はじめに
ハッピー・アワーは、もぐら氏のHP「連載小説」の中のリレー小説です。
ハッピー・アワーの一章「ハッピー・アワー」は、もぐら氏に著作権があります。



ハッピー・アワー by もぐら


「あった…」

数日前、飲んだくれて公園で寝ていた時に知り合った、浮浪者の老人の言ったとおり、そのバーは高架下の片隅にあった。
「11時53分か」
僕は時計を見ながら、浮浪者の言葉を思い出した。

「店の名前は”ハッピー・アワー”。夜の11時55分から5分間しか入り口が開かない。
その5分間がハッピーへの入り口さ。」
「本当にハッピーになれるんか?運もツキも使い果たした俺が…」
僕は鼻で笑いながら老人に聞いた。
「保証するよ。このコインがあれば、すぐにハッピーさ。あんたにやるよ。酒のお礼だ。」
老人は買ってやったウィスキーを一口含むとコインを僕に渡した。
「なんで、あんたはコインを使ってハッピーにならへんのや?」
「俺はもう充分ハッピーさ。これが性に合ってる。」
「ふ〜ん。じゃあな。もう帰るわ。」
僕は、受け取ったコインをポケットに入れると立ち上がった。
「ハッピー・アワーは時間制やぞ…」
老人のつぶやきは僕には聞こえなかった。

何故来たのかわからない。気が付けば店の前に立っていた。別れた妻からの養育費の請求書を見たからか。
今日も仕事が見つからなかったか。理由はいくらでもありそうだ。

11時55分。ネオンが点いた。僕はドアを開ける。
「ようこそ”ハッピー・アワー”へ。」
狭い間口。バーテン風の初老の男が上目使いで立っている。奥にはもう一枚のドア。
「初めてでございますね。当店では扱っていないお酒はございません。
どのようなものをご所望で?おっと、その前にコインをお持ちでしょうか」

ぼくは、老人からもらったコインをポケットから取り出し、バーテンに渡した。
バーテンは
裸電球にコインをすかした後、入り口の横に置いてある古ぼけたスロットマシンにコインを入れレバーを押し下げた。
ガクン!!
一瞬、地面がゆれたような気がした。

「どうぞ、こちらへ」

軽いめまいを振り払っている僕に、バーテンは奥の扉を開き部屋へ招き入れた。


中に入ると… by りすくざ


そこは、ひと一人がやっと入れるスペースだった。
そして、扉が閉まると同時に、僕は白煙に包まれ意識を失った。

気がつくと、柔らかく温かいベッドの中にいる自分を発見した。
辺りを見回すと、どうやら丸太小屋らしい。
窓の外には新緑鮮やかな高原の風景が広がっている。

「お目覚めですか?」

若い女性の声がして振り返ると、メイドが僕を見つめていた。

「あぁ…ここは、どこや?」

メイドはそれには答えず、かわりに一杯のハーブティーを差し出した。

僕は、それを口にした。
熱く清々しい液体は、僕を素直にさせた。
「美味しいな。何ていう飲み物なんだろう。」

今度はメイドも、その質問に答えた。
「ここら辺で採れたハーブを入れたお茶です。お気に召しましたか?」

…うむ、気に入った。
いや、そうではない、改めて見てみるとメイドは僕の好みのタイプだった。
容姿、声、物腰…そして、メイドのコスチューム。

「うん、美味い。君の名は?」

「リサ…です。」
国籍不明の容姿を持ったメイドは、やはり国籍不明の名を告げ、朝食の準備を始めた。


モーニング by りすくざ


僕は、リサが朝食を準備してる間、昨夜のことを考えていた。
一昨日以前のことを思い出すことは、絶えてなかった。
あの扉から入って…それから…分からない。

誰かがここに運び込んだろうか。

窓の外を見ると、そこには春の高原が広がっている。
おかしい。
たしか、昨夜までは晩秋だったはずだ。
夢なのか?

