかぬうちに雲古を踏んでいた靴を履いており、その靴を履いて物置小屋を歩き回っていたという事実が判明するまでにはかなりの時間を要した。
 雲古色のジュータンに雲古が付着すると厄介だ。


2003/2/8 (日)

 うわっ、REMのプロモーションビデオ作ったのは、このおっちゃんだったのか。
 久しぶりに良い映画を見た。監督は野球帽かぶったデブヒゲメガネのおっちゃん。主演も兼ねている。いわゆる三重苦のおっさんだけれども、この上なくカッコいい。いや、カッコ良すぎます。

 カンヌ映画祭でこの作品を見た変態巨匠デビット・リンチは急遽特別賞を設けておっちゃんに授けたという。銃がズラリと並ぶシーンに流れるジョン・レノンの『Happiness is a warm gun』も痛烈なギャグとして活かされ、誠に具合が良い。エンド・クレジットの名前にオノ・ヨーコがの文字があるのも納得できる。このように使われるのだったら、彼女も快諾するだろう。
 それから絶妙な存在感をかもし出していたマリリン・マンソンもカッコよく、ルイ・アームストロング『この素晴らしき世界』のカバー曲を歌ってガンで死んだラモーンも最高だがけっきょくやっぱり野球帽のデブヒゲメガネが一番カッコいい。

 
 と、好きなアーティストばかりが出演したもんで思わず羅列しちまったけれど、これはドキュメンタリー映画なのである。映画の主題は銃規制問題、と一言で片付ければそうなるのかもしれないが、実際のところは銃問題から展開させる"結論なし"の論争である。漠然とした主題はあるものの、確固たる主題はない。それが良かった。
 思想上の問題が絡む以上、作品に完璧な合致を求めるのは無理だ。デブヒゲメガネの考え方に全面的に賛成はできぬけれども、そんなことはどうでもいいことだ。合致はしないが、共感した。底辺からの切り込みは真理を生み出す。笑いは最大の武器だ。アンタのやり方はとことん正しい。実に正しい。

 作品全体には随所にブラックユーモアが散りばめられていて痛快この上ない。もう滅茶苦茶だ。歴史的ジェノサイドの映像を流しながら『この素晴らしき世界』なんて凄いセンスしている。
 ただし殺人や戦争に「ユーモア」を持ちこむなんてとんでもない、などという短絡的発想しか出来ぬヒトは見ないほうが宜しい。愚劣なお昼のワイドショーやゴシップ週刊誌だけ見て、おめでたい良識に浸っていればいいのである。
 
 アカデミ−主演男優受賞俳優のチャールトン・へストンの恐らくは最後の出演作品になるであろう『ボウリング・フォー・コロンバイン』。
 面白ェですぞ。
 主題無し、結論無し、エンディング無しの手法をとった作品だけれども、作品公開後にKマートが潰れ、チャールトン・へストンは全米ライフル協会会長の座を降りているという現実が事実上のエンディングである。「この映画で一番最悪なのは、僕が主演をしていることだ」と語るデブヒゲメガネは最高にカッコいい。


2003/2/7 (土)

 今週は食費削減推進活動期間であったので、カレーだけで一週間をすごした食費総額五百円未満。
 カレーライス、ライスカレー、カレー&ナン各種、カレーうどん、カレーパスタと昼晩毎日食っていたら、四日目でついに限界がくる。
 インド北部をさ迷っていた頃は約二ヶ月間カレーで過したというのに、日本では四日が限度らしい。不思議なものである。
 

 先日、古本屋を巡っていたら、「貧乏生活者の取材禄」本があったので思わず立ち読みした。妙なライバル心が沸いたからである。
 本に出てくる"自称"貧乏生活者は様々で、例えば役者志望やミュージシャン志望、漫画家志望の貧乏者たちがいたのだけれども、どれもこれも中途半端な貧乏生活だった故、小生の全戦全勝であった。わはは。
 と、勝利を収めるたびに心の中で密やかな快哉を挙げ喜んでいたのはつかの間のことであり、後からずっしりじわじわと哀しくなる。
 梅の花がようやく咲き始めた。春はもうすぐだ。


2003/2/3 (火)

 またアメリカが小型の核兵器を開発しているそうだ。何でも、「今までの核兵器は威力が強力過ぎて"抑止力"にしかならない。その点小型の核兵器ならば安心して使える」だとよ。つまり核兵器は「持つ」ものではなく、「使う」ものだという前提の元にあるわけだ。ひでぇ話しなのです。

