青柏祭曳山行事・熊甲(くまこう)枠旗祭り由来攷

酢谷琢磨

(注)詳細は平成12年12月3日発行『石川郷土史学会々誌』第33号を参照下さい。

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1. はじめに

 七尾市青柏祭の起源は、源順(みなもとのしたごう)が能登国の管領になった時であり[1] 、後世の青柏祭は高さ十数メートルもある三台のでか山が登場する勇壮な能登の祭りである。この七尾市において、青柏祭曳山行事(以下、青柏祭と略す)起源論争が沸き起こっていると報道されたのは平成7年である[2] 。当時の新聞では田川捷一「元禄説」[3]と松浦五郎「慶長説」[4] が提起され、論争は過熱気味と報じられた。しかし、各説に客観性があるようには見受けられない。又、何故巨大な山車を登場させるのだろうか等疑問は多い。
 次に、能登の奇祭と言われ、鹿島郡中島町で行われている枠旗祭りを考究する。この祭りには、二十数本の深紅の枠旗と先導役猿田彦が登場し、その起源については古代朝鮮由来説が有力視されている。しかし、単に古代朝鮮由来だけでは、何故深紅の枠旗と猿田彦を登場させるのか等の疑問は解消しない。
 本稿では、最初に青柏祭の由来と起源について『能登志徴上編』[5]の記述を基に考察し、前田安勝時代、即ち天正起源説を提言する。
次に、枠旗祭りと久麻加夫都阿良加志比古神社の祭神を考察し、その由来は古代朝鮮ではなく記紀天孫降臨神話の具現であり、久麻加夫都は熊甲都(くまこうと)に相当することを論述する。
 

第2章 青柏祭の起源

図1 青柏祭

2.1 青柏祭起源論争

 私は、青柏祭(図1)起源論争の報道後、新聞の投書欄で[6]
  
  田川氏の元禄説だが、綱紀の四男吉徳誕生を起源とするのは少々唐突の感を否めない。一方、松浦氏は  住民の活気と高岡の御車山祭りとの類似性を根拠に慶長説を主張しているようだが、発生起源に関する地域的必然性が欠けている。

と所見を述べた。しかし、明確な根拠あっての論述では無かった。
 その後、故松浦五郎は投書欄で[7]
  
  元禄説を取る田川氏の論を認めてしまうと、国が青柏祭の曳山行事を指定した趣旨を全面的に否定することになる。指定の実務をとった私も心中穏やかでなく、七尾市にとっても問題である。

と応酬している。
 

2.2 青柏祭文献考

 『能登志徴上編』における山王祭(青柏祭)の項では、
  
  此祭は侍従利政(利長弟)君の時より初るよし能登誌にいへれど、今社蔵の高徳公(利家)の御書どもに考ふるに、御入部以前よりの祭禮なりしこといちじるし。

とある。利政が小丸山城を居城とするのは慶長2年(1597)である[5]。従って、前述の慶長説は『能登誌』に由来している訳である。
 しかし、『能登志徴上編』はそれ以前と記述している。その根拠は『利家御書』の写し
  
  當月御神幸十九日に相當之由、任例年早速被取行尤候。然者巻数(樽か)并肴祝着に候。尚期面之時候。謹言。四月五日。又左利家御判。山王社神主へ。

であり、また
  
  此祭禮引山祝賀の唱歌に、祝賀加賀長珍能矢先(しゅうがかがちょうちんよいやさ)。又、惣禮場永統功作能例応得矢(そうれいばあえいとうこうさあのうれいおうえいやあ)。右はじめの文句は、小丸山に利家卿在城し給ふ比、謡出したる唱歌なり。次の文句は、古来より當祭禮に限り謡来る唱歌なるよし社記に見へたり。されど如何なる意なるや詳ならず。

