グレートホース・ピンバッジ企画 想い出の名馬を語る

これからJRAの企画で「グレートホース・ピンバッジプレゼント」企画に参加した際の投稿を紹介致します。いずれも90年代に入ってから年度代表馬に選ばれた名馬ばかりです。

  1. トウカイテイオー
  2. ミホノブルボン
  3. ビワハヤヒデ
  4. ナリタブライアン
  5. マヤノトップガン
  6. サクラローレル
  7. エアグルーヴ
  8. タイキシャトル

おかげさまで9個のピンバッチを入手することが出来ました。特に最後のタイキシャトルは開門15分後に無くなる人気ぶりで驚きました(^-^;) さて、これをどう飾るかが問題ですねぇ...

■恐るべしトウカイテイオー

 平成3年の4月の第二週、私は病院のベットの中にいた。
 前週の桜花賞はトウショウボーイの忘れ形見、シスタートウショウが鮮やかに差し切り、ヤマノカサブランカと万馬券になった。そして、この週はルドルフの仔、トウカイテイオーが出ると言うことで否が応でも盛り上がっていた。しかし、私はといえばしがなく病室の片隅のテレビで中継を見ているより他になかった。当時はまだ枠連のみの発売で、万馬券になるようなことも珍しく50倍を越えればそれはそれで大当たりだった。だから、テイオーが1番人気でもヒモが薄ければそれなりにおいしい配当になるはずであった。

 同じ病室のおじさんは「去年の有馬が4−5だろ(オグリキャップとメジロライアン)、先週が6−7だ(前出の通り)、今週はくるっと回って1−8だ。」と言う。なるほどテイオーは確かに8枠にいた。しかし1枠は?シャコーグレイド???なんじゃこりゃ???と思ったが、その理論のかけらもない理論はおもしろかった。ちなみにシャコーグレイドの父親はルドルフに果敢に挑んでは敗れ去ったミスターシービーであるところは因縁めいてこれまた注目していたファンも多かったに違いない。とはいえ、当時は電話投票は保証金を積まないと持てないような時代だったので、仕方なくそのまま「ケン」ということになった。

 鞍上の安田隆行はこれまで大した勝鞍もなく、新聞には「とにかくテイオーにしがみついていろ」とまで書かれていた。唯一の不安はまさに鞍上だけであった。前週の1番人気イソノルーブルもレース直前落鉄で、大波乱の原因を作っていた。だからテイオーの場合も発走まではそんな心配がまことしやかに流されていた。だが、この年の皐月賞はそんなトラブルもなく発走した。抜け出したのはやはりテイオーであった...しかし、2着は...白い帽子が通過したように見えた....トウカイテイオーとシャコーグレイドの組み合わせは50倍を越えていた。桜花賞の大波乱に続く皐月賞の中波乱である。恐るべしトウカイテイオー。枠連のマジックを成立させてしまった。

 無事、退院した私はダービーの日、やはりテイオーから買っていた。相手は青葉賞を勝ったレオダーバンが筆頭。これは確か300円くらいの堅い配当であったが、私の数少ないダービーでの貴重な勝ちレースとなった。ちなみに枠連は5−8。テイオーが8枠から動かないので、枠連のマジックも消えてしまっていた。まさに恐るべし、トウカイテイオー。しかし、このレースでテイオーは骨折が判明。治療に専念することになった。勝鞍に恵まれなかった安田隆行にダービージョッキーの称号を送って、テイオーは表舞台から無敗のまま、ひとまず去った。

 テイオーはその後、天皇賞・春でメジロマックイーンに挑んで完敗、天皇賞・秋で体調が戻らずレッツゴーターキンに敗れ、臨むジャパンカップでは人気が集まらなかった...が、鞍上岡部の鞭を受けて、世界の名馬を相手に親子制覇を成し遂げてしまった。ここでも恐るべしトウカイテイオー

 だが悪いことは次々と起こる。まず岡部が騎乗停止になったことで、有馬記念は田原成貴が乗ることになったが、しかしあえなく惨敗。いつの間にか、私の手元には天皇賞・春や有馬記念のテイオーの単勝馬券だけが寂しく残ることになってしまった。そして見限ったジャパンカップでは、どうしたわけか買って無く、つくづく相性の悪い馬になってしまった、と愚痴るしかなかった。

 しかしこれだけ裏切られ続けていても、あまり恨む気はしない。それもやはり名馬の証なのだろうか?前年のレースから1年、本番から遠ざかっていたが、しかし同じ鞍上を迎えて、同じレース有馬記念を発走した。もちろんテイオーはもはや1番人気ではなかった。だが、結果は岡部のビワハヤヒデを抑えての1着。やはり、恐るべしトウカイテイオー。若手台頭が著しい中、かつての天才ジョッキー田原成貴の名前をも一緒に復活させてしまったのだ。

 こうしてテイオーはターフから去ったが、不思議とテイオーを悪く言う声は聞かない。数々の不運をはねのけた、その力強い「強運」は親譲りの素質以上の何かがあったに違いない。「終わりよければ全てよし」そんな言葉が似合う名馬だと思う。

 翌年、ウィナーズサークルとは縁遠かったシャコーグレイドが、久々にオープンで勝利した。その日は奇しくもトウカイテイオーの引退式であった。こんな演出もするとは...恐るべしトウカイテイオー

