穴水は穴見津および能登来住者小攷

酢谷琢磨

(注)詳細は平成22年12月5日発行『石川郷土史学会々誌』第43号を参照下さい。

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1. はじめに

 島根県出雲市に近接する安来市に「ちょっこし」、「だら」の方言が存在する[1]。これ等は能登の方言 としても現存することを考慮すると、能登と山陰地方との関係を考えざるを得ない。私は先に中能登町鳥屋末坂(とりやすえざか)では 出雲姓が多いこと、および鳥屋比古神社は出雲國鳥屋(とや)神社(現島根県簸川郡斐川町)に由来することを論及する と共に、羽咋市気多大社は、但馬國氣多(けた)郡(現兵庫県豊岡市)に鎮座する氣多(けた)神社に由来することを提言した[2]
 即ち、能登には従来から指摘されてきた出雲との交流[3]ではなく、出雲、因幡(いなば)、但馬(たじま)を含む山陰地方から 相当数の民が来住したと考えられるのである。
 本論は、最初に能登「穴水(あなみず)」の語源について考察する。更に、山陰地方と能登の方言を詳覈し、能登には出雲 からの移民に加え、因幡、但馬からも移民が来住したことを新たに提言する。

2. 穴水とは

 『穴水町の集落誌』[4]には、

  大町辺津比(へつひめ)神社の由緒によると「桜谷ト申ス所ノ洞穴ニ清泉アリ、ソノ流レヲ真名井(まない)(アナミズ)トモ称シテ、流レノ   末ニ坪ヨリ此水ヲ穴水中ノ人民汲(く)ミテ飲料トス、亦ノ旧記ニ穴水トモ同意ナリト伝承仕(つかまつり)候」[中略]、それが穴   水の地名だと記している。
  川島白山(美麻奈比古(みまなひこ))神社の縁起には「社より一町余西の方境内に穴水より清水を出す、是を穴水と云、   俗にこの地を穴水洞という。[中略]穴水の二字を美麻名と訓する事、是当社の口伝(くでん)なり」とある。
  以上の穴水の井に関して、日置(へき)謙『加能郷土辞彙(じい)』では、川島(かわじま)の穴水堂(洞)、大町桜谷の井も「穴水の   地名は是等から起ったものであるというが信ずることはできぬ」と厳しく批判し、アナミズは「但馬(たじま)の安美(あなみ)、豊後(ぶんご)   の阿南(あなん)の如く、アナミを以って地名とし、ツは津であろう」と記している。

図1 穴水
とある。即ち、但馬国又は豊後国の「あなみ+津」と推定している。私もこの提言に賛同するものであるが、再 検証の意味で『新日本地名索引・第1巻』[5]で「あなみ」を検索すると、

  あなみ 穴見 掛合 掛合町 島根
  あなみがわ 穴見川 豊岡 豊岡市 兵庫
  あなみがわ 穴見川 須田 豊岡市 兵庫

を見出すことができる。やはり、「あなみ」は山陰地方の島根県、もしくは兵庫県豊岡市に起源を持ち、これに 港の意「津」を加えた穴見津が、右図と変化したと考えられる。穴水も山陰地方に接点を持つのである。

3. 山陰地方と能登の方言

 山陰地方の方言について、全国方言辞典[6],[7]にて能登で現存している方言とを比較する。

 島根県
  きんにょ 〔出雲〕昨日。
  だら       愚か者。怠惰なこと。無意味なこと。
  ちょっこし    すこしばかり。ちょっと。
  わやくちゃ    乱暴。乱暴なさま。
  ごはん      御飯。
  ねまる      座る。
  あめがふっとる  雨が降りつつある。雨が降っている。
  いかっしゃる   行かれる(尊敬)。
  きさっしゃる   来られる(尊敬)。
  なんば      唐辛子、唐もろこし。

 鳥取県
  おーどーな〔鳥取市〕大胆な。図太い。
  じきのまに     直ぐに。間もなく。

 兵庫県
  いごく  〔但馬〕動く。
  かつける 〔但馬〕ぶつける。
  はしかい 〔丹波〕すばしっこい。
  ひなか  〔但馬〕半日(主に午前)。

 石川県鹿島郡誌上巻[8]における該当方言は、
  チョッコシ    少し
  イノク、エノク  動く
  ヘンマ、ヒルマ  昼食
  オウダケ     大袈裟
  ダラ       馬鹿者又は阿呆
  ナンバ      とうがらし
  ネマル      座る
  ハシカイ     聡明鋭利
  ヒナカ、シナカ  半日

 鳥取県の「じきのまに」は鹿島郡誌の方言に掲載されていない。しかし、これは私が直接仄聞したこと を記憶しているので引用した。即ち、能登には出雲、因幡及び但馬の方言が現存している訳である。

