浦島太郎
 浜辺で亀を助け、浦島太郎が連れて行かれた先は、竜宮城でした。そうして、そこでは乙姫さまという美しい女性が、彼のことを待っていたのでした。

 乙姫さまと二人、浦島は、竜宮城で楽しく幸せな日々を過ごしました。時の流れを忘れさせてしまうほどの穏やかな日々、飢えに苦しむことも、明日の糧を思い煩うこともありません。それでも彼は、時折、かつての生活を思い出してしまうことがあるのです。
 その理由は、浦島にもわかりません。甦る思い出というものは、常に懐かしく、そうして、時に残酷なものです。何もかもが満ち足りているはずなのに、それでも思い出が淡い光を放ち、浦島を過去へといざなうことがあるのでした。
 そんなとき、浦島はつい空を見上げてしまいます。しかし、そこには、どこまでも深い藍の色があるばかり、軽やかな空の色はありません。もちろん、白い雲の姿もありません。
 とうとう我慢しきれなくなった浦島は、あるとき、乙姫さまに「浜に帰りたい」と告げてしまいました。
 少しの間、乙姫さまは、もの言いたげな目で浦島のことを見つめていました。が、ふっと彼から視線を外すと、「わかりました」と、穏やかな口調で言葉を返してきたのでした。

 乙姫さまの見送りを受け、浦島太郎は再び例の亀の背にまたがって、竜宮城を後にしました。浦島の手には、乙姫さまから贈られた玉手箱があり、彼はそれを両手で大切に包み持っていました。
 浦島は何度も何度も、後ろを振り返りました。竜宮城から、次第次第に遠のいてゆきます。大きな屋敷であったはずのそれが、深い藍の色の中の小さな点となり、ついに見えなくなりました。
 それでも浦島は、後ろを振り返ってみるのですが、もはや竜宮城は見えません。そんな彼の視界を、銀に輝く魚の群れが横切ってゆきます。
「すまんな」
 振り返ることを止めた浦島は、黙々とヒレを動かし続ける亀に語りかけました。
「お気になさいますな。誰しも抑えきれぬ思いはあるものです」
「お前もか?」
「どうでしょう。かつてはそんな時もありましたが、鶴は千年、亀は万年、私は長く生きすぎました。それでも残る思いと言えば、生きる、ただそれだけなのかもしれません」
「そうか....。では、乙姫さまは?」
「わかりません。私にはあの方の心の内を推し量ることなど、とてもできません。それに、もし仮にあなたがそのことを尋ねられても、あの方は答えることはないでしょう」
「どうしてだ?」
「乙姫さまの目を思い起こしください。それで何もわからないとすれば、それまでです」
 浦島太郎は、言われたとおり、記憶の中にある乙姫さまの顔を思い浮かべてみました。思い出の中に浮かぶ彼女の目の色、それは竜宮城で見る水の色と同じく、深い藍の色に沈み、その深さゆえに黒く染まっているようにも思えました。
 何もかもをも包み込むようなその藍の色は、遠く果てのない世界を眺めているようでもあり、浦島はなんとも言いようのない寂しさに包まれ、目の前に広がっている海をただ見つめるしかありませんでした。
「その通りなんですよ」
 亀がぽつりつぶやきました。

 浦島はぼんやりと水の彼方を眺め、亀は黙々とヒレを動かし続け、それで幾時間が過ぎたのでしょう、次第にあたりの水の色が明るいものへと移り変わってきました。ふと浦島が見上げると、揺らぎながらも、空の色が、光のきらめきが見えるではありませんか。
「おおっ」
 乙姫さまのことを思い、言いようのない寂しさの中に沈み込んでいた浦島は、その爽やかな色合いに、思わず声をあげてしまいました。しかし、亀はやはり黙々とヒレを動かし続けていました。

