熊甲(くまこう)由来攷

酢谷琢磨

(注)詳細は平成17年12月1日発行『石川郷土史学会々誌』第38号を参照下さい。

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1. はじめに

 私は、七尾市中島町で行われている枠旗祭りを講究し、久麻加夫都阿良加志比古神社名の久麻加夫都は熊甲都(くまこうと)に相当すること、 および熊甲の呼称は海岸部の地形に基づくことを提起した[1]。 しかしながら、論述に地形学的論考が不十分であったため真意が伝わらなかったと思われる。
 本稿は、最初に地形学的に海岸へ突き出た地形の呼称に関する考察を行う。次に、七尾市中島町長浦、瀬嵐地区の地形は、 半島、岬、崎、鼻、甲(こう)に該当せず、古代熊の手足に似ているため熊甲(くまこう)と呼称されていたこと、および甲の地形は神戸市六甲 にも比定されることを論述する。

2. 半島、岬、崎、鼻

図1 猿山岬、猿山崎周辺部
  海岸に突き出した地形の最大のものは半島であり、石川県には能登半島があり、身近である。その定義は[2]

  三方を海に囲まれて海に突き出した陸地。ある程度侵食が進んだ陸地(島も含む)が沈水すると、谷に沿って海が侵入しておぼれ谷がつくられ、 稜線部は沈水せずに半島となる。大規模な半島はプレートの移動などの地殻変動の結果つくられることが多い。ゴンドワナ大陸の一部分が移動 し大陸に衝突してつくられたインド半島、紅海の拡大が主原因で形成されたアラビア半島などが挙げられる。

 と記載されている。その大小は相対的ではあるが、大きくて三方を海に囲まれた地形が半島である。房総半島は二方を海で囲まれた半島にも見えるが、 岬と異なる点はその大きさにある訳である。従って、能登半島は能登岬ではない。半島において、または普通の海岸線に存在する海に 突き出した小さな地形は岬、崎、鼻と呼ばれる。次に、岬について考察する。岬の定義は[3]

  海に突出した陸地の先端部、岬角ともいう。山地が沈水し山脚が海と接した場合や硬い岩石からなるため波浪の侵食に抗して突出し岬を つくる場合がある。砂嘴などの堆積地形でも海に突出する部分に対して岬の名称を与える。瀬戸内海や若狭湾の岬は第1の事例、犬吠岬の 伊良湖岬は第2の事例である。富津岬・野付岬は第3の事例といえよう。

図2 宮崎、一本木鼻周辺部
岬、崎は半島より小さく、しかも鋭角的に海に突き出した地形である。図1は1:25,000地形図『能登黒島』における猿山岬、 猿山崎周辺部を示す。図において、岬と崎はほぼ同じ海に突き出した地形(図における太線部)であるが、厳密にいうとその違いは 先端部の尖鋭さに依っている。すなわち、先端部がより尖鋭な地形が岬であり、余り尖鋭的でない地形が崎といえる。ただし、次に考察する 鼻と比較すると、岬と崎はほぼ等しいと思われる。なお、地域的に、岬と呼ぶ地域、崎と呼ぶ地域があるという説も存在するが、全国的に 見て余り地域差は無い。
 鼻については、管見するところ鼻の定義は存在しないので地形図における具体例について考察する。図2は1:25,000地形図 『和倉』における宮崎と一本木鼻周辺部を示す。図において海に突き出した地形(図における太線部)ではあるが、崎と鼻は異なる。 すなわち、崎に対して鼻は尖鋭的ではなく顔の中央に隆起する器官である鼻の形に似た地形を指すことが分かる。なお、鼻は端(はな)の意でもあり、 端(はし)の地形をも意味すると考えられるが、図2で見る限り単なる端(はし)ではなさそうである。
図3 七尾市周辺部
 以上、半島、岬、崎、鼻を考察したが、次節ではこれも地形学的に定義がなされていない甲(こう)の地形について考える。

3. 甲の地形

 甲(こう)とは聞きなれない呼称であるが、古代「手足の甲のように丸く海に突き出した地形」を意味していたと推定する。 『能登志徴上編』[4]所口村(現在の七尾市)の項では、

