隊長の戯言


 
2003/11/26 (水)

 S.Fukutaichouが身体を壊したので、入院するとのこと。さっそく電話した。

 「おお、まだ生きていたのか!!良かった、辛うじて間に合った」
 「いや、もうダメだ。もうすぐ死ぬだろう」
 「そりゃ残念だ。どんな嫌がらせの見舞い品持っていこうか、楽しく考えてたんだけど。病院は何処だ?」
 「○○葬儀場。もし次に会えるとしたらそこだ」
 「そっかそっか。まぁ、頑張って生きてくれや」
 「ああ」
 「じゃあな」
 「じゃあな」



 ※リンク追加。メシを食え!
 美味いメシ、美味いサケ、美味いアウトドア。
  


2003/11/25 (火)

 わははは。ちょっとちょっと聞いてくだされ。びっくりなのです。もうたまらんのです。こいつぁ人に言いたくて仕方がない。笑いがとまらねぇ。

 所有している絶版本の市場価格を調べていたのである。
 無職生活は得るところが多く、これならばさらに生活を切り詰め、来春の旅立ちに至るまで無職生活続けようとのアブナイな思想が芽生え始めたからだ。一万円あれば二ヶ月生きる自信がわしにはある。数ヶ月の生活を凌ぐこづかいが、絶版本を売れば手に入るかもしれない。
 
 しかし蓋を開けてみりゃどれもこれも定価の五、六倍の値段がついているだけ。これでは酒代にもなりゃしない。
 そこで一番自信のあるお宝をぶつけてみることにする。ケルアックの『路上』の単行本だ。これは三年前、場末の古書店でホコリに塗れているのを発見した稀少本だ。『路上』の単行本は既に絶版となっている。そこでわしは狂喜して『路上』を購入したのだけれども、これがなんと初版本だった。つまり絶版の初版である。
 こいつはすごいお宝のはずだ。そう思いつつ、ネットで調べて出てきたページがコレ。


 

 に、に、にせん、にひゃく…まん…えん。
 見た瞬間にコーヒー吹き出しキーボード汚し、手は震え、思考が固まった。体中の血の気がひいた。
 貧乏生活を営む上であらゆる物欲は断ち切ったはずなのに、それらは断ちきれてなかった。心の奥底に潜んでいた物欲が一気に浮上し、開花する。咲き乱れまくる。咲いては散って、散っては咲く。いや、花なんて生易しいもんじゃない。火山だ。こいつは火山だ。次々と溶岩が吹き出で、轟音立てて爆発する。
 マーティンのギター「バックパッカー」。パソコン買い替え。毎晩居酒屋はしご。新艇カヤック。高級パドル。高級酒飲みまくり。新刊読みまくり。ウイスキープール。毎日旅。南極も楽勝。
 すげぇ。すげぇ。たまらねぇ。貧乏サヨウナラ。みなさんサヨウナラ。へらへら隊、グッドラック、アディオスアミーゴ。僕は別世界の人間になります。ホームページはもう更新できません。


 と、人間大金を手に入れたら、大変醜くなることを身を持って体験することが出来た。それだけでもよかったとしようじゃないか。勉強になったと思えばいいじゃないか。2200万円の『路上』初版本は原書に限った話であり、わしの『路上』は二足三文の値段であると判明したとしても。
 この無念と口惜しさの程はびっくりでもうたまらなくて、人に言いたくて仕方がない。笑うほかには何もない。
  


2003/11/25 (火)

