元亨釈書泰澄伝攷ー井野原は白山市鴇ケ谷井ノ原神社

酢谷琢磨

(注)詳細は平成29年12月1日発行『石川郷土史学会々誌』第50号を参照下さい。

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1. はじめに


 本年は白山(2702.2m)開山1300年であり、各種行事が開催されている。この1300年の根拠は、『加能史料奈良・平安T』による。この史料には引用された『元亨釈書』、『泰澄和尚伝』等 が掲載されている。
 一方、昨今はWEB版国立国会図書館デジタルコレクション『元亨釈書』、国文学研究資料館『和解元亨釈書』を容易に読むことが可能となり、『元亨釈書泰澄伝』の解読は完結したかの 感がある。しかし、『大日本佛教全書元亨釈書』を含め種々の『泰澄和尚伝』を読むと難解及び疑問箇所が残存している。
 そこで、本論は最初に『元亨釈書』における二、三の難解箇所の考察を行う。次いで、従来福井県勝山市猪野付近とされた井野原は石川県尾口村(白山市)鴇ヶ谷井野原神社説を提言する。

2. 元亨釈書


『元亨釈書』国立国会図書館デジタルコレクション
 白山開山については、和銅元年(708)、霊亀2年(716)、養老元年(717)説等がある(『白山比盗_社史』)。和銅元年説の根拠は、『続続群書類従神祇霊應記』における、
  和銅元年 白山 嶺 鎮座 於 白山 有 七名 であるが、泰澄の名前は瞥見できない。霊亀2年説は『越前平泉寺縣社白山神社由緒略記』に銘記されている。しかし、福井県白山神社蔵版『泰澄和尚傳記』(以後、「白山泰澄伝」と略)、神 奈川県称名寺所蔵『泰澄和尚傳』(以後、「称名泰澄伝」と略)を読む限りでは養老元年説に与していると考えられる。
 即ち、諸説あるが養老元年説の典拠は多く、最も流布していると言える。『加能史料』における霊亀3年・養老元年「是年、泰澄、白山を開くと伝える」であり、白山開山1300年の根拠となっ ている。
 『加能史料』が第一義に参照するのは『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』であり、この作者は、虎関師錬(こかんしれん、1278ー1346)である。虎関和尚は『元亨釈書』を『大蔵経(だいぞう きょう)』に入れて天下に流伝されることを請い、一旦は拒否されるも延文5年(1360)に認められ『大蔵経』に採録された(『原本現代訳元亨釈書』(以後、「原本版」と略。巻14で終了)。
 但し、金沢大学附属図書館蔵暁烏敏文庫『大正新修大蔵經索隠』には収められていない。この理由は、『元亨釈書』が「歴史書」でありながら、多くの説話を取り入れていることへの批判( 「原本版」)があったようだ。しかし、後述する『大日本佛教全書元亨釈書』(以後、「大日版」と略)では、日本高僧傳要文抄3巻、日本高僧傳指示抄1巻、三國佛法傳通縁起3巻、南都高僧傳 1巻と共に、元亨釋書30巻が収められている。
 その他、『元亨釈書』には、国史大系『元亨釈書』(以後、「国史版」と略)、国立国会図書館デジタルコレクション『元亨釈書』「泰澄伝」(以後、「国立版」と略)及び『和解(わげ)元亨 釈書』(以後、「和解版」と略)が存在する。
 一方、「称名泰澄伝」、石川県尾口村家所蔵泰澄伝(以後、「尾添泰澄伝」と略)、「白山泰澄伝」、福井県丹生郡旭町越智神社所蔵本等で知られる『泰澄和尚傳』も存在する。これ等につい ては『元亨釈書』が教本だった、及び『泰澄和尚傳』を基に『元亨釈書』が書かれたとの諸説が存在する(『総合研究白山ー自然と文化』)。しかし、『白山平泉寺』による天徳元年(957) 『泰澄和尚傳』成立説もあり、後述する如く、『泰澄和尚傳』には追記箇所があると考えるので私は『元亨釈書』教本説を採る。
 従って、本論では、『元亨釈書』「国立版」を基本として論述する。

