昔恋をしました。
初めての恋と呼べるものでした。
相手は笑顔のすてきな明るい、でもすこし恥ずかしがり屋の少女。
いつも行くちいさな雑貨屋の娘でした。
 

 初めての恋に自分はなにもわからずうろたえて
親友に相談しました。
親友は自分など足元にも及ばない歴戦の勇者でしたから
なんだか話をのっぴきならない方向に持って行かれそうな不安もなくはなかったのですが
他に相談できる人も思い当たらずとにもかくにもまずは
遠回しに…自分としてはできるかぎり遠回しに話をしたのです。
親友は危惧したように話を進めようとするでなく、
ただ優しく笑って背中を押してくれました。
しかし結局自分はその少女の前ではなにも言うことができず、
あがくこともできないままその幼い恋は終わりました。
少女に大事な人ができたからです。


 
 
 それはどこにでもありそうな小さな昔語り。

 
 
 親友は温かい飲み物と、やはりいたわるような優しさで慰めてくれました。
大事な言葉を口にすることもできずに終わらせてしまった自分を
嘆いていると、大事な人にこそいえないのだと、なくしたくないから臆病になるから
いえないのだから間違いではないといってくれました。
でも本当に大事な人にいえなければ意味はないのではと尋ねると
たったひとこと

「寒くなればいえるかもね」

 親友はそういって寂しげに微笑んだのです。
そのほほえみがひどく深いような気がして、自分はそのとき何もいうことができず。
あとは彼のくれた暖かいのにものに口を付けて、そこから立ち上る湯気をぼんやり眺めていたのを覚えています。
いえ…自分は湯気の向こうの霞んだ彼の横顔をきっと見ていたのだと思います。
それは何か痛みに耐えるような…そんな顔だったのを憶えているのですから。
 

 

 その親友から告白を受けたのは
それから何年もたってからのことでした。


 
 
 
 そしてそれは現在進行形の昔語り。
 
 
 

ただ寒く、寒く凍えるほどに
すべてを失うほどに寒ければいえるなら…

  
      ◇ ◇ ◇ 
 
 
 
 

「好きだよ、マイクロトフ」 
 カミューの唐突なセリフにマイクロトフは思わず固まってしまう。 
ここは街のそこそこ品のいいレストランの一角。 
今は最後にでてくる暖かいお茶を口に運びつつゆったりと過ごす夕食後の貴重なひととき。 
たとえここがレストランの隅に区切られたテーブルであろうとも 
店は人でにぎわっていて、それなりに周りに人もいる。 
そんなところでいきなり今のようなことを言われてしまったらお茶を吹き出さなかったのが 
奇跡とも言うべきだろう。 
たとえそれが、何度と無く聞かされた言葉であっても。 
ましてや 
「で、マイクロトフは?」 
 なんて聞き返されても返答なんかできるわけもないのは相手も分かっているだろうに…。 
もちろんマイクロトフは顔を赤くして青くして口をぱくぱくさせるだけ。 
カミューはそんなマイクロトフの様子を楽しそうに眺め、そして吹き出す。 
けらけら笑うカミューをみてやっとマイクロトフは自分がからかわれたことに気づいて憮然とする。 
「趣味が悪いぞ」 
「ごめんごめん、でも相変わらず慣れないよね、マイクは」 
 そういう笑い顔に見せる視線は少し寂しげで、マイクロトフは視線を手元のカップに移しそのまま黙り込む。 
カミューもそのまま何もなかったようにさりげなくお茶に口を付けそのまま話を変える。 
何度この様なことを繰り返しただろう。 
もしかしたら探るような告白。 
触れる寸前まで差し出された手。 
 
 

慣れないね… 

 
 

1度目の告白はただ混乱してなにもかえせませんでした。
2度目は返す言葉があったはずなのですが親友を前にしたとたんに忘れました。
3度目、4度目はただ恥ずかしかったように覚えています。
たった一人特別な人に対する特別な言葉というものに自分はそれを口にできないまま
時が過ぎてしまうのです。


 

 差し出された手を握り返せないのは何のためらいか。 
このような場所でなくてもマイクロトフはあの告白に明確な言葉を返してはいないまま。 
 

 拒絶する気は毛頭なく。 
言われて気づくものであっても心にたまる思慕はつもる一方でも、 
自分はまるであのとき初恋の少女を前に何もいえなかったように 
いつもの下手な言葉一つ感情の海に探し出せもしないで…。 
ああ、目の前の男のようにさりげなく軽くいえたなら…。 
でもたった1人に告げるべき言葉を軽くなんてどうして出来よう。 
目の前の男もそれは望んではいないのだ。 
 
 
 

