きまぐれ日記

98年6月

「LC通信」

高橋忠史の不定期新聞です

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  • 鹿児島ウォーキングツアーは十月〜十一月


    新たなる出逢いを求めて、 ウォーキングライブツアー

    四十歳から始めたウォーキング・ライブツアーも今年で第七回を迎える。ここまで歩き続けるとは当初考えもしなかった。三十代から四十歳の通過点を漠然と通り過ぎたくなかった。ただそれだけの軽い気持ちで、歩き始めたのだった。 歩くという、人間の基本的な交通手段を放棄しつつある現代人、僕もその中の一人だ。足腰の弱りきっている事も忘れ無謀だとも思わず、千七百キロ、休み無しの四ヶ月の歩き旅を計画し、実行に移してしまった。 歩きつづけ、唄い続け、飲み続け、疲労は蓄積していくばかり、なのに次の日もそのまた次の日も歩いている。そして過去六回の旅での歩行距離は、延べ6千4百キロを超えた。その間に出逢った人の数は計り知れない。そんな人達との出逢いの数だけドラマがある。今年も又、励まされ慰められ助けられ、鹿児島を旅します。 鹿児島の皆さんよろしくね。

    京都で・忠史・ちょっと太った

    先日(六月十三・十四日)京都府網野町に出掛けた。第五回サンドコンテストというイベントで唄うためだ。このイベントには第一回目から毎年参加している。
    ウォーキングライブツアーは出逢いの旅、さまざまな出逢の中、網野町は歩いてたどり着いた訳ではない。五年前、この町で新しいイベントを作ろうと考えていた長濱さんが、新聞で高橋忠史のウォーキングライブツアーの事を知り、すぐさま電話をくれた。戦後五十周年のその年のツアーは、戦争と平和の意味を自分なりに考えてみようと、骨髄バンクの啓蒙活動で出遭った板倉さんの住む、戦後中国から引き揚げ船の着いた京都府舞鶴市から、この地球上で始めて原爆を投下された町、広島市まで歩くことに決めていた。
    当然、旅の途中で立ち寄ってもらいたいという事だったが、イベントの日程も、僕の出発の日もすでに決まっていたので、ツアーとは別に車で出掛けることにした。東名、名神、中国、舞鶴自動車道を経て、舞鶴からは一般道、天橋立で有名な宮津町を抜けて、峰山町(非常に個人的な事だが、峰山町には特別な思い入れが有る。少年の頃からの大ファンであり、僕にとってのプロ野球界のスーパースター、現ヤクルトスワローズの監督、野村克也さんの出身校、峰山高校のある町なのだ。ファン心理って何なんだろう。今ここに野村さんが居るわけも無いのに、運転しながらワクワクしている。このワクワク感は、毎年変わらない。今年ヤクルトは下位に低迷しているが、頑張れヤクルト、頑張れ野村!。)を過ぎると網野町だ。丹後ちりめんで有名な丹後半島の西に位置する網野町浜詰で、長濱さんは料理旅館を経営している。夏は長く続く白砂に、海水浴客がにぎわい、秋から春にかけては、日本海の幸(特に松葉ガニ、だが日本海の荒波にもまれた魚介類はみんなうまい)を求めて食通達が沢山訪れるらしい。
    自然豊かで美しいこの浜を、もっと多くの人に知ってもらいたい、心無い観光客が汚してゆく砂浜を守りたい。そんな思いで、サンドコンテストを開催したのだそうだ。コンテストの参加者は年々増加し、今年は四十組を超えるチームが参加した。長く続く砂浜に、縦横四メートル、高さ2メートルほどの砂の像が並んださまは、壮観だ。芸術性の高い作品を作ろうとすればするほど、砂は崩れやすくなる。乾くと、もろくなる砂に水を掻けて固めながら、夢中になって作品を造っている姿は、みんな子供の頃に戻ったかのようだ。作品が出来上がる頃には、誰もが、協力しあって作り上げた達成感に感動と喜びを感じ、賞金や賞を貰う事なんかどうでもよくなってしまうらしい。そして、すべての参加者は、今までもこれからも、美しい砂浜にゴミを捨てるようなまねはけっしてしないだろう。 実行委員の皆さん、お疲れさまでした。
    高橋忠史は、ちょっと太った。僕の心がちょっと太った。そして歌を作った。