 ついに浦島の頭が、水上に出ました。
 久しぶりに吸い込む生のままの空気、思わず浦島はむせ返ってしまいました。それと同時に、これまで何げなく喉に通していた海の水が遡ってきて、彼は「ごぼっ」という音ともに、それを亀の頭に吐きかけてしまいました。
「すっ、すまん....」
「気になさいますな」
 浦島は涙を滲ませた目で、岸辺を眺めました。岸まではまだ距離がありますが、その光景ははっきりとうかがうことができます。
 久しぶりに目にする浜辺の砂の色に、立ち並ぶ松の木の緑。見上げれば、海の底でずっと恋い焦がれていた軽やかな青の色があり、もちろん空には、くっきりとした輪郭を持つ白い雲が浮かんでいます。浦島の目から、今度は本物の涙が零れ落ちてきました。
「駄目だな、やっぱり」
 申し訳なさそうに、浦島は亀に語りかけました。
「いいんですよ、それで」
 そうぽつり言葉を返しただけで、やはり亀は黙々と岸を目指して泳ぎ続けました。
 近づく浜辺、浦島の目には、浜辺の砂の色が懐かしく、離れていたにもかかわらず、近しいものに感じられました。ですが、近づくにつれ、その浜に見たこともない灰色の壁の存在を認めました。それは、いかにも硬そうな感じで、浜辺に沿って広がっています。

