うくい橋について

酢谷琢磨

(注)詳細は平成23年12月4日発行『石川郷土史学会々誌』第44号を参照下さい。

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1. はじめに

 前報「羽咋は鵜咋および気多大社攷」[1]で、「うくい橋」について論述した。うくい橋は鵜咋(うくい)(羽咋(うくい))の名残であるとの仮説の基に、 この橋の存在を探索したが当時は不明であった。
 その後、うくい橋を探求した結果、石川県鹿島郡中能登町鳥屋に存在する「いごい橋」に相当する事が明らかになった。
 本文はその結果を報告する。

図1 いご
い橋位置

2. うくい橋

 うくい橋が現出する例は、『能登志徴上編』[2]であり、

 うくい橋 鳥屋村(とりやむら、末坂村(すえざかむら))。宝暦十四年 調書に末坂村領うくい橋。長二間、幅四尺

とある。もう一例は『鳥屋町史』[3]における、

 一 壱ケ所 御普請橋字うくい橋 長三間 幅六尺

である。従って、長さ、幅に多少の相違はあるものの、現在の中能登町鳥屋末坂に存在する筈である。そこで、先ず中能登町鳥屋庁舎に
図2 いご
い橋
確認したが不明とのこと。次いで、中能登町在住西村氏に確認した結果、現在「いごい橋」と呼ばれている橋ではないかとの教 唆を受けた。このいごい橋は、中能登町鳥屋末坂と春木との境界に存在する。図1はその位置[4]であり、図2は写 真を示す。

3. うくい橋は羽咋橋を現すのか?


 「いごい橋」は「うくい橋」の訛言と考えると、何故うくい橋は末坂と春木との境界に存在するのであろうか?その根拠となるのが延 喜式[5]である。延喜式における能登國羽咋郡十四座には、氣多神社、久麻加夫都阿良加志比古神社、並びに中能登町鳥屋瀬戸に鎮座する 瀬戸比古神社が記載されている。又、能登郡十七座には能登比盗_社を始め、中能登町鳥屋末坂と春木の境界に鎮座する鳥屋比古神社が 列記されている。
 従って、うくい橋が中能登町鳥屋末坂に存在する理由として次項が考えられる。

@中能登町鳥屋瀬戸及び春木は古来羽咋郡であり、そのため末坂と春木の境界に、羽咋の原義である鵜咋を顕す「うくい橋」が存在した。
A中能登町鳥屋瀬戸が羽咋郡としても、春木は羽咋郡ではなく能登郡の蓋然性が高いとすると、「うくい」は単なる鵜が啼泣していた場 所を表す。
B中能登町鳥屋には、末坂に隣接するが現存する。「ウクイ」は「ウサカ」が訛った形である。

これ等の三説について検討しよう。

4. 検討


 先ず、Bの「ウクイ」は「ハザカ(ウザカ)」説については少々牽強付会。その可能性は薄い。次いで、Aの鵜が群集し、その泣き声が騒々 しかった説については、過去能登において朱鷺が存在したことを考慮するとその可能性は無いとは言えない。しかし、鵜が群集するのは主に 海岸線と考えられる。従って、Aの蓋然性も低い。とすると、@説の可能性が高くなる。鳳至郡史[6]○能登の建國の項には、

本國は古の高志国の一部にして、越前國に属す。(中略)養老二年其四郡を割きて能登國と為しきと見ゆ。続日本紀に養老二年五月乙未割 越前國之羽咋・能登・鳳至・珠洲四郡始置能登國といへる者即是なり。皇代記に神護景雲二年越前國四郡を割きて此國を置くとし、源平盛衰 記に弘仁十四年能登郡廣しとて四郡に分ちて能登國と定むといへるの類皆誤謬を傳ふるなり。建國の後二十三年、天平十三年に至り安房・能 登の二國を廃す。此時能登は之を越前に復せずして、越中に併せたるものは、國府の近きを以てなり。続日本紀に天平十三年十二月丙戍朔能 登國併越中國といふもの是なり。爾後能登の國名なきこと十六年にして、天平寶字元年再び越中より羽咋・能登・鳳至・珠洲四郡を割きて能 登を復旧す。

とある。
 即ち、能登郡については、十六年間無かった事実があり、羽咋郡の境界についても不明確であった時期が存在したのである。従って、前述 の中能登町鳥屋末坂と春木との境界が羽咋郡と能登郡との境界であった時期が存在したかもしれない。但し、鳥屋町史における瀬戸比古神社 の項では、

その由来等は明らかでないが、鎮座の地は往昔羽咋郡に属し、今郡界とする山頂に社殿を有したが、後現地に遷座したものと伝えている。

とあり、山頂は羽咋郡と能登郡との郡界であり、中能登町瀬戸は能登郡であったとも考えられる。しかし、鳥屋町史の記述が誤記の可能性も ある訳で、本文では中能登町鳥屋瀬戸及び春木は古来羽咋郡であり、そのため末坂と春木の境界に、羽咋の原義である鵜咋を顕す「うくい橋」 が存在したと推測する訳である。

5. おわりに


 以上、「うくい橋」は鵜咋の名残であるとの仮説の基に、この橋の存在を探した結果、中能登末坂と春木の境界に存在する「いごい橋」が 「うくい橋」であることを述べた。
 又、中能登町鳥屋瀬戸及び春木は古来羽咋郡であり、そのため末坂と春木の境界に、羽咋の原義である鵜咋を顕す「うくい橋」が存在した との仮説も併記した。
 今後は古来の能登郡、羽咋郡について考究し、仮説の確証を得なければならない。
 最後に、うくい橋の調査に協力を頂いた鹿島郡中能登町良川駅前西村秀博氏、金沢市下本多町6-8-4北野正行氏、並びに鹿島郡中能登町羽坂3 部家中進氏に深謝する。

[1] 酢谷琢磨「羽咋は鵜咋および気多大社攷」石川県郷土史学会々誌第42号、2009
[2] 石川県図書館協会『能登志徴上編』、1969
[3] 金沢大学教育学部若林喜三郎編纂『鳥屋町史』石川県鹿島郡鳥屋町、1955
[4] ゼンリン住宅地図 鹿島郡中能登町、ゼンリン、2005
[5] 黒坂勝美、國史大系編修會編輯『改定増補國史大系交替式・弘任式延喜式前篇』吉川弘文館、1977
[6] 鳳至郡役所編纂『石川県鳳至郡誌』臨川書店、1985
Last updated on Dec. 04, 2011.
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