戦争の傷跡

今回の旅行では何カ所か旧日本軍の激戦地などを回った。戦後60
年近くの年月が過ぎて、戦争体験者も少なくなってきたが、今でも
遺族や戦友の人たちが訪れ、慰霊をしているという・・・。

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バガンの日本人慰霊碑
タピニュー寺院の境内にいくつかの慰霊碑が建てられている。ビルマに日本軍が最初に入るのは昭和17年1月19日、タイ南部だ。その後1月30日には第33師団がサルウィン河畔に進出、3月7日第55師団がペグーを占領し、翌8日、第33師団がヤンゴンを無血占領する。

33師団は中国戦線から、太平洋戦争開戦後、ビルマ戦線に投じられた部隊で「弓」の通称をもっている。
後にインパール作戦に参加し多くの犠牲者を出した。その多くは補給物資欠乏からくる病死や餓死で、生き残った兵士たちの手記はインパール作戦を企画した15軍牟田口廉也司令官に対する恨みに満ちたものが多い。

バガンにも遺族や戦争参加者たちの慰霊碑が建てられていた。あの戦争から60年近い年月が過ぎたが、周囲はきれいに清掃されており、「慰霊」や「鎮魂」の文字も鮮明だった。

弓部隊戦没勇士の墓

バガン慰霊堂建立の碑

慰霊碑

日本の線香をたむける
メイッティーラ・ナガヨンパゴダ

ナガヨンパゴダの門

線香をあげて慰霊

パゴダ内の仏像

平和の塔
昭和19年7月、インパール作戦は物資補給の貧弱な(というよりも、当初から補給を考慮していない)日本軍の敗北に終わった。英印軍は反撃に移り、翌20年マンダレーとバガンを結ぶ街道上のメイッティーラに迫った。ビルマ方面軍はイギリス軍をイラワジ河で食い止めるための作戦会議をしていた時期で、メイッティーラ防衛は、まだ先のことと考えており同市には戦闘部隊はおらず、あわてて部隊を送り込む。

新人物往来社刊の「太平洋戦争連隊戦史」によれば、このとき送り込まれた歩兵第106連隊(通称・狼)はメイッティーラ近傍で果敢な攻撃を続行したが、戦車中心の英軍に小銃と手榴弾では歯がたたず、ビルマ進出時に1900名の連隊が800名ほどに激減したという。連隊の十時一彦連隊長は戦闘中に軍旗をなくした責任を問われ、自決した。

メイッティーラの街が灰燼に帰し、10万を超す死傷者を出したこの地に、戦後、世界平和を祈るためのナガヨンパゴダがつくられた。

寺院を管理している人が、周辺から出土したという、当時の遺品などを見せてくれた。南部銃や錆びて頭部に銃撃を受けたと思われる鉄兜、軍刀などだ。連隊のアルバムと思われる写真集には「習志野」の文字も見えた。兵士はみな20代で若々しく、切なさがつのった。


旧日本兵の遺品

様々な人たちの思いがこもって
オカラッパの日本人墓地
ヤンゴン郊外のオカラッパにある日本兵の墓地に着いたときにはもう陽が沈み、暗くなっていた。正面に霊廟があり、その周囲には慰霊碑や墓がたてられていた。中には、字がつぶれて読みにくいが「大東亜戦争戦没英兵の碑」もあり、また、墓地の片隅にはローマ字とつたない平仮名で名前が書かれた墓もあった。いずれもどのような事情があるかは分からない。

ガイドの話では、以前は別の場所にあったそうだが、暗かったせいか閑散とした墓地であった。

慰霊碑

「大東亜戦争戦没英兵の碑」

ひっそりと仏像が置かれて

独立輜重兵第二連隊の慰霊碑

平仮名とローマ字の墓

管理人の子どもさん?

とっぷりと陽は落ちて
連合軍戦争記念墓地
ヤンゴンからペグーに向かう途中にある記念墓地で、第二次世界大戦の時にミャンマーで亡くなった連合軍兵士が埋葬されている。全部で27,000個もの墓石が立ち並んでいる。広々とした敷地で日本軍兵士との扱いの差を感じた。
連合軍戦争記念墓地

連合軍戦争記念墓地
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