 浜辺に着きました。
 浦島が亀の背から下りると、その両の足に、ぐりっと砂の質感が伝わってきました。
----ああっ、この感触だ....
 浦島はうつむき、自分が踏みしめている大地をあらためて確認し、次いで空を見上げました。
 確かな大地の感触と、見上げる空の軽やかな広がり、浦島は大きく深呼吸をし、日の光のもとにあるすばらしさを全身で受け止めました。
 そんな浦島の感慨をよそに、亀はそっけなく別れの言葉を告げてきました。
「それでは」
「あっ、ありがとう」
 浦島が振り返り、言葉を口にしたときには、すでに亀は彼に背を向け、沖へと泳ぎ始めていました。浦島は、亀の背が波間に消えても、しばらくの間、海を眺めていました。
「さてと、帰ろうか」
 その言葉を口にすると、浦島は砂浜を歩み始めました。
----みんな、元気にしているかな? それにしても....
 あれほど馴れ親しみ、それゆえに恋い焦がれていた光景であるというのに、眼前の光景に浦島は違和感を覚えていました。まず海岸線に沿って広がっている灰色の壁からして、見たこともない代物です。
 近寄り、手で触れてみると、それは岩のように堅く、その表面もザラついています。しかし、岩のように勝手気ままな形をしているわけではなく、それは人の手によるもののように、整然とした形を持っています。
----何なんだ、これは?
 そう疑問を感じている浦島の耳に、これまで聞いたこともない騒がしい音が飛び込んできました。その音の主は、この灰色の壁の向こうにいるようです。しかし、それを確かめてみようにも、目の前にある灰色の壁は浦島の背より高く、飛び上がってもその端に手が届きそうもありません。
 浦島はあたりを見回しました。すると、灰色の壁の一部に、階段があるのが目に入りました。浦島は、その階段へと向かいました。そうして、階段を上り、そこで目にした光景に、浦島は茫然となってしまいました。
 大地に見える土の色はわずかばかり、ほとんどが見るからに固そうな黒か灰色に覆われています。しかも、そこで目にした建物らしきものは、それまで浦島が知っている建物とはまるで違っています。そればかりではありません。道行く人たちが身にまとっているものでさえ、まったく見たことがないものでした。
 先ほど浦島が聞いた音の主が、彼の前を横切りました。それを見て、浦島は愕然となり、身動きひとつできなくなってしまいました。
----なっ、なんだ、あのバケモノは....
 わずかに我を取り戻した浦島は、それまで経験したこともない速さでもって動き去ってゆくモノに、ようやく怖れを感じるようになりました。しかし、目にするもののすべてが、彼の経験をはるかに越えていたために、浦島の心は、振り回され、何が何だかわからず、パニック状態にあったのです。
 そんな浦島に追い打ちをかけるように、道行く人たちが、彼に好奇と蔑みの視線を向けてきます。浦島の耳には、そうした人たちのひそみ笑う声が聞こえました。その人たちは、ひそみ笑いばかりでなく、何かを囁きあっているみたいです。その声も、浦島の耳には届いていました。しかし、それは浦島の知っている言葉とは違っていました。
 確かに、聞き覚えがあるような気はします。ですが、何を言っているのか、まったく理解できません。
 浦島は、その場を走り去り、浜辺へと戻りました。少なくとも、白い浜辺と青い海だけは、彼の経験の範囲内にあるものでした。とは言え、沖に見える船らしきものは、やはり見たこともないものでした。
 浦島は、何が何だかわからぬままに、とぼとぼと浜辺を歩き始めました。時折、走り出したい衝動に駆られ、実際、その衝動に任せて、息の続く限り走ってみたりもしました。しかし、そんなことをしたところで、目にしているもの、耳にしているものが、かつて自分が慣れ親しんでいたものへと戻ってくれることはありませんでした。
 もはや浦島には、自分の家に戻ろうなどという意志は、微塵の欠片<カケラ>さえ存在していませんでした。今、自分がいる世界は、まったくの別世界であり、その別世界において、我が家があるなどということは、夢想だにできぬことです。
 それに、自分の家を探し回った挙句、それが見つからなかったとき、浦島は這い上がることのできぬ絶望の淵へと叩き落とされることになります。そうなってしまえば、浦島の心は崩壊するしかありません。今でさえ、半ば崩れかけている心が、我が家に帰るなどという望みを捨て去ってしまっているのは、むしろ当然のことです。それは、崩れかけながらも、それでも何とか自分を保とうとする防衛本能の現われでした。
 いったいどれくらい浜辺を歩き続けたことでしょう、浦島の目にまたも得体の知れない景色が映り、彼はそこで歩みを止めました。そうして、その場に腰を下ろして、手にしている玉手箱を傍らに置くと、なす術もなく、ただぼんやりと海を眺めていました。
「帰りたいなあ....」
 海を眺めたまま、我知らずの内に、浦島はぽつり言葉を口にしました。
 自身の言葉を耳にして、浦島の心に「帰りたい」という思いが、急速に膨れ上がってゆきました。
「帰りたい、帰りたい、帰りたい....」
 浦島は、膝に顔をうずめ、嗚咽しました。しかし、浦島には、その「帰りたい」という思いが、いったい何処への「帰りたい」なのか、はっきりとわかりません。
 その思いとともにあるのは、かつての浜での生活ばかりではなく、竜宮城で乙姫さまと幸せに暮らしていた日々でもありました。そのふたつの過去が、入れ替わり立ち代わり、そうして時に入り混じり、「帰りたい」という思いとともに激しく湧き上がってくるのです。
 しかし、わずかに心が落ち着くと、浦島には、竜宮城での日々の方が、近しいものに感じられ、そちらの方がより鮮明なものとして甦ってきます。それ以前の浜での生活は、自分とは関係のないはるか遠い昔の物語のようにしか、感じられなくなってしまいました。浜辺の光景は、まるで変わってしまっているのに、今こうして眺めている海は、変わらぬままであるのですから。
 浦島は海を眺めたまま、傍らに置いてある玉手箱を手にしました。そうして、それを膝の上に置くと、その封印の紐に手をかけました。
 固く結んであるように見えた紐は、わずかな力でするりとほどけ落ちました。
 浦島は、玉手箱を開けました。
 玉手箱からもうもうと白い煙が立ち上り、浦島の視界が真っ白になりました。煙に包まれながら、浦島はそこに、乙姫さまの藤の香りにも似た甘芳しい高貴な香りを認めました。
----乙姫さま....
 浦島は目を閉じ、その香りに疲れ果てている自身の心を預けました。
 乙姫さまの香りは、竜宮城での日々と同じく、やさしく彼を包み込んでくれました。それは、乙姫さまが彼を抱擁してくれたときの感触と、何ら変わるところがありません。
「途方にくれたときは、この箱をお開けなさい」
 浦島の心に、見送りの際、哀しげな微笑みとともに玉手箱を手渡してくれた、乙姫さまのやわらかな声が思い起こされました。
----ありがとう....
 その思いとともに、浦島は目を開きました。立ち上ってきた煙は、すでに晴れています。そうして、玉手箱の中には、小さな袋が残されていました。
 浦島は、その小さな袋を右の手に取ってみました。どうやら匂い袋のようです。
 浦島が、それを鼻へ近づけてみると、やはり乙姫さまの香りがうっすらと薫ってきました。
「くっ....」
 匂い袋を握りしめ、浦島は嗚咽を洩らしました。
 そのとき、突然、隣から
「おじいさん、大丈夫?」
 と、あどけない声が起こりました。
 見れば、ひとりの男の子が、心配そうに浦島のことを覗き込んでいます。
「ねぇ、どっか痛いの?」
 浦島には、やはりその言葉の意味がわかりません。しかし、少年が彼を心配していることは、はっきりと伝わってきました。
 浦島は、無言のまま、にっと笑顔を見せて、力強くうなずきました。
「あっ、よかったぁ。どっか痛いのかなと思っちゃった」
 浦島の笑顔に安心した少年も、にっこり微笑みました。
 浦島は、眩しいものを見る思いで、目を細め、そのいとけない笑顔を眺めていました。そうして、匂い袋を握り締めていた右手を少年の前へと差し出すと、その手を開きました。
「あっ、これ何? わっ、イイ匂いがする」
 浦島は、少年の表情から、その言葉の意味を汲み取りました。左手で匂い袋をつまみあげると、彼は右手で少年の手を取り、その小さな掌の上に匂い袋を乗せました。
「えっ、これ、くれるの?」
 浦島に手をつかまれ、その少年は、一瞬、驚いた表情となったのですが、匂い袋がそこに乗せられると、すぐさま明るい表情を取り戻しました。
 それを見て、浦島は、ゆったりとうなずきました。
「わっ、ホント。おじいさん、ありがとっ」
 そう言って、少年は自らの手の中にある匂い袋の香りを確かめ、再びうれしそうな笑顔を浮かべるのでした。
「でも、おじいさん、お家に帰らなくていいの?」
 少年が、再び心配そうな顔で尋ねてきました。確かに、うっすらと紅の光が漂いはじめ、夕暮れ時が近づいていることを告げています。
 浦島は、笑顔を答えにするしかありませんでした。
「イイの? ヘンなの....」
 少年は不思議そうな表情を浮かべていましたが
「じゃ、ボク、帰らなくっちゃ。おじいさん、これ、ありがとね」
 と、再び明るい顔でもって、もらった匂い袋を浦島に示しました。その仕種に浦島がうなずくと、少年は
「じゃ、ばいばい」
 と言って、もう一方の手を浦島に向かって振りました。もちろん、浦島には、その言葉の意味はわかりません。しかし、その仕種が別れの挨拶を示すものだということは理解できたので、少年の真似をして、浦島も手を挙げ、ぎこちない素振りで小さく手を振りました。
「じゃっねー」
 浦島からの応えを目にすると、少年はひときわ明るい声を出して、ぶんぶん大きく手を振り、浦島のもとから走り去って行きました。浦島は、少年の姿が灰色の壁の向こう側へと消えるまで、その後ろ姿を見つめていました。