    「あきらめないで」

    指の隙間 すり抜けて
    乾いた砂 こぼれて行く
    思い通りにならない事は
    分かっていても 又 繰り返す

    まぶし過ぎて 手をかざせば
    青く光る 水平線
    波打ち際の 小さな舟も
    漕ぎ出せば 波を 越えて行ける

    * 叶わぬ恋と 流した涙
    砂の中に 消えても
    あきらめないで あきらめないで
    夢はきっと叶うから
    あなたを守りたい

    濡れた砂を 積み上げては
    誰も居ない 静かな海
    いつかは波に さらわれて行くけど
    あなたに届ける 愛のメッセージ

    * (繰り返し)

    (自主制作アルバム「闘う人」より)

    前夜祭そして本番当日、二日間のイベントの間、活きのいい日本海の幸を毎食てんこもりでご馳走になった。特に松葉ガニのしゃぶしゃぶはたまらんほど美味かったぞ。高橋忠史は太った。心も、身体も、太った。(ギョ!、本当に体重が2キロも増えたぞ。さぁ、歩かなきゃ。)


    ウォーキングライヴツアー・リターンライヴ in 宮城県


    仙八先生から十七年目の感動

    六月二十一日。 前日、栃木県青年会館での「れいめい塾」トーク&ライヴの興奮を引き継いだまま、宮城県鳴子町に向かって東北自動車道を走っていた。携帯電話が鳴った。「宮城県の佐々木です。」と言う声に、聞き覚えは無い。最初に「はい、高橋です。」と言ったのにも関わらず「高橋さんですか。」と、念押しに問われた。
    十七年前、中学2年生だった彼は、その当時テレビ放映されていた「仙八先生」を見て、高橋忠史のLPレコード「東京」を、買ったそうだ。 宮城県内でコンサートがある事を知った彼は、インターネットで高橋忠史のホームページ(東京の曲山さんが開いてくれている)を見つけ、電話をくれた。 この日のコンサート会場、鳴子町川渡家畜市場で逢う事を約束して電話を切った。電話を切った後、十七年と言う年月を越え、僕の歌を愛し続けていてくれた人が居た事を知って、なんだか無性に、嬉しくて、興奮して、車を走らせた。
    たどりついた鳴子町は、東北自動車道、古川インターを降りて、山形県境に向かって車で約四十分、温泉とこけしを観光産業にする、山間の町だ。特に温泉はその歴史も古く、東北一を誇る湯量がある。
    この日のコンサートは、昨年「奥の細道ウォーキングライヴツアー」での出逢いをきっかけに、青年会を結成した鳴子町青年会スマイルスが、結成一周年記念を高橋忠史のコンサートで、との思いで始まった。

    会場は、川渡(かわたび)家畜市場。過去には牛や馬の競りで賑わっていたらしいが、今では馬の競り市場として年に一回だけしか使われていないらしい。外見は、ほっ建て小屋のデカイ倉庫。 およそコンサートの出来るような場所ではないと思った。中に入っても所詮は競り市場、と思いきや、埃っぽいその会場は、天井が高く、両サイドに座りごこちは良いとは言えないが、階段状の客席が設けられ、競りに掛けられる馬達の登場するアリーナの前方には、競り師のメインステージが有る。馬の運命を握り、飼い主の生活を左右し、買い手の夢を演出する、エンターテイメントが立つ場所に、歌手として今日初めて、高橋忠史が立つ。 地域にねざす青年団ならではの無謀な会場選びが、思いもよらず素敵な場所を発掘してくれる事になった。