  今島地へ渡る処をば、甲の大口・小口など呼べり。

 とある。図3は1:200,000地勢図『ななお』を示す。図における和倉の部分は丸く海に突き出した地形(図における太線で丸く囲まれた領域) である。すなわち、甲は『広辞苑』における「手足の上の方の面」に相当する地形を指し、所口村は能登島への渡航地であり、古代は甲と呼ばれた。
図4 穴水町甲周辺部
 図4は1:50,000地形図『宇出津』を示す。図における現在穴水町甲(かぶと)と呼ばれる地域には、円山と記載された丸く海に突き出した地形 (図における太線部)が存在することが分かる。  このように古代より「コウ」と読まれいた地形を表す甲が、中世になって原義の不明瞭化により甲の呼称が廃れたり、「カブト」と誤読されるように なったと推定される。  後者の根拠として、甲に関する『能登志徴下編』[5]甲村の項の記述は、

  甲。和名与路比。冑。和名加布度。甲は鎧の事也。然日本俗呼甲為冑読。大誤歟。

と記載されている。すなわち、甲は元来「ヨロイ」を意味したが中世「カブト」と誤読するようになった訳である。現在甲を「カブト」と読むのは誤りが定着した 和訓であり、古代には漢音で「コウ(カフ)」と呼称したのである。 どの時代から誤読され出したのか文献で検証する。平家物語巻第七木曽の願書[6]では、

  木曽殿兜(かぶと)を脱ぎ、霊鳩を拝し給ひけん、心のうちこそたのもしけれ。

 とある。ただし、文献[6]は「百二十句本」(平仮名本)を底本とし、直接には国立国会図書館蔵本によって作成されたものであり、しかも凡例には、

  底本は句読点無く僅少の漢字を交えた平仮名本で、読み方が明瞭であるという利点があるが、字面が冗長で読みにくい欠点もある。読みやすく、 意味のとりやすいように適宜漢字(当用漢字を主とする)を当て、仮名遣いを統一(歴史的仮名遣いを主とする)し、段落・句読点を設け、(後略)

 とある。すなわち、底本が平仮名文で、後に漢字に変換されているため平安期に「兜」が用いられていた確証とはいえない。太平記巻第8山徒京都に 寄する事[7]では、

 その矢あやまたず田中が右の頬(ほほ)さきを、冑(かぶと)の菱(ひし)縫(ぬひ)の板へかけて、篦(の)中(なか)ばかり射通したりけるあひだ、

 との用例がある。文献[7]の凡例には、

  漢字・仮名の表記は通行の表記による。なお底本には、あて字が見られるほか、「剋」と「刻」、「責」と「攻」、「甲」と「冑」など、同じ語 でありながら表記の不統一がしばしば見られるが、つとめて通行の表記に統一する。

 とある。従って、南北朝期より「冑」と「甲」が併用され出したことが分かる。
 甲をカブトと読む明証は、松尾芭蕉の次の俳句である[8]

  むざむ(ん)やな甲(かぶと)の下(した)のきりぎりす

 すなわち、元禄期には甲(こう)を甲(かぶと)との誤読が確立されていたと考えられる。ただし、芭蕉自筆本には振り仮名はない。従って、芭蕉は 「甲(よろい)の下のきりぎりす」と読んだのだが、その後甲(かぶと)と振り仮名が打たれたのかもしれない。この真偽は不明であるが、ともかく 南北朝期以降甲(かぶと)の誤読が確立されていったと考えられる。

