パソコン要約筆記日誌

〜Me and Compal Kyoto Kita Blues 〜

finally modified: 2008/08/06  (JAPAN)
by T.F.

 

2008/08/04

21.【PC要約筆記】

 

 

パソコン要約筆記自体は、

話題としてはあまり長続きするものではないかもしれません。

悪く言えば、それだけの深みがないということかもしれませんし、(^^;

良く言えば、活動と継続あるのみ、のモノだという気がします。

 

最初の1−2年は、

技術論やそれぞれの地域でのパソコン要約筆記に関するシステムのことで、

いろいろと話題が続くわけですが、

ある程度出尽くすと、結局、

 

誰が、いつ、どこで、やるか、

 

というだけの問題が残るのだと思います。

 

で、実は、こういうことは、手書きの要約筆記の先輩の人たちは、

ずっと経験されてきたことなのかもしれない。

 

 

パソコン要約筆記が、必要以上に話題になった時期があるのは、

ちょうど、それが、かつてのITどーのこーのの風潮に重なったからかもしれません。

 

ひとりひとりが自分の大事なたった一台のノートパソコンを持ち寄ったような時期から、

10年くらい時間を経て、

今では、パソコンなんか、どっかに何台も余っているような時代になりました。

 

おまけに、パソコン要約筆記というのは、けなげな活動だから、

たいしてパソコンの性能を必要としません。

プロジェクタもスクリーンもどこにだってあります。

 

手の空いて人が気軽にやれるようなことであるべきなんだと思います。

 

 


 

20.【目指すところ】

 

ひとつの派遣について、

 

現場での要約筆記と、前ロールの準備を出来るだけ効率的に進めたい

 

という明確な目標に至るまでには、

さまざまな回り道の連続だったような気がします。

 

特に福祉ボランティアという漠然とした世界のなかでの、

人と人との関わりにおいては、

お互いの明確なニーズというのは、どうしてもあいまいになりがちです。

 

今でこそ、

「何か人様のお役に立ちたい」という人には職業安定所がふさわしく、

「パソコンを買ったのだけれど何かやってみたい」という人には、

いわゆる初心者向きのパソコン教室がふさわしく、

「おしゃべりがしたい」というような人には、似たような種族の集まる有閑(?)サロンがふさわしい、

と確信が持てるのですが、

あいまいななかでは、なかなかそういうことが分かりません。

 

また、自分たちがやるべきことが一体どれだけの作業量なのか把握していないことには、

そのために必要な人数や、

それぞれの人の提供できる延べ時間というようなもの基準も分かりません。

そのようななかで、必要以上に人員の数が増えると、

必ず、本来の目標以外のことにも時間を割く必要が発生してきます。

 

私自身は、基本的に、手書きの要約筆記の先輩たちが、

交代しながらも一人書きで何十年もやってきたことに作業の量や質に関して、

それよりも出力能力のあるパソコンという機械を使って、

二人以上の人間の同時入力なんぞは必要ない、と考えました。

 

これは、良いとか悪いとかの問題ではなくて、

自分たちが出力するパフォーマンスを

どの程度のレベルに設定するかということの問題です。

 

具体的に言えば、おそらくは、毎分80−90文字程度のパソコン要約筆記です。

これでも、手書きよりは速いはずですし、フォントの出力は筆跡の影響は受けません。

 

逆に言えば、それ以上には、

少なくとも自分たちの係わる派遣の数々では、

手書きに比べて、

パソコン要約筆記の利点は見出せないと考えたわけです。

 

そうすると、別に特別パソコンが得意な人じゃなくてもいいから、

その程度打てる人が、

必要最低限いてくれて、その人たちがある程度時間を提供してくれるのであれば、

目指すパソコン要約筆記は成立するし、

反対に言えば、他のモノは、有形・無形のもの、

それぞれ、お金や時間の余力がある場合のみ扱えばいいということになります。

 

そういう感じ方は、「味気ない」ということになるのかもしれませんが、

「余暇」というのは、そういうものではないでしょうか。

 


 

19.【秋のイベント】

 

秋は、様々な、いわゆるイベントの季節で、

当然ながら、パソコン要約筆記の派遣も増えます。

ほぼ土日に集中しているので、私の場合、時間の都合はなんとかなります。

ほとんどお金のかからない道楽という意味でもありがたいです。

 

ほんとうは、それぞれの主催者や講演者の意図や表現に

もっともっと興味や関心を差し上げることができればいいのだろうが、

ただ黙々と作業をするばかり.....