    リハーサルを終え、本番までの間、入り口のあたりでうろうろ(客層を見ながら反応を感じながらその場で歌う曲を決めてゆく、これが高橋流だ)しながら、集まってくる人達を観察していた。会場前の広場に、窓を開け放ったままの車が、大きな音でカーステレオを鳴らしながら入ってきた。どこかで聞いた曲だ。「俺達の時代」だ。アルバム東京に入っている曲だ。きっと電話を掛けてきた佐々木君だ。どっちがファンだか分からない。あの電話以来、彼と逢える事を心待ちにしていた。本番の時間が、迫っていた。多くは語り合えなかったが、彼の十七年の思いを聞いているうちに、すでに僕の胸は熱くなっていた。コンサートの様子を、後日送ってくれた彼の電子メールから抜粋します。

    ‥‥先日の鳴子町川度家畜市場でのライブはとても感激しました。開演前の「アルバム東京の頃の私とはちょっと変わったからがっかりするかも?」という忠史さんの言葉に「え〜っ!」と不安になりましたが、ライブが始まると最後まで鳥肌が立ちっぱなしでした。そしてついには指先に軽いシビレまで感じてしまいました。これは興奮のあまり自律神経失調状態になってしまったのでしょう。
    忠史さんはあの頃とちっとも変わっていません。逆に歌声や歌い方に深みが増して余計に強い説得力を感じました。「俺達の時代」と「東京マイラブ」は私も大きな声で歌ってしまいました。前にいた女子中学生には笑われてしまいましたが、歌わずにはいられなかったから仕方がありません。そして感激の証がひとしずく。あのライブで心にズンときた曲は「あきらめないで」でした。いい曲です。アルバム東京にはなかった物をみつけました。なんともいい。素敵だ!。‥‥


    十七年前、中学二年生の時、アルバム東京との出逢いで、それまでの自分を変えたと言う。そんな彼が、二人の子供を持つ三十一歳のお父さんになって逢いに来てくれた。そしてこの日、僕は彼から、唄い続ける事への勇気をもらった。
    お客さんが立ち上がり、手拍子を打って一緒に唄い出すほど、この日のコンサートが盛り上がった。それは彼のせいだけでは無く、主催者のスマイルス、そして昨年の旅から付き合いのある、登米郡の青年達が駆けつけてくれたおかげでもあった。その事は又、後日に。
    ‥‥継続は力なり。‥‥

    おひねりライヴが高橋忠史の原点だ


    「おひねりライヴ」とは

    僕が「おひねりライブ」を始めたのは、十一年前、生活費を稼ぐ為に音楽を止め、サラリーマンを経験して、音楽活動を再開して三年目三十五歳の時だった。。 過去に出したレコードはすべて廃盤、バックアップしてくれる音楽事務所も無く、孤軍奮闘で闘っていた。その前の年、自転車で北海道を回っていた時の事。主催者から貰えるライヴのギャラ以外に、少しでも収入を増やす方法はないものかと考えて、思いついたのが「おひねり」だった。今思えばひどい話だが、入場料を払って聞いてくれているお客さんに「今日のライヴを聞いて、料金が安かったと思う人が居たら、その差額をカンパして下さい。出口にギターを置いておきますので、そこに入れて下さい。」と、お願いしてまわったのだ。たとえ千円、二千円でもと、思っていたのだが、どの会場でも予想を越えるお金がギターの中に入っていた。入場料を払ったお客さんから、またお金を取るのは、どう考えても失礼だ。そう考えた僕は、次の年から、「おひねりライヴ」一本に絞って活動してみようと思った。
    ☆ 歌を聞きたいと言う人が集まる所なら何処にでも出掛けて行きます。
    ☆ お客が一人でも出掛けます。
    ☆ トイレ以外の場所なら、何処でも唄います。
    ☆ ギャラは要求しません。僕の歌を聞いて、感じるものが有ったら、それをお金に換えて一人一人の判断で「おひねり」して下さい。感じる事が出来なかった人からは、お金はいただきません。
    以上の事を条件に、今まで付き合いのあった、各地の労音の人達を中心に協力を要請して、その年、1988年 、ホームコンサート・幼稚園・保育所・公園の片隅・職場の昼休み・小学校の授業・そろばん塾・お祭り・飲み屋・お寺・喫茶店・老人ホーム・障害者施設・作業所・バザー・河川敷・・・さまざまな場所で唄った。そしてこの年、270回と言う、驚異的なライヴ回数を達成。