4. 山陰地方からの來住者

図2 山陰地方より能登への来住
 私は先に中能登町鳥屋末坂では出雲姓が多く、鳥屋比古神社のルーツは『延喜式』[9]における出雲國 187座、出雲郡58座の鳥屋(とや)神社(現島根県簸川郡斐川町大字鳥井815)であることを論述した[1]。出雲から の來住者は邑知潟を経由し、中能都町鳥屋に到ったと考えられる。
当時、邑知潟は現在より大きく海上より船で鳥屋末坂に上陸できたかもしれない。図2に示す出雲-中能登 ルートに相当する。
 又、因幡國(鳥取県東部)に氣多郡が存在し、鹿島郡に稲葉(いなば)姓を散見できること、および前述の方言に 現在も能登で使用されている語が存在することから、鳥取市周辺からの來住者も考えられる。図2に示す 鳥取-羽咋ルートである。
 更に、能登において但馬姓を調べると田島(たじま)姓、田嶋(たじま)姓が羽咋市猫の目、柳田に存在し、羽咋市気多大社の ルーツは『延喜式』における但馬國131座、氣多(けた)郡(現兵庫県豊岡市)に鎮座する氣多(けた)神社(現兵庫県豊岡 市日高町上郷)であることを考慮すると、但馬國より羽咋市への來住があった。図2における豊岡-羽咋ルー トである。上陸海岸は厳門(現輪島市)周辺が想定される。
 尚、何故山陰地方から來住したかについて、出雲国には大和朝廷による大弾圧があったらしい[10]。又、 因幡國、但馬國からの來住については、昨年豊岡市にて河川の氾濫、即ち水害が報じられていた。これ等の 自然災害を原因と考える。
 出雲-因幡-能登、もしくは出雲-但馬-能登の中継ルートも考えられる。しかし、前述の方言で、出雲-因 幡、出雲-但馬で共通の方言を確認できないので別ルートと推定する。

5. 來住者とネイティブの民

 それでは、來住者とネイティブ(原住)の民はいかに共存できたのであろうか?先ず、出雲の来住者は雨 宮古墳に近い中能登町鳥屋に上陸したとする。雨宮古墳の前方後方墳は出雲独特の四隅突出形方墳二基と考 えれば出雲の來住者が実権を握り、雨宮に埋葬されたとも考えられる。しかし、被葬者は地元の豪族であり (方墳二基は考えられるが、四隅突出形方墳二基は無理。何故ならば、発掘時担当者に確認したことがあっ た。この時担当者は四隅突出形方墳を否定していた)、出雲からの來住者と穏やかな共存関係を結んだと推 定する。
 その理由として、能登部の部民が大和朝廷の支配下になるには地元豪族の協力が不可欠であり、山陰地方か らの外来政権支配の可能性は低いと考えるからである。即ち、大和朝廷の弾圧によりボートピープルとして出 雲から来住した民、および雨宮の豪族は大和朝廷支配を忍受したと推察する。その理由は、3月に能登で行わ れる「おいで祭り」である。これは大和朝廷支配を公布する行事だからである。
 一方、但馬、因幡からの來住者は羽咋市もしくは輪島市(旧門前町)に上陸したとすると、上陸地点から羽 咋市の気多大社周辺と山陰地方の「穴見」を語源とする鳳珠郡穴水町へ浸透したと思われる。彼等もネイティ ブな民と同化し、大和朝廷支配を受け入れたと考えられる。
 尚、大和朝廷への抵抗勢力は、七尾市中島町に鎮座する久麻加夫都(熊甲都(くまこうと))阿良加志比古神社 の祭神阿良加志比であり、阿良加志は古語「争(あらが)ひ」に相当すると推定した[11] とおりである。但し、その抵抗も最終的には大和朝廷の軍門に下り、今日の能登の祖型が完成した訳である。
 従って、能登のネイティブの民と山陰地方からの來住者は、能登半島の穴水以南全域に亘って共存関係を確 立し、能登に同化し、方言を伝播したと考えられる。

6. おわりに

 以上、穴水の原義は山陰地方の「穴見」を語源とする「穴見津」である。この穴水周辺まで山陰地方から來 住者があり、その痕跡である方言に共通性があることを論述した。従来は、「出雲地方と交流があった」との 記述であった訳だが、「山陰地方から積極的に來住した」と改めねばならない。
 來住者とネイティブの民は共存し、しかも大和政権との協調路線を維持したのである。

[1] 2010年NHK連続テレビ小説「ゲゲゲの女房」で紹介された。
[2] 酢谷琢磨「羽咋は鵜咋および気多大社攷」石川県郷土史学会々誌第42号、2009
[3] 浅香年木『古代地域史の研究-北陸の古代と中世l』法政大学出版局、1994
[4] 長谷進編、穴水町教育委員会『穴水町の集落誌』、1992
[5] 金井弘夫編『新日本地名索引・第1巻』アポック社出版局、1993
[6] 佐藤亮一編『都道府県別全国方言辞典CD付き』三省堂、2009
[7] 平山輝夫編『全国方言辞典〔1〕-県別方言の特色』角川書店、1983
[8] 鹿島郡誌編纂委員会編『石川県鹿島郡誌上巻』図書刊行会、1984
[9] 黒坂勝美、國史大系編修會編輯『改定増補國史大系交替式・弘任式延喜式前篇』吉川弘文館、1977
[10] 門脇禎二『出雲の古代史』日本放送出版協会、1993
[11] 酢谷琢磨「熊甲における枠旗祭り由来攷」石川県郷土史学会々誌第33号、2000

Last updated on Dec. 05, 2010.
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