である。
 即ち、『能登志徴上編』では利家の時代に始まったとしたいのである。

2.3 青柏祭由来考

 林屋辰三郎『京都』[8]では、
  
  祇園祭は祇園御霊会というとおり、御霊会の代表である。

と述べられているごとく、祭りの原点は「祓(はら)え」である。それでは、青柏祭は何を祓うのであろうか。結論から言えば、私は第一点に謙信に破れた畠山家への祓えであり、第二点は利家が気多本宮を明神野(現在の七尾市所口町)へ遷し、気多本宮旧社地に小丸山城を築城したことへの祓えであると考える。
 まず第一点については、青柏祭の元来の名称は山王祭であり、山王祭は七尾市山王町に鎮座する七尾山王と呼ばれた府中日吉神社(現在の大地主(おおとこぬし)神社)[1]の祭礼である。この神社は、畠山城下であった頃、畠山家臣に非常に尊敬され、多数の掛額等が奉納された[5]。つまり、山王祭は畠山家の尊敬社府中日吉神社の神事である。
 『能登志徴上編』府中・日吉神社の項には、
  
  神子の持つ古鈴あり。中心に銘あり。其文。奉山王廿一社御鈴。蓬莱出雲守国近作。祥感永感銘置。永正十三年(1516)五月吉日とあり。此の鈴は畠山修理大夫義統の寄付也といへり。其時代より今に至り、當所鍛冶   町の木屋興右衛門と云者代々に預居、四月の祭禮に神前へ出し備置例也といへり。

とある。即ち、鍛冶町から山車を出すのは畠山家との縁である。
 府中町は畠山時代相物(あいもの、塩魚類)商売の中心地であり[5]、魚町の山車も畠山の家紋である丸二の紋章を付けている。従って、三台の山車は畠山家と関わり深い訳であり、これを畠山家への祓えと考える理由とする。
 次に、第二点である気多本宮の遷座要因論を考察する。利家が築城した小丸山は一宮気多大神の本宮である気多本宮の旧社地である。利家は「山」を動かし、小丸山城落成前の天正11年(1583)に金沢へ出立してしまう[5]。その後、小丸山城を守ったのは、前田五郎兵衛安勝(利家兄)、其男孫左衛門良継・高畠織部定吉・中川清六郎重光等である。安勝は文禄3年(1594)に死亡する[9]。 しかし、天正末期の安勝にとっては、小丸山城を祓う必要を痛感したと推察される。
 青柏祭の由来については、伝承が残っている[注1][10]
  
  むかしむかしの、ずっと昔。毎年申の日に行われる祭礼に、美人娘を人身御供する習わしがあった。これは三匹の猿神の内残る一匹の猿神の悪事であり、この猿神を退治するために探し出された越後の修験者が娘の身代わりとなり唐びつに入り、神前に供えられた。翌朝修験者と狒狒(ひひ)猿は相討ちとなり倒れていた。そこで村人は修験者を手厚く葬り、猿神のたたりを恐れて三台の山を作るようになったという。

である。これは説話であり、直接的要因は以上の二点であると推測する。

2.4 青柏祭安勝時代起源考

 前節の考察では、畠山家への祓えが青柏祭成立の要因の一つと述べた。しかし、『石川県鹿島郡誌下巻』[1]、魚町の丸二の家紋、並びに義統(よしむね)寄付の古鈴について考慮すると、畠山家への祓えではなく、畠山城下の時代に青柏祭は始まったとも考えられる。『石川県鹿島郡誌下巻』大地主神社祭典並神事の項では、青柏祭の起源は
  
  畠山修理大夫満則の世より最も厳格に行はれ鍛冶町、府中、魚町を重立つ町柄と定め之の三町へは特に祭典執行の為営業の諸税を免除し加ふるに該町より祭典に献ずる鉾山へは畠山家の紋章を附せらる今尚存する紋丸に二ツ引きは即ち是なり。

とあり、しかも天正十三年(1585)八月二十八日付けの青柏祭再興を請ひ許裁を得たる折り『山王宮神主の書』では、
  
  當社能府地主日吉山王者従往古四月申日御祭禮能府町中並鍛冶町府中町魚町右三町より引山餝(飾)り備御大守御安泰國中安全之御祈祷相勤来候通永永無怠慢御祭禮相勤候様奉願上候所願之通被為仰付難有仕合冥加に余り恐多奉存候以上

とある。
 この記述が史実とすれば、何故地元では「元禄説」、「慶長説」に固執するのであろうか。原因は、この書の「能府地主日吉山王」であり、『石川県鹿島郡誌下巻』大地主神社の項には、
  