 宮崎駿は果たしてクソタレか。

 宮崎駿が福岡市人工島計画との癒着関係をすっぱりと断ち切った。福岡市長には「詫び状」を送ったそうだ。

  福岡市長 山崎広太郎様
 たしかに、私がもともと考えていた「理想の街」を描いた自分のスケッチ画を、市長及び市の皆様に「参考にしてはどうか」と言ってお見せしたのは事実です。
 しかし私の本分は、あくまでアニメーション映画監督であり、住宅開発などという大それた事業に関与する能力もなければ、体力も気力も時間もありません。
 それなのに、今回の報道では私の名を冠した「宮崎ジブリ島」などの表現が使われ「アイランド・シティ」開発そのものに、私が深く関わるかのように書かれております。
 こんなことになったのは、私が自分のスケッチ画をお見せしたのが、この混乱の原因だったと深く反省した次第です。
 今後の混乱を避けるために、どうすべきか…。もしも、このまま事業が進行してしまうと、私自身がまったく関与もせず責任も負えない宅地開発が、私の名前やスケッチ画で行われ、結果的に市長をはじめ市のみなさん、特に、さまざまな期待を寄せて下さる一般市民の方々に大きな失望と損害を与えることになってしまいます。とてもたえられないことであります。
 それで、私がこれまでも今後も「アイランド・シティ」の開発に一切関係がないことをご理解いただき、具体的に次のようにさせていただきます。
 私のスケッチ画13点に関しては、外部向け内部向け、用途を問わず今後「アイランド・シティ」の事業、計画には一切使用しないで下さい。同じく私の名前も一切使用しないで下さい。
 元来、私の不注意が招いた事態ではありますので、誤解を与えてしまった市民の皆様に納得していただくために、必要とあらば私自身が福岡市に足を運び、直接市民の皆様にお詫びすることも考えています。

 

 以前の戯言にも書いたが、「博多湾人工島建設計画」は決して地域的な問題に留まっておらず、この問題は「川辺川ダム問題」とともに公共事業の典型的な醜行が集約されている。統計的に取れば日本は世界一の土建帝国だけれども、近年日本はようやく世界諸国に"追いつき"、公共事業の見直しが計られている。だからこそ上記の公共事業はその転換期における重要な役を担っているわけだ。「昔はあんな愚行をしたことがあったな」と語れるか、今も尚続けられるかという方向性への転換だ。
 人工島の弊害については今更ながら書かない。これほど悪行が詰まった事業は、ちょっとでも調べれば誰だってその愚行を悟ることが出来る。以前、外国の環境保護団体がこの「絶滅寸前の貴重な愚行」を視察に訪れた時は何と言ったか。
 何も言わなかった。
 ただ「ケッ!」とだけ吐き捨てて帰っていったという。わしは五年近くこの近辺の海を泳ぎ、漕ぎ、飲み、溺れているけれども、人工島の建設が始まってからの汚染の広がりはわしのような素人でもはっきりと分かる。プランクトンの異常発生。水温異常。生態系異常。汚濁した海面。沈殿したヘドロ。鼻をつく腐臭。

 宮崎駿がこの人工島建設に協力するとの報道を見かけた時は、「こいつはどうしようもないクソ野郎だ」と思った。自然との共生をテーマにする作家がラムサール条約にも指定されている土地の破壊を助長しようとするわけだから、こりゃとんでもないブラックジョークである。
 今回、宮崎駿が市長に向けて送った手紙で、福岡市の悪行はさらに露呈し、氏の真意が分かったのだけれども、ちょっと待て。何か違うだろう。書面の内容がおかしくはあるまいか。
 マスコミが「詫び状」と表記している時点から既に内容がおかしいのだけれども、なぜ市長宛てに詫び状を送らねばならないのか。これが市長を介して送った市民へのメッセージならば理解できる。しかし宛先人はあくまで「福岡市長 山崎広太郎様」だ。この辺りちとおかしい。
 加えて文面には氏の保身としか思えない文章がズラズラと並ぶ。どんな水面下の経緯があったにせよ、市の行政を批判する文面がひとつもないのはどう言うわけか。山崎が氏を利用して悪行を正統化さようとしたことは紛れもない事実なのだ。これを宮崎駿の人柄の良さとは到底呼べない。「クソタレ」という。
 或いは、批判を避けたのは嫌がらせを避けてのことだろうか。公共事業は政・官・財の癒着の象徴と言われるが、これはさらに細分化すると政治家と土建屋と暴力団の癒着がある。この癒着から生じる脅迫の類は徹底的に行なわれ、時には自殺まで追いこむ。宮崎駿はこれを恐れたのか。または人工島については全くの無知で、本当に「クソタレ」であるのか。
 
 宮崎駿は三鷹の森の木立をばっさばっさ切り倒して「ジブリ美術館」を建設したという前例もある。いずれにせよ宮崎駿という人間には疑問が湧いて仕方がない。「千と千尋の神隠し」や「もののけ姫」が全て真の虚飾だったとすると、それはすごく残念な話しである。
 


2003/11/23 (日)

 ブックオフにて中島らもの『アマニタ・パンセリナ』、隆慶一郎の『かくれさと苦界行』、開高健『男と土曜日と水平線』『あかでみあ めらんこりあ』、梁石日『夜の河を渡れ』、ボウルズ『シェルタリング・スカイ』、王欣太『地獄の家』、日本エッセイストクラブ『おやじの値段』、文藝春秋『ニッポン・ジョーク集』を購入。しめて千五百円。

