羽咋は鵜咋および気多大社攷

酢谷琢磨

(注)詳細は平成21年12月5日発行『石川郷土史学会々誌』第42号を参照下さい。

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1. はじめに

 私は、石川県における羽咋(はくい)という地名について、その原義を思念していた。最近文献を渉猟する内、「咋」が付く例として「動物+咋」の地名、 「形容詞又は名詞+咋」の名前、及び「姓+咋」即ち人名の例を見出した。これ等を考慮した結果、「羽咋」は「動物+咋」、即ち「鵜咋(うくい)」であり、これが「うくい」、 「羽咋(うくい)」を経て「羽咋(はくい)」になったとの確証を得た。
 本稿は、最初に「咋」の例として地名、名前の例を列挙し、この例を基に、何故 「鵜咋」が「羽咋」に変化したかについて、私が同じく石川県七尾市中島町の地名及び川の名称熊来(木)(くまき)は「熊甲(くまこう)」、「熊甲(くまき)」、 「くまき」を経て「熊来(木)」に至ったとの以前の考究を引用の上、論証する。
 更に、決定的証拠として「うくい」を名称とする地名の存在が明らかになったので、この地名についても言及する。
 次に、羽咋市に鎮座する気多(けた)大社(『延喜式』[1]では氣多神社名神大。『能登志 徴上編』[2]では氣多神社)のルーツは但馬國にあることを新たに提起する。

2. 咋の例

 咋が付く例として、以下の三例を挙げることができる。

 @鹿や馬等の「動物+咋」を用いる地名
 A史生「尾張少咋(をくひ)」のような、名前に「形容詞+咋」を用いる例
 B名前が単に「咋」の例

 @から検討しよう。  『播磨國風土記』[3]賀毛郡の項に、
  鹿咋山 右 所以號鹿咋者 品太天皇 狩行之時 白鹿咋己舌 遇於此山 故曰鹿咋山
とある。この場合の「咋」は後述する「くらう」意味に使用され、所在は不明である。しかし、「鹿咋(かくい)」という 地名が存在したことは明白である。
 次いで、『萬葉集』[4]では、
  春草 馬咋山自 越来奈流 囗使者 宿過奈利(1708)(囗=厂+イ+鳥)
  春草を馬-序詞クヒにかかる
  咋山 京都府綴喜郡田辺町字飯ノ岡にある飯岡(いいおか)。木津川の西岸。式内咋岡神社がある。
  (大意)咋山を越えて来るという雁の使いは、その鳴き声からすると、自分の宿には寄らず、通り過ぎて行くらしい。
  。別解。咋山を越えて来る声の聞える雁の使いは、自分の宿に寄らずに通り過ぎて行くらしい。
同じく『萬葉集』[5]では、
  春草を馬が食う、その咋山(くいやま)から越えて来る雁の使は、旅の宿りの上を飛び過ぎて行く。
  「春草」から「馬」までは「咋山」の「咋」の序詞。
とある。すなわち、馬と咋を分離し、咋山と解釈している。しかし、咋山では『播磨國風土記』の用例に矛盾し、何が食うのか不明である。従って、 馬咋山が正しく、「馬の声が大きい山」、もしくは「馬が食う山」を真意と考える。この真偽の程は後論に委ねるとして、とにかく「動物+咋」と いう地名が存在したことは事実である。
 Aの例は、『萬葉集』[6]における、史生「尾張少咋」、『古事記祝詞』[7]における三島溝咋の例で、 姓を除き、名前に「形容詞又は+咋」が用いられた例である。これは姓が必要である。もし、姓が「能登」又は「羽咋」であれば『日本書記』[8]における「能登臣馬身竜(のとのおみまむたつ)」の例のごとく、羽咋と単独表記されることは無い筈である。尚、姓が「羽咋」、名も「羽咋」という例が 存在するかというと、可能性は少ない。従って、Aの例は羽咋の語源に該当しないといえる。
 Bの例は『古事記祝詞』における大山咋、若山咋。『日本書記』における穂積咋の例を挙げることができる。これ等は単に名前が咋であり、これを 羽咋に適用すると、姓は「羽」、名は「咋」になる。この可能性は現代において「西周(にしあまね)」の例もあり、皆無とはいえない。しかし、古 代におけるその蓋然性は低いと考えられる。
 従って、本論文では、「動物+咋」という地名を「羽咋」の根拠の第一義と考え、以下に考察する。この根拠は後述する「うくい」という地名の 存在より明らかとなる。

