黄昏に飛ぶ鳥
 
 
 
 

茜に染まる空。
見上げればそこは赤、赤、赤の世界。
だから、その真っ赤な夕日に目を奪われて、赤い空自体を見るのをいつも忘れてしまう。
日の沈む、その方向でさえ見ないのだ。
逆の空に映る青なら尚更のこと。
赤い色に押されながらも、凛として青を失わない空。
空が青くて赤い。
そんな空が、確かにここに在る。
 
 

底冷えするような寒さに身を震わせながら、マイクロトフは書類を小脇に抱えた姿で廊下を歩いていた。
外は透き通るような青空に、ひどく不似合いな銀世界。
雪の白くて凛とした姿に、極限まで落とされた外気の温度を思い、その景色を見ているだけで寒さが伝わってく
るようだ。
外の酷い寒さとは対照的に、ロックアックス城内は穏やかな日差しだけが外界から取り入れられていて、どこか
暖かな印象を受ける。
総石造りのこの城はほぼ密閉状態に近く、寒さが進入する経路は人の出入りの際に開かれるドアと各所に取り
付けられた窓たちの、その縁の微かな隙間からに限られていた。
しかし、それでも底冷えの寒さだけは避けられないのだが・・・。
晴れ渡った空には、恵みのような太陽の光が輝いている。
マイクロトフのいる廊下はちょうど北側に位置しているので、直接的な日差しを浴びることは出来ないのだが、そ
れでも間接的な温もりが入ってくる。
マチルダ生まれのマチルダ育ちの彼でも、寒さはあまり好きにはなれないのだ。
いや、今の時期の方がまだマシか。
マイクロトフはそう思う。
ここまで潔く寒くなってくれたら、それこそ本望と言える。
一番困るのは寒いのか寒くないのかが分からない日。
上着を着れば暑いし、脱げば寒い。
そんな時は酷く困惑する。
曖昧さを残す季節になど居ても居辛いだけで、それだったらいっそ極限の寒さを与えて欲しいと思う。
そう、例えば。
今日のような、凛とした寒さを持つ日は、本当に雪が良く似合う、極寒の地に相応しい寒さだと言えるのではない
だろうか。
太陽の暖かさと、無風状態のありがたさ。それを感じていることが、この時期の一番の喜び。
マイクロトフは辿り着いた自身の執務室、廊下と対照に位置するその部屋の扉を開けた。
その途端、部屋から漂ってきたのは太陽の匂い。
室内の机も壁も書類も、すべてが太陽の光を浴び、それ本来の匂いを発散させて部屋中を支配していたのだ。
噎せ返るような暖かい匂い。
マイクロトフの顔に知らず笑みが浮かぶ。

この匂いは”彼”を思い出す。

マイクロトフは小さく頭を振り、止めていた足を動かして部屋の中へと入って行き、持っていた書類を机の上に
置いた。そして、そのまま踵を返して再び扉へと向かう。
やらなくてはいけないことは山ほどあるのだが、少しぐらいなら・・と自分に言い聞かせて、開けておいた扉から
再び廊下に出る。そして、今来た道には戻らずに、その先へと足を向けた。
窓からの微かな温もりで暖められた空気と、光の届かぬ冷たい空気とを交互に感じながら、マイクロトフはある
場所を目指してひたすら進む。細くて長い直線の廊下。すれ違う人影も、今はなく。
しばらく行くと、だんだんと廊下の突き当たりの壁が見えてきた。
そのまま進むと壁にぶち当たってしまいそうだが、ここだけは普通の廊下とは違う。
袋小路のそのまた袋小路。
突き当たった壁の両側にちょっとした空間があるのだ。
部屋の並ぶ側の空間には天井から床までの大きな嵌殺しの窓があり、その逆側、廊下の窓が並ぶ側には立ち
はだかる壁がある。そして、そこには南に面している窓からの暖かい日差しが惜しみなく注がれているのだ。
その空間は突き当たりに来なければ分からない場所で、廊下を歩く人からは死角となっている所であった。
おまけに、その近くには使用している部屋もないので完全に孤立した空間が出来ているのだ。
軌道の低くなった太陽の光が燦々と降り注ぎ、その熱によって寒さが軽減されている空間。
この場所が、この時期の、寒さに弱いカミューの居場所だった。
そして、彼は時間がある時は、大抵ここで日なたぼっこをしていた。
壁にもたれ、足を投げ出して。
うたた寝をしている時もあれば、窓の外を眺めている時もあった。
そして、マイクロトフが自分を捜しに来たことを逆手に取り、ここで和やかな時間を過ごすことを要求してくるのだ。
マイクロトフは、カミューとの二度目の別れをした後で、ここに来るのは今回が初めてである。
この場所のことを、彼の唯一の居場所であったこの空間を、今の今まですっかり忘れていたのだ。
でも、今日は光の匂いを嗅いだから、思い出となってしまった彼との時間をすんなりと思い出すことが出来た。
マイクロトフは廊下の突き当たりに辿り着き、壁の聳え立つ空間に何気なく、だがいつも自分が座る位置へと腰
掛ける。
カミューに付き合ってこの場所に居ることが多くなったマイクロトフは、己の座るポジションが、その回数を重ねる
毎に自然と決まっていたのを、今改めて実感した。
窓の外を見る。
「空が低いな・・」
ぽつりと呟く。
それはそうだろう。今の時期は太陽が低い位置を通るからね
マイクロトフは、何か大事なものを守るようにゆっくりと自分の隣りの、人、一人分空いた空間を見た。
そこには、琥珀色を湛えた瞳を穏やかに細めている彼の姿が。
ああ、これは”カミュー”だ。
居るはずのない彼がここに居るのは、光が彼を思い出させてくれたからだろうか。
「・・・太陽に合わせているのか?」
小さく聞く。
だろうと思うよ
カミューと3年ぶりに再会したのは一ヶ月前のこと。
「雪が・・・」
降ったね。どこもかしこも真っ白だ
あの茜の色と、彼の表情を消す闇色と。
「お前・・・」
何?
「・・・・・いや」
 