 『アマニタ・パンセリナ』が大変高価だったので、購入をしばし悩んだ。価格は六千円。ただし、これはわし的価格に換算すれば、である。
 わしは普段物価を十倍にして考えているので、六百円の品物は私的物価価格に換算すると六千円になる。この感覚は外国を旅したことのある貧乏旅行者にとっては受け入れやすい。100円のジュースならば大して悩まずに買ってしまうが、1000円のジュースは相当な決断を要す。長じてクソみたいなモノを買わなくて済むから、ムダな出費が抑えられる。わしみたいな貧乏人にはこの感覚が欠かせない。いや、ケチンボなだけですが。

 しかし『男と土曜日と水平線』って表題は良いなァ。さらに傍題は『男は異国の地で目を瞑り、何を思う。』である。これはヤラれます。もうメロメロです。雄心の琴線がびりびりと震える。司馬遼太郎や椎名誠のネーミングセンスも凄いと思うが、『男と土曜日と水平線』はわしが知るタイトルの中で2番目に好きだ。ちなみに一番好きなのは、志茂田景樹の『もっとカゲキに生きてみないか』である。もっとも内容に関しては一文字すら読んだことがない。


 それにしてもブックオフは絶対にアコギな商売していると思う。わしは基本的に100円コーナーに置いてある本しか買わないのだけれども、時折この100円コーナーにひっそりと200円の本が混ぜられていることがある。あれはきっと店員のミスでも、他の客が適当に押しこんだ本でもないのだ。これは紛れもなくブックオフの陰謀なのである。
 わしは全く気づくことなしに、この陰謀にまみれた本をレジに差し出す。こんなことはこれまでに三度もあった。そして三度ともそれぞれ別の店だ。
 店員はこの陰謀本の存在に気づくと、心の奥底で密やかに笑い「ケッ、引っ掛かったな。バカめ」と考える(きっとそうだ。間違いない)。そして営業スマイルの仮面を全面に押し出し、例外なくこう尋ねてくる。
 「お客様、こちらは200円になっておりますけれどもよろしいですか?」
 ここでわしは緩やかに恐慌錯乱状態へと移行し、100円と200円との狭間に介在する間隙において逡巡と葛藤と焦燥が融解し、静かに爆発する。
 クソが。またやりやがったな、ブックオフめ。畜生、こいつは「アンタは100円の本しか買えない貧乏人だけれども200円などという高価な本を買うのですか?」と説いているのか。クソが。やられた。こんな奸計にハマってたまるか畜生。悔しいので嫌味言ったれ。「100円コーナーにはきちんと100円の本を置いて欲しいんだけどねぇ」え? 何だって?「すいません。この本は戻してきます」だと。ちょっと待て。それは待て。たかが百円されど百円しかし百円。百円の差は確かに大きいが、これでこの本を捨てるのは惜しい。数十分も吟味して選んだ作品だぞ、畜生。あっさりと取られてたまるか、畜生。でも買うのは悔しい、畜生。文句言うにも100円ごときで文句を言う奴と思われるのは間違いなく、これはちょっと情けない畜生。
 わずか数秒の間にこれだけの考えが思い浮かび、店員との駆け引き、精神戦争はしだいに激化の様相を呈していく。
 そして。
 今日も敗北。


2003/11/22 (土)

 ラーメン屋に入ってきた一人の兄ちゃん。彼は店員がオーダーを取りに来るのを待ち、
 「ラーメンいっぱい下さい」
 と言いやがった。
 ここでわしはラーメンを吹き出しそうになったけれども辛うじて耐える。続けて店員に「麺の固さをどうするか」と聞かれた兄ちゃんは
 「えっと、やわらかめで」
 だとさ。
 そこで思わずわしはその兄ちゃんの顔を見てしまったところ、その場に居合わせていた客たちも同じくして一斉に顔を上げ兄ちゃんを睨んでいた。そして店員はあからさまな侮蔑の表情を見せて注文を聞く。
 可哀想に。多分彼は普通のラーメン屋だと思ってここに入って来たのだろう。そして二度とこのラーメン屋には来ないと思う。ここのラーメンの味は決して美味くない。
 