あるいは、そのこと自体に癒しを見出していたりもします。

 

しばしば、

「両輪の輪として、共に歩む」と表現された、

我が地の、かつての、聴覚障害者と要約筆記の関係に比べると、

私たちのパソコン要約筆記は、

ただ、淡々と派遣現場の作業とその準備だけをこなす、

愛想のないものかもしれません。

 

そんなふうに数年間やってきたわけですが、

やはり、

世の中のシステムのなかで、

いろいろな事情で、あるいは、成り行きで、

情報保障としてのパソコン要約筆記が必要とされたり要請されたりする、

場面があることは確かのようです。

 


 

18.【パソコン要約筆記】

 

パソコン要約筆記は、

標準的な日本語運営能力と、聴力と、ある程度の速度のタイピング能力があれば、

通常必要とされることはできてしまうのでしょうから、

手話通訳のように、

「高度で、それぞれの人間の個性が出る技能」

というものからは、

少し離れたところにあると思っています。

 

特別な練習しなくても、

通常、仕事でパソコンを使っている人なら、

その慣れをそっくりそのまま移行すれば、それが、パソコン要約筆記になってしまうのだと思います。

 

それは、ちょうどクルマの運転の技能のようなもので、

追求すべき高度なものが皆無というわけではないが、

ふつうは、ふつうの人がふつうの技能でやって、

たいてい事足りる類のものだという気がしています。

 

また、今では、

さまざまな場所で、パソコンやプロジェクターの絶対数は増え続けています。

ですから、

私は、長い目で見れば、

「特別な研修が必要な高度な作業」

にしてしまうよりも

「手の空いた誰かが、パソコンやプロジェクターがあれば気軽にできるお手伝い」

でおいておく方が、

より多くの聞こえない人の役に立つ「パソコン要約筆記」になるのだとも思っています。

 

 


 

17.【単純作業】

 

同じ言葉を並べる作業でも、

翻訳なり、映画の字幕をつける作業は、

ただの言語の置き換えを越えた、とても創造的なものでありましょうが、

パソコン要約筆記は、そういうものとは、まったく異質のようです。

 

たとえば、前ロールなしの、リアル・タイムで、

人様が撒き散らかす言葉を、時間に追われてどんどん音声からフォントへ処理して行くというのは、

ちょうど、急いでやらなければいけない掃除に似ているような気がします。

それは、「表現する」というクリエーティブなものからはほど遠く、

ただ、他人様次第の、他人様の言葉の瞬間的な取捨の作業の連続です。

 

そういう意味では、

パソコン要約筆記では、

アーティストみたいに、

自分の言葉の使い方に自意識過剰になっているような余地はあまりないようです。

 

そして、この掃除においては、

「あっ、拭き忘れた、掃き忘れた。」 というような後悔を切り捨てて、

どんどんと場所を移動して行かねばならなりません。

 

通常の掃除ですと、「あー、きれいになった。」みたいな満足感があるわけですが、

パソコン要約筆記という掃除は、

自分の入力のログでも見ようものなら、

「あー、ここもやれていない、あそこもやれていない。」 のように赤面モノの連続です。(^^;)

 


 

16.【必要な能力】

 

聴力、標準的な日本語運営能力、タイピングの能力以外に、

パソコン要約筆記に、特別なものが必要だとすれば、

それは、

「言葉のセンス」だとか、

「何かの分野に関する知識や学識」だとか、

「長年の経験」だとか、

あるいは、「聞こえない人たちへの理解の気持ち」とか「パソコンの技能」だとか、

そんなカッコいいものではなくて、

たとえば、ただ、長時間キーボードを叩いていても飽きない感性や耐性だと思います。

 

どんなにきれい好きでも、

ホーキや雑巾の知識が抜群でも、

100年くらい掃除を続けている実績があろうと、

あるいは、掃除される壁や廊下と会話できる能力(!)や、

雑巾がけの天才的テクニックがあろうと、

そのとき、すぐに腰が痛くなるようでは、

なかなか掃除を続けることはできないのと同じかもしれません。

 


 

15.【地域】

 

ご存じの通り、

パソコン要約筆記は、基本的には、地域に密着した活動です。

そしていわゆる実力差も地域によって様々だと思います。

 

けれども、

遠方にどんなに高度な表現力を持つパソコン要約筆記の集団がいたところで、

高い旅費を負担してまで、

それを呼ぶ主催者なんてのはあまり聞いたことがない。

 

主催者にとっては、

要約筆記の質がどれほどいいかということや、要約筆記の技能がどうのこうや、

そのグループの信条がどうだということよりも、

よほどひどいモノでない限り、楽に連絡が取れたり、

経費が予算内であることの方が優先事項であるからです。

 