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■競馬にスポ魂を持ち込んだ馬〜ミホノブルボン

 フラットレースという言葉はご存じだろうか?陸上、水泳などにおいて、ただひたすら己のスピードと向き合って戦うスポーツである。速さの「秘密」には自身の「素質」、そして「鍛錬」の結果100%に調整された肉体、そしてこれらを瞬時に使いこなす精神力がある。そのいずれかが欠けたとき、チャンピオンから脱落していくのである。
 競馬界には「格」というカテゴリーが伝統的にある。「格付け」の「格」である。つまり「格」の高い馬には、「格」の低い馬は勝てない。たとえば、休み明けで出走してきて明らかに馬体がガレている、しかしレースでは他馬を圧倒して入線、という光景はよく見られる。こういうとき、理由のひとつに「格」が違うから、というのが挙げられる。「格」すなわち「潜在的な能力」が高いから、コンディションを多少崩していようとも、十分に相手になる、それはフラットレースである以上、避けて通れない非情の掟なのである。
 「格」は度々、血統の背景という側面からも例えられる。長距離のレースでは長距離血統の馬に人気が集まるのは、「2000Mまでならともかく、長距離なら『格』が上だ」と思われるからに過ぎない。メジロマックイーンが春の天皇賞で連覇したのも、2着馬にオープン級でしかないミスターアダムスが来たのも、「血統」から考えられる「格」が高いからに他ならない、と競馬に詳しい人なら答えるだろう。

 ここに1頭の馬がいた。その名は「ミホノブルボン」。血統的にはマイラーであったが、しかし故戸山師の「スパルタ調教」によって、その肉体は鋼の様に仕上がった。筋肉が瞬時に盛り上がるボディビルダーのような肉体は、従来の競馬界の常識から見れば異常であった。坂路を使ったインターバルトレーニング、早朝から午前一杯までの長い調教時間がその肉体をさらに鍛え上げ、維持した。
 戦法は「逃げ」だ。鍛え上げた四肢のフットワークの前に大抵の馬が追いつけずに、レースを終わってしまった。皐月賞を難なく勝ったとき、「敵は距離にある」とマスコミに叩かれ続けた。故戸山師でもそれはわかっていた。血統的にはマイラーなブルボンが我慢できるのは2000Mまでなことは言うまでもない。では、どうやって克服するのか?答えはただひとつ。鍛え上げるのみ。

 ダービーでも「未知の距離」をものとはしなかった。府中の坂ごときでは、その四肢を止めるまでもない。ただ気になる馬が外から飛び込んできた。ライスシャワーという小柄な馬であった。馬券はもちろん馬連で万馬券。もし未来から来た人がここにいたとすれば、この2頭の馬券を買っていないのは馬鹿だと、揶揄することだろう。本当にそうだと思う。しかし、そのときにはこの小柄な馬の存在など露ほどの興味も持っていなかった。なんでマヤノペトリュースが来ていないのか...とそればかり悔しかったダービーであった。

 秋になった。ミホノブルボンは一段と逞しく成長した。ダービーの時2着に飛び込んできたライスシャワーはこのころでも「フロック視」された存在であった。しかし、中山で行われたトライアルで、セン馬のレガシーワールドの2着に飛び込んできていた。レガシーワールドもこの時点ではあまり有名な馬ではなかったが、同じ故戸山師の下で訓練された「虎の穴」の同胞である。ブルボンにとって相手に不足はなかった。翌月の京都新聞杯では、ライスシャワーと再戦したが、しかし再びこれを退けた。既にブルボンに負ける要素は見あたらなかった。
 故戸山師は言った「ブルボンに12秒で走らせる」1ハロン12秒で駆け抜ければ、計算上は菊花賞3000Mは3分ジャストで終わるはずであった。この考え方は当時では突拍子もない考え方であった。長距離には長距離の走らせ方がある、と普通は考えるところを、200Mx15という風に考えるところが新しかった。かくしてミホノブルボンは生まれながらのマイラーという血統の背景を背負ったまま、未知の距離・長距離3000Mのレースを発走した。

 先行しようとしたミホノブルボンに、更に先行する馬がいた。キョウエイボーガンであった。前走の京都新聞杯で「逃げ」の主導権を争った相手である。初めて2番手でレースを進めることになったブルボンであった。後続には追走するライスシャワーの姿があった。1000、2000...今まで克服した距離が過ぎていく...2400を過ぎた。残り600Mは未知の距離であった。そして淀の坂を下り、息尽きたキョウエイボーガンを交わしたブルボンであった......だが、背後に迫っていた馬が一頭、ライスシャワーであった。今まで2度退けた馬である。今度も...と思った瞬間、軽やかにライスシャワーは先着を果たした。まるでエンジンの出来が違うかの如く。
 ブルボンはこのとき初めて負けた、3冠の夢も幻と終わった。しかし場内は新しい主役ライスシャワーと、「格」に敢然と立ち向かったミホノブルボンに惜しげもなく拍手が送られた。全てに燃え尽きて、ブルボンの4歳は終わった。

 ライスシャワーは後に春の天皇賞を勝っている、典型的なステイヤーであった。神が与えた能力=「格」に従って栄冠を得たライスシャワーに対して、神の思惑とは別に、神の領域に踏み込もうとしたミホノブルボンが、こうして何度も再戦したのは、偶然といえば出来過ぎているような気がする。「ダービーで終わった」「菊で燃え尽きた」と酷評されることが多いブルボンだが、無理からぬ事だと思う。厳しい鍛錬はあるいは競争生活を知らず知らず縮めていたのかもしれない。僚馬レガシーワールドもジャパンカップを快勝した後、「燃え尽き症候群」とでもいうような症状にかかってしまっている。ミホノブルボンは決して特別な馬でも何でもない、あくまでも自分の「格」に挑戦し続けた馬だった、ということは言えるのではないだろうか?