「できましたわ。召し上がってくださいませ。」
言葉つきこそ丁寧なものの、有無を言わせぬ口調でリサが呼んでいる。
食卓にはロールパン、ジャム、苺など春の果物を中心としたフルーツの盛り合わせと、
ミルクやジュースが並んでいた。

味は申し分なかった。
パンやジャム、ジュースは自家製の新鮮な風味が僕を満足させた。
元々、健啖家の僕は、ことごとく平らげた。
リサは片付け始めた。

その後姿に向かって、僕は尋ねた。
「ここは、どこなんや?」
「ハッピーアワー。ご存知だとは思いますが…。」
「しかし…僕はバーに入って、それから…」
「あぁ、貴方はハッピーアワーを初めて体験なさったのですね?」

混乱する僕を尻目に彼女は続けた。
「ここは貴方の欲望の世界。貴方の望んでいた朝の風景。
そして、私は…貴方の望んでいた朝を共にしたいオンナ…」

僕は、彼女の言葉を最後まで聞くことなく、彼女を抱きしめていた。
そして彼女とのひと時を終えた後、僕には扉が見えてきた。
「あれは、あの扉は何や?」
「ハッピーアワーには時間制限があることを、お伝えしてあるはずですが。」
「あぁ、もう帰れってことなんか?」
「…」
リサは、何も答えなかった。
それは、そうだろう。
こういう展開で口を開く女を僕は求めていないのだから。

「また、逢えるんやろか?」
「貴方が、お望みの時に…」
それは嘘ではなかった。
今、思い返してみれば、それは幸せなこととは言えなかったのだが。

「じゃ、また。」
彼女とキスをして、僕は扉の中に入っていった。
そして、白煙に包まれた瞬間、僕は再び気を失った。


夢? by りすくざ


気がつくと僕は昼前の空いた電車のシートに座っていた。
どうやら、いつも窓外の風景は見慣れた町並みが広がっていることから、
次の駅で降りれば僕のアパートに帰れることが分かる。

僕は夢を見ていたのだろうか?
ポケットを探ると、老人から貰ったコインはある。
とすれば、あまりにもリアルな夢を見ていたのだろうか?

答えは…ハッピーアワーが知っている。
僕は夜を待って出かけることにした。

5分間しか開いていない幸せへの入り口。
僕は遅れてはならないと思い、余裕を持って出かけた。
もっとも、そんな心配は杞憂に終わったらしく、少し早く着きすぎたようだ。

途中、コインをくれた老人に出会った。
彼は僕を見て、驚いた様子だったが、僕はお礼を言った。
「ええ夢を見させてもろうた。」
「そうかい? これから、どこに行くんや?」
「ハッピーアワーや。もう一度行ってみたいんやけどな。」
そのとき電車が通った。
老人が何かを言った様子だったが、電車の通過音にかき消されて、何も聞こえなかった。
僕は先を急いでいたので、会釈をして、その場を立ち去った。

「一生のうちに何度も行くと…ワシみたいになってしまうのに…」
老人のつぶやきは虚しく風に流れた。

その頃、僕は、胸をときめかせて、ハッピーアワーへの入り口の扉を開けていた。


サンセット by りすくざ


「ようこそ、ハッピーアワーへ。」
昨日のように、初老のバーテンが上目遣いに僕を招き入れる。
「当店では扱っていないお酒はございません。どのような…」
僕は、バーテンを遮り、黙ってコインを差し出した。

バーテンは、昨日と同じようにコインを裸電球ですかした後に、
スロットマシンに入れ、レバーを押し下げた。

今日は身構えていたのだが、やはりめまいを感じながら、
開かれた奥の扉の中へと進んでいった。
扉が閉められると同時に白煙に包まれた僕は意識を失った。

目が覚めると、そこは海岸だった。
日はほとんど沈みかけているのだが、あたりを暗闇にするというところまではいっていない。
夏の太陽に熱された砂は熱いはずであったが、植物で編まれた敷物は、それを心地よい温かさに変えている。
隣には、刺激的な水着を来た異国風の美女がいた。