そういうわけで、この活動は、たいていは、地域単位になって行く。

パソコン要約筆記の質について理想はいろいろありましょうが、

主催者が、ひとつの行事に係わって、「パソコン要約筆記の情報保障付き」と謳える時点で、

すでに、パソコン要約筆記は、そのニーズをある程度満たしていると言えるかもしれません。

 

基本形は、だいたい、そんなところなのですが、

おそらく、多数存在する様々なパソコン要約筆記のグループでは、

それなりのモーチベーションや価値付けのようなものがあると思います。

「聴覚障害者の人たちとの共存や共有」、「技能の向上」 などは典型的なものでしょうし、

なかには、明らかに、手話の技術に関わるものをコピーしたものや、

あるいは、福祉行政の熱血職員のように使命感に燃えたものもあることでしょう。

 


 

14.【道楽】

 

パソコン要約筆記に関して、

私自身は、たいてい、「道楽」という価値付けでやっています。

わざわざ口にするには、たいへん不謹慎な表現かもしれないですが、

そうでないと、精神が持ちません。(笑)

 

なんらかの形で、食うに困らぬ背景があるおかげで、

職業でもないのに、余暇があれば、パソコンいじくって何かやれるなんてのは、

自分にとっては、やはり、どう考えても「道楽」だと思うからです。

 

また、そういう心がけでやっている限り、

実際の派遣現場での作業やその準備以外のことに関して、

他人様の価値観とのお付き合いで心を煩わせることもありません。

 

私自身は、パソコン要約筆記について、

技術論や制度論なんぞにお付き合いする暇があれば、

ネットで、誰も読まないような感想文でも書いている方が楽しいからです。(^_^)ニコニコ

 

パソコン要約筆記を「忙しい人の余暇」にしても、

「暇な人の仕事」にするのは、

なんだか、忍びないですからね。(^_^;)

 


 

13.【文字数】

 

単純な数字の話になってしまいますが、

話者の話が毎分200文字に対して、

手書きの要約筆記で毎分50文字を表示していたとすれば、

当然、残り150文字は表示されないわけですが、

それを「省略」とか「割愛」とはは呼ばず、「要約」と呼んだ、

要約筆記の諸先輩に私は、ときどき敬意を表したくなります。

 

「要約」といえば聞こえはいいのだが、

実際一人入力で、話者の音声に追われていると、

「省略しちゃった。」(^^;) 

「割愛しちゃった。」(^^;)

「聞き漏らしちゃった。」(^ ^ゞ

という心境の連続のなか、

たまに、

「うーん、これは、我ながら、いい要約ができた。」

と限られた少数の自己満足もある、

というのが私の場合は、正直な心境であります。

 

話言葉が毎分200文字だとすれば、

毎分100文字程度しか打てぬ入力者にとって、

一人入力のパソコン要約筆記とは、

常に、一瞬一瞬が、捨て去る言葉への決別の連続なのだと思います。

 

毎分100文字の入力者が二人揃えば、

毎分200文字の表示を達成できるというような単純計算よりも、

そんなことをしたら、

一人あたりの作業時間が倍になってしまうとう単純計算の方が好きな、

我がグループは、結成後2−3年くらい、2名入力や3名入力を試行錯誤したのち、

今では、いつしか、手書き要約筆記以来の伝統、

一人入力を採用するようになりました。

 

だから、うちの要約筆記は、

リアル・タイムと生の前ロールでは、文字量がかなり違う場合があります。

100%の文字表示をパソコン要約筆記の王道・正道とするならば、

うちのパソコン要約筆記のグループは、

邪道であり、邪教であり、

威厳と格式のある全国レベルの団体なんぞに、

「パソコン要約筆記」教の宗教裁判されたら、

確実に処刑モノかもしれません。(^^;)

 

かつてパソコン要約筆記が

「文字の洪水」という言葉で迎えられたことがありましたが、

とにかくより多くを出力しようという試みのパソコン要約筆記もあると思います。

何事も、一見価値のありそうな話は、

価値付けする人たちの手によってどんどん派生します。

パソコン要約筆記も例外ではありません。

(私も、こんなふうに派生させているのかもしれません。)

 

たとえば、

パソコン要約筆記に関して、

いわゆるブラインド・タッチは出来た方がいいでしょう。

けれども、高度なパソコンの知識や高価なパソコンはあまり必要ではありません。

 

それぞれ派遣に参加するだけの余暇は必要でしょう。

そして、やる気のある人は続けますし、

そうでない人は辞めます。

ほんとうに、大切なのは、

そのくらいのことじゃないでしょうか。

(^_^)ニコニコ

 


 

12.【誰のため】

 