  當社はもと加夫刀比古神社と称し地主の神として崇敬せしが元正天皇の養老二年(718)に越前國の中四郡を   割いて能登國を設置せられるや又近江國日吉山王社の祭神を勧請して山王社又は山王権現と称せり爾後武部判官師澄中院少将定清守護職畠山義深以下累世何れも崇敬厚かりき。就中畠山満則最も崇敬し古格例典を復興せしが正親町天皇の天正五年(1577)九月兵災に盡く烏有に帰せり。同十年(1582)前田利家入國するに及び再興せるより幾多の変遷を経光格天皇の文化五年(1808)に拝殿の大改築を行ひ仁孝天皇の文政五年(1818)に能府地主山王大社と称せり。明治六年(1873)六月更に府中日吉神社と改称し同十五年1882)三月遂に現今の如く大地主神社と称せり。

とある。即ち、「日吉」の差異はあるが、文政五年に「能府地主山王大社」と改称した訳であり、『山王宮神主の書』の日付は信憑性を持たず、又満則時代起源を裏付ける資料も焼失したからである。
 尚、魚町の丸二の紋章については畠山時代起源の証拠ではなく、畠山家への祓えを強調するため付けることの許可を得たと考えることが出来る。
 又、義統寄付の古鈴については、『能登志徴上編』の府中・日吉神社の項で、
  
  むかしは十一月猿楽の神事ありしかど、今は其事絶たり。

と記載されているごとく、古来府中日吉神社において十一月に催された猿楽神事用の鈴と思われる。何故鍛冶町に存在するかについては、鍛冶町で古鈴の修理を行った、又は兵災時に預かったためであろう。しかし、その後神事は途絶え、そのまま鍛冶町で保管され、後世青柏祭で披露されたと考えられる。即ち、直接青柏祭起源には結びつかない。
 従って、時代考証可能な範囲に限定し、私の主張する青柏祭安勝時代、即ち天正起源説について論述する。
 『能登志徴上編』における魚町の項では、
  
  天正十四年(1586)七月四日。御印。

と記載されている。この記述は『加能古文書』[11]において、利家御印のある
  
  當町魚物売買之事、魚町外脇々にて売買一切令停止。若違背之族於有之者、可加成敗者也。

との『七尾町古文書』の存在より信憑性を持つ。但し、利家御印については、利家が金沢城へ入城するのは天正11年であり、『加能古文書』天正十三年五月七日の項に、
  
  前田利家、鹿島郡七尾の前田安勝に羽柴秀吉の能登に動座することあるべきを告げ、為に座敷を造らしむ。

とあり、天正14年に利家は小丸山城にいなかったと思われる。従って、利家が小丸山城に立ち寄ったか、又は安勝が利家に依頼して魚町に授けたとしか考えられない。
 つまり、魚町の魚物売買独占権取得は安勝小丸山城在城時の天正14年であり、魚町から山車を出す依拠はこの御印であり、三台の山車の登場は天正14年以降と推定する訳である。
 同じく『能登志徴上編』の檜物町の項では、
  
  温故足徴に、高徳公之御印書と、前田五郎兵衛安勝君の印書を戴、七尾檜物町所持とあり。其寫。町のひものや之内、上手を一人申付可上候。来八日に京へのぼせ、さかなのたぐひをさせ可申候。

とある。即ち、安勝の時代にいわゆる「住民の活気」が盛り上がると同時に、京都との交流もあり、この時代に青柏祭は始まったと推測できるからである。

2.5 御神幸と祭礼祝賀唱歌

 以上、青柏祭安勝時代、即ち天正起源説を提言したが疑問点も残る。その理由は、前節で引用した利家御書の写しにある「御神幸」であり、御神幸を青柏祭とすると、『能登志徴上編』が示唆する利家時代起源説になるからである。
 脇田晴子『中世京都と祇園祭−疫神と都市の生活』[12]では、
  