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■賢弟愚兄〜ナリタブライアンの兄、ビワハヤヒデ

 ビワハヤヒデ、キミは世間の人がどういう風に呼んでいるのか知っているのか?「顔のデカイ馬」「勝ちきれない馬」「緊張感の欠如した馬」そして極めつけは「ナリタブライアンの兄」。な?16戦10勝15連続連対していてもだ、そんな世評しかもらえないんだぞ。え?今更関係ないって...しかし、今は最大のライバル、ブライアンとの種牡馬競争があるんじゃないのか?まぁ、いい。キミに人生を傾けられた人たちの話をすることにしよう。

 平成4年、岸騎手は悩んでいた。キミに乗るか、エルウェーウィンに乗るか?どちらの馬もお手馬だったので、選ぶことが出来たんだ。結局、岸はキミを選んだ。エルウェーウィンは的場騎手が騎乗することになった。しかし、結果はエルウェーウィンの勝ち。3歳の年度代表の座を取ることは出来なかったね。次走の共同通信杯も結局勝てなかったので、岸は馬主のビワに睨まれて、以後騎乗依頼は全部、岡部のところへ行くようになってしまった。おかげで岸の信用はガタ落ち、それまでは「武豊の先輩」として売り出していたのに、それもさっぱりになってしまった。

 平成5年のクラシックはキミを入れて3強対決の年だったね。ナリタタイシン、ウィニングチケットだ。もしキミがマルゼンスキーが現役だった頃に生まれていたら、マル外扱いで、クラシックなんか出走できなかったんだから、マルゼンスキー先輩に感謝しておくんだね。そういえば柴田政人騎手の「ダービーを勝ったら辞めてもいい」なんて泣かせたよね。え?だから2着でやめておいた??? おいおい浜田師が泣くぞ。彼も苦労人で、クラシックは悲願だったはずだよ。なに?菊花賞を取ったからいいだろう?そういう問題か???ま、ボクはこの年はキミから買っていたから、あまり儲けもなかったけど、負けもなかったよ、その点は感謝している。ただグランプリのトウカイテイオーは予想してなかったよ。全部流しておけばヨカッタと悔やんでも悔やみきれないね。

 でも翌年は真面目に走っていたじゃないか?一部にはマイラーから中距離馬のキミとナリタタイシンで決まる春の天皇賞は面白くないとかさんざん言われたけどね、まぁその点は岡部騎手もインタビューで「マイルを2回やるつもりで乗りました」って言っているからそうなんだろうけど、どんな心境の変化なんだい? 何、弟の方ばかり注目を浴びるようになってきたから...ああ、ブライアンね。キミと違って朝日杯勝ったし、3歳年度代表になったし、顔もハンサムで引き締まっていたからねぇ...その点キミはどうも写真の映りが悪いというか...何というか... ま、でも男の価値は見かけじゃないからな、仕事さえキッチリこなしてくれていれば....

 秋のオールカマーでもウィニングチケットを退けて、同世代の中ではとりあえずNo.1ということを証明したけれども、それにしても最後の天皇賞...故障とはいえ初の着外。ボクの損害も甚だしかったよ...え?あのときも同期のネーハイシーザーに譲るつもりだった???ははーん、さてはジャパンカップか有馬記念でブライアンとぶつかるのを恐れて、わざと回避したなぁ...なんて奴だ、キミは。やっぱり「ナリタブライアンの兄」と呼ばれても仕方ないね、まったく。ま、でもその白いデカい顔はなんか憎めないねぇ...

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■稀代の大物〜ナリタブライアン

 「大物」を感じさせる...という言葉がある。名馬の仔が入厩してきたときなどよく使われる。また新馬戦で、印象が残るような馬には、こうした言葉が使われる。しかし、ビワハヤヒデにしろ、ナリタブライアンにしろ、果たしてこうした「大物感」漂わせた馬であったか?というとやや疑問が残る。連対実績を積んでいる兄に対して弟、ブライアンは簡単なことで負けるときがある。それは気性故のことなのか?あるいは母、パシフィカスが残す血が、そう感じさせるのか?それはよくわからないが、しかしシャドウロールを付ける日まで少なくともナリタブライアンは普通の馬であった。

 ナリタブライアンがクラシックへ出走する年(平成6年)、下北沢のとある酒場で馬主の秘書をしているというSと出会った。どんな馬の馬主かと聞いたら、「期待していたのに、これ以上もないくらい残念だと嘆いている」という謎掛けが返ってきた。要は「大物感」のある馬で期待していたのに、何かの事故で死んでしまった馬の馬主ということになる...さて...と閃いたのは一頭しかいないのだが、まさか?と思って答えた。
「ヤマトダマシイ?」
 正解であった。こうしてSに認められた私は、ナリタブライアンのクラシック第1戦を中山競馬場の馬主席で観ることになった。