誰のためのパソコン要約筆記かと問われたら、

「聞こえない人たちのために」というのが、

とりあえずひとつの筋かもしれませんが、

私の場合は、それ以前に、「主催者から要請があって」という気持ちがあります。

 

実際には、何かの催しに係わって主催者から要約筆記の要請があっても、

その現場には、

いわゆる難聴者の方がおられない場合もあります。

 

けれども、「情報保障」の「保障」というものはそういうものだから、

別に、それで、自分たちのやっていることが無駄になっているとも思わない。

 

最後まで、難聴者の参加者がないとしても、

それは、結果の話に過ぎず、

主催者が情報保障を意図されて、

それに関わり私たちが依頼されれば、

それが私たちの作業だと思っています。

 

「パソコン要約筆記という作業に参加すること」と、

「情報保障について考えることや、あるいはそれに係わって行動すること」は、

しばしばごちゃまぜにされているような気がしないではありません。

 

少なくとも、私は、自分がやっているパソコン要約筆記は、

ただ、何かの福祉行政のシステム等に係わる末端の作業で、

それ以上でもそれ以下でもないと思っています。

 

そして、自分が苦手じゃなかったり、嫌じゃないことを他人様からお願いされて、

余暇を利用してお役に立てるなら、とてもありがたいとも思っています。

 

けれども、実際の現場の作業から離れた部分では、

せいぜい作業の感想文を自分の都合で書くことくらいで、

その他あれやこれやというのは、もう余裕がなくなってしまいます。

 

このような作業は、あれやこれやと、あまり突き詰めて追求するものではなく、

ときどきささやかに何かで色づけしたり、アクセントを置いたりしつつ、

ただ、そっと地味に続けてゆくものではないか、

と最近思っています。

 


 

11.【秋】

 

久々の書き込みです。

秋になるとコムパル京都北の派遣が詰まるので、

妙に、パソコン要約筆記をやっているのだと自覚して、

昨年の秋は、その勢いで、このホームページを作りました。

今年は、天下の mixi からリンクを貼ってみました。(笑)

 

先日の、恒例行事、「いこいの村祭2007」は、

なんとか、お祭りムードを感じながらがんばれました。

なんとか、この調子で、乗り切りたいと思います。

(^_^)ニコニコ


 

2007/06/10

10.【活動】

 

全国的に要約筆記奉仕員養成講座の時期ですね。

今日見学に来られた舞鶴市の要約筆記サークル「みみかき」さんも、

講座の一部を担当されるそうです。

コムパル京都北も、

以前、講座のなかの一こまを担当したことがありました。

まぁ、パソコン要約筆記を披露するだけでしたけれど.....。

 

要約筆記という活動に関しては、

それぞれの立場からアプローチは様々です。

 

私個人のように、

それを個人的な道楽と捕らえる人もあれば、

何かしら、それを公共利益のように捕らえる人、

あるいは、職務上、そう捕らえざるを得ない人、

様々です。

 

現場で、様々な発言者の発言に注目しますと、

(要約筆記をする以上は、そうせざるを得ないのですが.....。)

いろいろなことが見えてきます。

何かを伝えたい人と、

ただしゃべりたいだけの人、

あるいは、

仕事で、とりあえず、言葉を並べる必要のある人.....。

人の言葉に注目することで、

そういうことが見えてくるような気がします。

 

公の場所で、

何かを口にするまでに、

その人々の背景は様々です。

そして、

私自身のやっていること(パソコン要約筆記)にも、

「聴覚障害者への情報保障」という、目的の下、

様々な観察があります。

そのあたりの観察が、

この活動を何年か続けてこられたことの理由かもしれません。

ありがたいことです。

 

いわゆる「ボランティア活動」では、

自分自身の様々な心の段階を経験したような気がします。

「我こそは、困った人々のために無償で尽くす人」みたいな傲慢な時期もったし、

「自分の知らない世界を覗いて、刺激o(^-^)o ワクワク」の時期もありました。

 

そんなふうに、いろいろな段階があるのは、

何も、いわゆる「ボランティア活動」だけが特別ではないでしょう。

結婚、就職.....。

それぞれの活動が、それなりに、そんな神秘を秘めているのかもしれません。

(^_^)ニコニコ

 


 

9.【タイピング・ハイ】

 

 

主催者が要約筆記付の開催として、

私たちが派遣をいただき現場に行っても、

実際に情報保障の対象となる人たちが1人もいない、という状態はしばしばあります。

 

聴覚障害の人でも、聾唖者の人たちは、

手話通訳があれば、当然、そちらを好まれます。

 