「やあ!」
「よく寝られた?」
彼女は、ずっとここにいたようだ。
「あぁ、よう寝られた。」

「はい!」
彼女が差し出したのは、甘いカクテル。
よく冷えたそれは、僕を軽く酔わせる。
そして、彼女を見た。
漆黒の髪とエキゾチックな彫りの深い顔。
そして、暴力的なまでに発達した肢体。
彼女も、また、ハッピーアワーの住人なのだろうか?
「ありがとう。君の名は?」
「ロザンナよ。」

「ご飯にしない?」
そう言って、彼女はバーベキューの用意を始めた。


満天の星の下 by りすくざ


次々と焼きあがる肉や魚や野菜は南国の木の大きい葉の上に並べられていった。

それらを見ながら、僕は、ここはどこなんだろうと考えていた。
夢でないことは、はっきりしている。
僕は、ここに存在している。
そんな思いをかき消すようにして、ロザンナが目の前にやってきた。

僕の口に、骨付き肉を運んでくれた。
見た目に濃い味つけのソースは、思ったよりもサッパリとしていた。
脇に置かれた水差しには、たっぷりと果物のジュースが入っている。
これもねっとりとした舌触りだが、食欲を増していくようだった。
大きな葉の上に置かれた食べ物は、瞬く間になくなった。

二人で食事の片づけを終わる頃には、すっかり夜となっていた。
しかし、月の明かりは不自然なまでに彼女を照らしていた。
「幸せやな。」
彼女は、返事の変わりにキスをしてきた。
はちきれそうな彼女の肉体が、僕を本能の世界に暴走させる。
「君もハッピーアワーの住人なんか?」
「そうよ、そして、貴方が夜を共にしたいオンナ…」
そして、満天の星の下、僕は彼女を抱いていた。

彼女との時間が終わると、敷物の淵に穴が見えてきた。
そうか…時間か。
「また、逢いたいな。」
「貴方が望むなら…いつでもいいのよ。」

僕は、彼女を抱きながら、濃厚なキスをして、穴の中に飛び込んだ。
そして、白煙に包まれ、僕は気を失った。


変調 by りすくざ


ふと気づくと、僕は、また、あの電車に乗っていた。
ポケットを探ると、まだあのコインがある。
手にとってよく見てみると、硬貨ではない。
そういえば、今、気づいたことだが、二箇所欠けている。
最初からそうだったのだろうか?

部屋に帰ろうと、立ち上がろうとすると、身体がかなりだるいことに気がついた。
まぁ、2日続けて…ハッピーアワーに行ったからか…。
そんなことを思いながら部屋に戻った。
郵便受けには、また別れた妻からの請求書が。
くずかごに放り込むと、万年床にもぐりこんだ。

翌日になっても、体調は優れないので、かかりつけの病院に行った。
体温を測り、聴診器を当てたりしていた医者は、しばらくして診断を下した。
「過労でしょうな。しばらく、休んでいたほうがいいでしょう。」
薬も特に必要ないので、僕はそのまま部屋に戻り、眠りについた。

数日後、少しは疲れが取れた僕は、再びハッピーアワーに行った。
コインをくれたあの老人は、今日は公園にいなかった。
周りにいた、浮浪者たちに聞こうと思ったが、それも物憂かった。
そのまま、通り過ぎた僕には聞こえなかったが、彼らは老人の葬儀をやっていたところだった。

そして、ハッピーアワーのネオンが見えてきた。


紅葉 by りすくざ


疲れているせいか、少し扉が重く感じる
「ようこそ、ハッピーアワーへ。」
いつものように、初老のバーテンが上目遣いに僕を招き入れる。
「当店では扱っていな…」
僕はコインを差し出し、バーテンの口をふさいだ。
バーテンは慣れた手つきで、コインを確認し、スロットを回した。
僕はよろけた。いつもよりひどいようだ。
扉を開け、そして閉めた瞬間に白煙に包まれ、僕は崩れ落ちた。