 当日は私の連れMとSの連れYとで行ったので、馬主通行章が実は足りなかったのだが、なんでもシンコウの若旦那に都合して貰ったらしい。当時の名牝シンコウラブリイの馬主さんである。もちろん、お礼に出向いたことは言うまでもない。

 それにしても馬主席というのは、実に競馬場で一番「競馬を楽しむ場所」である。前面はガラス張りで直接ターフが見え、背面はすぐに窓口が並んでいる。決してレース直前に並んでも買いそびれる心配はない。後、競馬番組で観たことがある顔がごく普通に歩いているのには、やはり驚く。その日は木梨憲武も来ていたようだが、彼は馬主が座る席にいたので、仲のいい馬主から席ごと譲ってもらったに違いない。羨ましい話である。

 普段、私は競馬場ではアウトドア派なのだが、こうして優雅な雰囲気もいいと思った。しかし、Sに言わせると一番の問題は前面のガラスらしい。これがあるおかげで、「臨場感」がないのだそうだ。確かに蹄の音はするが、あれは一種の効果音であることに気づいている人はいるだろうか?外はPカンで晴れているが、もし木枯らしの吹く季節でも、この馬主席だけは安泰なのである。

 さて、レースが始まった。主役は当然ナリタブライアンであった。相手は前走カーブを曲がりきれず逸走したサクラエイコウオーを切って同じサクラならオープンを勝って初顔合わせの的場のサクラスーパーオーを抑えて当たり。Sは「エイコウオー」が来なくて残念と、よく馬券を見たら「スーパーオー」の番号であった。どうも買い間違えたらしい。不思議なことにグループ全員で当たっている。そんな幸運をもたらしたのも、ナリタブライアンの「大物感」なのかもしれない。

 ナリタブライアンはその後も南井鞍上でダービーを制した。この時は、府中の第1コーナーでの観戦であったが、期待を裏切らなかった。菊はどうするか迷ったが、雨降りの予想であったので、馬券だけに留めておいた。そして、有馬記念。この年はナリタブライアンの勝利の軌跡を追うかの如く競馬場に足を運んだ年でもあった。そしてブライアン絡みの馬券ではまだ負けてもいなかった。同じ4歳牝馬のヒシアマゾンとの12フィニッシュ。有馬記念に新しい歴史を作った。そして南井に引退までの最後の華を添えさせることが出来た。

 「シャドウロールの貴公子」という称号が与えられた。そういう名前も悪くはない。兄、ビワハヤヒデは弟と袂を分かつ戦いの前に引退してしまった。並み居る古馬も有馬記念を見る限り相手ではないし、牡馬にしてもヒシアマゾンより強い馬はいなかった。順風満帆の古馬ロードを走る予定であったが、しかしこうした「幸運」には魔が差し込むものである。5歳での不振、新たな若駒の勢力による突き上げ...次の年のブライアンはしっかり色褪せてしまった。鞍上の南井も足に大けがを負い、いつしか武豊が騎乗するようになったが、かつての勢いにはほど遠い日々が続いた。

 平成8年、天皇賞・春を目指す馬が前哨戦として走る阪神大賞典が土曜日の開催のメインとして行われた。このレースは現在では日曜日のメインであるが、それもこれもブライアンが見せてくれた執念の「復活劇」があったからだと思う。相手はマヤノトップガン。かつて天才と謳われ、そしてトウカイテイオーと共に復活した田原成貴鞍上である。対するブライアンには武豊が騎乗しての一騎打ちとなった。4コーナーを回ってからの差しつ抜かれつの直線勝負は「平成の名勝負」の名にふさわしい一戦となった。私の部屋にこの時の写真をポスターにしたものが飾られているが、土曜日のメインでも歴史に残る一戦になったことは、後にも先にもこれだけだろうと思う。そしてブライアンは燃え尽きて、競走馬から引退した。最後の高松宮杯については色々な意見もあると思うが、やはり競走馬である以上勝てないレースではどうしようもない。もう少し早く花道を作ってあげるべきだったかもしれない。

 そしてブライアンは土に帰ってしまった。あまりにも多くのドラマと共に、あまりにも早すぎる死であった。しかし春陽の中、真っ白なシャドウロールと共にゴール板を駆け抜けた皐月賞の日のブライアンを未だに忘れることが出来ない。それだけでも彼は名馬であり、そして十分に「大物感」のある馬であった。
 さようなら、そしてありがとう、ナリタブライアン。

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■日本人のメンタリティに見放された馬〜マヤノトップガン

 平成8年1月8日京都競馬場の新馬戦でマヤノトップガンはデビューした。武豊鞍上で結果は5着。この時の勝ち馬は後の桜花賞馬ワンダーパヒューム(四位騎乗)であった。その次の週、同じく京都競馬場ではビワハヤヒデの引退式を行った。多くの競馬ファンが前年の天皇賞以来のその姿に最後のお別れをした。そして2日後、阪神・淡路大震災が起こった。死者6425人、重軽傷者43772人、家屋全壊11万457棟、家屋全焼6982棟、その他40万棟が何らかの被害を受ける未曾有の大惨事であった。