3. 泰澄誕生


 「国立版」は第15巻中途より始まる。
  釋泰澄姓三神氏越之前州麻生津人ナリ父安ス角母伊野氏ナリ夢白玉入懐而有孕白鳳十一年六月十一日生時白雪降落庭宇皚皚タリ産屋之上積リ寸餘及五六歳不交児輩ニ不遊??百戯喧巷衢ニ未曽出見 唯以泥土ヲ作佛像ヲ以草木搆堂宇ヲ或采花水ヲ合掌供献卒當戯娯持統六年道照和尚遊化ス北地ニ適投三神氏忽見小童ヲ頭現圓光覆以宝蓋ヲ昭独見餘ハ不能見照驚告父母ニ曰此児神童也加敬育ヲ
  釋泰澄、姓は三神氏、越前国麻生津(あそうず)の人なり。父は安角(やすずみ)、母は伊野氏なり。白玉が懐に入るを夢見て懐妊。白鳳一一年六月一一日出生。時に雪が降り屋敷と庭を白くし、 産屋の上に一寸余り積もった。釋泰澄は五、六歳に至り子供達と交わらず、町で遊ばず、種々の芝居や見世物で騒がしい巷に現われず、唯泥土を以て仏像を作り、草木を以て堂屋を作った。或は、 花水を採り、合掌し、供物を献げ、正に遊び娯楽を行なわなかった。持統六年(692)道照和尚北陸に遊化(ゆげ)。偶々神氏宅に宿泊。釋泰澄を見るや否や頭上に現れた円形の光は宝玉で飾った天蓋 を以て覆われているのを見る。明らかに他とは異なっていて見たことが無い。道照は父母に驚いて告げた。曰く「この子は神童也。真心を込めて育てよ」。

4. 麻生津


『都市地図福井県1、福井市』
 麻生津を『都市地図福井県1、福井市』で見ると、図の如く福井市から鯖江市に至る福井鯖江線の泰澄の里駅前に麻生津小学校があり、付近の町名は。近くには泰澄寺が存在する。これに対して、 『北國新聞』では泰澄石川県人説が紹介されている。前述の如く、『元亨釈書』説話説は存在するのだが、現在まで明確に福井県に麻生津は現存するので泰澄石川県人説は牽強付会であろう。次に、 卒當戯娯の卒について論考する。

5. 卒と率


 「国立版」は卒と書かれているが、「加能版」では「率當戯娯」、「大日版」は「率當戯娯」、「国史版」は「率(ヲフム子)當戯娯」。「和解版」は、合掌(ガッショウ)シテ供(ソナ)へ献(たてまつる) 戯(タハム)レトシ娯(タノシ)三ノ態(ワザ)トセリ」。意訳である。即ち、「国立版」、「和解版」を除いて全て率を用いている。読みは何れも「そつ」とも読める。
 「卒」の意味は『康煕字典』では、
説文 隷人ノ給スル事ニ者。
疏 終リ盡ル也。
とあり、『字統』は、「字は死卒の意で、卒とはその卒衣」と記載されている。即ち、「おわる」意味に転じ、「卒業」は正に「業を終る」である。
 これに対して「率」は『康煕字典』で、
説文 捕ル鳥ヲア畢ミ也。
玉篇 遵(シタガフ)也。
とある。『字統』では「鳥網の形で、水をしぼる意で、強くしぼることからの意となり、の意となる」とあり、「ひきいる」、「したがう」意味で、漢音で「シュツ」である。兜率天(とそつてん)の 兜率は梵語でtusita。つまり、「トゥシタ」の音写で兜率と漢約されたのだが、我国では慣用読みで「トソツ」と発音した訳である。
 泰澄は花水を採り、合掌し、供物を献げたのだから戯娯に従ったのではなく、戯娯を終わった。すると、同じ読み「そつ」だから「卒」を「率」と書いたのは原本及び写本の誤字、誤植であり、 「国立版」の卒が正鵠を得ている。
 しかし、「国立版」に関しても、卒當戯娯は、「卒戯娯に当す」となり、奇妙である。是は一ニ文の誤記入と推量される。私の提案は、卒ス當ニ戯娯ヲである。「正に戯娯を卒す」。