 そこでわしは提案したいのだけれども、ここは一発「うんこ兵器」を見直すべきだと思う。いや、わしは多いにマジメだ。
 そもそもうんこ(以下、雲古)は戦争と深い結びつきがあった。古くは戦国時代より、第二次世界大戦時でも日米ともに雲古爆弾の研究を行っていた。いずれも雲古の抑止力を利用して、相手方の戦意喪失を計ったのである。日本が戦争に負けていなかったら、雲古爆弾が完成されていたはずだ、との話しもある。
 戦国時代においては防衛側が雲古をよく活用した。石垣を登ってくる兵士に糞尿をふりかけるのだ。"死ぬ時ゃ汚れなき白一色のフンドシで"の死に様を気にした武士たちはクソ塗れで死んではたまらないと一気に戦意が喪失する。ましてや水一滴すら無駄にできない篭城戦において、雲古ほど有効な資源はなかった。
 忍者は糞尿から火薬を作っていたそうだが、時代劇でよくある場面「煙玉を敵方に投げつけ、相手が怯んだスキに逃げる」というクソ面倒なことをしなくとも、「雲古を投げつけて逃げる」方がよほど経済的かつ平和的で良いんじゃないか。ただ雲古の持つ激臭で侵入がバレるという可能性はあるけれども。
 司馬遼太郎は「雲古を投げれば必ずケンカに勝てる」と言った。確かにコレほど有効な技はないと思う。暴動鎮圧部隊が市民を殺傷、というニュースは度々耳にするが、銃や警棒で暴動を鎮圧するなど愚の骨頂であり、これも雲古を投げつけて鎮圧するのが上策だろう。使い道はいくらでもある。


 しかしながら雲古爆弾にはアフターケアが大事だ。同時並行で消毒爆弾も開発するのが筋だろう。ブーケ調の香がほのかに漂うその消毒爆弾の色はブルー。名前は「アナーキスト・お砕け」が良い。やや苦しいか。


2003/2/1 (日)

 ブックオフで値引き交渉している客がいた。なんと嫌な客だろう。
 ほら、良く見やがれ。表紙は曲がってるし、ページが取れそうじゃないか。50円にしろ、50円。
 結局、350円の文庫本(本多勝一の『子供たちの復讐』)を100円で購入していた。しかも何気にサイン本。わしが何故こんなに詳しい状況を知っているかというと、本を買った当人の証言だからだ。


 以前にバイクを使って九州の海岸線をぐるりと一周したことがある。福岡を出て間もなく、おっさん一人を轢き殺しそうになった。
 年間事故数ナンバーワンを何度となく記録した福岡県はとかく交通マナーが悪い、らしい。ただそれは他県からの言い分で実際のところ、福岡県人はさほどそのことを認識していないと思う。
 前述のおっさん轢き殺しそうになったのもそのせいだ。
 「青進め。黄色まだまだ。赤勝負!」
 当県にはそんなムチャな標語がある。実際、黄色で止まっていてはカマ掘られることは間違いなく、赤に変わって数秒の間は車を走らせるのが普通だ。車を停止する方が危険なのである。対向の右折車もはそのことをよく心得ているから、信号が変わってもすぐには飛ばさない。注意してノロノロと進む。また歩行者も信号を信用してないので、必要以上の注意を払って道路を横断する。んで、結果的に車も人も安全なのである。この暗黙の了解を無視するとかえって危険だし、またこの暗黙の了解を他県に持ち込んでしまうのも大変危険だ。
 そんなわけで実際の福岡県の事故車は他県ナンバーの車の比率が相当多いのではないかと思うのだが、詳しい統計は知らぬので分からない。

 この間、新聞の社説を見ていて笑ってしまった。フランス在住の海外特派員が書いた文章である。表題は「信号を守るのは大変危険」とある。以下はフランス人から実際に聞いた理屈だそうだ。  「自分は信号を守らない。故に他人も守らない。さらに信号機は故障する。だから人も車も注意を怠らない。よって結果的に安全である」
 しかし、交通事故死亡者数は日本と変わらないじゃないか、特派員が問うとムッシュは憮然として答えたそうだ。
 「君は他人の作った統計を信じるのか」
 
 ちなみにインドやモンゴル、中国などのアジア諸国における信号の役割は、ただの「飾り」である。



感想ヲクレ
お名前 
メール 
感想他 
 



  隊長の戯言