そのような場所で、淡々とながれるパソコン要約筆記の出力は、

たいへん空しいものでありますが、

元来、保障というものはそういもので、

外国人なんかひとりもいないのに英語のアナウンスがながれたり、

多国語表示があれていたりするのと同じことなのでしょう。

 

しかし、対象の方がいないという空しさのなかでも、

続けるには、何かのモーチベーションが必要りまして、

こういう場合は、もう、「人様のお役に立つために」だの、「聞こえない人たちのために」

なんてのは役に立ちません。(なんせ、対象者がいないのですから)

 

そういう場合に一番協力なモーチベーションは、

やはり、パソコン自体が好きであるとか、入力で指を動かすこと自体が好きであるとか、

そういう原始的なものでありまして、

そういうときこそ、むしろ、「ランニング・ハイ」ならぬ、

「タイピング・ハイ」というのがおこりやすいわけです。

 

「タイピング・ハイ」と申しますのは、

いわば、思考と指の動きとパソコンのキーボードが一体化したような至高感でありまして、

これが、来ますと、20分なり30分なりの自分の持ち時間は

あっという間に過ぎて行くわけです。

 


 

8.【ある現場にて】

 

何年か前に、難聴者のNさんが、

「聴覚障害を生きて」というタイトルで、講演をされるので要約筆記奉でお手伝いしたことがあります。

 

私たちは、みんな彼女のことが好きだったし、

そのメッセージの発信をお手伝いできることを光栄に思って参加しました。

 

現場では、たいていは、最初か最後に要約筆記者として紹介されて、

それで、会場の拍手なんぞをいただくのですが、

私は、拍手をいただいている最中に、

ぽつんと一番後ろの席に座っておられた、Nさんのご主人の姿を見ていました。

 

要約筆記を通じて、

私たちは、聴覚障害者の人たちに関わり多少のお手伝いが出来ているのでしょうが、

そんなお手伝いというものは、ずっと彼女の障害と付き合ってこられたご主人に比べたら、

微々たるものに過ぎないという当たり前のことを再認識する思いでした。

 

以来、私は、

「福祉ボランティアで、パソコン要約筆記をやってます!」 と自分から「宣伝」することや、

あるいは、そんなふうに「紹介」されることを、少し恥ずかしく思うようになりました。

あるいは、そういう「宣伝」だの「紹介」と、

物事の実体には、必ず、かなりのズレがあるのだと感じるようになりました。

 

「悪いことしてるわけじゃないんだから、それでいいじゃない。」

という意見もあるのかもしれませんが、

やはり、人間というのは、

「人にしてやっている」というような感覚でいたり、

その「奉仕」とやらの報いを安易に受けてしまってはいけない、

そんなふうに簡単に「与える側」に立って考えてはいけない、

そうではなくて、ありがたくいただいているということを告白する気持が大事である、と思ったわけです。

 

そうしますと、

パソコン好きの私が、

それに関わる作業で、パソコンについて、あれこれ思いを巡らせることができるのは、

やはり、パソコン要約筆記という作業や活動のおかげであると告白せざるを得ません。

 

そういう私の「本音」は、

おそらくは、一途に「聴覚障害者のために.....。」という、

福祉ボランティア系の人たちとはなじまないのだろうが、

やはり、素直にそれを告白するのは大事であろうと、思う。

 

土日の余暇が、

ある程度満たされのも、パソコン要約筆記という活動のおかげであります。

そういう意味では、やはり、私にとっては、ありがたい「道楽」であるわけです。

忙しいなか、それを曲げてやっているわけでもなんでもありません。(^_^)ニコニコ

 

 


 

7.【パソコン要約筆記の旅路 U】

 

最近、派遣現場で、

他人様の発言者の音声言語に集中し続けるのは疲れますし、

老眼気味で、ディスプレイも見づらく、同じキーを何度も間違って打ち込んだりして、

入力もままならぬこともあります。(^^; ヒヤアセ

 

ところが、

そんなわけで、

休日ごとに派遣が続き、

もういい加減嫌気の差しているある朝、

「あー、嫌だ、めんどくせー。」と文句たらたら出かけるとき、

家の者に、

「もう、やめたら。」 と進言されると、なぜか、

なにかしら、無性に、自分を否定されたような気分になります。

「使命」と言うと大袈裟ですし、

「神の声が聞こえる」と書けばたいそうですが(笑)、

なにかしら、そのように導かれて行くわけです。

 