 「がんばろう神戸」地元のフランチャイズ、オリックスブルーウェーブの選手はこの合い言葉の下に優勝を納め、震災から復興しようとしている神戸市民に明るい話題を提供した。マヤノトップガンの馬主も神戸在住で、冠名マヤノは神戸から見える摩耶山に由来している。その年の神戸新聞杯は震災で被害を受けた阪神競馬場ではなく、京都競馬場で行われた。結果はタニノクリエイトの2着。続く京都新聞杯にも出走、2番人気のまたもやナリタキングオーの2着。しかし、先行しても差しても器用に競馬をこなす、という印象はこの頃焼き付けられたような気がする。トライアルを二度使って2着に粘る姿は、同じ年レース中に消えてしまったライスシャワーに通じるものがあった。3度目の正直、淀の3000メートルをライスシャワーの記録を大幅に塗り替えて(3分4秒6)1着入線した。続く有馬記念ではナリタブライアン、ヒシアマゾンを相手にまたも勝利を納めた。神戸の「奇跡の復興」のシンボル、それがマヤノトップガンであった。

 さて、こうして鮮烈なデビューを果たしたマヤノトップガンだが、心情的に「好き」という話を聞いたことがない。勝ち味に遅い...確かに新馬戦から4走目で初勝利、その後500万条件で3戦を要した。最初の鞍上は武豊だったが、さすがに見放され、以後1回乗ったことがある田原成貴が主戦となった。4歳時の戦績は13戦5勝。しかしたとえばサクラローレルは4歳時に13戦4勝しかも重賞勝鞍無しである...が、確実にローレルの方にファンが多いような気がする。5歳になってからの不振はナリタブライアンにも通じる(互いに1勝しかしていない)が、しかし一方はヒーローのままこの世を去っている...この差は一体なんだろうか?

 何事にもそつなくこなしてしまう「器用貧乏」な面、そしてドラマ性に欠けるレース振り(確かに平成の名勝負、阪神大賞典の一方の名脇役であるが)、復活劇と呼べるものが今ひとつなかった...等々、日本人のメンタリティな部分にフィットしなかったおかげで、予期せぬ「悪役」をさせられているような気がする。確かに、マイラーなのかステイヤーなのかよくわからない体型で、突然勝ってみたり、ボロ負けしてみたりするものだから、ファンの心理としては「勝利の方程式を作ってくれ」というものが働いたに違いない。先行しても差しても行ける器用さは逆に負けたときの脆弱さとして目に映ってしまうのだ。5歳時の唯一の1勝、宝塚記念にしても、他の強豪馬がいない、鬼の居ぬ間の洗濯とばかりにタイトルを取ってしまったのも、やはり日本人のメンタリティが許さない。3強を形成したサクラローレルには、伝統のサクラ系列の華やかさと、豪快な天皇賞での差し切り、1年1ヶ月ぶりでも鉄砲駆けした中山記念など、絵になるシーンがいくつもあり、また小島太(現調教師)にロクな騎乗をしてもらえずタイトルに手が届かなかったという正当な 理由まで付いているし、マーベラスサンデーには武豊主戦で、条件特別戦から6連勝というシンデレラボーイであったとか、話題に事欠かないが、さてトップガンはどうであっただろうか?というと特に何もないのだ。屈腱炎で即引退を決めたのは別に悪いことではないが、それでターフから消えてしまうのは、やはりメンタリティが許さないのだろう。今更ながらも、実に損な役回りの馬であった、と言える。

 それでもG1は4勝。殿堂入りの条件は整ってはいたが、やはりメンタリティとしては納得がいかない、と思う人は少なからずいたはず。名馬としての実力を持っていながら、微妙に運に見放された馬の末路を見た思いがした。強い同期のライバルがもっといれば...(同期のダービー馬タヤスツヨシはどこへ行ってしまったのでしょう?)、何度も怪我に負けずターフに戻ってきていれば...真価を問われるようなレースで勝っていれば(平成の名勝負、とりあえず勝ちを譲ってしまいました)...悔やまれること数限りなく...けれどもしたたかに自分の子供達を増やすために画策しているようなそんな腹黒い妄想がとてもよく似合う、それがマヤノトップガンだとついつい思ってしまう。やはり主戦鞍上の田原成貴の強烈な個性がそのままオーバーラップしてしまったとしても、致し方ないだろう。

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■脚部不安と小島太に泣いた馬〜サクラローレル

 約1ヶ月前、パシフィカスの仔ナリタブライアンが3歳の頂点に達した同じターフで、1頭の良血馬(父・レインボークエストは凱旋賞馬)がデビューした。その名はサクラローレル、鞍上は小島太であった。しかし結果は9着。同じ月に2度までは新馬戦の権利があるが、それも使い果たし、同じ月に未勝利戦へ(しかもダート!)、ようやく1勝目を挙げた。ここからクラシックへ間に合わずには特別戦を勝たなければ...と府中の芝1600M春菜賞に出るが、6着。仕方なく中山に帰って自己条件で2戦して2勝目(しかもまたまたダート!)。皐月賞は諦めて、ダービーの権利取りで青葉賞へ出て3着、しかし脚部不安で秋まで休養を取らざるを得なかった。これを見てもわかるように、脚に負担の大きい芝では良績が残せず、ダートで勝ち抜く以外難しいローレルの脆さが浮き出ている。菊花賞を狙って、セントライト記念にも出たが8着でクラシックを棒に振ってしまった。仕方なく自己条件の900万下の特別戦(この辺り、境師のこだわり方が見えますね)に出て、ようやく淀のコースで3勝目をあげた。