意識が戻ると、僕は脇息にもたれかかっていた。
「あら、お目覚めになりましたの?」
目の前には、着物を身につけた和風の美女が…
「あぁ…ここは…。」
僕は、辺りを見回すと、東屋にいるようだった。
開け放たれた障子の向こうには、惚れ惚れするような庭園が広がっている。
彼女は、茶を点てているようだった。
「どうぞ、お飲みくださいまし。」
うむ、抹茶の苦みが快い。温度も申し分なかった。
「君の名は?」
「サキと申します。お見知りおきを。」
抱けば崩れそうな細身に、小さい肩幅が揺れている。
それが、ぞくりとするほどの色気を漂わせながら、彼女は、あくまでも清楚な身ごなしをしていた。

「食事になさいますか?」
僕がうなずくと、彼女は折り目正しい動作で、その準備に取り掛かった。

食事の支度が出来るまでの間、僕は庭園を眺めていた。
僕は和風庭園が好きだった。
細流のせせらぎまでが聴こえるほどの静寂。
秋の風は、とても爽やかだった。

彼女は食事を次々と運んできた。
山菜を中心とした、本格的な和食だった。
高価な松茸をいやみがなく、しかもふんだんに使った料理は
高貴なまでの美味しさを僕に感じさせた。
彼女は、ほとんど口にせず、給仕に専念していた。
「ごっそさん、うまかったわ」
彼女は微笑んだ。

彼女は、てきぱきと片付け、抹茶入り玄米茶と干し柿を携えて戻ってきた。
それを口にし終わると…僕は彼女を見つめた。
「君は…?」
「貴方が秋の昼下がりを共にしたいオンナ…」
僕は彼女の折れんばかりの身体を抱きしめ、着物を脱がせていった。

彼女から離れると…また、あの扉が見えてきた。
「もう、逢えないのか?」
「貴方が望んでくだされば…」

僕は彼女を抱きしめ…そして、離れた。
扉に入ると、僕は白煙に包まれた。


クリスマス・イブ by りすくざ


気がつくと、僕は近所の路を通っているバスの中だった。
一体、僕はどうやって、このバスに乗ったのだろう。
誰も、僕に奇異の視線を送っていないことから、僕は普通に乗ったのだ。

ポケットを探るとコインはあった。
コインには3つの切り欠きができていた。
昨日までは2つだったのだ。
あのスロットに通すと、このようになるのだろうか。
そんなことを思っていたら、バスは自宅のそばの停留所に止まった。

部屋に入ると、僕は泥のように眠った。
目が覚めると、元妻からの慰謝料の請求書が新聞受けから放り込まれていた。
それを二つに破り捨てると、僕はハッピーアワーに出かけることにした。

街はクリスマス・イブの賑やかさで満ちていた。
夜、その時間を外さないようにしていくと、ハッピーアワーのネオンが見えてきた。


真相 by りすくざ


もはや、かなりと言っていいくらい重く感じる扉を開けた。
「ようこそ、ハッピーアワーへ。」
機械かと思うほど同じ調子で話しかける、初老のバーテンが上目遣いに僕を招き入れる。
「当…」
僕はコインを差し出した。
コインを確認する目がキラリと光った。
「本日のご利用は、いつもとは違うことが起きるかもしれませんが、あらかじめご承知ください。」
4回目に何が起こるというのか、また、バーテンが初めて違うことを言ったことに驚きを感じながら、承諾した。
そして、スロットが回され、地面が揺れた。
開いた扉の中に入り、僕は白煙に包まれた。

