加賀藩資料からみた赤気攷
酢谷琢磨
(注)詳細は令和6年12月04日発行『石川郷土史学会々誌』第57号を参照下さい。
1. はじめに
2024年5月11日午後8時10分頃石川県柳田星の観察館「満天星」で、赤と紫に染まった星空、即ちオーロラと見られる現象が観測された。翌日の新聞では
「能登でオーロラ!?」と報道されたが、疑心暗鬼の報道はさて置き、我が国では『日本書紀』、『明月記』に「赤氣」として記録があり(『日本天文史
料』『日本に現れたオーロラの謎』)、金沢では『加賀藩資料』にその詳細が記録されている。諸橋『大漢和辞典』で赤氣(せきき)は「赤い色の雲氣。空
にたちこめたる赤い陽氣」だが、オーロラとしての本論では、慣用読みである赤氣(せつき)とルビし、これについて論考する。
2. オーロラ(Aurora)
Auroraはラテン語「曙の女神」由来の「極光」を意味する(『羅和辞典』)。極地の夜空を彩るオーロラは、地球磁気圏、すなわち太陽からのプラズマ
流によって地球の磁場が閉じ込められた領域、から磁力線に沿って降り込む電子や陽子によって電離層の酸素原子、窒素分子、窒素分子イオンなどが励起
され発光する現象である(『理科年表』)。しかも、このオーロラは極地に見られる如く一般的には緑色なのだが、発光高度により励起される分子イオン
の差異であろう、赤、緑、ピンク等色鮮やかな光が発生する。極地に比べて我が国のような低緯度地帯では、オーロラの高い高度の赤い光のみ観測できる
ので(「ヤムナスのオーロラ完全ガイド?オーロラ爆発と磁気嵐」)、これを赤気と表現した。中国では、諸橋『大漢和辞典』の引用文献である『北齋書』
神武紀上に「焦赤氣赫然屬天」とあり、この赤氣はオーロラを意味していると思われるが、中国北斉は550ー577年とのことで、我が国における記録との整
合性はない。
3. 『日本書紀』赤気
日本最初の赤気の記録は、『日本書紀』推古天皇28年(620)に次のような記載がある。
十二月庚寅朔、天有赤氣。長一丈餘。形似雉尾
即ち、ユリウス暦で620年12月30日、空に赤気が現れた。長さは3m程で、形は雉の尾に似ていたとのこと。この時の記録ではないのだが、1770年尾張藩士
高力種信が描いた国立国会図書館所蔵「猿猴庵随観図絵」には赤と白の縞模様で空中高く伸びる赤気の図がある(岩橋清美「極地」)。
推古天皇28年にも恐らく「猿猴庵随観図絵」の赤気が現出したものと思わ
れる。
4. 『明月記』赤気
その後の記録は、藤原定家の日記である『明月記』元久元年正月十九日(ユリウス暦1204年2月21日)の記載であり、次のように書かれている。
秉燭以後北并艮方有赤氣、其根ハ如月出方、色白明、其筋遙引如焼亡遠光、白色四五所、赤筋三四筋、非雲非雲間星宿歟、光聊不陰之中、
如此白色赤光相交、奇而尚可奇、可恐々々、
秉燭(ひようそく)(夕刻)以後北並びに艮(うしとら)(北東)の方向に赤気が現れた。その基部は月の出の如く色は白く明るく、その筋は遠くの火災の
如く遙かに続く。縦の白色の筋は四五本、赤い筋は三四本。雲に非ず何故ならば雲の間に星座が見える。この間光は聊(いささか)も陰らず、こ
の白色赤光相(あい)交(ま)じわる如く。奇にして奇なるべし。恐るべき恐るべき、
即ち、赤と白の筋が四五本立ち並び、恐怖に怯え、神楽をあげ、或いは念仏を唱えて生きた心地がしなかった様だ。
5. 江戸時代赤気
時代は下って、江戸時代のオーロラ有力候補は以下のようになる(『近世日本天文史料』、岩橋清美「極地」 )。
・寛永8年4月16日(1631年5月17日)
観測場所:宮城・京都・福岡
・寛永12年7月26日(1635年9月7日)
観測場所:山形・東京・山梨・新潟・京都・長崎
・寛永14年12月28日(1730年2月15日)
観測場所:青森・山形・秋田・石川
・元文2年11月26・27日(1737年12月17・18 日)
観測場所:秋田・山形・金沢・東京
・明和7年7月28・29日(1770年9月17・18 日)
観測場所:北海道・青森・岩手・山形・宮城・福島・茨城・東京・山梨・静岡・長野・愛知・岐阜・新潟・福井・石川・京都・奈良・大阪・和歌山・三重・
兵庫・広島・鳥取・福岡・長崎・宮崎
・安政6年8月6日(1859年9月2日)
キャリントン・イベント