  町から出す山鉾巡行がはじまったのは、南北朝期からである。町々から出す鉾は、御輿渡御(みこしとぎょ)に随行する鉾が進化して、独立したものといえる。

と述べている。尚、山鉾巡行については、林屋辰三郎『京都』で、
  
  応仁・文明の乱後、祇園会の山鉾のすがたをふたたびみることの出来たのは、明応9年(1500)のことである。

との記載を付記する。
 即ち、『利家御書』の写しにある御神幸は御輿渡御であり、この根拠は『加能古文書』天正十四年二月八日付けの『気多神社文書』において
  
  當社御神幸之事、如例年可被相勤者也。仍如件。

とあることより裏付けられる。何故ならば、羽咋気多大社神事には曳山は存在せず、御輿渡御のみ行われているからである。従って、御書写しの記述は利家時代起源説への証拠にはならない。
 次に、祭礼祝賀唱歌を考察する。「祝賀加賀長珍能矢先」に関しては、私は言祝(ことほ)ぎであり、次の「惣禮場永統功作能例応得矢」は漁師の網引き歌に由来すると考える。すると、最初の唱歌、即ち言祝ぎが利家の小丸山在城時に斉唱されたとの記載は信憑性を持つ。その理由は、言祝ぎにおける「長珍」は提灯であり、『広辞苑』に
  
  16世紀末の天正・文禄頃に伸縮自在な構造の箱提灯が現れた。

とある。
 しかし、これは青柏祭利家時代起源説への証拠にはならない。何故ならば、小丸山城普請に人足として並々ならぬ貢献をしたのは魚町の町衆であり、言祝ぎ及び工事用として前述の唱歌を謡った。小丸山城が落成すると、その功を認められ安勝より御印を拝領する。これを契機に畠山家と関わりのあった府中町、鍛冶町、並びに丸二の家紋を付けることになった思われる魚町が呼応して山車を作製し、青柏祭は始まった。祭礼唱歌は魚町の小丸山城工事用唱歌が府中町と鍛冶町に流布し、三町共祭礼時に限り謡うようになったと推定されるからである。
 尚、天正14年以降ということは、『能登誌』の主張である利政入城後とも考えられる。しかし、利政は関ヶ原役では、利長の説得にも拘わらず東軍に就くのを拒み、小丸山城で兵粮弾薬を蓄え、形勢を観望した。つまり、慶長期の利政は戦備に奔走し、祭りを奨導する余裕はなかったと思われる。
 

第3章 枠旗祭り

3.1 久麻加夫都阿良加志比古神社

 平成10年、中島町における枠旗祭りを拝見した。深紅の枠旗は青空に映え、非常に綺麗であった。この祭りに関しては、谷川健一『日本の神々』[13]で熊木(くまき)郷に鎮座する久麻加夫都阿良加志比古神社の祭神阿良加志比、都奴加阿良斯止(つぬがあらしと)が紹介される等非常に興味深い。本章ではこの祭りと祭神についての考察を行う。

3.2 枠旗と猿田彦

 枠旗祭りに現出する猿田彦は『日本書紀』[14]によると天孫降臨に際し火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)を先導した神として記されている。火瓊瓊杵尊は『古事記』[15]では番能邇邇芸命(ほのににぎのみこと)と表記されている[16]。私は、この「番」が漢音で同音の「幡(はん)」に転化し、猿田彦が緋(火)の枠旗(幡)を先導することになったと推測する。即ち、枠旗と猿田彦の形象には古代朝鮮的要素もある。しかし、真意は記紀における天孫降臨神話を具現しているのである。
それでは、久麻加夫都阿良加志比古神社は天孫降臨の地であったのだろうか。私が境内で枠旗祭りを拝見した時、枠旗が社殿の庇ぎりぎりまで侵逸し、それを必死に制止する氏子の所行を見た。勿論、祭りに付き物のエネルギッシュな若者による社殿破損を制止しているのである。しかし、私はこの所作を天孫降臨阻止の具象と思ったのである。
 つまり、枠旗祭りは記紀における天孫降臨神話の伝世であり、阿良加志比は天孫降臨を阻止する側の神、『日本書紀』における順(まつろ)はぬ鬼神(かみ)に該当する。次節で阿良加志比、都奴加阿良斯止を考察し、その根拠にしたい。

