夜の名前 


 
 

 自分はたぶん夜を知らない。
子供の頃から。夜はあまりに怖いもので自分には関係ないもので
だから夜が来れば布団に潜りぎゅうと目をつぶって
眠った。
そうしてしまえば次に目が覚めた時は朝になっていて夜は通り過ぎていた。
 

夜がこういうものだとはしらなかった。
知ってしまったときはすでに遅く。
 
 
 

子供は夜起きていてはいけません。
こわい獣に食べられてしまいますよ?

 

◆   ◆   ◆



 最近の自分、夜は何となく迷宮を走ることにしているらしい。
いつのまにか迷宮という暗闇の中にいる自分は、何もしないのも性に合わないのでなんとなく外へ向かって走っている。
そうではない、逃げているのだ。
迷宮は獣のすみかで、夜半なると動き出すらしいので自分は捕まらないように逃げているのだ。
出口へ向かって…。
 
 

 迷宮は獣を閉じこめるところ。それとも贄を獣に捧げるところ?
獣の名前はいえますか?
いいえ、何一つ覗かないで暴かないで。
どんなに深い心の中も瞬きほどの一瞬の逡巡と錯綜で行き来できてしまうとしても
あまりに暗くあまりに深く覗き込んでも見つめ返すのは自分ばかりで正体は何も分からない。
獣の名前は口にしてはいけない。
 
 
 

 やがてドアにたどり着く。
なんだ、今日もたどり着いてしまった。
迷宮の出口、そして自分にとってのゴール。
ここを出てしまえば逃げられる。獣から、夜から、そして自分から。
とん、とゴールに手を触れて、ゆっくりと押せばきっとすぐに扉は開くだろう。
それでも自分はそれをしない。
逃げたいのに。
何から?
獣から。
何の獣?

 ああ、いつからこんな嘘ばかり。

 
 

 こんな自分でもこっそり夜中に起きていたことと言うのはあって
夜中見つかりはしないかとどきどきしながら
布団をかぶって見つからないように小さく小さく息を殺して丸くなっていた。
そうすれば獣は自分を見つけることがなかった。
 

 獣の迷宮、贄の迷宮。
暴かれることを望まない閉ざされた世界。
どちらにしてもきっと捕らえておくための場所なのにどうして出口があるというのか。
 
 
 

 子供の時期はとうに過ぎ去り、見えているのに。
自分も、相手も。
だから口にしてはいけない。
口にすれば嘘をついたことになるから。

 ちぐはぐで、分かっていて、見たくもなくて、
無い無いずくしで何もかもが、たいしておもしろくもない。
いつから自分はこんな嘘が多くなったのか。
 
 

本当はもう何もかも全て…。
 
 
 
 
 

だからあいつが笑うんだ
そして怒るんだ。
 

何もかも全て…。
 
 

 ぴったりドアに背中をつけてもう自分は動くことをやめる。
どちらにしても今日もここまで。
昔みたいに布団をかぶって縮こまっても隠れることなどできやしない。
だってもう見つかっているのだから。
 
 
 

「マイクロトフ、もう、逃げないの?」
 暗闇から現れるのは金色の獣。
ゆっくりと近づいてくるその男の言い方があまりにも楽しそうだったので
相手の思うつぼにはまっているようで少しし癪に障る。
「逃げて欲しいのか?カミュー」
だって出口があるし。今も変わらずに出口があるし。
そうとしか思えないんだけども。
「まさか!」
くくと笑うと目の前の男は真っ直ぐにこちらを見つめる。
「怒っているんだよ私は」
「笑っているように見えるが?」
「答えてくれたと思ったのに、あのとき答えてくれたのにおまえは未だに逃げるから」
ゆっくりと伸ばされる腕。
やはり逃げるのを望んでいるようにも取れる緩慢な動きにもう自分は動くことすら忘れて見入る。
「もう…逃げないの?」
耳元で囁かれる声はすでに熱を孕んで
「やっぱり逃げて欲しいのか」
「違うっていっているでしょう?」
「では何故ここはこんなに広い?」
自由に動き回れるほど、逃げ回れるほど…寒いと思えるほど空虚で広く。
「逃がすつもりなんか無いし」
 
 

 そして何故未だにドアがある?
自分を自由にさせるほどに
中の獣に気づかせないほどに。
お前にしてはお粗末な嘘。
逃げて欲しいんだろう、本当は。
でも逃げて欲しくないんだろう?
お前こそ自分から、動けなくなっている獣。
このドアはカミューにとっての手加減で温情なのかもしれないけれど。
バカみたいだと思う。いつも半端でいい加減で強引なくせに優しい生き物。
 

