出雲国風土記「越の八口」攷
酢谷琢磨
(注)詳細は平成26年12月7日発行『石川郷土史学会々誌』第47号を参照下さい。
1. はじめに
出雲国風土記には「越の八口」についての記載がある[1]。この越の八口について、富山県高岡市八口(やつくち)、新潟県岩船郡関
川八ツ口ではないかとの説[2], [3]、及び大国主神を祀る神社をその候補にあげる説[4]
等が提起されている。大国主神の時代(大伴家持以前)加賀の国は芦原だったのだから富山県、新潟県説の根拠は無さそうだし、祭神は明治時代に改訂された
のであり、単に大国主神を祭神とする神社をその候補とするのは牽強付会である。
「口」は、「門や港など、出入りする所」との字義[5]から、八つの港を探査してみる。しかし、これはどうも根拠薄弱と思えてなら
ない。
一方、「八口」は「衣服のわきあけ」[6]との字義もある。この「衣服のわきあけ」説に沿って考察すると、黒河川河口気比大神宮の
鎮座する敦賀市がその候補であり、立石岬から越前岬の海岸線地形が「わきあけ」に酷似し、「越の八口」は敦賀市との確信を得た。
本文は、最初に「八つの港」を考察し、この特定は困難なことを述べ、これに対し「八口」は「衣服のわきあけ」との解釈のもと「衣
服のわきあけ」地形を探索すると敦賀市が浮上した。即ち、「越の八口」は敦賀市説を提言する。
2. 八つの港
先ず、『校本出雲国風土記』[7]における意宇郡母理郷条を参照しよう。
母理郷郡家東南丗九里一百九十歩所造天下大神大穴持命越八口平賜而還坐時来坐長江山而詔我造坐而命國者皇御孫命平世所知
依奉但八雲立出雲國者我静坐國青垣山廻賜而玉珍置賜而守詔故云文理
とある。尚、「越八口」には「コシノヤクチ(コシヤクニ)」、即ち、口は國の誤りであり、越に八つの国があったとの校合結果が併
記されている。しかし、当時の加賀は芦原だったのだから、越に八国があったとは考えられない。次に、『風土記』
出雲國風土記意宇郡[8]を参照してみる。
母理郷 郡家東南丗九里一百九十歩 所造天下大神 大穴持命 越八口平賜而 還坐時 来坐長江山而詔 我造坐而 命國者 皇御
孫命 平世所知依奉 但八雲立出雲國者 我静坐國 青垣山廻賜而 玉珍置賜 而守詔 故伝文理
とあり、やはり越八口の校合として、『解「國」の誤とするが不可。諸本のまま。』との註がなされている。即ち、口は國との説は不可なのであ
る。尤もといえる。何れも難解なので、読み下し文[1]を引用しよう。
所造天下大神大穴持命、越の八口を平け賜ひて、還りましし時、長江山に来まして詔りたまひしく、我が造りまして、命らす国は、皇御
孫の命、平けくみ世知らせと依さしまつらむ。但、八雲立つ出雲国は、我が静まります国と、青垣廻らし賜ひて、玉珍置き賜ひて守らむ、と
詔りたまひき。故、文理といふ
が分かり易い。「越の八口」との記述は明確だが、その場所についての記載は無い。そこで、「口」について考察する。註[5]
には、
「口」ウ 門や港など、出入りする所。内と外の通じる所。
とあり、[6]には、
「口」ロ いりくち 二 港
とある。従って、河口が港であり、しかも神社が鎮座する主な地点を越(新潟県を含む北陸地方)で列挙してみると、
福井県 |
小浜市 |
遠敷川 |
若狭彦神社 若狭姫神社 |
|
敦賀市 |
黒河川 |
気比大神宮 |
|
三国町 |
九頭竜川 |
三国神社 |
石川県 |
橋立 |
田尻川 |
菅生石部神社 |
|
羽咋市 |
羽咋川 |
気多大社 |
|
門前町 |
八ケ川 |
若宮八幡宮 |
富山県 |
伏木 |
小矢部川 |
気多神社 |
|
生地 |
黒部川 |
新治神社 |
新潟県 |
糸魚川市 |
姫川 |
天津神社 |
|
佐渡真野町 |
国府川 |
越敷神社 |
即ち、右表の十地点が候補地と考えられる。特に、「八口」候補には、気比大神宮が鎮座する敦賀市と気多大社が鎮座する羽咋市
が含まれている。私は両社の出雲との関連性について論述済である[9]。従って、気比大神宮、気多大社の可能性は高い。しかし、
「八つ」とすると、能登半島門前町から陸沿に富山県に入るか、海を越えて新潟県佐渡に至るかについての決定的要因はない。結
