七尾市青柏祭「でか山」起源再攷
酢谷琢磨
(注)詳細は平成24年12月2日発行『石川郷土史学会々誌』第45号を参照下さい。
1. はじめに
七尾市にて開催される青柏祭「でか山」の起源について、種々の提言がなされ、私も前田利政の七尾城代以降説を論述した
[1]。その後、地元の大地主神社には畠山義統時代曳山奉納説を刻印した石碑が建立され、その起源論は複雑
化の様相を呈してきた。
一方、でか山の形状が末広形なのは珍しく、何故末広形なのかについての定説は無い。昨年京都市祇園祭に伝説の巨大鉾(船形)
の存在が報じられた[2]。でか山の原型は祇園祭巨大鉾かと思わせる報道ではある。果たしてそうなのだろう
か?
又、でか山の方向転換は横車を降ろし、横車で回転する。この機構は岐阜県高山市における高山祭りの豪華絢爛たる屋台にも具
備され、でか山の回転機構は高山祭の屋台を模したものと考えられる。しかも、高山祭における広場で繰り広げられる「からくり
奉納」には能「竹生島」が演じられ、高山祭りの起源は秀吉の長浜城主時代以降と推測される。
本文は、先ず何故でか山の形状が長浜曳山まつり、高山祭の屋台形では無く、末広形かについての仮説を述べる。次に、高山祭
の屋台が具備する回転機構の考察より、七尾市青柏祭でか山の起源は畠山義統時代に遡ること無く、前田利家以降であることを再
論述する。
2. 大地主神社由緒
最近、七尾市青柏祭の祭主である大地主神社に由緒を記した石碑が現出した。石碑には、
(前略)天元五年國史源順社殿を再建し始めて四月申日(現五月十四日)に青柏祭を修行す。文明五年畠山修理太夫義統青
柏祭に曳山を奉納し天正十年六月前田利家社殿を再建し古来の祭礼を再興す。(後略)
と刻んである。でか山は畠山義統が曳山を奉納したことが起源であり、前田利家再興説が刻印されている。しかし、この記述
は疑問である。即ち、青柏祭の起源は源順説としても、でか山の起源は前田利家以降説が正鵠を得ている。以下この矛盾を論述し
たい。
3. 伝説の巨大鉾
昨年京都市祇園祭に伝説の巨大鉾(船形)の存在、及びその復元方法を検討中と報じられた。この巨大鉾は現在の祇園祭における
船鉾を巨大化したもので、文字通り船形であり、末広形ではない。図1は祇園祭における船鉾を示す。つまり、七尾市青柏祭で
か山は京都市祇園祭の巨大鉾をひな形とした船の形であれば、畠山義統時代起源説も考えられる。しかし、でか山は末広形で、祇園
祭との関連性は無いと結論せざるを得ない。それでは、でか山は何故船鉾と全く異なる末広形なのだろうか。次節で考察する。
4. 何故でか山は末広形か?
前田利家が七尾で築城地に選定した小丸山は、畠山時代の七尾城(標高106m)、及び前田利家が佐々成正と戦闘を交えた末森城と
比較してより低地である。図2は、小丸山城跡(現在の小丸山公園)の植生を示す。即ち、杉も2, 3本は巨木として存在するが、大部
分は広葉樹である。
これに対して、図3、図4は畠山氏居城七尾城跡と末森城跡における現在の植生を示す。現在と天正時代の植生とは同一とは言え
ない。しかし、末森城は当時の杉林を彷彿とさせる鬱蒼とした植生である。つまり、これ等の城では針葉樹の杉が林立し、当時も城
を建設する用材に事欠かなかったと思われる。これに対して前田利家が城造りを決断した小丸山は広葉樹が主であり、針葉樹は少な
く、天守用の芯柱等に用いる杉材を他所より調達する必要が生じたと考えられる。加賀藩史料[3]における天正
11年の記録には、
六月廿七日。前田利家能登鳳至郡穴水の民に命じて七尾城の用に供する木材を運送せしむ
とある(記録中七尾城は小丸山城)。
現在小丸山城跡へ登るためには、光徳寺横からの坂道を上る必要がある。この坂道で杉材を運びに上げるにはどのような方法があ
るか考察すると、
四輪付きの箱形台車に載せ、これを音戸取りの木遣りと共に綱で引き上げる
方法が考えられる。
七尾市魚町の町民は富山県からの移住者で構成され、彼らは漁師であり、網引き歌を木遣りとして唄った。これは現在に引き継が
れている。この箱形台車に長尺の杉材を前後に立て掛けた形状が末広形のでか山の原型であり、後にこの形を取り入れたと推定する。
即ち、でか山の起源は利家の小丸山城築城以降となる。
5. 高山祭の屋台
本年四月高山祭を見学した。高山市では豪華絢爛な山車を屋台というが、この屋台の交差点での辻回しは横車を出し、これで回転す
る。この回転機構は、でか山の方向転換機構と同じ手法である。しかも、高山祭において広場で繰り広げられるからくり奉納では能
「竹生島」が演じられ、高山祭の起源は秀吉の長浜城主時代以降と推測される。即ち、高山祭の屋台は長浜曳山まつりの屋台、及び
石川県小松市のお旅祭と同系統の山車である。
従って、でか山は高山祭の屋台、高岡市御車山祭の山車を模倣せず、独自路線を歩んだのだが、大型の山車を制作したため方向転
換機構は高山祭の屋台の回転方法を取り入れざるを得なかったと考えられる。即ち、でか山の起源は秀吉、利家以降であり、畠山時
代に遡及することは無い。
6. おわりに
でか山の独特な末広形は小丸山城築城時における木材運びを模したものであるとの仮説を提言した。この仮説とでか山の回転機構
の論考より、七尾市大地主神社に建立された青柏祭畠山義統時代に奉納された曳山起源説には根拠が無く、その起源は前田利家以降
であることを論述した。
祭りの起源は「祓え」であることは前報[1]で言及した通りだが、信州諏訪社の御柱祭のごとく、木材運びの
大作業を後世祭りに仕立てた例もある。七尾市青柏祭でか山もこの系統に属する。即ち、御柱祭は木材を山から野に降ろし、でか山
は木材を野から丘に運び上げたことが相違点ではある。しかし、系譜は同じなのである。
註
[1] 酢谷琢磨「青柏祭曳山行事由来攷」石川県郷土史学会々誌第33号、2000
[2] http://www.asahi.com/national/update/0702/OSK201007020073.html
[3] 前田勝雄「加賀藩史料」第1編、清文堂出版株式会社、1980
Last updated on Dec. 02, 2012.