赤気の特定には、異なる二つの場所で記録があることを基準としているようで、金沢又は石川の公式記録としては享保14年12月28日、元文2年11月26・27日、
明和7年7月28・29日の三例である。
この三例について『加賀藩資料』を繙いてみよう。
6. 加賀藩資料赤気
・享保十四年十二月廿八日。紅氣を現ず。
〔可觀小説〕と記載されたその補足説明を現代文で読み下そう。
西北より東北まで横に紅気が現れた。その色は火の色ではなく、焦げ茶色であり、午後7時又は8時頃は薄く、真夜中は濃く、午前3時から5時で徐々に消えた。
金沢よりは能登の方向に当たるため大火かと思われたが東北の隅が甚だ長く、且つ紅色の中に星が輝ける故に、火災でないことを知った。
即ち、享保期では紅気と表現し赤気は使われていないが、赤気であった訳だ。尚、岩橋清美「極地」には石川とあるが、これは、石川広範囲に確認できたから
であろう。
・元文二年十一月廿七日。金澤の東南空に赤氣を望む。
〔護国公年表〕、6代吉徳(よしのり)の年表記事を読み下す。
11月27日暁金沢にて東南の方向甚だ赤く、西北へも朱(黄ばんだ赤)が拡大する。28・9日にも日の出の頃通常ではない赤気。29日13時より南風激しく午後7時
又は8時頃には止む。この風の故かとも思われたが、風の後も赤気は止まず。尚、今月27日以来暁東南に赤気出ることは上方でも甚だしく、江戸でも暁天赤気甚
だしい。
・明和七年七月廿八日。天裂見ゆ。
この年の赤気は日本で見えた記録の内最も著しいもので、各地にわたって現れた。『加賀藩資料』では先ず〔政隣記〕の引用なので、『津田政隣 政隣記』を読む。
廿八日 天裂江戸・金沢同時ニ見ゆる、今年夏暑気甚、諸国共百日旱ト云々、天裂享保十二年十二月廿七日有之ト云々、
28日天が裂ける現象が江戸と金沢同時に見える。今年の夏は甚だ暑く、諸国共百日旱魃とのことし天裂享保12年12月27日にも見られたと伝えられている
尚、享保12年12月27日にも見えたとあるのだが、『日本に現れたオーロラの謎』および岩橋清美「極地」には該当しないので享保14年12月28日の間違いと思われ
る。又、享保14年12月28日と元文2年11月27日の赤気について『津田政隣 政隣記』には記載は無い。
〔泰雲公御年譜〕、十代重(しげ)教(みち)の年譜記事を読み下す。
この歳7月28日夜東北に赤気見える。夜に至り盛んになり、暁天には赤気の中程に星が燦然と見える。是は古より天裂の類いにして、赤気初めの形は円周の如く
である。夜半には光芒の如く、夜明け前には徐々に薄くなり、夜に至り消滅する。
即ち、最初は円形であるが、深夜にはススキの如く筋状となり、朝には消える。『明月記』記述の如く、赤と白の筋状の赤気を金沢で観測できたようだ。岩橋
清美「極地」には石川とあり、石川の広い範囲でも見ることができたと思われる。
尚、寛永8・12年と安政6年の赤気については、『加賀藩資料』で言及はない。
7. おわりに
岩橋清美「極地」で赤気が石川・金沢で観測できたとする論拠は『加賀藩資料』の記述に合致することを論述した。即ち、石川・金沢で赤気(オーロラ)を見る
ことができた訳である。
資料請求に快く応じて頂いた金沢大学附属図書館中央図書館・石川県立図書館司書にお礼を申し上げます。
文献
坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋『日本古典文学大系 日本書紀 下』岩波書店、1965
図書刊行会編『明月記』第一、図書刊行会、1911
神田茂『日本天文史料』丸善、1935
片岡龍峰『日本に現れたオーロラの謎 時空を超えて読み解く「赤気」の記録』化学同人、2020
財団法人前田育徳会『加賀藩資料』第六、八編、清文堂出版株式会社、1980
諸橋轍次『大漢和辞典』巻十、大修館書店、1976
田中秀央編『羅和辞典』研究社、1986
国立天文台編『理科年表平成一七年版』丸善、2012
「ヤムナスのオーロラ完全ガイド?オーロラ爆発と磁気嵐」https://auroranavi.com/Aurora/breakup.html
李百藥撰『北齋書』臺灣商務印書館、1981
大崎正次編『近世日本天文史料』原書房、1994
岩橋清美「極地」第五四巻第一号、2018
高木喜美子校訂・編『津田政隣 政隣記』従宝暦十一年到安永七年、桂書房、2015
Last updated on Dec. 04, 2024.