 中山競馬場の冬至S辺りから私はサクラローレルという馬の存在を意識し始めたような気がする。当時の新聞でも「良血馬なのにこのクラスでウロウロするのはおかしい」という論調で評されていた。ただ鞍上は「あの」小島太だからムリもない...という見方を当時していたような気がする。脚部不安もあれば、鞍上も不安なのである。ただ境厩舎の期待馬であればあるほど、騎乗機会は小島太に回ってきてしまう。堺師にとって小島太は娘の夫、義理の息子なのである。下手だとわかっていても騎乗は回さざるをえない。一応ひょっとしたら1回も取らずに終わってしまうかもしれない日本ダービーだって2回取っている。まぁそれもこれもサクラの良血と境師の技術力の賜なのだが、本人は自分の実力だと思っている辺りが、またなんともほほえましい。

 冬至Sを快勝した後、同じ中山競馬場で金杯にも出場、見事勝利した。約1年前の開催で新馬戦で9着だった馬が重賞制覇したのである。クラシックに無縁だったローレルに天皇賞を...と考え始めた矢先、続くG2目黒記念では鞍上・小島太の騎乗ミスで2着、さらにまたしても脚部に不安(骨折)が見つかり、一転休養する羽目に...やはり府中の芝は合わないのだろうか?...と言いつつ、1年1ヶ月が過ぎた。その間に小島太は引退し、後進に道を譲った。境厩舎の主戦は横山典に変わった。この鞍上強化は願ったり叶ったりであった。

 その衝撃はローレルの復帰と共に始まった。3月の中山記念、9番人気であったが私の連れMは「来るで〜鉄砲駆けるで〜」とローレル馬券を握りしめていた。結果は1着入線。見事な復活劇であった。続く、天皇賞・春では同期のナリタブライアンを抑えての差し切り勝ち。続く秋の初戦オールカマーも快勝、天皇賞春秋連覇に夢をつなげたが...結果は4歳馬の幻のダービー馬、バブルガムフェローにやられて3着。主戦・横山典は1番人気になると実力を発揮できない騎手なのである。それでも小島太よりはいいかもしれないが... しかし、サクラローレルの陣営はジャパンカップを蹴って、復活の有馬記念に全力を注いだ。オグリキャップ、トウカイテイオーの名前を挙げるまでもなく、不振馬の汚名返上の場にもってこいであった。そして、勝利した。同じ年にサクラローレルは2度復活したのであった。私は連れMからサクラローレル単勝の馬券コピーを前祝いに渡されたことが忘れられない。

 境師は引退し、娘婿の小島太がその財産を引き継いだ。サクラローレルもその中のひとつであった。平成9年のサクラローレルはまず天皇賞春連覇が期待された...が、ライバルマヤノトップガンに後方から差され、連覇の夢は砕け散った。小島太はローレルを凱旋門賞に出したいと言った。まずは現地のG3フォア賞に出るという...鞍上は国際経験が豊かな武豊に決まった...が1番人気に推されながらも結果は8着、惨敗であった。小島太はそれでも凱旋門賞に拘った...しかしローレルの脚下はそれを許さなかった...こうして、小島太と脚部不安に翻弄されて、サクラローレルの競走馬生活の幕が閉じた。

 ローレルが引退してまもなく、天皇賞でタイトルを競ったマヤノトップガンも引退した。JRAにとって、スターホース不在と言われるようになったのは、実にこの辺りからではなかっただろうか?競馬にIF(もしも)は禁物かもしれないが、もし小島太が主戦でなければ、もし脚下がもっとパンとしていたら、世界のスターホースになれたかもしれない...実に幸運の星から見放された、悲劇の馬・サクラローレルであった。