6. 賛


 『元亨釈書』の作者は、虎関師錬と前述したが、『元亨釈書』30巻は3人で協力して編述されたものという説もあるという(『原本現代訳元亨釈書』)。即ち、主要な部分とされる「伝」は、凝然と 固山の手によるものであり、虎関師錬は「資治表」、「志」、「賛」とを著作したに過ぎないとも言われている。『元亨釈書』第15巻にも賛が存在する。賛には、
  天徳二年浄蔵門人神 受口授作傳蔵公靈
  應愽究思之所聞不妄矣今之撰纂者釆諸傳焉
  天徳二年(958)浄蔵の門人神 口授を受け伝を作る。浄蔵公霊妙な感応により広くはかり考えた。思うにこの聞く所はでたらめの筈がない。現在の撰纂者はいずれの諸伝を採用したか。興 とある。先ず問題は神 の「 」である。この字は「国史版」、「大日版」、「国史版」、「和解版」も全て「興」となっている。妙と思われ、文献を渉猟する内うち『難字大鑑』の添付記事に遭遇。即ち、「 」は興の略字なのである。
 尚、「国立版」における「愽」については「大日版」では「博」となっているので、博が正しいと考えられる。 又、『泰澄和尚傳 白山縁起』では神興等と記載されている。前述の如く、この追記が『元亨釈書』教本説に与する根拠である。

7. 論


 『元亨釈書』第15巻には論も存在する。論には、
  泰澄感悟スト密乗ヲ中略)李唐開元四年善無畏始至七年ニ
  金剛智継来ル二師初傳蜜教(中略)而後世澄海二師?漫
  衍ルカ乎(中略)漸至貞元澄桃海李敷榮蔭森子何疑乎
  泰澄は密乗を感悟した。(中略)李唐開元四年(716)善無畏始めて我国に至る。7年に金剛智が次いで来朝。この二師始めて蜜教を伝える。後世をして澄海2師分かれてするか。その後貞元に至り澄桃海李茂り栄え森を覆う。学徳者は何を疑うか。
 先ず、「?」については「大日版」では「派」と記載されているので、派即ち分かれる意である。尚、「国史版」、「加能版」では支?と記載されているが、支派の誤りであろう。
 次に、澄海二師及び澄桃海李であるが、いきなり澄海二師とあり、澄桃海李も不明。澄は泰澄とすると意味不明。海李は梅李の誤記載かとも考えたが、WEB「和解版」を見て納得。「和解版」は解像度が悪く読み難い。しかし、僅か澄海の添え書きに 最澄空海と読める。即ち、最初の二師は、善無畏・金剛智なのだが、澄海二師は最澄・空海を意味する。虎関和尚は中国史書に造詣深く、史書における名前の2字目で呼称する範例に倣ったようである。桃李は門人であり、兄弟の例え(『角川大字源』)。最澄・ 空海は甲乙付けがたい高僧だと論じている。