3.3 阿良加志比、都奴加阿良斯止

 久麻加夫都阿良加志比古神社の祭神阿良加志比、都奴加阿良斯止は単に渡来系の神とされている。その神名は何に由来するのであろうか。久麻は谷川健一『日本の神々』に言及されている熊または高麗であろう。問題は加夫都である。従来はカブトと読み、祭りの呼称を「お熊甲(くまかぶと)祭り」と称していた。最近では、「枠旗祭り」も併用されているので、地元では苦慮しているものと思われる。
 さて、加夫都である。『能登志徴上編』では、
  
  都はツの仮字にて頭(かふ)つなり。

とある。これに対して、私は甲(こう、かふ)都(と、つ)説を提案する。理由は、都は『角川大字源』によると「於」という意味があり、久麻加夫都は「熊甲(くまこう)に於ける」と読めるからである。この根拠については四節で詳述する。それでは熊甲に於ける阿良加志比、都奴加阿良斯止は如何なる神であろうか。
 阿良加志比については、社名より阿良加志比古が正しいとすれば、阿良加志は古語「争(あらが)ひ」に相当すると推定する。シとヒの違いは『石川県鹿島郡誌上巻』[17]第十三章言語における、光るを方言でシカル、叱るを方言でヒカルという用例の紹介より、シ−ヒ変化の発生と思えばよい。
 尚、自動詞の形容詞形への変化の例として、急ぐ−忙しい、騒ぐ−騒がしい、賑わう−賑わしい、誇る−誇らしい等がある。従って、争う−争しい(阿良加志比)も考えられる。しかし、『古語大辞典』及び『方言大辞典』で「争しい」を見い出せないので、現時点ではその可能性を否定せざるを得ない。
 いずれにしても、勇猛で順はぬ地主神が熊甲に存在したことを後世に伝えていることに違いはない。即ち、枠旗祭りの原点は非業の最期を遂げたかもしれない地主神阿良加志比への祓えである。
 この神が「北ツ海ツ道」[18]経由(出雲−越)の渡来人である可能性は存在する。何故ならば、『延喜式』[19]において、久麻加夫都阿良加志比古神社は能登國羽咋郡十四座中の一座とある。つまり、久麻加夫都阿良加志比古神社は羽咋郡に鎮座すると書かれている訳であり、気比神・気多神との繋がりを連想させるからである。尚、高麗からの渡来人である可能性は少ない。その理由は、後述する熊甲説において熊は高麗の転訛とは考えられないからである。
都奴加阿良斯止は『日本書紀』垂仁天皇元年正月−二年是歳条における意富加羅国(おおからのくに)の王(こきし)の子、都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)であり、この別称は享保年代、又は明治維新の祭神改変時に加筆されたものであろう。

3.4 加夫刀と久麻加夫都

 以上の論述の妥当性を検証するには、能登國能登郡の式内社であり、鳳至郡穴水町字甲に鎮座する加夫刀比古神社についても考験しなければならない。加夫刀について最初に思い浮かぶのは兜であり、兜比古神社である。次に考えられるのは、『能登志徴上編』に記載されている
  
  刀は都の誤ならむ。

である。即ち甲都(こうと)であり、甲に於ける比古神社である。
 甲については『能登志徴下編』[20]甲村の項で、
  
  甲。和名与路比。冑。和名加布度。甲は鎧の事也。然日本俗呼甲為冑読。大誤歟。

と述べているごとく甲をカブトと誤って読んでいる。現在甲をカブトと読むのは誤りが定着した和訓であり、上代には漢音でコウと呼称していたと思われる。
 その根拠は、第一章で述べた大地主神社の旧称も加夫刀比古神社であることに基づく。『能登志徴上編』所口村(現在の七尾市)の項では、
  
  今島地へ渡る処をば、甲の大口・小口など呼べり。

とある。即ち、甲は『広辞苑』における「手足の上の方の面」に相当する地形を指し、甲村も所口村も能登島への渡航地であり、上代は甲と呼ばれた。これが後世加夫刀に転化したものである。 つまり、加夫刀比古神社は甲都比古神社である。