パソコン要約筆記を始めたころは、

なんとなく、イベントごとに関わっているような気分が楽しかったです。

あるいは、

情報保障を提供しているというような、奉仕の満足感もないではなかったです。

それに、同じことをやっている、他の団体との交流とか、楽しかった。

一般に機械が苦手な女性がほとんどのメンバーのなか、

「IT奉行」でいられる優越感も心地良かったです。

けれど、そういう感覚は、

ただ、目新しさや新鮮さの感覚だったような気がします。

 

さて、そんなふうに、

いろいろ複雑に考えたがる私という人間ですが、

どうも、感覚的に、パソコンのキーボードを叩いていると、

たいていは、心が落ち着くような気がします。

だから、ほんとは、チャット遊びでも、ブログ遊びでも、何だって良いのかもしれません。

 

「要約筆記の技術向上」を目指したい人たち、

パソコンのスキルをアップさせたい人たち、

話を聞いてほしい人たち、

「聞こえない人たちのために」が口癖の人たち、

聴覚障害者礼賛の人たち、

他人様の役に立ちたいと口にするような人たち.......。

そのような人たちと私は仲良くできませんでしたし、これからも、

きっと、あまり仲良くできないのかもしれません。(^^; ヒヤアセ

 


 

6.【言葉】

 

どこだったか忘れたが、

オンラインに要約筆記について書いている人がいて、

「私は、言葉が好きで、これをやっています。」というようなことを書いておられて、

これには、自分も同感だな、と思いました。

 

けれど、何年か続けるうちに、

たとえば、推敲の時間のある映画の字幕付けの作業や、翻訳の作業とは違い、

この作業は、「言葉」に関しては、あまりクリエーティブな作業とは言えないような気がしています。

要約筆記の過程で、表現上、多少の主観が入るのは仕方がないのですが、

言うまでもなく、根底は、そのときの発言者の考えと言葉であって、

要約筆記の者は、どんどんはき出される音声言語を、

次から次へと文字にして行くのが使命であります。

 

その際、

「なるほど、いいこと言うなー。」とか、「退屈な講釈並べやがって。」というような主観は、

どんどん切り捨てて行かなければならないわけです。(笑)

感動的な話であれ、くだらない話であれ、

とにかく、発言者や講演者の発する音声言語に追われ、

自分が切り捨てた言葉に未練を感じている暇がないのが、

要約筆記という作業だと思います。

 

これは、まるで、お母さんが、どんどん部屋にオモチャを散らかして行く子どもの後を、

次から次へと片づけて行くことのようですし、

私自身も家内に世話になっていますが、

家庭の主婦が次々に洗濯ものや洗い物を処理して行くのにも似ています。

(毎日、毎日、続くことでないのは救いですが.....。)

 

そうしますと、

パソコン要約筆記に関して、「言葉を使ってなにかクリエーティブでいられる」、と

いうような感覚があるとすれば、それは、まったくの錯覚であって、

この作業は、地味な「ケツ拭き」処理作業であるというのが正確なところかもしれません。(^_^)ニコニコ

また、むしろ、そういう地味さにこそ、なにかしらがあるのだろうと思うのです。

 

 


 

5.【パソコン】

 

あるひとつの考え方では、

パソコンというのは、「省力化のための事務機器」であるのですが、

その反対の場合もあるかもしれません。

 

たとえば、かつて、

我がコムパル京都北の派遣でも、

それ以前は手書きの要約筆記の人たちが、

OHPを使って、2名1組で交代でやっておられた「情報保障」を、

PCを5台も6台も繋いでやっていたことがあります。

 

私は、こういうことは、ある意味、作業の「肥大化」だと思いました。

人材と機材が増加するという意味では、明らかに「肥大化」であるわけです。

もちろん、それに比例して、要約筆記の質が向上したと信じたいのは、

パソコン要約筆記に関わる者としてや山々なのですが、

私は、果たして、単純にそうなのだろうか、とも思いました。

 

パソコン要約筆記のボランティア活動なんていうのは、「遊び」とまでは言わないが、

効率や利潤を考える必要のない活動でありますし、

ある意味、それは、「効率化」とは正反対のパソコンの側面と関わっていて、

作業量や関わる人間と時間を増やしてしまうこともあります。

 

反対に言えば、

「パソコン要約筆記」というのは、難聴者の人たちに情報保障を提供すると同時に、

仕事で使う以外のパソコンという「道具」に「使い道」を提供してくれるという側面があります。

 

それに、余暇にパソコンを買って、

ネットでチャットしたり、ブログやSNSで遊んでいるよりは、

「情報保障に関わっている」という方が世間体も悪くありません。

「お疲れ様」とも言っていただけます。(^_^)ニコニコ

 