4. 石川県における甲の地名

図5 別所岳から見た七尾市中島町長浦、瀬嵐地区
 前述のごとく甲は地形を表すことが明確になった。これを図3で示した地勢図『ななお』で検証する。七尾市中島町長浦、瀬嵐地区の地形は 海に突き出しているが、丸くはない。すなわち、甲とはいえない。しかし、扁平な熊の手足に酷似した地形(図3における太線で囲まれた扁平な部分) が海に突き出しているのである。図5は別所岳から見た長浦、瀬嵐地区(図における太線部)を示す。確かに熊の手足に見える。これを古代では 「熊甲(くまこう)」と呼称したと推定する訳である。
 そこで、七尾市中島町に鎮座する久麻加夫都阿良加志比古神社の久麻加夫都について再論すると、漢字表記された久麻加夫は古代「クマコウ」 と呼称されていたものを旧仮名遣いで「クマカフ」と表記し、これに前論[1]で述べた「於いて」の意味を持つ「都」を付属させ 久麻加夫都阿良加志比古すなわち「クマカフト(ツ)アラカシヒコ」と表記した。すなわちこれが旧仮名遣いにおける濁点の省略形式と解され 「クマカブト」と誤読され、「熊甲(くまこう)に於ける」という真義が、「熊兜」に誤用されたのである。従って、久麻加夫都阿良加志比古の 原義は「熊甲に於けるアラカシ彦」を意味する訳である。
 なお、七尾市中島町長浦、瀬嵐地区の呼称が熊甲であっても久麻加夫都阿良加志比古神社は熊甲の地より山側に鎮座するのではという疑問 については、『能登志徴上編』鹿島郡中島村の項で、

  中島村は熊木(くまき)の院内にて、今も此地をさして熊木とも、また此中島米をば熊木米とも呼べり。

 とあるとおり、久麻加夫都阿良加志比古神社の地も熊木と呼ばれたのである。この熊木(来)郷または熊木川という呼称は、熊甲(くまこう)の 甲を中古訓でキと読み「クマキ」になった、もしくは「コウ」が「キ」に転訛したものと推定される。
 穴水町甲(かぶと)についても、古代の呼称は甲(こう)と推定される。

5. 石川県外における甲の地名

 甲の地について、石川県以外で検証する。代表例は兵庫県における六甲(ろっこう)という地名である。『角川日本地名大辞典』[9]では、

  六甲山地南麓、石屋川右岸に位置する。古代当地方を「ムコ」と称し、背後の山をムコ山と呼んだ。のち「六甲」の字があてられ「ロッコウ」と 称するようになり、これが町名となったものか。「ムコ」は、難波の津(大阪)の向こうにちなむともいわれるが、神功皇后にそむいて討たれた6人の 逆臣の兜首6つの意によるとも、神功皇后がこの山に埋めた6つの甲によるともいう(後略)。

 と記載されている。
『日本歴史地名大系第29巻T兵庫県の地名』[10]では、

図6 須磨の浦周辺部
  六甲の名称は、古くこの地が難波の対岸(向)にあることからムコ(務古・武庫)とよばれ、のちに六甲の字を充当してロッコウと読むようになった といわれるが定説はない。

 と記載されている。すなわち定説は無いようだが、「ムコ」が起源らしい。。そこで、兵庫県海岸部の地形図を検証する。図6は1:50,000地形図 『須磨』を示す。図における須磨の浦部分(図における太線部)は現在3つの甲(こう)の地形を確認できる。図における外浜町部分は現在埋め立てられて いるのであろうが、この部分には残り3つの甲の地形(合計6つの甲)が存在したと推定される。つまり、六甲は「兜首6つ」でもなく、「向こう」でもなく、 「六つの丸く海に突き出した甲」の地形が存在した地方を意味していたと推定される。
 文献[10]における須磨の項では、

  六甲(ろっこう)山地の南西端、山塊が海岸線に迫る地域。鉢伏(はちぶせ)山・鉄拐(てつかい)山南麓に位置し、大阪湾を隔てて淡路島に対する。古く須麻 ・陬麻・須馬・須間・などとも表記。摂津国の南西隅、畿内の最西端にあたる交通・軍事上の要衝で、山陽道が播磨国へと通じ、律令制下では須磨駅や須磨関 が置かれた。

 との記述がある。
 すなわち、六甲地方の南西端が須磨であり、律令制前には須磨の浦周辺およびその後背山域までを含む広い領域が六甲(むこう)と呼称されていた。しかし、 律令制下須磨の重要性が優先され、本来の地方名である「ムコウ」の呼称は須磨では廃れ、須磨の浦の呼称が定着した。
 一方、「ムコウ」は「ムコ」に短縮された形で後背地に残り武庫(むこ)として現存すると共に、ムコ山と呼ばれた後背山地についても数詞6を「ムッツ」から 「ロク」と呼称するようになって、六甲(ろっこう)山地という地名が定着したものと推定される。
 次に、滋賀県に存在する甲賀町、甲西(こうさい)町、甲南町を含む甲賀(こうか)郡について検討する。滋賀県の地名[11]では、