図2 国土地理院1:200,000NJ-53-11七尾
そこで、久麻加夫都阿良加志比古神社の久麻加夫都について再考すると、久麻加夫都は熊兜と熊甲都のいずれかに該当する。熊兜については『広辞苑』での用例が無いので、可能性は少ない。一方、熊甲都は前節で述べた如く「熊甲に於ける」と読めることより信憑性を持つ。
 その理由は、中島町における熊木(来)郷という呼称の存在である。熊木郷は図2で示す海岸部をも含む渡航地であり、上代の呼称は熊甲[注2]であった。その後、甲をキと読み、郷名は熊木になり、『万葉集』[21]巻十七で
   
   能登郡香島津(かしまのつ)より發船(ふなだち)して、熊来(くまきの)村を射(さ)して往きし時、作れる歌
  香島より熊来(くまき)をさしてこぐ船の楫(かじ)取る間(ま)なく京師(みやこ)しおもほゆ

と歌われた。しかし、社名は正式呼称熊甲(久麻加夫)のまま現在に至ったと推測されるからである。尚、熊甲津の可能性も考えられる。しかし、甲と津で意味が重複するので可能性は少ない。つまり、久麻加夫都阿良加志比古神社は熊甲都阿良加志比古神社である。
 この根拠は、『能登志徴上編』熊来郷の項における
  
  或云。熊来の地名は熊甲の神名より負へるなるべしといへり。

である。

4. おわりに

 以上、青柏祭は畠山家への祓えと気多本宮の遷座による小丸山城への祓えが直接的要因であり、その起源は『能登志徴上編』における魚町と祭礼祝賀唱歌の項を考究した結果、前田安勝の時代、即ち天正であることを述べた。
 枠旗祭りは非業の最期を遂げたかもしれない地主神阿良加志比を祓う神事であり、地主神を日本書紀における火瓊瓊杵尊の降臨を阻んだ神に準(なぞら)え、猿田彦と深紅の枠旗(火瓊瓊杵尊)を登場させた、及び社名にある久麻加夫都は熊甲都に相当するとの考察結果を述べた。
 最後に、本論考の端緒を提示して頂いた諸先達、及び懇切丁寧なご教示を賜った査読諸氏に深く謝意を表する。

 本ページにおける地図は、建設省国土地理院長の承認を得て、同院発行の20万分の1地勢図を複製したものである。(承認番号 平12総複、第38号)

[注1]真偽は不明であるが、越後の修験者との口承より謙信以後であり、天正起源説に合致。
[注2]石川動物園の獣医より伺った話では、熊の手足の甲は人より扁平であるとのことである。即ち、なだらかな甲の地形を「熊甲」と言ったと思われる。

文  献

[1]鹿島郡誌編纂委員会『石川県鹿島郡誌下巻』図書刊行会、1984
[2]「北國新聞夕刊」、1995年11月28日
[3]田川捷一『能登の文化財』第29輯、能登文化財保護連絡協議会、1995
[4]松浦五郎『七尾の「でか山」』七尾市職員労働組合、1995
[5]『能登志徴上編』石川県図書館協会、1969
[6]「北國新聞」、1995年12月5日
[7]「北國新聞」、1995年12月9日
[8]林屋辰三郎『京都』岩波新書、1994
[9]田中喜男『加賀百万石』教育社、1992
[10]中村敏昭『青柏祭』青柏会、1995
[11]日置謙・松本三都正『増訂加能古文書』名著出版、1973
[12]脇田晴子『中世京都と祇園祭−疫神と都市の生活』中公新書、1999
[13]谷川健一『日本の神々』岩波新書、1999
[14]坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀』(1)−(5)岩波文庫、1997
[15]倉野憲司校注『古事記』岩波文庫、1997
[16]山本ひろ子『中世神話』岩波新書、1998
[17]鹿島郡誌編纂委員会『石川県鹿島郡誌上巻』図書刊行会、1984
[18]浅香年木『古代地域史の研究−北陸の古代と中世1』法政大学出版局、1994
[19]國史大系編修會『新訂増補國史大系26延喜式弘仁式交替式』吉川弘文館、1965
[20]『能登志徴下編』石川県図書館協会、1969
[21]佐佐木信綱『新訓万葉集下巻』岩波文庫、1998

Last updated on Mar. 10, 2006.
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