二艘の舟


 

何となく蒸し暑い夜だった。
開け放たれた窓から、風に乗って潮の香りがする。
日中晴れていたから、海上に霧でも出ていて、そのせいでここまで漂ってくるのだろうか。
マイクロトフはそんなことを考えて、ふと窓の外を見遣った。
時間も遅く、既に商店街も店じまいしていたから明かりもなく、ただ闇が広がるだけ。
時折、テッサイの打つ槌の音が微かに聞こえてくるぐらいだ。
月も無い。
やはり霧が出ているのか。
かたりと音をさせて椅子から立ち上がり、窓を閉めようと歩み寄った。
部屋の中が少し湿っぽいような気がする。
潮風は確かに好きだが、潮を含んだ湿気は本や剣には大敵だ。
窓を閉じかけて、ふとまばたきする。
「…カミュー?」
見慣れた赤が視界を掠めて、思わず声をかける。
「やぁ、マイク。まだ寝ないのかい?」
下から見あげるように微笑むカミューは、団長服こそ着ているものの
愛剣ユーライアを下げていない。
視線に気付いたのか、にこりと笑って行く先を指さす。
「鍛えてもらってるんだ。もうすぐ仕上がる筈だから取りに行くところだよ」
「そうか。気をつけて行けよ」
ほんの僅かの距離であるのに、ついいつもの調子でそう告げてしまって、マ
イクロトフはほんの少し顔を赤くした。
「うん、ありがとう」
それに気付いたのか気付かないのか、おそらくは気付いたであろうカミューは、
でも何も言わずにただ礼を返して
微笑する。
それから空を見あげて。
「少し霧が出ているね」
「そうだな。潮の香りがいつもより強い」
闇ばかりと思われた空に、微かに見え隠れする、月明かり。
「もうこんな季節なんだ…」
僅かに笑みを濃くして呟くカミューがそういえば夏が好きだと言っていたのを思いだし、
短く同意を示す。
同盟軍に加わって数ヶ月、こんなに海に近いところで暮らすなんて思ってもみなかったけれど、
自分も意外と海が好きで、夏も好きだったことに初めて気が付いた。
マチルダも今頃良い季節の筈だ。
「――ク、マイクってば」
いつもよりは声をおとして呼び掛けてくるカミューの声にはたと我に返った。
「え、あ、すまん」
「いいけど。遅くならないうちに休むと良いよ、窓は閉めてね」
「そっくりそのままお前に返すぞ」
いつも遅いのはどっちだ、と暗に込めて言い返せば、はたしてカミューは苦笑混じりに
両手を挙げ、それから手を振って去っていった。
薄闇に透かされた月光が地上を掠める。
――閉めようと思ったが、もう少しこのままでもいいか。
少しずつ薄くなる潮の香りを惜しむように、それでも窓は半分だけ閉じて、
マイクロトフは再び本に目をおとした。 
 
 

…そろそろ眠ろうか。
暫くして、ようやっとマイクロトフは本を閉じた。
普段なら何は無くとも時間になれば床につくのが決まりだったが、
時々本を借りてきた時などはキリの良いところまで読んでしまわねば
気の済まない質であった。
机に本を置き、今度こそ窓を閉めようと立ち上がる。
霧はさっきよりも濃くなって、風とともに穏やかに流れていた。
もう月は見えない。
 

カミューは戻っただろうか?
 

槌の音は既に止み、今は時折、犬の遠吠えが微かにこだまするぐらいだった。
そういえばいつもの足音が聞こえない。
それに…必ず就寝前には挨拶に来るのに。
(そしてそのままなし崩し的に寝床を共にすることもままあるが)
窓に近寄ったマイクロトフは、だが、思わず上げそうになった声を抑えた。
『何をしているんだ――あいつは!』
 

視界をゆっくりと過ぎった赤は、そのまま白く霞む静寂の中に消えた。
 
 
 

霧の中をそろりと歩く。
ここの土地柄なのか、霧は今までも良く出ていたけれど、
夏はその温度差のためか一層色濃く漂うらしい。
海からのそれはこの城を包み込んで、そして何もかもを覆い隠す。
僅かな視界の切れ端を頼りに、ゆっくりと。
髪も服もすっかり濡れそぼって重くなっていたが、それに構う気にはならなかった。
薄明るい白の中に、赤い色が時折現れては、また消えてゆく。
 