    6月29日東京・足立区・荒井宅

    「おひねりライヴ」を始めて十一年がたった今年、足立区東部労音のアトム(斉藤さんの愛称)から電話があった。6月29日に荒井文恵さんのお宅でライヴ出来ないかとの事だった。一も二も無く 、すぐさま承諾した。 東部労音は、僕の「おひねりライヴ」を、最初に理解し協力し、なんと、年間100回のライヴを約束してくれ、なおかつ作ってくれた所だ。その当時事務局長をしていたうえっちゃん(植田さん の愛称。現在、東京労音の事務局長として、苦労の絶えない日々を送っている)が、アトムや他の仲間たちを口説き落として実現したのだった。うえっちゃんやアトム達の協力が無かったら「おひねりライヴ」の成功も、歌手としての高橋忠史の人生も無かっただろう。

    荒井文恵さん本人からの手紙が届いた。封を切ると二通の手紙が入っていた。一通は二年前1986年8月の日付だった。 字が少し乱れていた。肝硬変を患い、入院した病室からの便りだった。一度は動かなくなった右手をリハビリで克服しやっと手紙が書けるまでに回復したそうだ。「元気になったら私の全快を祝ってライブをプランして下さい。又昔のように、あのせまい部屋で人集めをしますから・・・」、SHINO・青春を歌って欲しいと言う事、そして還暦が過ぎたことが記されてあった。 病に倒れ、死を覚悟しながらも、生きようとする気持ちが伝わってくる文面だった。

    もう一通の手紙は最近のものだった。文字は、読むのに苦労するほど激しく乱れていた。一枚目の便箋の書き出しには、6月16日の日付、そして二枚目の便りの最後には6月18日の日付。 書いては休み、書いては休み、一字一字に思いを込めながら、3日間、大変な思いをして書いてくれたんだろう。「今日は手があまり動きません。誤字、筆の乱れなど、おゆるしください。何日もかけて、一通の手紙を書きます。(こんなにも君を・・・愛しているのに、を聞きながら書いています。)」、一枚半の便箋に、ライヴを開ける事、歌が聞ける事の喜びが溢れんばかりに満ちていた。何度も何度も読み返した。力強く生きるって、こういう事なんだよなって感動した。病の縁で、僕の歌を愛し続け、励ましの歌として聞き続けてくれている事に、逆に励まされる思いがした。

    「こんなにも君を・・・」 (アルバム、東京より)

    こんなにも君を愛しているのに
    遠く離れて声も届かない
    流れ星ひとつ南の空に
    光って消えた まばたきの隙間から
    死んだのは君じゃない 俺の方だよ きっと
    この眼を閉じれば 笑顔が見える

    こんなにも君を愛しているのに
    遠く離れて声も届かない
    俺は唄うよ 咽が潰れるまで
    もしも声が届いたら 風を 風を吹かせて
    生きながら死のうとしている俺の頬を打て
    またひとつ夜空の星が はじけて消えた

    こんなにも君を愛しているのに
    こんなにも君を愛しているのに
    こんなにも君を愛しているのに

    6月29日、足立区で久々の「おひねりライブ」だ、荒井さん宅には、十一年前、おひねり100回ライブを作ってくれた仲間たちが集まった。10人に満たない数だったが、まずはうえっちゃんが娘さんと共に唄い、僕がその後を引き継いだ。ご近所に迷惑を掛けないように9時で終わろうと約束していたのだが、つい伸びてしまい、時計の針は9時を回ってしまった。途中ちょっと辛そうにしていた荒井さんだったが、最後は顔色も良くなり、はつらつとして見えた。あまり遅くなると、明日にひびくだろうから、打ち上げは早めに切り上げようとしたのだが、荒井さんの独り舞台が始まって、話が途切れない。それほどまでに喜んでもらえた事に、感謝。心暖かい一日だった。
    11時過ぎに荒井さんの家を出た。 秋の再会を、約束して・・・。

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