 

…………………………………………………………………









「やっぱりここに居たのか」
マイクロトフが溜め息を零すように言う。
執務室と同じ階の、袋小路のそのまた袋小路で壁にもたれて窓の外を見ていたカミューは、その掛けられた声
に、ゆっくりと視線をそちらへと向けた。
「今日は寒いからね」
飄々と言う。
「日なたぼっこか?」
言いながら、マイクロトフは己の定位置へと腰を下ろす。
「そう。この頃、冷え込みがきつくなったからね。充電中」
マイクロトフが咎めるでもなく、自分に付き合って腰を下ろしたことに気を良くしたのか、カミューは嬉しそうな笑み
を浮かべる。
「充電か。お前らしい表現だな」
面白そうに笑うマイクロトフ。
「だろ?今日は小春日和だ」
「ここだけな。他は凄い寒さだ」
ぽかぽかとした太陽の恵みを存分に浴びる。
壁も床も、その日差しによってかなり前から温められていたようで、素材が石であることも手伝ってまるで湯たんぽ
のように暖かい。
マイクロトフは、ふと心の中に芽生えた言葉を、少し躊躇しながら口にした。
「ここは、寒いか?」
「ここ?ここは暖かいよ?」
マイクロトフの言っている意味がイマイチ把握できないカミューは首を傾げる。
「いや。この場所じゃなくて。マチルダ」
「マチルダ?」
「そうだ」
お互いに、相手の表情を見る。
カミューは何でそんなことをマイクロトフが聞くのか、その理由を探る為に。
マイクロトフは彼が不快に感じなかったかどうかを確かめる為に。
そして、双方納得がいったのか、ふいに表情を崩して、彼らは再び窓へと視線を向けた。
「そうだな。マチルダは寒いよ。ここに来て随分になるが、それでも未だに慣れないな」
手を頭の後ろで組んでカミューが言う。
「やっぱり、ここの寒さは異常なのか?俺も未だに慣れない」
「マチルダ生まれのくせに」
からかうように言う。
「それは関係ないだろうが」
「そうか?」
「ああ。でも、そういうのもあるかもな。現にお前がそうだ。カミューの故郷は暖かいのだろう?」
「グラスランド?さぁ・・・。そうらしいけどね」
カミューが何でもないことだというように、さらりと口にする。
「覚えてないのか?」
マイクロトフは、壁から身を起こしてカミューの方に視線を向けた。
「私がグラスランドに居たのは、歳が片手で数えられるぐらいまでだよ。欠片もないね」
「そういうものなのか?」
不思議そうな顔をするマイクロトフを横目で見て
「じゃあ、お前が実はミューズの生まれで、今、その事実を聞かされたらどうだ?いきなり記憶が戻ってくるか?」
強引な例えで構成された問いを投げた。
「そう言われると・・・・」
「だろう?それと同じだよ」
素直に考えているマイクロトフに、カミューは思わず苦笑を零す。
「でも・・・」
「なんだ?」
マイクロトフが、カミューの言葉の続きを促がす。
「やっぱり、グラスランドの名前を聞くと、懐かしい・・と思うよ」
「そうか」
優しく微笑むカミューの瞳が酷く綺麗で、酷く壊れそうで。
マイクロトフはそれ以上は何も言わずに、再度壁にもたれる。
暫しの沈黙。流れてくるのは、どこかで話す通りすがりの人の声と、微かに漂ってくる音楽。そして、外からの自
然の音だけ。
今は穏やかな時間を。
「これだけ暖かいとさ・・」
静かな時間を壊さないように、カミューが小さな声で呟くように言った。
「なんだ?」
同じく小さな声で尋ねる。
「眠くなるな」
「・・・・・・・・寝るなよ」
カミューのマイペースぶりが可笑しいやら腹立たしいやら。
「私が寝たら肩を貸してくれるだろう?」
「断わる」
即答するマイクロトフ。
「って!おい!言ってる側から寝るなよ」
他には誰も居ないのに、雰囲気を壊さないようにあくまでも小さな声で言う。
「あー・・暖かい」
マイクロトフにもたれたカミューは、そのまま目を閉じる。
「おい!」
暖かい日の光が目に眩しくて。
彼の体温が酷く心地良くて。
このまま居られたら、と心の底から何度願っただろうか。
太陽が暖かいから。
暖かくて、そしてとても切なくなるから。
いっそこのままで、と。
 