  (前略)表記「甲賀」のほか、甲可・甲加の例があり、鹿深山・鹿深臣などもみえるからカフカ、カウカ、コウカであろう。(中略)郡名の初出は平城宮跡出土 木簡の「近江国甲可郡山直郷」で、(後略)

 とある。古代の呼称は「カフカ」であり、これを漢字表記するには種々の表記法が存在する。例えば、甲加は甲が夥(おびただ)しいという意味もあり、 JR草津線こうさい駅の西方には琵琶湖に丸く突き出した甲の地形をいくつか確認することができる。しかし、この郡名についてはどうも海岸線に突き出した甲の地形に 因むものではなさそうである。何故ならば、文献[11]における甲賀山(こうかやま)の項では、

  甲賀郡油日(あぶらひ)(現甲賀町)と伊賀国柘植(つげ)(現三重県阿山郡伊賀町)を結ぶ倉歴(くらぶ)道沿いの山地を「鹿深山」とよんでいたと考えられる。

 とある。すなわち、甲賀は鹿深に基づく山地を直接指すのである。この山地を含む郡が甲賀郡であり、海岸線に甲の地形は存在するが、直接甲とは関係がないと推定 する。現在六甲の呼称は海岸線にはなく後背地に存在するが、何故六甲は海岸線に因み、甲賀郡は山地に因むかの理由は、六甲は山地と海岸線を含む広域を意味していたが、 甲賀は山地限定であり、しかも甲西町は合併後の町名ではあるが、琵琶湖に突き出た甲の地形の東部にあり、甲賀町の西にあるからである。
 以上、甲の付く地名および郡名を検討した。滋賀県甲賀郡については断定できないが、神戸市六甲は甲の地形を表す例であり古代では「ムコウ」と呼ばれていた。また、 七尾市中島町熊木は海岸線に付き出した地形であり、古代「クマコウ」と呼ばれたと考えられる。これらの論述に関し『能登志徴上編』鹿島郡瀬嵐灘の項に、

  むかし弘治の頃七尾の城主畠山修理大夫義則は風雅の國主にて、此灘を須磨・明石の浦に模擬していたく賞せられ、其比月村齋宗碩等を招き時々の諷詠を盡されしとぞ。

 とあるのは偶然ではなく、必然なのである。すなわち、瀬嵐と須磨に共通するトポフィリア的キーワードは甲(こう)だからである。

6. おわりに

 以上、甲は丸く海岸に突き出した地形を意味する。岬のように鋭角的に突き出した地形でもなく、鼻のような地形でもなく、甲の地形でもない七尾市中島町長浦、 瀬嵐地区の扁平に海に突きだした地形は古代熊甲(くまこう)と呼ばれたとの推論を述べた。この考察に関し、神戸市六甲は海岸線に突き出した六つの甲の地形に因む ことを提起した。この結果、七尾市中島町に鎮座する久麻加夫都阿良加志比古神社は「熊甲に於けるアラカシ彦神社」を表すとの論考を述べた。
 最後に、懇切丁寧なご教示を賜った査読諸氏に深く謝意を表する。

文  献

[1]酢谷琢磨『熊甲における枠旗祭り由来攷』石川県郷土史学会々誌第33号、2000
[2] 地学団体研究会、新版地学事典編集委員会『新版地学事典』平凡社、1999
[3] 町田貞他『地形学辞典』二宮書店、1981
[4] 『能登志徴上編』石川県図書館協会、1969
[5] 『能登志徴下編』石川県図書館協会、1969
[6] 水原一校注『新潮日本古典集成平家物語中』新潮社、2001
[7] 山下亮一校注『新潮日本古典集成太平記一』新潮社、1991
[8] 上野洋三・櫻井武次郎編『芭蕉自筆 奥の細道』岩波書店、1997
[9] 「角川日本地名大辞典」編纂委員会、竹内理三『角川日本地名大辞典』角川書店、1988
[10] 平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系第29巻T兵庫県の地名』平凡社、1999
[11] 平凡社地方資料センター『日本歴史地名大系第25巻滋賀県の地名』平凡社、1991

Last updated on Mar. 10, 2006.
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