○● 読書感想記 ●○ 2008年 【6】 ※ 書影画像のリンク先は【bk1】です ※
「寄りかかるぞ」 「――うん」 「ちゃんと支えろよ」 「そんな重いのかよ」 「体重じゃないよ。心だよ」
台詞で進められるシーンの比重が他の作品より多いような気がします。 そーゆーとこ、ちょっとラノベっぽいのかなーとか。 長編でもこういう書き方をされるセンセなのでしょうか。 ちょっと気になったのでおぼえておこーっと。
「懸命に生きようとしている命を見捨てる戦士など、火の一族にはいません」
自分の命の行方には無頓着もいいとこなのに、仲間が傷つけられることには我慢ならない。 みんながみんなそう思っているから、深いところでつながっているのだと思う。 自分が自分の身を省みなくても、別の誰かが見ていてくれている。信じてくれている。 火の一族の強さって、そんな鎖のようにつながった気持ちの部分にあるのかなーって。 それでも戦いが起これば犠牲が出るのは避けられないわけで。 どれだけがんばっても「誰ひとりの命も失うわけにはいかない」……なんてことは綺麗事。 血が流れ、四肢を失い、命が散る。 それが戦。 綺麗な戦いなどありはしないのだと、枡田センセは教えてくれます。 でも、だからといって逃げることを是とはしない。 恐れから戦うことを否定しても、暴力はいつだって理不尽だからわたしたちを襲ってくる。 もしわたしたちに大切なモノがあって、それを暴力から守りたいと願うなら、血を流し、腕が折れても戦うしかない。 そして志半ばで命がついえようと、その気持ちをつないでいる仲間がいれば、きっと戦い続けてくれる。 大切なモノを守ってくれる。 戦うってことは、信じるってことなんだなーって。 火の一族の勇ましさに、とくにハルカと張政のふたりの姿にそう感じたのです。 火の一族はさぁ、どれだけ困難な状況にあっても、誰ひとり落ち込んでいたり悲しんでいたりはしないのですよね。 みんな、笑うか怒るかのどちらかで。 それはエネルギーの発露なんじゃないかな……って。 困難を受け入れはしても、あきらめはしない。 ……うん。 彼らの生き様をおぼえていこう。 21世紀に生きるわたしたちですけれど、その気持ちを忘れなければ彼らとつながっていると思えますし、そしてその気持ちがあれば誰だって”火の一族“になれますよね! 戦いの物語。 たくさんの別れがありましたけれど、ラストシーンは「出会い」でした。 全てをなくして、またゼロからのスタートだけれど。 んでも、張政とハルカのふたりなら、ゼロから始まるための「出会い」であっても、実はそれが「全て」なんじゃないかって。 運命、なめるな。 1800年の時空を越えてふたりは出会ったんです。 だとしたら、ゼロからだろうとなんであろうと、なんの問題も無いのです。 この作品は、ボーイ・ミーツ・ガール なのですから。
ラブレターなんて絶滅危惧種を手にしたのはもちろん今日が初めてだし、告白されたことも告白したこともなかった。大げさかもしれないが、誰かから好意を抱かれていると自覚したことも初めてだったかもしれない。それに関してはたぶん環境的なものが大いに関係しているのだろうと、彼は割り切っていた。 そう、環境が悪いのだ。 具体的に言えば、あの幼馴染みが。
……なんか、もう、サイテーな言いぐさではないですか、これ。 自分が誰かに好意を持ったことがるのかどうかは考慮に入れず、誰かから好意を得る得られないという点にのみ執着しているとか、もうね。 しかも好意を得らられないのは幼馴染みのせい……って、受身すぎて気持ち悪いわ。 実際には幼馴染みの存在がたしかに邪魔になっていたという事実があるのですけれど、それにしたって自分から行動を起こしたことが無いなら意味無いと思うー。 むしろ行き過ぎのきらいはあったとしても、実力に打って出ている幼馴染みの行動を応援したくなったわ!(><) さらに彼は今回初めてラブレターをくれた相手について、そんな状況を変えるための初めの一歩としか考えていないワケで。 選り好みをしていられる身分ではない……とか言って。 なんかもうね、もうねっ!!!(`Д´) ……実際の高校生のノリとしては「アリ」なのかもしれませんけれど、ラノベの主人公像としては鬼畜の部類じゃないですか? 鬼畜とまでは言わないでも、かなり失礼な性格していると思うー。 ちょっと共感できなかったわー。 死体をつなぎ合わせて蘇生されてからも、そんな自分の状態に狂うことなく容易に受け入れる……ってのも、ずいぶんと勝手のいい性格しているなーとか。 さきの恋愛観にしても、自分の人生観にしても、こうした軽めのノリのほうがいまは受け入れられるのかなぁ……。 なんだか納得いかない……というのは歳だからでしょうか?(^_^;)