そのあたりが分かってくると、

「私、パソコン要約筆記で、他人様の役に立ちたいのです.....。」

なんていうノリの人がやって来ると、

「はい、はい、はい..... 人様のお役に立ちたいなら、

なんでもいいから、仕事探してがんばりましょうね.....。」 というふうに言いたくなってしまいます。

 

奉仕だの、ボランティアだの恩着せがましいことではなくて、

すべきことをしたあとの、余暇の遊びだと思えばいいわけです。

まぁ、ある意味、それは、意地悪な響きになってしまうのでしょうけれど。(^^; ヒヤアセ

 

福祉的な「奉仕」の感覚の人たちの意気込みも分からないのではないのですが、

こういう活動は、「余暇」だの「遊び」だの「道楽」だと、私自身は、思っています。

「不真面目」という意味ではなくて、

金や、時間、

なにがしかの余裕がないと、こんなことはできないわけです。

 

もちろん、

私のような人ばかりではないでしょうが、

「奉仕してます!」 というよりも、

「道楽させてもらっています。(^ ^ゞ ポリポリ」 の方が、

私にとっては、本音に近い感じです。

 


 

4.【ネット】

 

ご承知のように、

パソコン要約筆記に関して、

私は、「福祉」というよりも、「パソコン好き」の流れなので、

どうしても、そういう視点にしか立てない部分があって、

反省もするのですが、それでも、なんとかかんとか、

パソコン要約筆記を続けています。

 

かつて、要約筆記の先輩たちが、

OHPのまぶしい光に照らされつつ、

自分の手で書いておられたことを、

私は、パソコンのお世話になって、より楽にやってしまう。

おまけに、パソコンの表示するフォントは、

私の乱筆も救ってくれるわけです。(笑)

手書きでやったら、読みにくくて、私は、きっと、迷惑をかけてしまうと思います。

 

私の活動地域では、

従来の要約筆記から、まったく関係のない者たちが、パソコン要約筆記を始めたので、

一部には、要約筆記に関して、

「パソコン vs. 手書き」の議論がなかったわけではないのです。

 

けれども、今では、

比較的大きなイベント等は私たちが担当して、

小さな集まり等は手書きの人たちがやっておられるようです。

言うまでもなく、どちらにも利点があるわけです。

 

一般の職業でも同じことで、

私たちは、今では、パソコンを使って、計算したり文書を作成したりするのだけど、

電話で手書きでメモを取ったり、それを人に渡したりもしますね。

 


 

3.【皇室御用達】

 

かつてコムパル京都北のメンバーだった、

私の知り合いのFさんは、

(.....って、一時期名前があっただけで、別に親しくさせてもらっているわけでもないのですが)

M市に天皇陛下が来られたときに、

手話通訳をされたので、

なにかあるたびに

「天皇陛下の手話通訳」と呼んでいるのですが、

きょう、IPtalk のWEBを見ていたら、

「皇太子殿下のパソコン要約筆記」というのがあった。

「PC要約」とか書いた赤いジャンパを来た人がたくさんパソコンに向かっている写真があって、

どっかのスタジアムのボードに、

皇太子さんの画像の横に、パソコン要約筆記の文字が流れていた。

「手話」同様、「パソコン要約筆記」も、それなりの、市民権を得たということなのだろう。

 

それで、その赤いジャンパのユニフォームの人たちの集まりの写真を見ていて、

私は、なぜか、

以前、京都市内の某要約筆記のグループと一緒に練習したときに、

ひとりのおばさんが身につけていた、

「要約筆記」(私の記憶が正しければ.....。)と書いたエプロンのことを思い出した。

それは、年季の入った職人さんのようで、とてもカッコ良かった。

 


 

2.【パソコン奉行たちの没落】

 

私は、もともと「福祉系」とはまったく縁がなく、

いわゆる「パソコン好き人間」に過ぎませんでした。

ですから、初めて、パソコン要約筆記に接したとき、

それを、オンラインの「チャット」の親戚のように感じたものです。

 

TCP/IPのプロトコルを介して、別々の端末から入力した文章が、

お互いの端末に表示されるというのは、

原理としても、インターネットの「チャット」とまったく同じだったわけです。

今のバージョンでもそうですけれど、

かの「IPtalk」というソフトは、

やっぱり、どことなく、「チャット遊び」の匂いがします。

 

まぁ、そんなわけで、パソコン好きの私にとっては、

比較的とっつきやすかったパソコン要約筆記なのですが、

「正統派福祉ボランティア」の人たちで、

長年の要約筆記をやっていて、

なにかの理由でパソコン要約筆記を始めようと思い、

しかも、機械が苦手という人たちにとって、

パソコン要約筆記は、当初は、きっと、とっつきにくいものだったと想像します。

けれども、それよりも、

そういう苦手意識を越えてやろうという人たちもあります。

私が逆の立場だったら、きっと続いていなかったと思います。

 