3. 羽咋とは

図1 厳門
 羽咋について考察しよう。『羽咋市史原始・古代編』[9]では、
  五世紀なかごろから、古代国家が完成する七世紀の末までのあいだ、のちの羽咋郡一帯領域にしていたクニの名は「ハクヒ」、そのクニの王 は「ハクヒ」氏だった。いまもいったように、このハクヒ氏に、「羽咋」という文字をあて、さらに、羽咋君という「君」のカバネ(氏の称号) をつけて名乗るようになるのは、慎重に考えれば、まず七世紀に入ってからのちのことであって、[後略]
とある。尚、「ハクヒ」は旧仮名遣いで 「ハクイ」に等しい。従って、以降は「ハクイ」と表記する。即ち、「ハクイ」に「羽咋」の文字をあてたとの記載である。本当であろうか。  『羽咋郡史』[10]では、
  中古羽咋の字を誤りて羽喰に作れることもありしも、寛文11年加賀藩主前田綱紀の命によりて、羽咋の字に復せり、[後略]
とあるだけで、羽咋の原義についての言及は無い。それでは、羽咋は「動物+咋」に該当するとすれば、その動物は何であろうか?羽咋には一昨年 鵜が捕獲されない旨のニュース報道がなされた鵜祭(うまつり)の存在が想起される。『羽咋市史中世・社寺編』[11]には、
  七 鵜祭
図2 鵜咋
 名称 古来鵜祭とよばれてきた。
  由来 明治三五年の由緒調査書に

  此の祭典ハ、大己貴ノ大神此国ヲ巡幸シ給ヒシ時、高志ノ北島ヨリ航シテ今ノ鹿島郡神門島ニ着キ給ヒシカバ、其土地ノ御門主比古神、鵜ヲ捕ヘ テ大神ニ捧奉リシヨリ始マレリと云。
とある。即ち、古代の羽咋海岸部、もしくは邑知潟には鵜が群集し、これを鵜祭時に捕獲したことを示唆している。 尚、神門島については七尾市鵜浦町鹿渡島説があるらしい。しかし、私は、図1と変化した。つまり、「高志ノ北島ヨリ航シ」、能登半島を一周し、 七尾市鵜浦町に至るとするのは無理があり、羽咋郡もしくは輪島市の沿岸部に航し、そこに神門島が存在すると解釈すべきである。 即ち、神門島は能登半島西岸部に存在する厳門島である。現在の厳門には小さな島がある。 これが厳門島と考えられる。七尾市鵜浦町鹿渡島説が浮上した理由は、厳門には既に鵜は存在していなかったからである。  本論に戻り、 「咋」の意味を考察する。『角川大字源』[12]では、
  「咋(さく)」 読み:くう(くふ)
  大きな声
  くう。くらう。
『諸橋大漢和辞典』[13]では、
  「咋(さく)」 おほごえ、こえが多い
  くらう。かむ。
とあり、本来の読みは「さく」であり、「大きな声」と「くう」との両義がある訳である。
図3 熊甲
 羽咋に戻ろう。以上の考察により「羽咋」の原義は「動物+咋」の用例に基づき、動物は「鵜」に相当する「鵜咋」ということになる。古代に おける羽咋の海岸部には鵜の大群が啼泣し、これを原義とする訳である。即ち、羽咋は「鵜の咋」を聞くことのできる土地であった。この「鵜咋」が、 図2のごとく変化し、「羽咋」になったと考えられる。『古事記祝詞』に明記されている   次石衝別王者[羽咋君、三尾君之祖]。 の羽咋には振り仮名は無く(後世の注にはハクヒとある)、本来は「うくい」であった。この「羽咋」が「羽咋」と読まれるようになったのは、羽咋君 の時代以降で、羽咋の海岸部には人為的環境の悪化、又は乱獲が原因と推定されのだが、既に鵜は存在せず、その原義は喪失していためである。
 このような変化は、私が指摘している七尾市中島町における七尾西湾に突き出した熊の手足に似た地形「熊甲(くまこう) 」[14],[15]でも現出し、『萬葉集』[6](4027)には「熊来(くまき)」に変容している。即ち、 図3と変化している。尚、熊甲の「くまかふ」、「久麻加夫」への変容は孤立系としての久麻加夫都阿良加志比古神社における旧仮名遣い変化形態を表す。 つまり、能登では、漢字表記の原義が忘却され、それが平仮名で記憶された結果、再度漢字表記されるとき原義と全く乖離した地名記載が行われたの である。