8. 泰澄登白山天嶺絶頂


越知山(国土地理院25000分の1地形図越前蒲生より抜粋)
 難解箇所を考察したが、最後に泰澄の白山開山記事を確認する。『元亨釈書』第18巻では、
  初泰澄法師棲ム越前州越知峰ニ常望白山曰彼雪嶺必ス有靈
  神我當登彼乞顯應(中略)養老元年四月一日澄往白山ノ
  麓大野ノ隈クマ筥河ノ東伊野原ニ乃專心ニ持誦ス時ノ前所夢天女
  現メ身曰此地大徳之母産穢之所ナリ非結界之地此東ノ林泉ハ吾
  所遊止メル也(中略)澄乃登テ白山ノ天嶺絶頂居黒ノ池ノ側ニ
  持誦專注ナリ忽九頭ノ龍出池面
  始め泰澄法師越前国越知峰(おちみね)に住む。常に  白山を望み、彼曰く「雪峰必ず霊神有り。我正に白山に登り応験(行ったことに応じて現れるしるし)を乞う」と。(中略)養老元年(717)4月1日泰澄は大野郡の端、筥(はこ)河の東伊野原へ行く。そこで、 専心持誦する。先日夢の中に現われた天女曰く。「此の地は貴方の母の産穢の地であり、結界の地(仏道修行の障害となるものの入ることを許さない地)には非ず。此の東の林泉は吾遊行を止める所也」と。(中略)泰澄かくて白山の天嶺頂上に登り、翠(みどり) が池(いけ)畔に至り持誦専注した。すると忽ち九頭龍が池面に現われた。
 泰澄は福井県越知峰に住んだ。越知峰は現在の越前市三国に近い越知山(613m)であることは間違い無い。山頂から白山の山並みを一望できる(『福井県の山』)。現在山頂付近には越知神社奥の院が鎮座する。即ち、泰澄は山頂から白山を遥拝したことになる。
 さて、泰澄はこの白山に登ろうと決意する。泰澄はどのルートを選択しただろうか。現在の白山比盗_社を加賀馬場とする加賀禅定道、吾遊びを止める林泉は平泉寺御手洗池だとし、平泉寺白山神社を越前馬場とする越前禅定道、長滝白山神社を美濃馬場とする美濃 禅定道が候補である。美濃馬場にも泰澄伝説があるとのことだが、越前市三国から岐阜に迂回するルートは一般的には有りえない。
白山『山と高原地図白山・荒島岳』昭文社よち抜粋
 次に、泰澄の母の里猪野近辺を「いのはら」と呼称したとの『勝山市史』記載事項を検討しよう。通常未知の山に登るには、山を常望できるルートを選択する。勝山市猪野は白山の常望は不可能で、法恩寺山(1357m)、取立山(1307m)、大長山(1671m)、もしくは 赤兎山(1629m)まで登らないと白山を望めない。しかも越前禅定道は、伏拝(ふしおがみ)から「妙見(みょうけん)という急坂を下って払川(はらいかわ)から和左盛(わさもり)に出たが、難所であり、登拝者はかなりの決心で白山を目指したものと思われる(『知られざ る白山平泉寺』)」。和左盛から小原峠に出て、石川県市ノ瀬に出るのだが(『山岳信仰と考古学ー白山と越前禅定道』)、このルートでは伏拝以降白山を遥拝できない。
 現代では、法恩寺山を越えて小原峠は勿論、小原峠から市ノ瀬経由白山登頂を目指す登山者はいない。小原峠へは福井県小原の集落、料金所を越え林道終点で車を停め、赤兎山、大長山登山口から登攀する。小原峠では白山は望めず、前述の如く赤兎山、大長山頂で 始めて遥拝できる。小原峠から白山を目指すには、一部美濃禅定道を辿る赤兎山ー杉峠ー三ノ峰ー別山ー御前峰を踏破する超健脚向きコースはある。しかし、困難。福井県側から白山を登頂するには、刈込池ー三ノ峰ー別山ー御前峰であろう。しかし、これも健脚 向きで、結局バスで市ノ瀬ー別当出合に至り、白山登山することになる。つまり、越前禅定道の平泉寺ー法恩寺山ー小原峠ー市ノ瀬ー別当出合ー白山頂上は非現実的で、市ノ瀬ー小原峠は石川県側から赤兎山登山で利用するのみであり、越前禅定道は市ノ瀬起点が現代 の大勢である。即ち、越前禅定道説は現在は一部可能なのだが、養老元年白山開山時では目標山塊を目視できないので困難と推量される。從って、猪野近辺「いのはら」説には疑問が残る。
 一方、現在の加賀禅定道は白山本宮ー吉野ー左羅ー濁澄橋ー瀬戸野ー瀬戸ー一ノ橋ー中宮ー手杵橋ー尾添ー祓谷川ー水無八丁ー檜新宮ー美女坂ー馬ノ背越ー雨池ー甕破坂ー北龍ケ馬場ー御手水鉢ー大汝峰ー御前峰(『白山加賀禅定道』)だが、このルートに伊野原は 存在するのであろうか?私は、泰澄は福井市ー越前町境界を流れる大味川に沿って下り、現在の国道305号を北上し、石川県粟津で足跡を残す。旅館Hの開湯は養老2年とのこと。養老元年泰澄白山開山に符号する。