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■波乱の運命を駆け抜けた女傑〜エアグルーヴ

 エアグルーヴ、その言葉の響きから弾け出しそうな躍動感が感じられるのは何故だろう?Grooveというのは、もともと木の年輪、木目の意味らしいが、レコードが発明されてからは、レコードの針の溝のことも意味するようになり、更に転じて音楽を奏でる奏者に対する賛辞の言葉になった。「絶好調、脂の乗った、弾け飛ぶような」音楽を奏でるアーティスト、それがキミの名前の由来だ。冠名Airと組み合わせると、大気の中を弾け飛ぶように駆け抜ける馬という意味になるかな。
 初夏の札幌、抜けるような高い空の下、キミはデビューした。但し結果は2着。でも、最初の思惑通り、差しのレースに徹したね。次走は同じ月の新馬戦。今度は逃げを打って1着。とりあえず夏のレースは恙なく終了した。この戦い方は、ボクのよく知っている馬によく似ている。バブルガムフェロー、NIFTYのペーパーオーナーゲームで選んだ馬だ。デビュー戦は差して3着、2戦目で逃げて1着。まぁ、同期の彼のことはひとまずおいといて、クラシックを陣営が意識し始めた頃から話をしようか。
 府中のいちょうS。重賞でなくここを選ぶところが渋い。上がり36.0。平凡ながらも府中コース初見参は勝利に終わった。ちなみにこの時の2着馬は後に牡馬クラッシクを賑わせたマウンテンストーンだったね。さぁ、ここまで来れば賞金的に阪神3歳牝馬Sに出るしかないよね。重賞勝ちのないキミは3番人気。でも、その方がよかったかな?鞍上はキネーンだったし。でも終始2番手で回って、結局ビワハイジを捕らえきれなかった。上がり34.1は生涯2番目の速さだというのに!
 そのビワハイジと再び同じコースで相まみえることになったのは、チューリップS。鞍上はペリエに代わって、3ヶ月間の調教の成果を見せつけたね。ビワハイジに5馬身差!阪神3歳牝馬よりも0.8も速い持ち時計(1.34.2)で決めてくれた。圧勝、というのはこういうのを言うんだね。ただ、これが生涯のマイル戦の最後になるとは、夢にも思わなかったけれども...
 桜花賞を迎えた週、熱発でやむなく回避。クラシック3冠も手が届きそうな矢先の魔が襲いかかったね。でも、何としてもクラシックを目指した陣営は、オークスには万全の体調で臨ませてくれた。1番人気の1着入線。桜花賞馬ファイトガリバーも頑張ったけど、11/2馬身後方だった。鞍上は武豊。彼と共にウィニングロードを歩むことになって、本当によかったと思う。母、ダイナカールと母娘2代オークス制覇、と新聞は褒め称えてくれた。
 でも魔は至る所に潜んでいる。秋華賞に臨んだキミは1番人気にも関わらず10着敗退。生涯で唯一掲示板に載らなかったレースだった。原因はパドックでのフラッシュによる入れ込みとも言われたけど、陣営の期待が大きかった分、やはり重荷だったのだろうね。骨折も発症していたので、ここで長い休みを取ることになった。
 明けて6月、すっかり体調を整えたキミは武豊を鞍上に迎えて、こっそりと牝馬限定重賞に出ていた。マーメイドS。当然1番人気に応えての1着入線。稍重だったので、時計は平凡どころか少し悪かったけどね...続く復帰2戦目は札幌を選んだ。やはりゲンを担いだのは正解だったのか、ここも1番人気に応えることが出来た。時計も絶好調時に戻ってきている感じだったよね。
 そして古馬最高の栄誉、天皇賞(秋)に挑んだよね。でもこの時のメンバーで、ボクの応援していた「同期の彼」バブルガムフェローがいたから、心境は複雑だった。彼も4歳春のトライアルまでは順調に来ていながら、故障でクラシックを棒に振ってしまった口だよ。今でも「幻のダービー馬」とボクは呼んでいるけど、フサイチコンコルド(96年のダービー馬)にだって、負けてはいないと思うんだ。そして、いきなり天皇賞を4歳で獲ってしまった。そう、彼こそがディフェンニングチャンピオンで、2年連続秋の天皇賞を虎視眈々と狙っていたんだ。当然の1番人気、横綱相撲とも言うべき競馬をしている彼の後方から、キミは矢のように飛んできて馬体を併せて...そして抜き去った。1.59.0...最高の持ち時計で古馬の頂点に立ってしまった。ボクの彼の方は馬群を捌けず、惜しくもクビ差。でも負けは負けだ。初のG1勝利が天皇賞なんて、こんな素敵なことはない。
 それからのキミは牡馬に混じって気を吐く「女傑」として、馬券になるレースを続けてくれた。翌月のジャパンカップではキネーンのピルサドスキーの2着、有馬記念ではシルクジャスティス、マーベラスサンデーに続く3着。こうしたG1戦線に華を添えた活躍に報いる形で、キミに年度代表馬の称号が与えられた。サクラローレル、マヤノトップガンの2強が去り、勝ちきれないマーベラスサンデー、バブルガムフェローという牡馬達を見渡してみれば、やはり当然の結果かもしれない。
 翌年、6歳のキミは大阪杯から始動、宝塚記念を目指したけれど、南井鞍上のサイレンススズカの3着に終わってしまった。翌月、体制を整えるべく、ゲンのいい札幌へ飛び立った。札幌記念を連覇して、牝馬としてのNo.1を賭ける勝負に出た(鞍上は横山典)。しかし、5歳の若い牝馬2頭、メジロドーベル、ランフォザドリームを交わすことは出来なかった。そろそろ限界か?という声も出る中、中1週で府中へ飛んだ。ジャパンカップでの激走、しかし今年凱旋門賞に出たエルコンドルパサーの2着という結果に終わった。3着はその年のダービー馬、スペシャルウィーク。しかし、「女傑、未だ健在」を示す素晴らしいレースだった。
 翌月、有馬記念でグラスワンダーの5着に終わり、競走馬としての生活を終えたね。19戦9勝、牝馬ながらに牡馬の一線級と常に互角に戦った実績もさることながら、97年の有馬記念〜98年宝塚記念〜98年有馬記念のグランプリ人気投票3回連続1位というのも、たくさんのファンの心に刻まれた素晴らしいレース振りが評価されたものだと思う。今、肌馬として供用されていると思うけれども、いつの日か、ダイナカールから数えて親娘3代オークスを獲るような娘を出してくれるだろうし、親子2代制覇の天皇賞を獲るような元気のいいやんちゃ坊主を出してくれてもいいだろう。どちらも決して夢ではなく実現できると、ボクは期待しているよ、エアグルーヴ♪。

