隊長の戯言


 
2003/12/11 (木)

 イラク中部の近郊の町で、米軍のブルドーザーが果樹園の木々をすべて根こそぎにする作業が行われた。付近は旧フセイン政権の支持者が多いスンニ派の地域で、米軍に対するゲリラ攻撃が頻発。米軍は付近の村人たちを尋問したものの誰もゲリラの居場所を教えなかったため、その「懲罰」として村人たちが所有するナツメヤシやオレンジ、レモンなどの果樹を、根こそぎ切り倒した。

 伐採しないでくれと泣いて頼み込む村人たちを振り切り、ブルドーザーを運転する米軍兵士はジャズの音楽をボリューム一杯に流しながら伐採作業を続けた。ナツメヤシは樹齢70年のものもあり、村人たちが先祖代々育ててきた果樹園だった。伐採を止めようとブルドーザーの前に身を投げ出した女性の村人もいたが、米兵たちに排除された。

 伐採を担当した米軍部隊の中には、村人たちの悲痛な叫びを聞き、自分に与えられた伐採の任務と「なぜ村人たちにこんな辛い思いをさせねばならないのか」という不合理感の板挟みに耐え切れず、突然大声で泣き崩れてしまう兵士もいたという。

http://news.independent.co.uk/world/middle_east/story.jsp?story=452375


 ついに小泉がやっちまいました。


2003/12/5 (木)

 知人から「健康食品セット」なるものを貰った。健康ラーメン、健康玄米、健康ミソ汁などなど。どれもこれも薄味でクソ不味い。このままじゃ食えたものではないので、塩をたっぷりかけて食うことにしている。
 おかげで塩分の摂取は増え続け、近頃やたらと喉が乾き、茶代わりの酒がぐいぐい進む。
 健康食品は不健康な食い物だ。


2003/12/2 (火)

 時代小説作家の津本陽が紹介していた実話を読んで、思わず爆笑してしまった。

 小学校で生徒が作文を書いた。ところが文中には「きんたま」という言葉が使われており、それを読んだせんせいが注意を与える。
 「この言葉は感心しないな。もっときれいな言い方があるんじゃないの。工夫して書き直してごらん」
 生徒はどう直せばよいのか途方にくれ、机に齧りついたままに一生懸命考える。そして彼は一つの名文句を思いついたようで、やおら消しゴムを掴み取ると、素晴らしい勢いでその修正にあたる。
 せんせいは彼の姿を微笑ましく見つめ、やがて生徒が得意げに提出してきた作文をうやうやしく受け取る。しかしその作文を読み下したせんせいは唖然とした。
 そこにはしごく丁寧な字で書かれていたそうだ。

 「きれいなきんたま」


 こんな感性はオトナには絶対に思いつかない。津本陽の言う「澄んだうつくしさ」がある。きれいなきんたま。実に美しい響きじゃないか。きれいなきんたま。
 ところで、だ。
 コドモを「汚れなき天使」と決めつけている人たちがいるが、それはチトおかしい。コドモはあくまでコドモである。コドモに汚れも綺麗もクソもあるものか。不幸を認識することで幸福が生れるように、これはオトナが自分の汚れを自覚するからこその発想だ。これは比喩表現というよりも対比表現である。定義でなく、独断である。
 
 しかし逆にいえばこの「汚れ」が沁みつくとオトナになれるのである。ごく稀に「汚れ」のないオトナもいるが、それは綺麗なオトナではなく大人の姿態をしたガキ、長じて変態とも呼ぶ。
 「汚れ」の一つを挙げるとすれば、それは良識だと思っている。例えば殺人を禁じることは常識だが、喫煙を制限することは良識である。遊牧民の饗応は常識で、日本の饗応は良識である。車で人を轢き殺さないのは常識で、信号を守るのは良識だ。ボランティア活動の殆どは良識の塊である。
 歴史を振り返る。魔女を炙り殺していたのは良識。コーヒーを飲んだものに死刑を課したのは良識。禁酒法を施したのは良識。女性に選挙権を持たせなかったのは良識。
 良識はおしなべて下らない。もっとも良識と常識のボーダーラインを取り違えるとオウム真理教になってしまうけれども、つまるところ良識とはそんなものだ。
 社会学の起点や禅の終点はおよそそんなことを言っておるのだが、所詮机上の論理は認識することは出来ても、理解することは出来ない。わしがこれをはっきりと理解したのはインドに行ってからだ。
 
 わしはできるだけ良識を捨て去るようにしている。そこで出来あがるのは、一介のガキだ。クソ生意気なガキだ。そしてわしはクソ生意気なガキを目指すのである。汚い金玉は「きれいなきんたま」になるかもしれない。
  


 


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