鴇ケ谷からショウガ山を望む
 その後、泰澄は木場潟で白山を望んだと思う(『白山市・川北町住宅明細図』)。木場潟から右折し白山に向かうとすると尾小屋に至るが、この先は徒歩困難。従って、泰澄は現在の360号線で下吉野に到達、更に157号線を南下したと推察する。瀬戸野で尾添への道と 白峰への道に分岐するが、尾添では現在廃業した白山瀬女高原スキー場の最上部でなければ白山を望むことはできない。
 従って、手取川左岸を進む白峰への道を選択。現在廃村の尾口村鴇ケ谷(とがたに)(白山市鴇ケ谷)に至る。この地は現在は手取湖となってため往時の地形は推量する限りなのだが、現在は鴇ケ谷鴇ケ谷大橋手前で右折すると鴇ケ谷であり、鴇ケ谷大橋を渡ると深瀬に 至る。地図上では鴇ケ谷は白山への直線距離最短なのである。図の如く鴇ケ谷からはショウガ山(1623m)が立派に見え、如何にもその奥には霊峰白山が鎮座すると思われる地形である。
 白山へ向かうには深瀬から大辻山(1258m)とショウガ山を越え、一旦目附谷へ下り、現在の加賀禅定道尾添尾根奥長倉山付近に取り付き、四塚山経由で踏破しなければならない(『山と高原地図白山・荒島岳』)。『石川の山』では、「大辻山に登るには深瀬大橋を対 岸に渡り、上流の白尾境隧道から小尾根に取り付き、標高1200メートルまで登ると右手ショウガ山越に白山が見えてくる」とあり、白山を望むことができる。但し、現在は踏み跡も無く歩行困難らしい。しかし、養老元年当時のこのルートは噴火後のがれ場であったと考 えられ、藪コギではなく修験者にとっては踏破可能な尾根筋だったと推察する。何故ならば尾口村と白峰村との境界に相当するからである。
 では何故唐突に鴇ケ谷かというと、鴇ケ谷には菊理媛命、伊弉諾神、伊弉冉神を主祭神とする井野原神社が鎮座する(『石川県神社誌』)。『石川県尾口村史』には、
  もと井野原社と称したが、昭和20年12月に現社名に改めた。
社名の井野原は越前にある地名で、白山開山の泰澄の母の伊野氏
  にちなむものであろう。越前勝山のあたりに地名を遺し、白山権
  現が最初示現した地だといわれた。
 白山権現が最初示現した地だと主張しながら、井野原は越前の地名との記述。しかし。これは「泰澄伝」を学界に初めて紹介した平泉澄(『総合研究白山ー自然と文化』)による平泉寺主導泰澄伝説が流布されたためであり、泰澄が白山を常望しながら、専心持誦した 井野原は勝山市猪野ではなく、白山権現が最初示現した地と言われていた白山市鴇ケ谷井野原神社なのである。
従って、泰澄白山開山のルートは、(白山本宮)ー吉野ー左羅ー濁澄橋ー鴇ケ谷(井野原神社)ー大辻山ーショウガ山ー目附谷ー奥長倉山ー美女坂の頭ー天池ー甕破坂ー北龍ケ馬場ー御手水鉢ー大汝峰ー御前峰と推量する。
井野原神社
尚、白山市鴇ケ谷井野原神社説は白山比盗_社加賀番場説を否定するのものでは無い。その理由は、井野原神社の祭神は本務神社白山比盗_社の祭神、菊理媛尊、伊弉諾尊・伊弉冉尊と同一であること。又、白山本宮造立は嘉祥元年(848)と言われ、『延喜式』で石川 郡10座に白山比盗_社が銘記されたのは延長5年(927)だが、その後白山本宮焼失事故もあり加賀国一宮となったのは11世紀末から12世紀初めである(『白山比盗_社史』)。つまり、白山権現が最初示現した地鴇ケ谷井野原神社への出発地でもある白山本宮、即ち白山比 盗_社を加賀禅定道起点とする範例が確立した。その後加賀禅定道は尾添ルートに改変されたが、野市(ののいち)(現、野々市市)の富樫館、金沢の尾山御坊、金沢城の隆盛化と相俟って、白山比盗_社加賀馬場説は定説となったのである。<
 更に、井野原神社は『延喜式』には列記されていない。鴇ケ谷には泰澄が専心持誦し、白山を目指したという伝承の残存により、元禄7年(1694)井野原社を創立した。鴇ケ谷社と命名しなかった理由は、「尾添泰澄伝」が現存する如く泰澄が専心持誦した地は井野原と の記述に基づき井野原社と命名したと推量する。