「ねえ」と舞子さんは言う。 「俺たち付き合っているんだよね、って言って」 「え?」 「何ですか、それは」 「いいから」 「俺たち付き合っているんだよね」 「うん」 舞子さんは前を向いたまま力強く言った。
これはねーよ、とか思ってしまったわ。 タイミングとか計っていた感はたしかにあるのですけれど、それを言わせてどうするよ!とか思った!(><) うーん……。 そういう彼だと察したから、彼女のほうから動いたってことなのかなー。 だとすればお似合いなのかも……? でもなぁ……(^_^;)。 全体のトーンが好きなのは、ラストの「ハミングライフ」。 この掌編だけ女性が主人公で、ココロが疲れているときに意外な出会いがあって、そのまま時を過ごしていくウチに新しい恋心に気付かされるというお話。 彼とのコミュニケーションの方法が古風でねぇ……。 答えを求めるスピードが上がっている現代で、このようにゆっくりとココロをつなげていくっていうのはファンタジー以外のなにものでもないと思ってしまうのですけれど、その夢見心地加減がくすぐったいのさー(≧▽≦)。 たぶん、現実の速さに巻き込まれていたら、恋だけじゃなくてココロも壊れてしまっていたんじゃないかなーって。 きっと、この出会いは、奇跡。 神様が少し休みなさいって言ってくれたのだと思うのです。 また少し時間が空いたら、中村センセの作品を読みたいと思います。
「少子化対策特命大臣、なんて人気取り部署を創設するくらいなら、時代遅れの司法判決に即座に噛みつくくらいの反射神経がないと、何の意味もないわ」
これはもう海堂センセの本音でしょうね……。 たとえば日本の現代医学をもってしても出産時における赤ちゃんの死亡率は0.4%あるのだと。 「そのとき」お医者様が全力を尽くしたのかは別に明らかにされる必要があるとしても、わたしたちのほうもお医者様の助けを受けるときには「死」の可能性を受け止めなければいけないのだと思います。 作中でも触れられていましたけれど、病とはマイナスからのスタートであるということ。 お医者様が治療をしてくれて完治したとしても、それはマイナスがゼロになっただけ。 それゆえに患者と家族は治療という行為への感謝に不感症でいるのではないかと。 それではいけないと思うのです。 医学と医療のはざまでもてあそばれる現実を背景に、形を成していく事件。 権威に対して一矢を報いるも、それは一時の栄光でしかなく、真なるクライマックスはそのあと。 事件がどうあれ、現状がどれだけ非情でも、それでも生への賛歌こそが海堂センセの真意だなぁ……と思わずにはいられないクライマックスでした。 そしてその余韻にひたることのできるエピローグ。 なんというか、もう、パーフェクトすぎやしませんか?ってカンジ。 海堂ワールドとしては浮いていた感のあった『医学のたまご』も今作をもって十分につながりを持つこととなって、いよいよ桜宮市の世界が広がります。 これからの展開がますます楽しみになってまいりました!(≧▽≦)
『赤いくつと悪魔姫』 清水マリコ 著 うーん……。 よくわからなかったなぁ……。 主人公が事件に首を突っ込む動機がことにわからず、それゆえ共感もできなかったし物語のスジへのめり込むこともできなかったっちう……。 あるいはそれ以前に文章のつながり、シーンの連続性に疑問を感じたという部分もあって。 筆致……が合わないと、つとに感じてしまったわ。 『日曜日のアイスクリームが溶けるまで』から、清水センセの筆致に違和感をおぼえ始めてます。 んー……。 大喜戸さんから誘いを受けてビーズログに来たってことはMF文庫とのつながりは切れていない……のですよね? あちらでの雰囲気のほうが好きだったなぁ……。