ただ、一度、そういう機械的なことの準備が整えば、

パソコン要約筆記というのは、

やはり、入力の速い人が強い。

パソコン要約筆記というのは、何度も推敲して、創造的に文章を作成する作業というよりも、

しゃべりちらかし、まきちらす、話し手のあとを、

できる限りピッタリと寄り添って、

書き言葉にして、どんどんと掃除して行くような仕事ですから、

その掃除は、手が早ければ早いのだと思います。

 

そして、掃除というと、やはり、最終的に女の人が上手です。

手際の良さ、早さ、等々、丁寧さ、様々、男ではどうしてもかなわない部分があります。

 

一般に、我々男性の方がパソコンには詳しい場合が多いのですが、

我々が自慢げに披露している知識なんてのは、

掃除機の仕組みの説明みたいなもんで、

そんなもんは、動きさえすれば、実際の「掃除」に関しては、

あんまり関係なくなります。

 

かくして、

やはり、「福祉ボランティア」というのは、

女の人たちの舞台であり、

我々男性は、それはそうと諦めて、

「あ、ら、ら、どーしよう、つながらないわ。」と言われたときにこそ、

無言で、さっと直して上げればいいのでしょう。

パソコンの技術的な講釈なんぞ、どんなにきばってみたところで、

彼女たちの右の耳から入り左の耳へ抜けて行くからです。

パソコンがすっかり普及してしまった今じゃ、

古き良き時代のパソコン奉行並みの尊敬さえいただけない。(^^; ヒヤアセ

 

必要とする人の必要な作業にはパソコンが行き渡ってしまった今では、

パソコン奉行を相手にしてくれるのは、

70才以上くらいのおじーさんやおばーさんたちだけなのかもしれません。

なんせ、コンピュータがらみのことは、「価値観」さえも、どんどん「更新」されて行くのですから。

「価値観」のバージョン・アップも必要なのかもしれません。

 


 

1.【パソコン要約筆記の旅路】

 

今やパソコンはどんどんと普及して、

パソコン本体のみならず、

プロジェクタにしてもスクリーンにしても、

無線LANカードにしてもハブにしても、

公の機関であればたいていいくつか所有していて、

おまけに、事務系の仕事をしている人たちなら、

たいていキーボード入力には慣れている。

同じ情報保障とはいっても、

裸一貫、身ひとつ、それなりの「技能」のある、手話通訳とは違って、

パソコン要約筆記は、機材さえあれば誰でもやれるだろうから、

わざわざ私たちが行く理由は何なんだろう....と思いつつ、

例年、恒例の行事になると、パソコン要約筆記として呼んでいただいて、参加している。

 

じゃぁ、そういう私たちの利点って何だろう、と考えてみると、

やっぱり、「人」「機材」「時間の都合」「やる気」と「慣れ」が、

グループとしてワン・パッケージになっているところかな、と思う。

 

主催者さんたちは、

ほんとは、その人たちだけで、パソコン要約筆記なんかできてしまうだろう。

パソコン要約筆記に必要な人も機材もあるはずだ。

けれども、実際当日のことを考えたら、

Aさんは全体の進行、Bさんは手話通訳、Cさんはその他雑用..... という具合に、

「都合」が揃わない。

そこで、派遣委託や依頼の予算があれば、

パソコン要約筆記の部分は、外注しちゃおうということになる。

私が主催者側であっても、同じことを考えるだろう。(笑)

 

かくして、

「コムパル京都北さん、いつものお願いね。」

「へい、承知いたしました。」という感じ.....。

「サービス」とはそういうことだ。

相手に便利であるのは尊いことだ。

そして、それが、よほど気の進まない作業でなければ、

こちらにとってもありがたい経験である。

 

いろいろな派遣や要請をいただくたび、

「あー、また、今年もこの時期になったな.....。」とつくづく思う。

自分なりのパソコン要約筆記カレンダーができている。

熱い方法論や技術論や他団体との交流に精を出すことはめっきり減ってしまったが、

元気で要約筆記をやらせていただけるのはありがたいものである。

言葉は悪いが、お金のかからない自分なりの「道楽」だと思っている。(^_^)ニコニコ

 

「何とぞお元気で。いつまでも続けて下さい。」

要約筆記奉仕員養成講座の締めくくりに聞いた、

手書き要約筆記のおばーさんの言葉をいつも思い出す。

 

written by FUJITA

 

finally modified: 2008/08/06  (JAPAN)
by T.F.