意識が戻ったのだが、そこは全くの闇。
僕は落ちていく…そしてどこまでも上昇を続けて。
そんな奇妙な感覚の中、僕の意識だけが存在していた。
そして、声が聞こえた。
「お目覚めになりましたか?」
「あぁ、これは…?」
「貴方はハッピーアワーを3回ご利用になりました。」
「そうや。何ぼか払え言うんかい? 金ならあらへんで!」
「いえ、すでにいただいております。」
「???」
「私はR星のエネルギー省資源調達局の職員です。」


霊子力エネルギー by りすくざ


「よう分からんのやけど、とりあえず、顔見せいや。」
「いえ、冷静に話を聞いていただきたいために、姿を見せない決まりになっております。」
「で、話って何や?」
「私たちの星では、現在、エネルギーに霊子力を使っております。」
「れ、れいしりょく?」
「まぁ、ある程度の文明に到達した生物の根源の力と言ってもいいでしょう。
それは、例えば、貴方一人の霊子力をフルドライブさせれば、
この地球とか言う星が使うエネルギーを1年間はまかなえるほどの力を持っています。」
「凄いな…」
「もっとも、私たちの星は、このような未開文明の星とは比べ物にならないくらいのエネルギーを使いますから…
そうですね…ちょうど、1週間ほどしかもちませんが。」
「で、何が言いたいんや?」
「貴方がハッピーアワーにいらしてる間に、貴方の霊子力を使わせていただいたのです。」
「何や、それだけか。」
「いえ…重要なことなのです。貴方の霊子力は、あと一回でなくなります。
すなわち、あと、もう一回、ハッピーアワーをご利用になると、貴方は…死を迎えることになります。」
「ちょ、ちょっと待ってくれ…」
「このようなことは私たちの星の住民にはできません。
ですから、未開惑星の原住民に行っております。
とは言え、私たちも申し訳ないと思い、その方々には幸せな時間を味わっていただき、
また、このように最後の一回の選択は、当人に委ねております。」
「そ、それは…」
「もちろん、おっしゃりたいことは分かりますが、これにて失礼させていただきます。」

僕は再び、意識を失った。


清算 by りすくざ


目を開けると、僕は駅前の喫茶店にいた。
やはり、誰も不自然な視線を僕に向けるものはいない。
ここは料金前払いだから、店員は僕が注文したかどうかを覚えているはずだ。
カウンターにいる店員に、この飲み物を注文したのが誰か尋ねると、
店員は、何か間違えたかと思ったらしく、店長を呼んできた。
「あっ、お客様、何かご注文のお飲み物を間違えたでしょうか?」
「いや、そうやないんやけど、これは、僕が注文したもんやろか?」
店長は訝しげな視線を僕に投げかけつつ、店員に聞くと、間違いなく僕が注文したものだった。
気まずい雰囲気の中、僕は残りを飲み干し、店を出た。

何日かを僕は部屋で過ごしていた。
とりたてて病気でもないのに、身体が重いのは霊子力とやらをとられたせいなのか。

僕は、ありったけの金をつかみ、あるところに行った。
そして、その件が無事済んだことを確認して、僕はハッピーアワーに向かった。
夜の街に、ネオンが待っていた。


最後のスロット by りすくざ


「ようこそ”ハッピー・アワー”へ。」
狭い間口。
バーテン風の初老の男が上目使いで立っている。
奥にはもう一枚のドア。
「当店では扱っていないお酒はございません。どのようなものをご所望で?
おっと、その前にコインをお持ちでしょうか」
今日は、バーテンの口上を全て聞きたかった。
そして、切り欠きが4つになったコインを差し出した。
バーテンはそれを確認し、やがて口を開いた。
「本当によろしいのですね?」
「あぁ、ええんや。早くやってくれ。」

コインを入れて、スロットを回した。
地面が揺れ、扉が開く、最後の儀式。
開いた扉の先に身を滑らせ、閉められた瞬間、僕は白煙に包まれ、意識を失った。

「…なた、あなた。」
そんな声で目を覚ました。
だが、目は開けなかった。そこにいるのが誰かは分かっている。
「起きているんでしょ? くすぐるわよ!」
目を開けた…そこに飛び込んできたのは愛し合っていた頃の妻だ。
そして、ここは温泉宿の一室らしい。
雪がちらつき、ライトアップされた温泉が向こうに見える。