 「博多ラーメン」ってのは全国的に知られているけれども、「長浜ラーメン」というとその知名度は低い。「長浜ラーメン」は「博多ラーメン」として大別されることもあるが、「長浜ラーメン」は「博多ラーメン」が独自に発展していったもので"分家ラーメン"ではないのである。
 長浜ラーメンの一番の特徴はちぢれ麺ではなくストレート麺を使用している点にある。ストレート麺は茹で上げに時間を要さず、長くとも一分以内にはラーメンが食卓の上に出され、また安価でもある。長浜ラーメンはワーキングクラスの多い地域色にあいまって生れたラーメンだ。
 冒頭のラーメン屋は長浜ラーメンの発祥と言われている店で、ここでラーメン食うにはそれなりの流儀が必要である。
 まず第一に注文する必要はない。そもそもメニューというものが存在しないに等しいから、店員は客が店に入った瞬間にその人数を数えてラーメンを茹で始めている。客が唯一言うべきことは、「麺の硬さ」と「油の量」だけだ。これには「カタ(硬い麺)」「ベタ生(油多めのはや上げ麺)」「ナシカタ(油なしの硬い麺)」等々の用語がある。また「柔麺を食うやつは人に在らず」といった博多人間の哲学も考慮せねばならないだろう。
 
 このラーメン屋は恐ろしく汚い。壁はあちこちが剥落し、どんよりと汚れ、床は常に油でベトベトしており、店員は皆長靴を履いている。相当儲かっているはずなのだけれども、何十年も改装されないままだ。「綺麗にしたら汚い客が来にくくなる」とはオーナーの弁である。
 店員の愛想は極めて悪い。「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」の声が聞けれぱそれは奇跡が起こったと言える。翌日、天は割れ地は裂け、槍が降ってくるだろう。店員は皆曲者ぞろいで、その辺のシンナー吸ってる兄ちゃんに制服着せただけ、という感がある。きっと入墨、金ネックレスは面接合格の必須アイテムか、店員としての義務なのだろう。また制服には元々ポケットがあったらしいのだが、店員が売上金をよく盗むので廃止された。
 客の質は異様である。皆押し黙って黙々とラーメンを食べている。長居して談笑するという種の店ではないからだ。気の荒い労働者連中も多いから諍いごともしばしば起こる。近くには魚河岸があり、わしもしばらくここで働いたことがあるけれども、実際ケンカっぱやい。頻繁に救急車が呼ばれ、血だらけのおっさんがタンカに乗せられているのをよく目撃した。また以前他県出身の友人にこのラーメン屋を教えてあげたところ、以来彼はすっかり長浜ラーメン漬けになってしまったのだが、彼は「ラーメン食いに行く」とは言わずに、「勝負しに行く」と言っていた。
 そしてラーメンの味は美味くない。科学調味量がふんだんに使われているそれは豚骨独特の臭みが立ち上り、ぎとぎととした油で覆われている。これほど健康に悪そうな食い物をわしは他に知らない。身体に耐性が出来ていないと、間違いなく腹を下す。
 
 けれども繁盛している。不思議である。客の多くは十数年来通い続けている常連ばかりである。もし常連客に「美味いか?」と尋ねれば「うーん」と答えるだろうし、「なぜここのラーメンが好きなのか?」と聞けば「分からない。けど好きなのだ」と返事するだろう。この辺はインドの魅力とよく似ている。長浜ラーメンはラーメンであってラーメンでなく、およそラーメンという範疇を超えてしまっているラーメンだ。定義づけは不可能である。
 一時は「白い粉」混入疑惑が広まったことがある。「白い粉」とはただの味の素だったのだが、それがどう間違ったのか「覚醒剤」と誤解された。美味くはないが、クセになる。長浜ラーメンの持つ中毒性はこのあり得ない「シャブ中ラーメン」疑惑を信じさせる力がある。
 
 2ちゃんねるにはこの長浜ラーメン評が書かれている掲示板があって、その内容がスゴク笑える。
 ・店員にムカつく事はしょっちゅうだが、あの店内に入ってしまうと店員に接客を求める気がしなくなる。不思議な空間だ。
 ・理屈では語れない。あんまり美味いとは思わないがまた行ってしまう。
 ・刺すか刺されるか、そげな雰囲気がよかっちゃろーもん。女子供は、すっこんどきない。
 ・長浜のキーワードは「殺伐」です。いつ喧嘩が始まってもおかしくない。そんな雰囲気がいいんです。
 ・腹を壊すのは店が悪いんじゃない。おまえの腹が悪い。自己責任だ。