9. 検討


 しかし、疑問点もある。検討しよう。先ず、大野郡の端については、大野郡は白峰村に近接する広領域であったのだから、鴇ケ谷が大野郡の端との記載は虚言とは言えない。
 筥河九頭竜川説については、「筥河は筥の渡しのある九頭竜川(『勝山市史』)」との記載はあるが、筥河は九頭竜川とは断言できない。その理由は、「雄略天皇21年(477)男大迹王(継体天皇)が越前国の日野、足羽、黒龍川(後の九頭竜川)の三大河の治水の大工 事を行い(ウィキペディア『九頭竜』」)とあり、九頭竜川は古来黒龍川と呼ばれていた。従って、筥河は九頭竜川と断定はできない。即ち、鴇ケ谷に筥河があった可能性も否定することはできない。又、「此の地は貴方の母の産穢の地であり、結界の地には非ず」とは、 『元亨釈書』著者が泰澄の母は伊野氏との記録を基に、井野原を猪野と誤認識したための記述であり、白山市鴇ケ谷井野原神社が結界の地では無いことは論を俟たない。  又、「井野原東の林泉とは、現在平泉寺白山神社の境内に、鬱蒼(うっそう)とした大杉の木立に囲まれて神秘的な雰囲気を醸し出している(『白山信仰の源流』)」とある。確かに猪野の東に平泉寺白山神社は存在するが、林泉は平泉寺の御手洗池のみではなく、鴇ケ谷 井野原神社東、即ち大辻山周辺にも有り得る地形である。即ち、林泉は平泉寺御手洗池とは断定できない。
 御前峰、お池巡りコース翠が池に現れた九頭龍について検討しよう。先ず福井県九頭竜川を連想する。しかし、龍とは『密教大辞典』によれば、
  密教には、龍を水天の眷属とし、(中略)龍は雲を?ふものなり。
又、九頭龍は、
  一身九頭の龍なり、但し胎蔵現圖曼荼羅水天眷属の龍は天等の如き身首にて頂上に九龍あり。龍には三頭五頭七頭等のものあれども、九頭を以て至極とせるが如く諸龍に通じて九頭龍印を用ふ。後世には此の九頭を以て胎蔵八葉九尊を表すなど云ふに到れり。
  とある通り、翠が池に現れた九頭龍は修験者泰澄持誦の賜物であり、福井県を流れる九頭竜川とは直接の関係は無い。
 最後に、ショウガ山ー目附谷ー奥長倉山コースについては登行可能だったと推察するのだが、踏破できるか不安も残る。鴇ケ谷ショウガ山から市ノ瀬経由白山御前峰、及び現在の白山一里野温泉、岩間、中宮道も考えられるが、白山を遠望できるのはコースを外れた旧白 山瀬女高原スキー場の最上部(1010m)及び大嵐山山頂(1204m)のみで、途上白山は望めない。従って、泰澄が白山を目指すコースとしての蓋然性は低いのだが、何れのコースについても泰澄白山登頂鴇ケ谷井野原神社ベースキャンプ説は適合する。 

10. おわりに


 以上、『元亨釈書』における二、三の難解箇所の考察と井野原は尾口村(白山市)鴇ヶ谷井野原神社説を提言した。
 結論を纏めると、
1. 泰澄石川県人説は、福井県に麻生津が現存していることより根拠は低い。
2. 大野郡の端、筥河の東伊野原は泰澄の母の里猪野周辺とされてきたのだが、現在の越知山に住み、白山を常望し、白山登頂を目指すコースは平泉寺コースより海岸線を三国に向かうコースの可能性が高い。従って、石川県木場潟で白山を仰ぎ、白山市鴇ケ谷に至り、現 在の井野原神社をベースキャンプとした蓋然性が高い。
 即ち、井野原は福井県井野ではなく、石川県の鴇ケ谷である。