「はい…」
差し出されたのは、寝る前に飲みかけの冷たくなったブラックコーヒー。
「うん。」
僕は、それを口にして、ようやく落ち着きを取り戻した。
「あぁ、慰謝料のことやけどな…」
「いいのよ、そんなこと。」
「…」
「それより、何を食べたいの?」
「カツ丼やな。」
「分かった。ちょっと待ってて」
妻は温泉宿の厨房を借りて作ってくると言って、部屋を出ていった。


幸せなひととき by りすくざ


僕は、カツ丼を待っている間、窓の外を眺めていた。
ライトアップされている温泉を除けば、闇が広がっていた。
そして、雪は、相変わらず降っている。
これでいいんだ…僕は、もう覚悟を決めている。

「できたわよ。」
妻が持ってきたカツ丼は大盛で2杯あった。
久しぶりに食べた。
関東の味付けが最後まで抜けなかった妻の料理は、最後まで僕の口に合わなかった。
しかし、これが食べたかったのだ。

食べ終わって、麦茶を飲んでいた僕に妻は温泉に行こうと言い出した。
混浴の露天風呂に。
2人で湯に浸かっていた。
雪の冷たさ、湯の温かさは、不思議なコントラストをなし、僕を急速に睡眠へと導いていった。
僕は妻に囁いた。
「おおきに。」
妻の返事を待つことなく、僕は闇に沈んでいった。


その後 by りすくざ


元妻は、N警察署に呼ばれた。
そしてそのまま、遺体安置室へと案内された。

「あ、あなた!」
驚く元妻を見て、年配の刑事が声をかけた。
「元のご亭主に間違いありませんね?」
「は…はい。」
「まぁ、一応、免許証などでも確認は取っておるんですが、
奥さんのほかに身寄りもないようなので、もうしわけありませんな。」
「な、なぜ? 事故でも?」
「いや、検死は行いました。事情はあとで話しますが…。
検死結果では、衰弱死の症状に似てると。
はっきりとしたことは分からないのですが…身体の各器官が、その機能をいっせいに停止したようだとのことです。
ただし、外傷、内部の損傷、病気はありませんでしたし…また、毒物も検出されませんでした。」
「何をおっしゃりたいのですか?」
「いや、完全な自然死です。珍しいほどの例だそうですな。
まぁ、こんなことを言うのも…実は、こういうものが出てきました。」
と言って、刑事は書類を取り出して、元妻に見せた。
そこには、かなりの額の保険金が元妻を受取人として契約されていることが記されていた。
「私をお疑いですの?」
「いや、それは、色々と聞き込みをした結果、かかりつけの医師、ご亭主が立ち寄った喫茶店の店長、
また、生命保険の担当者からの話を総合しますと、ご亭主は、相当、疲れておられたようで…。」
「えぇ…。」
「まぁ、そんなわけで、確認のためにお呼びしただけでして、ご足労をおかけしました。」
「わかりました。あの人は、どうなるんですの?」
「このままだと、無縁仏と言うことになるんですが…」
「では、私のほうで供養させていただきます。」
「あぁ、優しいかたですな。なかなか出来ることではありません。
では、そのようにお願いします。本日はお疲れ様でした。」

元妻は警察署を出てから、晴れやかな顔になった。
(あの浮浪者の寝言はホントだったのね。
あの人へコインが渡るように、あの浮浪者を頼んだのは正解だったわ。
お酒を少し買ってあげただけでよかったんだから。
あとは、あの甲斐性なしのあいつが、最後に、あんなに高い額の生命保険をかけるとは思いもしなかったわ。
嬉しい誤算ってことね。
これからは、あたしのハッピーアワーが始まるのね。)
その元妻の足取りは軽かった。

<完結>