【螢】 |
その年、秋の深まりは早かった。 まだ神無月は半月も残されているというのに、既に朝晩の空気は刺すような冷たさを運んでくる。 京の都から見渡せる山々は黄から赤、そして紅と、急くように衣を変えていく。とりわけ鬼が住むと噂される大江山はその移り変わりも早く見え、既に葉を落としきった木も多数見受けられた。 それは決して季節が移ろう事に依るだけの出来事では無い。鬼の存在があの山の移ろいを早めているのだと、大江山から吹き下ろしてくる冷たい風に身を縮めながら都人達は噂しあった。 鬼が都を荒らし始めてから数年が経っていた。 永世の春と称し、栄華を誇った京の都は民草もまばらな廃墟と化している。貴人は我先にと都を捨て、所領の別荘などへ身を寄せている。今、この都に残っている者は、そうした逃げ先の無い貧しい者達がほとんどであった。 実りの秋を祝い、八百万の神々へ豊穣の拝謝の祭りが最後に催されたのは、はたしていつの頃だったか。人影まばらなこの都では、そのような祭りはこの数年行われていない。 奉られることの無くなった都を神は見捨てたのか、救いの手を差し伸べてくれない神から人心は離れたのか。少なくとも今、人の口から出る神への言葉は恨み辛みばかりであった。 山颪の風が砂塵を巻き上げる都大路に、幼い子供の泣き声が響き渡る。母を呼ぶ幼子の声に、往来を往くわずかな者達は誰一人として足を止める者はいなかった。むしろ編み笠ある者は深く被り、無い者は顔を背けて幼子の姿を視界に留めぬようにして先を急いだ。 陽はもうすぐ山の向こうに落ちる。鬼のみならず、魑魅魍魎が姿を現す黄昏時が近づいていた。戸外にいる者は命の大事とばかりに家路を急いでいたのだった。 幼子の泣き声が届いておらぬはずはない。しかしそれを心から閉め出し、詫びるように願った。 (誰か助けてやってくれ。俺には出来ない……。誰か……) 神への祈りはなかった。祈りなど、とうの昔に諦めついている。 泣き声が不意に止んだ。 かたくなに心を閉ざしていた者達は、しかしそれの意味するところにハッとして振り返った。奴等が、鬼達がもう姿を現したのかと。 しかしそうではなかった。 幼子は武具をまとった者達に取り囲まれていた。一団の中の女に抱え上げられた幼子は、自分の身に何が起こったのか判らないといった風の顔で固まっていた。 少なくとも鬼が現れたのではない。しかしこの時間に厄介事にすすんで関わろうとするとは物好きな連中だ。その場にいた者達は安堵と軽蔑の入り交じった心でその様をしばし眺めた後、再び家路の足を急いだのだった。そうして幼子と一団から離れていく者の中には帰途の途中で思い出した者もいたかもしれない。 鬼退治を生業とする一族の存在を。 「はいはい、もう泣かないの。どうしたの?」 幼子は再び泣き顔を見せていた。誰も気に留めてくれなかったところへ不意に差し伸べられた手。それに驚いて声を失っていたのだが、その後は抱えてくれた人肌に安心して再び涙がこみ上げてきたのだろう。 そんな幼子の心情を察し、喜久子は困った顔も浮かべずに幼子をあやしている。 「ん? 迷子になっちゃったのかな? お母さんと一緒だった?」 あやされ続け幾分落ち着いてきたところだったが、母の所在を尋ねらた幼子は再度涙をたたえ始めてしまう。 「ああっ、ごめんねごめんね」 慌てて謝る喜久子だったが、既に遅し。母という言葉に誘引され、そのぬくもりを思い出した幼子は火がついたように泣き出してしまった。 「ど、どうしようっ。お父さん」 「そうだな……」 幼子を抱えながら喜久子は父である鈴森家当主のはる香を振り返った。はる香は逡巡する所作も見せずに、背負った巾着を下ろすとその中から何かを取り出した。 「腹が減っていると、人間、悲しくなるもの。とりあえずこれを食べて元気を出しなさい」 はる香は大きな泣き声を上げている幼子の口に、巾着から取り出した握り飯を放り込んだ。幼子の泣き声はぴたりと止んで、口一杯の握り飯を一心に頬張りだした。 喜久子は苦笑交じりで幼子の顔を覗き込む。 「もうっ。現金な子ね」 「そんなもんだろ? 子供って」 「そういうもの? ……そうかもね。普通の子供は」 自分は過ごす事の無かった子供時代について、喜久子はそれ以上思い描くことを止めにした。 黄昏を前にして慌ただしく戸締まりをしている付近の家々を回り、二人は幼子の身元を尋ね歩いた。残念ながら家の戸締まりに忙しい人々からは芳しい返事をもらうことは出来なかったが、幸いにもそうしている二人を幼子の母の方が探し当ててくれたのだった。 「おかあさん!」 自分の名を呼ぶ母の声を聞いた幼子は、喜久子の腕の中でうって変わった様な笑みを浮かべて見せた。抱えられていた腕から下ろされた幼子はわき目もふらずに母の元へと駆け寄っていく。 膝をつき子供の身体を抱きしめた母親は、幼子から事情を聞いたのか二人に向けて頭を下げる。そうして彼女もまた、時間に追われるように家路を急いだのだった。 夜のとばりに消えるようにして母子の姿が見えなくなるまで、二人はその場に留まり見送った。やがて手をつないだ母子の姿が完全に見えなくなると喜久子は口を開いた。 「じゃ、私達も帰ろっか」 「そうだね。余り遅くなるとイツ花が心配するだろうし」 「イツ花だけじゃないでしょ。華山だって心配するわよ」 まだこちらにやってきたばかりで今回の討伐には同行を許されなかった弟を忘れていたかのような発言に、喜久子は指を立てて父を注意した。決して忘れていたわけではないのだが、はる香は眉を寄せて首を傾げた。 「華山ねぇ……。アイツは誰かを心配するような性分には思えないんだけどなぁ……」 「そんな事無いわよ。あの子、ちょっと皮肉屋っぽいトコロがあるから誤解されちゃうけど、案外周りの人に気を配る方なのよ?」 「ふうん。……まだ来て一月なのに、随分と華山の事を知っているんだね」 意外そうなはる香の言葉に、喜久子は得意げに胸を反らす。 「そりゃあ、もう! なんてったって、お姉さんですから!」 「なるほど。そりゃ卓見だね」 「ほら。そうやって皮肉っぽく言うところなんて、そっくり。お父さんと華山。優しいお父さんに似ているんだから、華山だって優しいに決まっているでしょ?」 「はいはい、判りました。……じゃ、急いでイツ花と華山が待つ我が家へ帰りましょう」 降参とばかりに肩をすくめるはる香。それを満足げに微笑み見やり、喜久子は歩き出した。
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