4. うくい橋

 しかしながら、何故「うくい」の「う」に「羽」を当てたかとの疑問が生じる。そこで、『新日本地名索引』[16]を精査する。一般的に 「う」は「宇」、「鵜」を当てる用例が多い。
  うさかおおたに 宇坂大谷 永平寺 美山町 福井
  うしつ 宇出津 宇出津 能登町 石川
  うのうらまち 鵜の浦町 小口瀬戸 七尾市 石川
  うさかじんじゃ 鵜坂神社 富山 婦中町 富山
が存在する。そして、「羽」の用例は、
  うえし 羽衣石 松崎 東郷町 鳥取
  うぞう 羽蔵 千草 左用町 兵庫
に見られる。即ち、「う」の漢字表記に「羽」を当てる用例は、主に山陰地方に散見される訳である。これは、後述する羽咋が出雲國と但馬國に関係 深いことに合致する。従って、「うくい」を「羽咋」と書いても誤記ではない。
 しかも、決定的論拠として「うくい」という地名が存在する。『能登志徴上編』には、「うくい橋[17]」が記載されている。即ち、
  うくい橋 鳥屋村(末坂(すえざか)村)。宝暦十四年調書に末坂村領うくい橋。長二間、幅四尺
とある。「うくい」は、漢字が不明のためであろう、平仮名表記である。但し、これだけでは「うくい」という地名が存在したとはいえない。地名に 無関係な橋名かもしれない。そこで、『鳥屋町史』[18]第四節村々の概観(4)末坂村の項を参照すると、
  一 壱ケ所 御普請橋字うくい橋 長三間幅六尺
とある。長さと幅は少々異なるが、ここでの「字(あざ)」は「小字(こあざ)」を表し、末坂村に「うくい」という地名の存在を明示している。平仮名表記の「うくい」は「鵜咋」の 原義が消失したためである。
 しかし、鳥屋町は現在鹿島郡中能登町であり、羽咋市ではないという疑問もある。
『鳥屋町史』を再読すると、
  わが鳥屋町には鳥屋比古神社、白比古神社の二社と、羽咋郡内に登載する瀬戸比古神社と、合計三社にあてられる同名の神社が鎮座する[後略]
と記載されている。鳥屋町は現在中能登町であるが、羽咋郡志賀町に隣接し、末坂[19]北西部は羽咋郡であった可能性が高い。 これは『鳥屋町史』で、
  瀬戸比古神社 その由来等は明らかでないが、鎮座の地は往昔羽咋郡に属し、今郡界とする頂に社殿を有したが、後現地に遷座したものと伝えて いる。
とあり、古代羽咋郡説を裏付けている。『延喜式』で、七尾市中島町の久麻加夫都阿良加志比古神社が羽咋郡十四座に編入されている例に等しい。

5. 鳥屋比古神社と気多大社

 鳥屋町末坂では、出雲姓が多い。鳥屋比古神社について『延喜式』神祇を調べる。『延喜式』の出雲國(現島根県の東部)を見ると、出雲國一百 八十七座、出雲郡五十八座に「神社(現島根県簸川郡斐川町大字鳥井815)[20]が存在する。これは『能登志徴上編』で、
  神名式に出雲國出雲郡鳥屋神社。風土記に、同郡鳥屋社とある神社は、則天鳥船神を祀り。今鳥屋村といふ處に鎮座すといへれば、此能登なる 鳥屋比古神社も同神ならむか。
とある。
 即ち、「とや」と「とりや」の違いはある。しかし、漢字表記は同一であることより『能登志徴上編』記載の推定は正しく、鳥屋比古神社のルーツ は出雲國である。末坂で出雲姓が多いのはこの歴史的事実を暗示している。比古については、「比古」は女の神「比刀vに対する男の神「彦」であり、 これは加筆である。この結果、末坂−鳥屋-羽咋-出雲と繋がる北つ道[21]の存在が具現化する。しかも、『石川県鹿島郡誌上巻』 [22]第二章沿革の項で、
  國郡
  。概説。史に徴するに北陸の地たる先住民族と出雲民族が文化の端緒を開きたるものにして國名能登の「アイヌ語」たるは学界の定説たり。
とある。何をもって論拠とするのか記述は無いが、能登と出雲の関係は以前から指摘されていたのである。
 又、羽咋市には気多大社が存在する。『延喜式』を再び精読すると、但馬國(現兵庫県北部)と因幡國(現鳥取県東部)に氣多郡)が存在し、但馬國 百三十一座、氣多郡(現兵庫県豊岡市)二十座に「氣多神社(現兵庫県豊岡市日高町上郷)」[23]が存在する。
 従って、本論文で新たに気多大社のルーツは但馬國であることを提起する訳である。但馬國氣多郡は日本海に面し、やはり北つ道のルートである。 出雲國および但馬國から北つ道を通り能登に来着した理由は、『出雲の古代史』[24]に、
  出雲国家の姿は、出雲国家の王が、日本海を通じて遠く越、新羅との外交関係をもっていたことも示唆している。
又、
  北陸でもっとも早く巨大墳がつくられた能登では、四基のうち二基が前方後方墳であった。こうした現象も出雲とコシの交流のなかで考えられること だと思う。
即ち、古代から出雲と能登は交流があったことは事実だろう。他の要因としては、河川の氾濫、もしくは大地震等による自然災害による海上逃避が 考えられる。
更に『出雲の古代史』に、
  大和朝廷が派遣した吉備津彦・武淳河別の軍に、出雲フルネは殺された
とあるように、出雲国には大和朝廷による大弾圧があったらしい。従って、出雲國、但馬國から追われ、能登に流れ着いた可能性もある。 これらは、「交流」というよりは、山陰地方より能登への「侵入」であったと言えるのである。
 尚、羽咋市において但馬姓を調べると田島(たじま)姓、田嶋(たじま)姓が羽咋市猫の目、柳田に多数ではないが、存在する[25]。 これは、但馬國との関連を示す証拠ともいえる。又、今後の検討課題であるが、中能登町春木には稲葉(いなば)姓が多い。因幡國との関係が考慮される。