謝辞

 各種資料蒐集に協力頂いた石川県立図書館司書の方々、記して謝意を表したい。

 [1] 白山比盗_社史編纂委員会『白山比盗_社史』古代、中世篇、北國新聞出版局、2016
 [2] 続々群書類従』第1、図書館刊行會、1906
 [3] 平泉恰合識『越前平泉寺縣社白山神社由緒略記』1926
 [4] 浄蔵貴所口述・平泉澄解説『白山神社蔵版泰澄和尚傳記』1953
 [5] 神奈川県称名寺蔵『泰澄和尚傳』白山縁起
 [6] 加能史料編纂委員会編『加能史料』奈良・平安T、石川県、1982
 [7] 虎関師錬(今浜通隆訳)『原本現代訳元亨釈書』教育社新書、1987
 [8] 木村省吾編輯『大正新修大蔵經索隠』大蔵出版株式会社、1942
 [9] 所謂「小沙弥の飛鉢伝説」等が説話とされたのであろう。「小沙弥の飛鉢伝説」とは、泰澄が鎮護国家の法師とされた大宝二年(702)、能登島から小沙弥が泰澄を尋ねてやってきた。泰澄31歳の年に出羽の国から米を運搬する舟があった。小沙弥は鉢を飛ばして米を 講うたところ船頭は拒否。小沙弥は怒り、飛鉢と共に越知山に戻ると船に積んであった米は雁が連なって飛ぶように空を飛び、越知山に集まった。船頭の浄定は合掌し越知山に登って泰澄を拝礼し、自分の咎を謝した。泰澄は「我知るところに非ず。小沙弥に向かって謝れ」 と言う。小沙弥は「僅かでいいから米を寄進せよ。さすれば残りを船に戻す」と言う。浄定は米を寄進し、船で待つと、米は連なり飛んで元のように船に積まれた。
 [10] 佛書刊行會編纂『大日本佛教全書元亨釈書』佛書刊行會、1913
 [11] 黒坂勝美『國史大系日本高僧傳要文抄・元亨釋書』吉川弘文館、1965
 [12] 『元亨釈書』国立国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545134?tocOpened=1)
 [13] 『和解元亨釈書』国文学研究資料館、1985(http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=XYA8-02405&IMG_SIZE=&PROC_TYPE=null&SHOMEI=%E3%80%90%E5%85%83%E4%BA%A8%E9%87%88%E6%9B%B8%E5%92%8C%E8%A7%A3%E3%80%91& REQUEST_MARK=null&OWNER=null&IMG_NO=1span)
 [14] 白山総合学術書編集委員会『総合研究白山ー自然と文化』橋本確文堂、1992
 [15] 勝山市編『白山平泉寺ーよみがえる宗教都市』吉川弘文館、2017
 [16] 『勝山市史』第1巻風土と歴史、勝山市、1974
 [17] 『都市地図福井県1、福井市』昭文社
 [18] 『北國新聞』2017.6.14
 [19] 渡部温訂正『標註訂正康煕字典』講談社、1977
 [20] 白川静『新訂字統』平凡社、2005
 [21] 「難字大鑑」編集委員会『難字大鑑』柏書房、1976
 [22] 宮本数男『福井県の山』36越知山、山と渓谷社、1999
 [23] 『知られざる白山平泉寺ー山岳画家金榮健康介の絵でたどる越前禅定道伝説』勝山城博物館、2002
 「24」 松村英之『山岳信仰と考古学ー白山と越前禅定道』同成社、2003
 [25] 玉井敬泉『白山加賀禪定道』、1958
 [26] 『白山市・川北町住宅明細図』地籍版改訂第27版、刊広社、2016
 [27] 『山と高原地図白山・荒島岳』昭文社
 [28] 石川の山編集委員会編集『石川の山』石川県山岳協会、1989
 [29] 石川県神社庁編集『石川県神社誌』北国出版社、1976
 [30] 尾口村史編纂専門委員会『石川県尾口村史』第3巻・通史編、1981
 [31] 『延喜式』10神祇巻第10、1513
 「32」 ウィキペディア『九頭竜』(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%9D%E9%A0%AD%E7%AB%9C%E4%BC%9D%E6%89%BF#.E4.BB.8F.E6.95.99.E3.81.A8.E3.81.AE.E9.96.A2.E9.80.A3)
 [33] 本郷真紹『白山信仰の源流ー泰澄の生涯と古代仏教』法蔵館、2001
 {34] 密教辞典編纂会『密教大辞典』法蔵館、1983

Last updated on Dec. 01, 2017.
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