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■短距離界で「一流」を目指した馬〜タイキシャトル

 クラシックという言葉がある。牡馬クラシックは皐月賞2000M、ダービー2400M、菊花賞3000Mである。ここに古馬の最高の栄誉を送ると言われる天皇賞をダブらせてみる。春が3200M、秋が2000M。グランプリ宝塚記念は2200Mであり、有馬記念は2500M、そして海外G1のジャパンカップは2400Mである。そう、その馬が一流であるということを示すには、2000M以上の距離をこなす必要があったのだ。そうした血族を形成していくたゆみない作業が、競馬のひとつの側面を作っている。
 一方、2000M未満の距離を専門に走る馬たちがいる。1200Mならスプリンター、1600Mならマイラーと呼ばれ、クラシックディスタンスとは一線を画してきた。彼らは「一流」ではないのか?いや、決してそうではない。しかし、クラシックディスタンスという揺るぎない歴史の流れがある以上、スピードを信条とする短距離競馬は今までは亜流と思われてきた。しかし、ここに一頭の馬が現れて、そうした評価に一石を投じた。その名はタイキシャトル。
 タイキシャトルは4/19にデビューした。既に皐月賞は終わっている。時の皐月賞馬はサニーブライアンであった。翌月の自己条件もとりあえず勝ったが、この2戦はダートである。そして3戦目の初芝のレース「菖蒲S」、既に日本ダービーもサニーブライアンが勝ってしまって、一番人気のないダービー馬が現れた翌週である。希代の快足馬、サイレンススズカはクラシックには出ていたが、生来のカカリ癖で、自分のレースが出来ていなかった頃でもある。タイキシャトルはクラシックに関係なく、自分の道を歩んでいた。
 藤澤厩舎、大樹ファーム、そして岡部のユニットが作った最高の傑作、タイキシャトルは秋の初戦ユニコーンSを快勝した。ただしダートである。しかし5戦目でG3奪取なのだから、普通に考えればすごいことである。続く秋の2戦目は中2週でスワンSを選んだ。これは横山典に手代わりしたが、またも快勝した。そう、芝もG2も関係なく勝った。そして、マイルチャンピオンシップ。あのサイレンススズカも出ていたけれど、カカリ癖で自爆している。下馬評ではジェニュインの2連勝という声もあったが、フタを開けてみれば7走目の4歳馬、タイキシャトルの勝利であった。そして冬のスプリンターズS、重賞で初めての1番人気、そして勝利。手綱は岡部にいつしか戻っていた。4月のクラシックに乗り遅れた馬が、年末までの8走で、G1・2勝馬になってしまったのだ。この年の最優秀4歳牡馬はサニーブライアンであったが、タイキシャトルに入れた記者が何人かいたらしい。いや、その程度の評価しか受けないのだ、短距離馬は...しかし、タイキシャトルは大きな仕事をするために翌年春から始動した。
 京王杯を何なく勝って、週末の雨に次ぐ雨でぐしゃぐしゃの府中で行われた安田記念も快勝。既に日本でタイキシャトルに勝てる短距離馬はいなかった。そして、タイキシャトルはジャック・ル・マロワ賞(G1)に出て、1番人気となり、そして勝った!その前の週は武豊&シーキングザパールのコンビが海外G1を征していたので、負けるわけにはいかない一戦ではあったが、しかしこの1勝は価値が大きかった。
 大川慶次郎は「シャトルは天皇賞に出るべきです」と言った。かつて名マイラー・ヤマニンゼファーもマイルチャンピオンシップを捨てて、天皇賞を目指し、そして勝った。「優秀なマイラーは2000Mをこなすことが出来る」ということを証明した。だからタイキシャトも天皇賞を勝って、勇躍名馬の仲間入りをすべきだ、という主張はあながち間違いではない。しかし、タイキシャトルは敢えてマイルチャンピオンシップを選んだ。そして2年連続のチャンピオン、春夏マイル戦のNo.1、という称号を送られたのだ。ここまで実に8連勝。もはやタイキシャトルを倒す馬はいないかに見えた。
 しかし、魔はいつも絶頂の時に訪れる。続くスプリンターズSで花道を引退する予定であった...が、まさかの敗退。馬券になるレース(3着なので複勝は生きている)ではあったが、しかし岡部の顔に迷いはなかった。13戦11勝、短距離に拘り、短距離に徹したその生き様は、それまでの競馬界の常識に挑戦したモノであった。年末、年度代表馬の選定にあたって、ハクリョウ以来はじめて短距離馬が選ばれることになった。短距離馬でも「一流」の列に加わることが出来る、それを教えてくれたような気がする。しかし、その影で希代の快足馬サイレンススズカが天皇賞で故障を発生し自滅したことも覚えておく必要があるだろう。あるいは彼がいたからタイキシャトルはマイルに徹することが出来たかもしれないのだ。無事是名馬、とは昔の人はよく言ったモノである...もしサイレンススズカが故障なく天皇賞を勝っていれば、その年の年度代表馬は間違いなくサイレンススズカだったのだから...

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