6. おわりに

 以上、羽咋の原義は「鵜咋」である。「ハクヒ氏に、『羽咋』という文字をあて」との『羽咋市史原始・古代編』記載は誤りで、「ウクヒに、『羽咋』と いう文字をあて」が正しいことを論定した。更に、羽咋市に鎮座する気多大社は但馬國にそのルーツを持つことを新たに提起した。
 能登は、奇祭[26]および「能登」も含めた地名の原義等論考には事欠かない。今後は、山陰地方から侵入し、「気多」、「鵜咋」の 地名を残した民と能登にネイティブな民、即ち地名「能登部(のとべ)」にその名前を残す「部民」[27]についてとの考古学的、並びに 民俗学的考察を行い、新たな観点からの能登史を構築しなければならない。

[1] 黒坂勝美、國史大系編修會編輯『改定増補國史大系交替式・弘任式延喜式前篇』吉川弘文館、1977
[2] 石川県図書館協会『能登志徴上編』、1969
[3] 秋本吉郎校注『日本古文学大系2風土記』岩波書店、1958
[4] 高木市之助、五味智英、大野晋校注『日本古典文学大系5萬葉集ニ』岩波書店、1969
[5] 佐竹昭広、山田英雄、工藤力男、大谷雅夫、山崎福之校注『新日本古典文学大系2萬葉集ニ』岩波書店、2000
[6] 高木市之助、五味智英、大野晋校注『日本古典文学大系7萬葉集四』岩波書店、1969
[7] 倉野賢司、武田祐吉校注『日本古典文学大系1古事記祝詞』岩波書店、1969
[8] 黒坂勝美、國史大系編修會編輯『日本書紀後篇』吉川弘文館、1971
[9] 羽咋市史編さん委員会『羽咋市史原始・古代編』羽咋市役所、1973
[10] 羽咋郡役所編纂『石川県羽咋郡誌』臨川書店、1985
[11] 羽咋市史編さん委員会『羽咋市史中世・社寺編』羽咋市役所、1975
[12] 尾崎雄二郎、都留春雄、西岡弘、山田勝美、山田俊雄編『角川大字源』角川書店、1992
[13] 諸橋轍次『大漢和辞典巻二』大修館書店、1988
[14] 酢谷琢磨「熊甲における枠旗祭り由来攷」石川県郷土史学会々誌第三十三号、2000
[15] 酢谷琢磨「熊甲由来攷」石川県郷土史学会々誌第三十八号、2005
[16] 金井弘夫編『新日本地名索引・第1巻』アポック社出版局、1993
[17] 中能登町役場鳥屋庁舎職員に確認したところ、現在この橋は不明。
[18] 金沢大学教育学部若林喜三郎編纂『鳥屋町史』石川県鹿島郡鳥屋町、1955
[19] 現在、中能登町役場鳥屋庁舎が存在する。
[20] 玄松子の記憶 http://www.genbu.net/data/izumo/toya_title.htm
[21] 浅香年木『古代地域史の研究-北陸の古代と中世l』法政大学出版局、1994
[22] 鹿島郡誌編纂委員会『石川県鹿島郡誌上巻』図書刊行会、1984。尚、能登は「アイヌ語」については、菅野茂 『菅野茂のアイヌ語辞典』三省堂、1996におけるノッド[nottu]岬、もしくはノト[noto]凪による。しかし、私は別 の原義があると考えている。何故ならば、能登の濫觴は現在の中能登町にあり、中能登町に岬、凪は不適当だから である。
[23] 玄松子の記憶 http://www.genbu.net/data/tajima/keta_title.htm
[24] 門脇禎二『出雲の古代史』日本放送出版協会、1993
[25] NTT西日本『ハローペ−ジ石川県能登版50音別個人名』、2008
[26] 酢谷琢磨「青柏祭曳山行事由来攷」石川県郷土史学会々誌第三十三号、2000
[27] 門脇禎二『日本古代政治史論』塙書房、1981

Last updated on Dec. 05, 2009.
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