「ありがとう」 
 まじめに考えてくれて… 
拒絶しないでくれて… 
だから、言いたい言葉を見失ってなおも何か言おうとする自分をみてカミューはいつもそういう。 
「わかるよ、…たぶんわかっているんだよマイクロトフ。だからあわてなくていいから」 
 答えが欲しくないであろうそんな優しい彼の言葉にマイクロトフは頷くしかなく。 
ありがとうはそれこそ何に対してのことなのかわからなくても。 
「愛しているよ、マイクロトフ」 
 それからずっとカミューはその言葉を繰り返し、 
そしてマイクロトフはというと言われる度に全身を焼く炎を感じつつも 
それを口にすることができずにずっといままで…。 
 
 

ありがとう…きらわないでそんな風にずっと側にいてくれて…。 
そんなありがとうなんていわれたくなんかないのに…。 

  

  

「わー吐く息がもうすっかり白いな」 
 レストランを出て二人で夜道を歩く。 
街灯の照らす灯りが足下の影を幾重にも映し、その賑やかな影の通りをたった二つの足音がただゆっくりと通り抜けていく。 
この時期は、寒さのためか皆うちに引きこもってしまうのだろう、夏ならば賑やかな 
この通りも日が沈むと物好きな酔っぱらい以外はみえない寂しい通りとなる。 
窓から漏れる灯りが暖かそうで、なおいっそう通りの寂しさばかり木枯らしにのって吹き抜ける住宅街。 
夜も更けてすっかり凍えてしまったような空を眺めて口から吐く息が 
白い煙のようになって上っていくのをぼんやりと見つめる。 
一夜ことに寒くなり、一夜ごとに吐く息は白くなり自分の呼吸だけで世界は白い靄の向こうに 
フィルターをかけたように浮かぶ光景となる。 
天の星も凍り付いたように瞬いているのに…。 
「寒いな」 
吐く息ごとその光景が凍り付くほどに… 
 

 

寒くなればいえると言いました。
寒くなれば
ではいえないと言うことはまだ寒さが足りないと言うのでしょうか?
 
 
 

「こんなに寒いのにな」 
たっているだけで空気が肌を刺すように… 
「のに?」 
笑いながら何気なくカミューはその言葉をくりかえす。 
 
 

「カミュー」 
 
 

「何?」 
 
 
 

「………」 
 
 
 

 たぶん自分が言葉にできなければこれ以上近づくことのない距離。 
自分に何かを許さなければ触れ得ないもの。 
求めなければ越えることのできない壁と空間。 
その空間はただ寒く、自分にはただ寒く。 
 
 
 

 
『寒くなればいえるよ』
そういわれたのに…

 

「なんでもない」 
「そう」 
 うつむいてしまったマイクロトフに決して問いただすことをしないで笑って流すカミュー。 
それはカミューの優しさで暖かさなのだろうけど…。 
 

 

二人の距離をただ寒く、耐え難く寒く感じたとき
その向こうにある相手のぬくもりを求めるように口にしてしまうのがあの言葉なら
自分は何故まだどうして言えないのでしょうか?
こんなに寒いのにどうして、どうして、どうして…。

  
近づけない二人の間にある空気がこんなにも寒く感じるに。 
こんなに息もできないと思えるほどに苦しいのに。 
 

そしてカミューは、口にできたカミューはどれほどの寒さを耐えて
この言葉を口にしたというのでしょうか。
今どれほどの寒さをかかえてあの言葉をくれるのでしょうか。
彼自身はきっとあれほど暖かいのに…。


 

  

「冷えてしまわないうちに早く帰ろう」 
「そう…だな」 
 時折どうしようもなくカミューは優しい。 
彼自身が痛まないわけもないのに、さらりと見せる笑顔にあの時の痛みの表情はなく。 
何を乗り越えたのか、何をかかえているのか…。 
ただ、マイクロトフが決して重くならないように、痛まないように。 
そんな資格も、そしてそうして欲しくなくてもそれはあまりに残酷で強くて…。 
 
 
 

マイクロトフは大きく息を吸い、そして吐き出す。 
吐き出された空気はすぐその熱を失い白いヴェールとなって視界を覆う。 
 

「雪に閉ざされた世界みたいだな…」 
 

 白いヴェールに閉ざされた向こうはひどく遠くかすんでみえて 
自分は孤独になるばかりなのになおも白い靄の中の世界を望んでしまうのは。 
 
 
 

 

ただ寒く、寒く凍えるほどに
すべてを失うほどに寒ければいえるなら…
痛みすら感じないほど寒くないと言えないというのなら…
 
 
 
 
 
 
 

 

「いっそ白いままこの世界のまま凍り付けばいい」


 
 
 


寒いのは夜中にこんなものをうっている自分です…

(2002.2.25 リオりー)