論として、八地点の特定は困難と言わざるを得ない。
3. 八口とは
そこで、[6]で「八口」を調べると、次のような字義がある。
「八口(ヤツクチ) 衣服のわきあけ。[貞丈雑記、三]小兒は、云云、小袖の左右の脇、袖の下の邊に口をあけていきをぬく也、
袖を長くする事なし、
つまり、「和服の脇」の意がある訳である。福井県から新潟県まで、「衣服のわきあけ」のような地形を探すと、最適地がある。敦賀
市である。ここは、2節で言及した通り出雲に関係あると思われる気比大神宮があり、図1で示す福井県図[10]の立石岬から越前
岬にかけての海岸線は、将に「衣服のわきあけ」である。大国主神の時代特定はできないが、少なくとも大伴家持以前であり、その当時
加賀は芦原とすれば越の西限は敦賀であり、これを平定したのは、出雲の大国主神であったと考えて矛盾は無い。
尚、『貞丈雑記』は『広辞苑』によれば、
伊勢貞丈(さだたけ)著の故実書一六巻。子孫が古書を読む便にと武家の故実に関する考証を、一七六三年(宝暦一三)から没年の
八四年(天明四)まで、日々記載した雑録。一八四三年(天保一四)刊。
とあり、大伴家持以前の古代日本人の衣服に「わきあけ」があったかが問題となる。卑弥呼の時代は勿論貫頭衣であるが、七世紀末葉ないし八世紀初頭
にかけてはどうだろうか。図2は高松塚古墳東壁の壁画模写を示す[11]。模写ではある。しかし、左側女子の群像の衣装は、後世
和服の原型であり、「わきあけ」即ち、「八口」があったものと推定される。
4. 敦賀市史
敦賀市史[12]にはどう記述されているのだろうか。敦賀市史は「ツヌガアラシト」渡来説話が詳述されている。「ツヌガ」の地
名起源について、
このようにみれば、「敦賀」の地名と用字は、八世紀中葉ごろ以後に定着したものであったと考えられる。
と記載され、「越の八口」についての言及は無い。「ツヌガアラシト」と大国主神同一神説も考えられるが、これは想像の域を脱しない。
いずれにしても、八世紀以前の敦賀の呼称について、編者は出雲国風土記を参照しなかったものと考えられる。同市史には空から見た敦賀
付近の写真が掲載されている。図3にて示す。即ち、左中程の地形が「八口(衣服のわきあけ)」に相当する。
5. おわりに
私は以前七尾市中島町に鎮座する久麻加夫都阿良加志比古神社について「久麻加夫都」は「熊甲(くまこう、七尾西湾に張り出し
た熊の手足の甲(こう)に似た地形)都(と、における)」説を提示した[13]。
本論の「越の八口」は「衣服のわきあけ」を意味し、これに似た地形が敦賀に存在することを提起した。古代の日本人は地図、航
空写真等の無い時代でも地形を熟知し、地形に合った地名を付けていたのである。最近旧地名を新地名に変更する例が多い。しかし、
旧地名は重要な意味を持ち、これを粗略にしてはならない。
註
[1] 関和彦『古代出雲の深層と時空』同成社、2014
[2] http://blogs.yahoo.co.jp/shigechanizumo/61543776.html
[3] 島根県古代文化センター編『解説出雲国風土記』今井出版、2014
[4] http://www.geocities.jp/mb1527/N3-09-5higasinihon.html
[5] 尾崎雄二郎他編『角川大字源』、角川書店、1992
[6] 諸橋轍次『大漢和辞典』巻二、大修館書店、1989
[7] 加藤義成編纂『校本出雲国風土記 全』出雲国風土記研究会、1968
[8] 秋本吉郎校注『風土記』出雲國風土記 意宇郡、岩波書店、1958
[9] 酢谷琢磨「羽咋は鵜咋および気多大社攷」石川郷土史学会々誌第42号、2009
[10] 下中直人編『日本大地図帳九訂版福井県、岐阜県』、平凡社、2006
[11] 国立歴史民俗博物館編集『装飾古墳が語るものー古代日本人の心象風景』吉川弘文館、1995
[12] 敦賀市史編さん委員会『敦賀市史通史編上巻』敦賀市役所、1985
[13] 酢谷琢磨「熊甲(くまこう)における枠旗祭り由来攷」石川郷土史学会々誌第33号、2000
Last updated on Nov. 20, 2014.