迷宮の仕掛け人、答えのでない問いを投げかけここに閉じこめた張本人。
でも囚われの獣。
それでも逃げろといわんばかりにドアがだからここに。いつもここに。
 
 

逃がすつもりのないドアに
逃げるつもりのないドア
意味を無くす紙に書いた餅のよう。
 

至近距離額をくっつけてどちらともなく少しだけ笑う。
「バカだね」
「バカだな」
 逃げなかった罰だと、するりと白いきれいな腕が絡まされゆっくりと引き寄せられる。
 

どくん…
自分の中の獣が反応する。
 

引き寄せられた先は紫色をはじく何とも言い難い色合いの瞳。
魅入られる。でもダメ。
でも逃げられない。
これも嘘。
 
 

 金茶の獣は両の腕を俺の脇について逃げ出せないような体勢で
「私が、怖い?」
「  こわくなんか」
こわくなんかない、でも恐い。
何もされないうちから熱が上がる。
ああ出てこないでくれ、気付かせないで欲しい。この熱に。

怖いのは自分。

子供の頃布団をかぶっていれば気付かずに通り過ぎていた獣は自分。
だからダメ。
暴かないで。知っているから。
いわないで、何一つ。
気付きたくないから。
でも知っている。
ただ目隠しをして。
 

だって自分は子供ではいられないようなので。
 
 

 閉じこめられるべきは自分。
分かっていて知っていて、逃げ出したいのも自分。
芯を狂わせる熱に捕らえられ相手を喰らいたがっている獣の名は目の前の男ではなく自分。

寄せられる体温に、答えたがるこの疼き。
なんて浅ましく…狂おしく残酷で。
 
 

「ふ…」
与えられる感覚に溺れていく自分がいる。
ただ乱されるばかりの自分から逃れるように腕を緩慢にあいてに押しつける。
 

「いや?」
「いやじゃないのがいやだ」
 分かっているくせに。
だから逃げるんだ。
でもこんなに広い上にドアがあるなんて反則だ。
迷宮には入り口はあっても出口がないはずだ。
捕らえておくためなら出口があってはいけないのだし。
 

暴かれたくない口にしてはいけない
獣の名も嘘の名も。
 

子供の頃に帰りたい。
何も知らずに夜は怖いものだと思いこんで目をつぶってやり過ごせた頃に。
どうしろというのだろう、こんな自分を目の前に突きつけられて。こんなにもあさましくいとわしく。
 
 

だから夜になると自分は迷宮を歩く。
出口を探して。
逃げ出すために。
 
 
 

 こんな状態になってもちらりと背中のドアを気にする自分に
「だめだよ」
つがいの獣の片割れは酷薄そうにわらう。
「だめだったら」
暴こうとする腕を押さえようとする動きを逆のからめ取られて追いつめられる。
 

 気付いていないのかそのフリなのか?
こんなばかげた嘘で本当。
 
 
 
 
 

 こんなに逃げ回っても
ニゲダシタクナイだなんて…
 
 
 
 
 

 与えられる熱に身体の心芯からあふれ出る歓喜が答える。
奪われる呼吸、流し込まれる言葉のあまりの甘さに眩暈がして、
闇になすすべもなく堕ちてゆく。
 
 
 

自分はもう子供ではなくなってしまったので…
きっと嘘もつけてしまうんだろう。
半端でくだらない嘘だけど。
逃げたいだなんて…最低な嘘。

もう何も考えさせないで。
そういう意味で相手を引き寄せれば目の前の男は冷たいほど残酷に笑う。

「逃げないの?」

何を確認したいのか、相変わらず同じ事を聞く相手に少しうんざりとする。

「逃げても…意味がないだろう?」
 
 

だから逃げない。
すべて分かっていて何一つ認められない自分にいいわけはただ一つ。
 

逃げても意味がないだろう?
どうせどこへ逃げても夜は来るし。
 
 



 
通常小説とは、悩む人を書く方が書きやすいですし。話にしやすいのでしょう。
その観点から言うと少なくとも私の書く二人は普段悩むのはカミューで
ベッドのなかで悩むのはマイクロトフだということなのでしょうか…(笑)
笑い事ではないですきっと(笑)感覚を言葉にするのは難しいですね(遁走)

(2002.5.24 リオりー)