 

………………………………………………………………







意識の浮上をその身に感じることなく、マイクロトフは目を覚ました。
いつの間にか眠っていたようだ。
だが、マイクロトフ自身には眠った、という意識はない。それどころか、ずっと起きていたようにさえ感じる。
それでも、ここに来た時から微かに聴こえていた、耳に馴染んだ音楽が、自分が聴いていた箇所を遥かに過ぎ
ていて、もはや終了寸前のフレーズを流していることに気付くと、やっぱり眠っていたんだな、と改めて認識した。
ここに、カミューが居た。
3年ぶりに市場で偶然見つけた彼の姿をそのままに写して、ここで日なたぼっこをする彼が。
赤い騎士服ではなく、桑色の長い上着を身につけて、以前のように微笑む彼が、確かに居た。
あの日、カミューと彼の泊まる宿の前で別れた後、マイクロトフは一度も後ろを振り向かなかった。
いや、振り向くことが出来なかったのだ。
振り向いたら彼がそこに立っていそうで・・・。
その感覚は、彼の居る宿屋から遠く離れたところでも感じていて、ロックアックス城に戻っても、自室に戻っても消
えることがなく、常に彼の視線が纏わりつくように己の周りを浮遊している。そんな気がした。
だから、前だけを見て進んだ。彼を見ないように。

肝心な言葉を言わなかったカミュー。
そして、言いそうになっていた言葉を飲み込んだ自分。

どこかで歯車が狂ったのだと思う。
いくら、かけがいのない大事な存在でも、自分には自分の生活、生き方がある。
もちろん、カミューにもカミューの生き方が、彼だけの生活がある。
だから、彼と別れた次の日に、マイクロトフは彼の泊まっている宿には行かなかった。
行ってもカミューの姿はないだろう、と思ったし、何より、行って彼が居たらどうしようか、と思ったのだ。
彼の名残を残して片付けられた部屋がそこに在れば、希望が微かに繋がるかもしれなかったが、そうでなかった
時に断ち切られる糸が、自分にははっきりと見えていた。
だから、彼の部屋へは行かなかったのだ。
後日、関所に在任している、最近騎士になった者から「桑色の服を着た人が、関所の前で何時間もロックアック
ス城の方を見つめていた」との報告があったことを副長から聞かされた。
それで充分だと思った。
マイクロトフは立ち上がり、服についた埃を手で払う。
そして、窓から見える、あの日と同じ茜色を宿した空を、ゆっくりと一度だけ見つめてその場を後にした。
声にならない言葉を一つ、その空間に残して。
 
 
 
 

同日同刻。
見渡す限りの草原の中央に、ぽっかりと浮かぶ、なだらかな丘の上。
そこに立つ、あまり大きくない木の幹に足を投げ出すようにもたれている一人の青年の姿が。
髪を風になびかせ、黄昏をただ見つめているその青年は、かつては赤い服を身に纏い、遥か遠くの地で騎士と
して戦っていた。
今頃、彼の地も黄昏を迎えているのだろうか。
そして、彼もまた、この茜色を見ているのだろうか。
カミューは、未だ覚醒し切っていない頭を小さく振った。
「・・・久々に・・・夢に見たな」
さっきまで彼が居たのは、マチルダの地。寒い世界に生まれた暖かい空間。
彼が居て、自分が居て。

赤い空を1羽の鳥が飛んで行く。
戻りたいわけじゃない。だが、胸をつく郷愁。
故郷でもないあの寒い大地が、今は酷く懐かしい。

空を自由に飛ぶ鳥が・・。
どこに行くのかも知らせずに飛び立っていくあの鳥が。
これほどの自由を得られたら。

黄昏の冷えた風が頬を撫でていく。
草原は優しい歌声を奏で、木は強さを表わすように低く叫ぶ。
琥珀色の瞳が、赤い空に染まり。
そして・・・
 

「ここも寒いよ、マイクロトフ」
 

カミューは呟き、そして続けて声にならない言葉を一つ、空に零した。
寒い、彼が在る地に届くように。
 
 
 
 

”いつか・・”
 
 

end


 
 

えへへへ…交換で頂きました\(≧▽≦)/!!
『茜空』の続編(茜空はひなせ様の楽園カタログにございます!GO!)。
でもこれ単独でも素敵に読める作りですね。
「寒いよ…」
…うっとり…(爆)
すれ違う二人がすごく切ないです。
二人でいる暖かい雰囲気がほんとうに幸せなだけに
今の風が身にしみます。
マイクーー行けー!!いくんだ(暴走)!

また続きもあるんだそうで…
幸せになって欲しい
また寒さの中の暖かさを取り戻して欲しい思いでいっぱいです。

氷雨様素敵SSありがとうございました。\(≧▽≦)/!!

(2001.2.24 ほむら)