 少年の姿が見えなくなると、浦島は再び視線を海へと戻しました。
 夕日を浴びて、波が紅のきらめきを浦島に返してきます。それを眺める浦島の表情には、満ち足りた微笑みが浮かんでいました。
 寄せては返す波、波音が穏やかな広がりとなって、浦島の心を満たしてゆきます。紅のきらめきが穏やかな光となって、彼の視界に広がってゆきました。
「浦島さま....」
 波音の彼方から、亀の声が聞こえてきました。
----おおっ、亀か。たびたびすまんな。
 浦島は、心の中で亀に語りかけました。自分の声で、この波音を遮りたくなかったのです。
「お気になさいますな。それが私の役目です」
----そうか。
「たいそううれしそうなご様子でいらっしゃいますね」
----ああ、その通りだ。これで良かった、そう思っている。
「では、竜宮城にお戻りになりましょう。乙姫さまもお待ちです」
----そうか....。だが、もう少しこうしていたい。待っていてくれぬか?
「鶴は千年、亀は万年と申します」
----ありがとう....
 彼方を眺めている浦島のまぶたが、ゆっくりと閉じてゆきました。

 寄せては返し、寄せては返し、波は浦島がその眠りに就くまで、彼への子守唄を奏でていました。
「月夜の物語」の入口へ ホームに戻る
"send a message" 
to Suzumi

Peep Hole