カミューはただあてど無く辺りを巡っていた。
日中は子供達で賑やかな城門付近も、池の周りも、商店街も、
仄かに漏れるランプの灯りを残して眠りについている。
何もかもが静寂に身を委ねるこの時間、ただひたすらに夜をゆく。
前髪についた滴が鼻先ではねた。
どのぐらいの時間をこうして歩いているのだろう?
ここは何処か、天か地か。
迷宮のような、白の中。
 

たとえば。
この霧が晴れたら何も残らなくて。
いや、この身でさえも夢であるような。
 
 

瞳を閉じる。
ここはまるで、―――
 
 

「……カミュー!」
力強い声と腕に一瞬にして現実が戻る。
振り返れば、ほんの少し眉を顰め、でも口を思いっきり不機嫌そうに引き結んだ、彼の姿。
「そこから一歩でも先に進んでみろ、お前は死にたいのか!?」
足元に地上の先端。
その先は、ただ果てしなく続く闇色の海。
「…ああ、気がつかなかった」
「気がつかなかった、じゃない!だいたいこんな夜に、こんな時間に出歩く方がおかしい!」
マイクロトフがだんだんと大声になりかけるのを慌てて押し止める。
港の際の小屋には確か漁師組が陣取っていたはずだ。
眠りについているであろう彼らを起こしてはならないと告げると、
マイクロトフも慌てたように口を噤む。
でも表情は拗ねたような怒ったようなままで。
そのまま引きずられるようにして、二人、元来た道を戻っていく。
部屋に帰ろうというのを無視して再び外へと飛び出せば、霧は一層濃度を増して、
もう何も見えなくなっていた。
「だからっ…」
ぐ、と腕を掴まれて踏み出す一歩を止められる。
「何がしたいんだ!」
「何でもないってば」
呆気にとられるのを暫し面白そうに眺めて、カミューは再び瞳を閉じる。
 
 

―――ここは。
 
 

「海の中にいるみたいだ」
ぼそりと呟かれた声に弾かれたように振り返れば、マイクロトフもまた驚いてカミューを見た。
「な…何だ」
「――何でもないよ」
そう答えながら、何となく笑い出したい気分になる。
「何を笑っている!」
「だから何でもないったら」
霧をかきわけて一歩を踏み出す。
 
 

足元には確かな大地。
 
 

呆れたようにそんなカミューの後をついていくマイクロトフ。
ただ霧の中をふらりと歩くカミュー。
「わざわざ探しに来てくれたんだ」
急に立ち止まったカミューはそんなことを言い出して、マイクロトフは小さく嘆息する。
「いつまでたっても帰ってこないから様子を見に来ただけだ」
「ふぅん?でもそのわりにはさ、」
腕を掴んで引き寄せた拍子に、滴がカミューの手の甲ではねた。
「同じくらい濡れてるような気がするんだけどね?」
くすりと笑われてむっとしたマイクロトフは、しかしカミューが思いも寄らない行動に出た。
引き寄せられた腕を逆に掴んで。
 

前髪の滴が、ばらばらと散って頬を打つ。
 

「……睡眠不足では身体がもたんぞ」
そう言い残してふいっと踵を返す。
彼の団長服に負けないくらいに自分は今真っ赤な顔をしているのだろうと解っていたが、
それよりさらに赤くなった、カミューの顔を一瞬でも見られたから良しとしよう。
霧の中の確かな感触。
彼という存在。
 

「暑くなりそうだな」
とっくに日付は変わって、そしてまたいつもの朝が来て。
今日もまた晴れるだろう。
「そうだね――暑くなりそうだ」
いつの間にやら隣に並んだカミューがそう言って天を仰ぐ。
白の闇はいつしか引き始めて、もうすぐ月光は地上を照らすだろうか。
暑いだろうな、と呟いた唇を、馴染んだ熱が奪い去る。
見開く瞳に不敵な微笑。
「このぐらいの熱さがちょうど良いのかもね」
濡れた前髪をうるさそうにかき上げて笑うのに、
マイクロトフは今度こそ何も言えずにただ苦笑した。
どうにも――相手は一枚も二枚も上手なようだ。
 
 
 

迷いの海を抜けた二艘の舟がたどり着くのは何処なのか、
それを知るのはまだ先の話ではあったけれど。
今はただ、確かな力と僅かの熱を己の力に、ただ、今をひたすらにゆく。
闇に、霧に、迷えることはあってもきっと。
 




蓮川様より頂きました暑中見舞いです!
私専用に書いて頂いてしまいました(喜)
このスピード、この質…あなたはスーパーマンっすか〜!
もう雰囲気がきれいで、きれいでとにかく
うっとりです〜
蓮川様!ありがとうございました!!!

(2000.8.1 ほむら)
 

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