 
 実に魅力的な店だ。
 厨房の壁には「1 400、2 800、3 1200…」と数字が並んだ珍妙な紙が貼られているが、それは 一杯四百円のラーメンが二杯以上になると店員が計算できなくなる、つまり掛け算の四の段が分からないからだ、そうだ。


2003/11/21 (金)

 修学旅行の行き先がインドに決まった、という夢を見た。わし、高校生。
 「集団でインドに行くとは愚の骨頂!!ディズニーランドにでも行ってる方が100倍マシだ」
 と校長に向かって青筋立てて必死の論駁を展開していた自分が恥ずかしい。
 夢の世界は余計な既成概念が吹っ飛ぶのは良いけれども、突っ込み入れる理性までも失われるのが残念だ。

 
 二年前の冬から現在に至るまでずっと続けられているケンカがある。その内容が実に美しい。
 「アンタもおわったな」
 「うるせえ、くそでぶが」
 「何がいいたいんだ、こらーっ」
 「何がコラじゃ、こらーっ。おっさんなめんなよ。こらーっ。」
 「かみつくなら、しっかりかみついてこいよ。こらーっ。」
 「おっさん、しにたいのか。こらーっ。」
 ロン毛の51歳と鉢巻しめたパンタロン38歳の攻防はもう少しで決着がつく。
 プロレスは夢想の世界だ。


2003/11/19 (水)

 些細な雑事と多大な遊戯に追われ、更新サボっとりました。あいすませんbyジョンレノン。

 「トリビアの泉」って面白いですな。今更ながら初めて番組を見た。
 単発ネタの連続ってのが見ていて飽きないし、ネタの流れも、掴んで、引っ張って、持ち上げて、落とすってのは見事な王道構成ですな。
 ナレーターと司会者も良い味出している。上質なギャグエッセイや落語の共通点は、語り部自身が笑わないってことにある。感情丸出しのルポルタージュってのはあり得ない。具体的に言えば、
 「もうわしはビックリした。道端歩いてたら靴の裏にねちゃりとした気持ち悪い感覚。見てみれば、なんと犬のウンコ!! ウンコである。ウンコ。もう信じられないね。ああ気持ち悪ィ」
 というよりも
 「移ろいゆく秋空を見上げつつ、私は物悲しい思いにふける。次第に足は重くなり、下駄の音も鈍くなる。まるでアスファルトに粘りつくようなこの感覚は、と思ったらうんこが密着していた」
 と表現する方がほのかに面白い。話しの流れにおける落差がデカいからである。
 「勝海舟、犬にキンタマ噛まれて死にかけた」ってのも、偉人とシモネタの落差が埋まるから面白いのだ。
 もし番組の解説者がただ笑うだけしか芸のない三流芸人だったり、ナレーターが感情丸だし絶叫型のおっさんだったらマジメな検証に裏打ちされた笑いが相殺する。キャスティングも見事なもんだ。

 ところで、「フランスではマクドナルドをマクドというが、マックといえば売春のポン引きという意味になる」ってのは笑った。日本語では何の変哲もない言葉・ジェスチャーも外国に行くと意味が豹変するってのは良くあることだ。
 
 自分の鼻を触ると、ペルーでは「ヤクをくれ」。
 親指と人指し指をあわせてワッカをつくる。俗に言うOKサインも、南米では「ケツの穴でも掘ってろクソッタレ」。
 アメリカ人男性と初デートをした日本の女の子。趣味を聞かれた彼女は、料理作るのが好きというつもりで「I like cooks!」。ところが日本人の発音では「もうチンポコ大好き」。
 中指立てての「ファック・ユー」ジェスチャーは知っている人が多いだろうが、こんな例もある。
 喫茶店に入った二人連れのアメリカ人と思しきガイジン。彼らにパスタ二人前を注文された店員は、改めて注文の確認を取ろうとする。しかし英語で確認するのは恥ずかしい。日本語だと理解してもらえない恐れがある。そこで店員は二本指を立てて微笑みかけた。掌を相手に向けるとバカっぽいし不躾だと思ったから、手の甲を向けて丁寧に確認。この上で笑いかければ、完璧だと思ったのである。
 ところでこのジェスチャーは次のような意味だ。
 
 「クソでも食ってろ」





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